時々、彼が妖であればよかったのにと思うことがある。彼は確かに鬼であるが、哀しいほどに人間のままなのだ。幾度か、人が鬼になる瞬間を見たことはある。剣が、瞳が、匂いが変わる。鋭く堕落的に美しい。そして目を見開いて、何を叫んでいたのかも忘れてしまったまま死んでいく。まるで何かを斬るのと同時に己の生命をも切り裂いていたかのように、あっさりとあっけなく。

彼は、いや自分が憎む彼の周りの鬼はすべからくその条件を満たしているにもかかわらず、しぶとく現世にしがみついている。彼は本当に死にたそうな顔をしているけれど、決して死にたいとは言わないし、生き残るための最大限の算段を惜しまない。それに彼らは叫びたいことを覚えている。彼らはもう忘れたと言い含めているが、少なくとも自分はそう思う。自分が彼に対して妖を望む以上に、彼らは幻の鬼になることを絶望的に祈っている。

貴方は妖であればよかった。触れられなければ諦めがつくのに。化かされていると思えば、自虐の必要はないのに。端から届かない存在であれば手を伸ばそうともしなくていいのに。人でなければ人は惹かれたりしないのに。そして自分は鬼にも妖にもなりたくない。人でなければ彼の役に立たないから。ああ、せめて彼らを嗤っていないと虚しいと思っていたが、本当は自分のほうが可哀想だった。









   ん


   


   







見知った後姿が戦場に立っている。一人、ぽつんと。
足音を立ててはいけないと思った瞬間、自分の足が何かの残骸を踏み抜いた。後姿が振り返るまでの、緩慢で喉を締め付けるような静寂が身を斬る。ああ、こうしてあの男達は病んでいくのか。

腐臭と血と冴えた冷気を混ぜた戦場の薫りが白い布擦れに乱される。  「白夜叉は俺達の全てだった」  ゆっくり、焦らすように(焦らすなんて感想はあの可哀想な男の感想だ。反吐が出る)瞼の奥底から真紅が覗く。  「あいつは俺達の目を灼いた。俺達はあいつの手足を奪った。そして、」  病的に白い肌が浴びた血潮と共に裂けた。口が、生まれる。


「銀、時、」


自分の口からこれ以上ない熱を篭めた声が放たれた。白い鬼が世界を泳ぐ、まだ戻れたかもしれない一人の青年に向かって。どちらもどちら、彼らが先に出会ってしまったのだから諦めよというのか、因果の神よって初恋のガキの言い分みたいな愚痴が出てくる、いやこれは現実逃避だ。
夢から醒めてくれ。鬼が来る。何処まで逃げても確実に囚われる。あれに、魂を奪われてはいけない。これが夢であることそれ自体が既に危ない。望んでなどいるものか。あの男を放さない白夜叉。この手で、坂田である間に、

粘つく笑みを浮かべた白夜叉が、自分の顎を掴んだ。どろりとしていた。  「高杉」  ぬるりと光る白夜叉の赤い口腔が落ちてくる、その背景には同様に赤い空。

世界の終末とはこういうものなのかと思った。












基本的に自分は悪夢とは無縁だと思っていた。むしろ世界に巡る全ての悪夢は晋助に集中しているようで、自分は一片も共有出来たことはなかった。一度そうしてみたいと思っていたのかは今朝忘れてしまったのだが、最悪だった。とにかく最悪、本当に珍しい純粋な最悪だ。

最後のあの時、まるで灼熱を飲み込んだように、口が爛れたのが分かった。無遠慮に進入してきた舌に絡められた液体を飲み下すほどに、身体が内部から蝕まれ研ぎ澄まされて腐っていくのも分かった。あれは、彼らが契約を交わした日。白夜叉が、修羅が、狂乱が、混沌が、交じり合って滅ぶ盟約を交わす儀式の一つが斜陽をも切り裂いた。
今、その呪われればいい背中が自分の前を歩いている。


白夜叉であった男は、自分の進路を阻む群集を斬りもせず、ゆらゆらと人の波を縫って先へ進む。青と白の着流しが寸断した空間に万斉も滑り込む。都市に一瞬の空洞を生み出された。

表の顔で使うグラサンを外す。夢の中で飲み込まされた毒で脳が痺れた。迷うことなく何処かへ自分の身体を運ぶ坂田銀時は、戦場の狂気にまぎれて自分の毒を晋助に注いで、彼の実体を薄めた。
高杉晋助の、どうでもいいが桂小太郎の実体と虚像をかき混ぜ、彼らの帰る場所を自分に変えてしまった。

坂田は病の根だ。絶ちたい。
その根の養分で生きる不均衡な男がどうなろうが構わない。この首喰わして生かしてやろう。

―――まだ、完全に治癒していないはず)

黒く艶やかな反射が坂田が吸い込まれた路地から漏れ出した。あれは黒い鞘の光。
刀が持つ危険で甘い香りが思考を麻痺させ、万斉の口元に笑みが浮かんだ。―――危険に、酔う。


「よォ、お兄さん。真昼間から強盗かィ?」
その酩酊感よって口を開こうとした時、思わぬ方向から声がかかった。
先に路地に入ったはずの男は、万斉のすぐ後ろに立って赤い瞳を投げかけている。気がつけば路地の半ばまで歩を進めていた。

背後に回られて気がつかなかった羞恥と、最初の一言で空気を引きずり込まれた焦燥が入り混じり舌打ちが洩れた。
一拍を置いて、猛烈な怒りが万斉を襲った。憎い白夜叉。晋助を捨てておいて、自由自在に捨てた相手の面影を引き出しては、彼の未来を削除していく。まるで、レコーディングでずれた一つの音を消していくかのように、執拗に……いや、なおざりに。

「白夜叉殿、とお見受けする」

正確には白夜叉でなかった。坂田銀時の卑怯な戦略によって、今目の前にいる男には白夜叉と修羅と坂田銀時が綯い交ぜになっている。晋助がいなくてよかった。彼の光に目を奪われた者たちの心を踏みにじっても手に入らないものが、手に入るより深い所で繋がっているなんてこちらが救われない。

「……ある男が貴殿を望んでいる。我侭で、不均衡で、儚くてしぶとい。そいつは周囲の生気を喰らう為に生きているような男で、真実を口にしたらその心が砕けてしまうかのように嘘だけを言って生きている。そんな男の真実は貴殿が欲しいという気持ちなのではないか、と最近思う。って、人の話聞いてないでござるな!?」

言いたくも認めたくもない真実を演説したのに、聞くべき相手は何食わぬ顔で自動販売機の前に移動していた。
「ってゆうか、こんなとこに自販機置いても仕方ねーと思わない?イチゴ牛乳あるからいいけどよー」
ねえ?と先ほどの話をまるで気にしていない。
「ってゆうか、拙者の話は完全に無視でござるか?」
(右手に持つとは……完全にナメられている)
「だって俺男色の趣味ねーしさ。ツンデレって女だったら結構いいフラグよ?それなりの顔とスタイルだったら紹介して欲しいよ。でも男じゃん。もしかしてお兄さん、そっち系のスカウト?」

知らず三味線に手を伸ばしながらも、忍の一字で話を進める。最近人の話を聞かない輩には、とにかく押し切るしかないと学んだばかりだ。こういうところでも、他人の話に対する態度が示し合わせたもののように思えて吐き気がする。

「彼は恋慕など忘れてしまった男でござるよ。ただ焼け野が原を駆けるうち、おぬしの背中に憧れた不幸な男。白夜叉……覚えているだろう。彼と共に刀を白く…いや紅に染めた日を」
白夜叉は答えなかった。答えられない時は沈黙を押し通し、痺れを切らした相手が適当な言葉を口に出した瞬間切り捨てる―――何度も思うが、似すぎている。


坂田の喉が上下する。奴は今もこうして晋助の血を喰らっている。自分の首は噛み付かせもしないくせに。……その首。筋肉が浮き出ている。あれだけの斜陽に晒されてもなお人の色を保っている。

斬れ、と命令を下した脳に逆らって右手は刀を離した。
生々しい人肌の色をした不気味な首に右手が向かう。触れたくなかった。夜叉に触れてはならない!

白夜叉が誘うように笑う。全身を蝕む甘さが漂う。顔中の筋肉が恐怖の表情を作った。
必死に右腕を留めようと無駄な足掻きを続ける脳内に点滅するのは、あの不幸な男達の這いずる姿。ああなってはならない。苦い慈しみを飲み合い、別離も心中も出来なくなった姿。哀れで無様で憎らしく、自分を動けなくさせるくらいには美しい。

くらり、と視界が歪む。
手が夜叉の首に伸びる、殺気も纏わず!余裕の白夜叉、怪しいというよりはむしろ、



爪の先が触れる、正確には触れたような気がして爪が腐り落ちた錯覚が過ぎった。
「オメーさァ、すげー厄介なのに惚れたな」
豪快な音を立てて、頭に甘い液体がぶちまけられた。ぬるく、痺れるような腐敗の香をしていた。
「え、何、コレ苺牛乳でござるか!?」
今の話をどう持っていったらこういう行動になるのかァァ、と叫びたかったが、声帯をもぎ取られたかのように声は出ない。そして白夜叉には自分の声を聞く耳など最初からない。
「かわいそーな兄さんに餞別。人間不幸な時には甘いものがいいんだよ、知ってた?」

ひらひらと手を振って路地を引き返そうとする白夜叉に何か言葉をぶつけてやらなければ気がすまない気がして、「可哀想なのはおぬし達だ!」と叫ぶ。
白夜叉はぴくりとも反応せず、だらしない歩きで歩を進める。そして独り言のように言った。



「俺の馬鹿な友達の話だけどよ、そいつ最近よくわかんねー色気と退廃を身につけて、やったらめったら物騒な奴らにもてるんだと。俺ァな、そいつに惚れた奴ってマジで可哀想だと思うよ。だってあいつの本質なんざ、昔からろくなことしねー悪ガキで我侭世間知らず坊ちゃんで、チビだし身長体重サバ読むし、無茶ばかりするくせに死ぬのを怖がって、ってゆうか馬鹿で馬鹿で、いろんなことを見ない振りしてまた堕ちるような頭の弱さで、酒呑んだら崩壊するわ、人の話は聞かないわ、実はちょっと機械おんちっていう馬鹿だからよ。そんなそいつの本質も分からないで、まるで世界には奴しかいないって感じで振り回されてる奴らは本当に可哀想で……そうだな、一回で殺るにはつまんねェくらい面白いよ」



それが自分の知らない高杉晋助を提示し、嘲笑う行為だと気がつくのにしばらくかかった。
頭に血が上り、踏み込もうと出した右足から力が抜ける。今まで頭から滴り服を汚していたピンク色の液体が、最初からそうであった顔で赤色に変わっていた。認識と共に血が抜けていく感覚が全身を貫く。

バランスを崩し壁に左肩を強打する。首筋から、それも頚動脈の数センチ下がぱっくりと割れ、血が溢れていた。


(一度で殺るには、もったいねェなァ、お前)


あれが白夜叉………嗚呼、きっと修羅は戻れない。
彼らは忌み膿み合いながら、相手との融合を未だに続けている真実など見ようともしないはずだから。

口の中に広がった味は、愛すべき鉄錆の味ではなく、爽やかな諦観の味をしていた。












「へェ、銀時がねェ。話は分かったから、とにかくそのクソ甘ったるい匂いをなんとかして来いや」
這いずるようにして帰還した万斉から事の詳細を聞き終えた高杉は、そうにべもなく言い切った。
「今風呂に入ったら出血多量で死ぬ気がするでござる」
「そうか?そんな傷でいちいち死んでられるか。それに首筋を斬ったのは銀時だろうが」
「おそらく、苺牛乳を掛けられた際に……不覚の至り」

匂いが嫌だと言って万斉から距離を取っていた高杉が立ち上がり、万斉の目の前に座った。
「よく生きて戻ったな。止血くらいしてやらァ」
そう言うとゆっくりと首に舌を這わせてくる。色めかしい体勢であるのに、獣に首筋を食われている感触がした。いつのまにか手を押さえられていたが、その拘束などなくても身体は動かない。



「嗚呼……最悪に甘ェ」



止せばいいのに、その時の高杉の表情を正面から見てしまった。
血と苺牛乳の混合物を舐めとり、心から愛おしそうに傷に舌を這わせるその顔。普段なら誰が怪我をしても決して手当てなどしない男は、きっと包帯を巻くまで全てをやってくれるだろう。

その傷が白夜叉の手で生み出されたというそれだけの理由で。
狂気を見事に飼いならし、狂えもしなかった男に残された数少ない真実がその傷口に宿っている、そう、彼が向ける優しい表情の理由はそれ以上でもそれ以下でもない。

「なァ、万斉。―――お前、次銀時に会ったら殺されるから気ィつけろよ」
「……マジでござるか」
「ああ。あいつ、殺そうと決めた相手には甘い匂いつけんだよ。この後風呂に入れば、この腐った匂いは取れるだろう。だが、奴には関係ねェさ。鼻に届かずとも、剣が教える。確実に斬ってきた」
理不尽すぎる。的を射た万斉の不満を読み取ったのか、高杉は愉快そうに笑った。
「晋助も、か?」
「ククッ、俺にあいつの匂いが付いてねェはずがないだろうよ。骨の髄まで甘さを押し込まれたからなァ。俺ァ、とうの昔に未来を決めたのさ」

昨日までなら、そんなことはさせないと言い切った。明滅する、あの笑み。
代わりに口から漏れ出たのは、なんとも情けない一言。

「皆に白夜叉のことを通達するべきではないか?……独断で動く奴がいれば斬られる」

高杉の手が包帯に伸びた。彼らは互いの手当てをしながら、血の盟約を結んでいったのだろうか。
言う必要のない白夜叉の危険性を語りながら、突然あの青い着流しを来た高杉の姿が見え、毒々しい着物を纏った坂田銀時に包帯を巻いてもらう光景を思い描いた。
既に手遅れだった。もう何の違和感もない。

「晋助!」

叫んだ万斉に澄み切った緑色の視線が注がれた。初めて見るその色は、彼らが未来を見ていた頃の残滓の色だ。高杉は天井で見えない星空を見上げる。彼の全身は幸福に蝕まれていた。今日は彼らにしか意味がない流れ星が落ちているのかもしれない。




「そうだよなァ、銀時の奴、久しぶりに生き物斬り殺したんだよなァ……」




その体勢のまま凍りついた高杉を衝動のままに掻き抱く。

「……可哀想に」

これほど心の底から誰かを可哀想だと思ったことなどなかった。この自尊心の高い男が、正面から憐憫の情をぶつけられても、表情一つ変えない絶望が胸の細胞に染みる。


触れた胸から高杉の歪みを貫く因果の音が聞こえた。
破滅の音ではない。しかし、これといった名前が見当たらない。
何処かしぶとく、濁りが張り詰めて出来たような音。


彼らの生命の音だった。





うちの万斉は、坂銀桂に妬みは持っても同じところに行くことは恐れる人。たとえ高杉がそこにいるとしても。
一個すごい勘違いをしてますが、それは後日桂先生に一刀両断して頂きます。