招かれざる客も闇夜に集う



悪い客が来る日は大抵決まっている。
一言で表せば、常人ならば家から出たくない、早く帰りたいと願うような日。
悪天候、物騒な事件の翌日、血生臭い日。
そして、必ず共通するのは、二階の迷惑な住人が不在の日だ。




例えば、桂小太郎。

「すまない!お登勢殿、かくまってくれ」

彼が飛び込んできたのは、熱中症で病院へ運ばれた人間が過去三年で最高を記録した夜だった。
何もしていなくても着物が背中に張り付き、その背を冷房が冷やして体調を崩すどうしようもない夜。どんなに冷やそうが、ビールもつまみも少しぬるい。
その上、蝉だけは元気なもので合唱が喧しく、それでも気合で飲みに来た客が集まれば酒と熱量で、湿度が上がる。

「いや、申し訳ない。まさか、土方と沖田に正面から遭遇するとは。早く天ぷらそばが食べたくて急いでいてな」
「アンタ、いつも思うけどね、立場もわきまえず注意力散漫なんじゃないのかい」
あいつと同じように、とは何となく言い難い。

客は全て上がり続ける気温と湿度に耐えかねて帰っていた。
そして、二階は静まり返っている。食い意地の張った馬鹿どもは、蟹に当たって入院中。
つまり、悪い客が来る条件は全て満たされ、見計らったようにこの男が来た。

「いや、本当に申し訳ない。反省している」
殊勝なことを言いながら、我が物顔でカウンターに入り込み、足元の物入れに滑り込むこの男。
坂田銀時の幼なじみにして、今や攘夷派二大巨頭、狂乱の貴公子と呼ばれる、桂小太郎。
「お登勢殿、これお土産です。銀時以外と食べてください」
物入れの蓋を閉める直前に丁寧に和菓子詰め合わせを棚に置くところは、確かに庶民にも人気のある礼儀正しさを思わせる。

だが、自分は知っている。
類は友を呼ぶ。どちらが先に影響を与えたのか知りたくもないが、時折銀時が見せる底冷えのする瞳をこの男も持っていることを。
そして、いつ発揮されるのか分からない、無造作な殺気を纏うことも。

「御用改めである。真選組だ!」
聞きなれた鬼の副長の声が、熱すぎる夜の気温を更に上げる。土方と沖田。
今日は本当に悪い客しか来ない。
「またかい、副長さん。たまには、飲んで、うちの経営を応援してほしいもんだねえ」
「……あいにく、このクソ暑い夜に出歩く指名手配犯のおかげで公務中でね。また邪魔するよ」
「じゃあ、俺はビールでゴフッ」
土方はカウンターに座り込んだ沖田に拳骨を落としてから、店内を見回り始める。
「さっさとしとくれよ。この暑さじゃ客も来ない、そろそろ店じまいの時間だよ」
「あれ、さっき一人客が来たんじゃありやせん? この夏にウザいロン毛の見目だけはそこそこの男とか」
にっこり、と妙齢の女性に笑いかければ大抵は赤面する爽やかな笑みで、沖田が笑う。
だが、その眼は笑っていないどころか、獲物を目の前にしたケダモノのそれだ。

子どものくせに、彼は似てはいけない人間たちに驚くほど似ている時がある。
今は後ろを向き、客席の裏を調べる土方が、肝心な時にそれを見逃さなければいいと老婆心ながらに思ってしまう。
「そこそことは何だ。俺は貴様よりイケメンだし、長髪の手入れは大変なんだぞ、ウザくなんかない」
自分にだけ聞こえる絶妙の声音で、床下から声が聞こえる。そのどうでもいいことを呟くために、危険を冒す神経が全く分からない。

「さてね。そんな金が付きそうな笑顔は、こんな婆さんじゃなくて若い女子にしな」
「あいにく、俺は芋侍で女には縁がねえんでさァ。そこの土方のクソ野郎は遊びまくりの女の敵ですがね。町内会の女性陣で殺してもらってもいいですぜ」
「総悟ォ――!!テメェも、少しは手伝え!!この後は二階だぞ!カウンターは見たんだろうな!」
しっかり悪口の内容を把握しているあたり、神経を配っているのだろう。
それこそ、最も怪しいカウンター前に勘の良さそうな沖田を配置して、こちらがボロを出すのをじっと待ちながら。
「言っておくけど、二階は留守だよ。盗るモンなんざなくてもも鍵はかけてると思うけどね」
警察に自宅を無断で見られることを喜ぶ人間はいない。
まして銀時は危ない。口ではいつものように罵倒しつつ、あの影のように静かな殺気で状況を見極める。
その積み重ねが、いつかあの優しい鬼になりそこねた男を連れて行ってしまう気がしてならない。
「へえ、このクソ暑い夜にどうかしたのか?」
興味を持ったのか、土方もカウンターに寄って来る。その瞬間、足元であの殺気が蠢いた。
「三人とも、キャサリンもだけどね、腐りかけた蟹食べて入院中だよ」
「……バカじゃねえのか」
「バカだよ、知ってるだろ」
あまりにしょうもない話に気が抜けたのか、土方がふっと相好を崩した。そうすると、驚くほど幼い顔になる。
「まあ、知ってるよ」

―――正直に言おう。
声も出さず、悲鳴も上げず、顔色も変えず、煙管を吸った自分が信じられない。

土方が「知っている」と言い終わる前に、自分が殺されたような怖気が足元から脳天までを貫いた。
ありえない、それでも恐ろしく寒い。床とカウンターという壁に阻まれて自分だけを取り囲んだ冷気。

この下にきっと間抜けな格好で蹲っている男は、今どんな目で夜の底を見て、この殺意を燃やしたのか。 鯉口を切ったのか、それすらせずこの店ごと彼らを殺す算段でも計算しているのだろうか。
冗談ではない。一人の悪い男のために店を潰されていては商売あがったりだ。

「さあ、全部見たならそろそろ二階に行くか、帰るかしてもらえるとありがたいんだけどね」
「総悟」
「あァ、カウンターも見やしたよ。“間違いなく誰もいません”」
「そうか」
沖田が断言すると、土方はすぐに頷いた。それほど彼の勘を信じている。
それほどの勘があるのなら、きっと沖田は―――

そんなことを考えていたら先に出た土方の背が消えた一瞬の間に、沖田の顔が目の前にあった。
悪鬼さながらの、この上なく美しい微笑みだった。
「今日は引きますよ。旦那がいない日に捕り物なんざしたら、獲った魚よりも大きなモンを失うかもしれねェんで」
「……何の話かは分からないけどね、たまには営業時間に来な。神楽も呼んで宴会でもしてやるよ」
「あんなマウンテンゴリラ呼ばれてもうれしくないねェ。次は、あの棚にあるようないい茶菓子でも出してもらえる時間に来まさァ」

ああ、本当に今夜は最悪だ。
沖田を見送りながら、少しだけ寄り道をして、ごみ捨て場でも見に行こう。二階のバカがジャンプを出していないか見てくるのだ。
その隙に、桂が帰ってくれることを、あまり信じない仏にでも願いながら。


◆ ◇ ◆


例えば、高杉晋助。

「今夜は底冷えすらァ。―――バーさん、熱燗頼むぜ」

彼が来たのは、江戸中が大雪に見舞われた翌日だった。
朝に降った雨により道路は凍結し、黄昏を過ぎれば見えない足元で氷に足を取られる。ニュースでも散々夜になる前に家に帰れと言われた効果か、飲みに来る客は一人もいない。
キャサリンも帰り、手持無沙汰に帳簿の整理を終えたら店じまいをしようと思い始めた時刻だったのに。

「そんな薄着でいたら冷えもするだろうね」
紺色の着物に、派手な蝶をあしらった羽織を引っかけただけ。足元に至っては草履だ。
見ているこちらが寒い、とさっさと熱燗を酌すると、一息に飲み干される。
「身体を温めるなら酒に限らァな」
「駄目人間だねえ」
「違いねェ。俺くらいのろくでなしはなかなかいねェよ。アンタは見慣れてるだろうが」

その見慣れたバカは、どこぞの温泉旅館に貸してしまった。
今頃人使いの荒い悪友にこき使われているだろう。
桂と言い、この男と言い、来ないときには一年近く間が開くというのに、彼がいない日だけを見計らう。

「見慣れたちゃらんぽらんなら冬の代名詞温泉旅行中だよ」
「あの文なしに先を越されるたァ、俺も落ちたね」
「まぁ、バイトみたいなもんだけどね。アンタもこんな場末で、ババアに酌してもらう時間があったら温泉にでも浸かってきな」
「これでも忙しい身なんだよ」

それはそうだろう。
高杉晋助。やはり銀時の幼なじみにして、最も過激な攘夷志士と呼ばれる男。
そして、桂と並ぶ攘夷派二大巨頭。毎度のことだが、師匠はどういう思いでこんなものを三匹も育てたのか、叶わないが一度顔を見たいと思う。

「ところで、バイトっつーのは?」
そう問いながら、高杉は手酌で酒を舐め続ける。
不思議なことに、彼の殺気はよく分からない。ここに来る時は、大体饒舌に語り、優雅に酒を飲む。
ただし、腰の刀を差し引いても、決して一般人には見えない。落ち着いた雰囲気の底は見えず、ただ見てしまったら最後なのだということだけが分かる。
「私の悪友が幽霊温泉をやっててね。成仏できない霊を温泉でもてなして、成仏させるところさ。あいつは怖がりのくせに、見えるから行かせたんだよ」
「へぇ……」
その時の表情は、はっとするほど寂しさに溢れていた。
遠い遠い思い出と失くしたものと今動いている心臓の音を聞きながら、帰れないことを悟る行為。
何十年もやってきたから分かる。ようやく飲み下したと思ったら、身を切るような哀しみに浸された男を拾ったから忘れられない。
「……アンタも行ってみたいかい?」
こんな危険人物を送ればどやされるのは間違いないが、きっと大事は起こすまい。
そう言い訳をして少しでも哀しみを埋めてやりたくなる。なぜ、世界中に喧嘩を売るような男が泣いているように見えるのだろう。
「いいや。あいにくと俺は昔から見えないタチでね。それに―――
会えねェよ、と煙管をふかす仕草は雪よりも冷えている。

「そういうバーさんは行かねえのか。バーさんの歳なら会いたい奴の一人ぐらいには会えるかもしれねェぜ」
「……私も見えないクチだからね」
「そうか。辛ェもんだな」
「おかしな客に連続でババア扱いされるより辛くはないさね」
自分で歳だと思うのと、誰かに言われるのはまた別だ。
反射的に、銀時へ嫌味を返すように言い返してしまい、すぐに後悔した。
高杉がうっそりと笑っている。何か、間違いなく悪い予感がする。
酌をしてごまかそうとした手を取られた。深く澄んだ緑色の目が近づいてくる。

「登勢」

高杉は言った。耳元で、少し低く、ゆっくりと。

「悪かったよ」

忘れかけていたものが、目から溢れそうになり、見開いてこらえる。
冬でよかった、春ならば泣いてはいけない男の前で泣いてしまうところだった。
―――アンタ、女泣かせも大概にしなよ」
聞こえてしまった。この寂しい男に引きずられて、それを教えたあの人の声が飛び込んできた。
「そうかィ。昔、つまらない男だと言われたことがあるんだがなァ」
「男は面白いかつまらないかじゃないよ。約束を破る奴もいけないけどね、約束すらしない奴はもっと最悪だ。普通は、もうしないくらい言うもんさ」
そうだな、と高杉は少し困ったように頷いた。
否定するわけでもなく、言い直すわけでもない。置き忘れてきた誰かとの約束を思い出したのかもしれない。
「おい」
「何だい」
「最近仕入れた酒を見せてくれねェか。まだ誰も開けてない奴を」
何となく言いたいことが分かり、棚の端に寄せておいた新品の酒を指差す。
じっくり見るかと思いきや、既に当たりをつけていたらしく、高杉はすぐに言った。
「真ん中の段、一番右端。萩の酒だろう」
「あぁ、嫁に行った友人にもらってね。これをご所望かい?」
懐かしそうに目を細めたのを了承と受け取り、棚から降ろす。名を書こうとして、筆が止まった。
「名前はどうしようかね。本名は書けないし、うちもまた御用改めはごめんだよ」
「―――俺は、幕府の狗を連れ込むようなヘマはしねェが、まあ変えておくさ」
高杉に筆を渡すと、さらさらと水が流れるように文字が書かれていく。
その、あまりに彼とはかけ離れた名前に思わず笑ってしまった。
「また、アンタにしちゃ随分と綺麗な名前だね」

その名にこの男が失ってきた穏やかな春を見る。

「春風が吹く頃、また来らァ」
約束できない男はそう言って微笑んだ。


◆ ◇ ◆


春風どころか、桜が満開になっても男は来なかった。
あの薄情な約束は宙に浮いたままだというのに、何故かあの酒だけが少しずつ減っていく。

「すみません。こちらは一見でも大丈夫ですか?」
酒をぼんやりと眺めていたらいつのまにか客が来ていた。見ると、戸口に編み笠を被った男がこちらを覗いている。
今日は三度目の花見に出かけていたが、一人先に帰ってきて正解だったようだ。
「もちろん。すまないね、考え事をしていて」
「……よかった。後、ちょっと訳ありで、失礼ですが編み笠をしたままでも?」
「歌舞伎町は皆訳ありの奴ばかりさ。構わないよ」
客はようやく安心したらしく、編み笠の下で薄らと笑った。
笑うと書生のような雰囲気で、なかなかこの街にはいないタイプだ。 髪もつややかな栗色の長髪で、男でここまでの長髪は、あの迷惑な指名手配犯しか見たことがなかったので、それも珍しい。
「夜桜見物はしなくていいのかい?歌舞伎町は今が見ごろだよ」
「ええ。実は、私は桜が嫌いなんです。見ていると気がおかしくなりそうで」
珍しいでしょう、と今度は悪戯をするように言う。
「珍しいねえ。この街には、桜を見ても見なくても、あの下で酔いつぶれたいバカばっかりだよ。何にするかい?」
―――そうですねえ、焼酎、いちご牛乳割りで」
「え?」
思わず、聞き返した。客は焦って、ありませんか?と問うが、そうではない。もちろん置いている。
「いや、ありますよ。申し訳ないけど、そんな珍しい飲み方をする人が、二人もいることに驚いて」
ここ数年、銀時以外は誰も注文しない飲み方だ。
もしかしたら、と彼は銀時に関わりがあるのかもしれない。もし戦争経験者なら笠も頷ける。全く気にしていないあの二人の方がおかしいのだ。
少し迷ったが、絡み手は自分に合わない。直接聞くことにした。
「まさかとは思うけど、二階に住んでる甘党の知り合いかい? 変な影響を受けたとか」
「……なるほど、そう来ましたか」

いきなり俯いたので気分を害したかと思えば、彼の手はグラスの淵で震えていた。
笑っている。面白くてたまらないことに出会ったとき、爆笑をこらえるように、身体を震わせて。

「当たらずとも遠からずです。元々、いちご牛乳の味を教えたのは“私”ですから」
彼は語った。昔、まだ酒が飲めなかった頃は、これを混ぜたら絶対うまいと主張していたらしいので、頼んでみたのだと。
「変わりないようですね」
そうして、笑う。桂とも高杉とも違う、慈愛を感じる柔らかさで。
「あの、ところであそこの棚の右端の酒はいただけますか?」
だからかもしれない。あの春風の酒を真っ直ぐと指差されても、全く警戒感を覚えなかった。
きっと、この人も彼らと同じように望郷の思いに駆られているのだろう、と。
「一応はキープなんだけどね、こっそり飲んでるバカもいるようだし、お出ししますよ」
「ありがとう。この酒は、“私”が一番好きだったもので。運よくあるとは、ありがたいですね」

懐かしいと言う割に、彼は水をあけるようにそれを飲み干して立ち上がった。
桂が迷惑な台風、高杉が気まぐれな雪だとしたら、彼は彷徨う風のようだ。銀時の過去を知る者は皆、根なし草のように宙に浮かんでいる。

「嫌じゃなければ、教えてくれないかい。アンタはあいつらの何なんだい?」

考えるよりも前に口が聞いていた。
どうしても知りたい、知らなければならないと何故か思ったのだ。

「いいですよ。ただ、私がこの扉を出た瞬間、貴女は今日のことを忘れます。いいですね?」
編み笠が取られ、双眸を正面から見た。深く、長い、哀しい時間を過ごした眼だった。



「昔、彼らの“師匠”でした」