もしあの頃が池塘春草の夢だったとしても、あらゆる喪失の色に染まった今はその夢の中の夢に過ぎない筈で(だからこそ寂しいまでに現実だと思うのだ)、その夢という事実は誰かが作り出し子守唄として俺達に囁いたどろりと甘い誘惑意外に何者にも変ぜないものだから、嗚呼、夢の中でどれほど足掻こうとも、俺達は最期に互いの頬をつねりながら夢から醒めて地獄に歩いていくのだろう。すごく馬鹿馬鹿しいけれど。おかしいほどに待ち遠しいのかもしれないけれど。 「ヅラァー?…いねえの?」 五日前に変わったばかりの桂の隠れ家は、錆びた鉄階段を上りきった先にあった。カンカンと澄んだ音を反響させる階段には何処か饐えた匂いが漂っていて、それが自分が欲した生活感なのだとわかり、銀時は顔を歪める。 落日の赤を背負った自分の影が長く伸び、黒く平坦な道を構築していた。 本当に桂は隠れ家を見つけるのが天才的に上手いと苦々しく思う。夕餉の匂いや回収されなかったゴミの微かな腐臭、相対する清潔な石鹸の香りに同じ臭いは何一つない人の体臭が万華鏡のように反射した空間。生活観に溢れた空間は時に異邦人をあっさり飲み込むことをあの男は知っている。 そういえば、この前新八が田舎の山村に落ちた武士が次第に農村に同化していく話を読んでいたなと、とりとめもなく考える。その結末をハッピーエンドと取るか、バットエンドと取るかは甚だ曖昧に過ぎる話だった。 自分も新八もハッピーエンド派だが、ここの家主や苛烈な祭り好きは間違いなく悲劇だと言い張るだろうし、果てない宇宙を渡る彼は笑いながら誤魔化して答えを出さず一人で悩み続けるのだろう。 帰れる自分の家、何もかもを忘れない楔、両方を振り切り仰ぐ自由。 逡巡を重ねながらも、当然のように選んだ選択は正反対どころか空間すら違えていた。 それでも桂は隠れ家を帰る度必ず地図を寄越してくるし、自分も必ず会いに行く。 「いる。勝手に入って来い、手が離せない。それから俺は桂だ」 しばらくがたがたと焦ったような音がしたが、ようやく返答が帰ってきた。もしかしてエロ本でも隠してたんじゃねえだろうな、と思ったが今はどうでもいい話だと思い返す。近いうちにアホ二人が来た時に三人でガサ入れすればいいだけだ。 ドアノブはひんやりと冷たかった。引越しの際家主がべたべた触ったはずなのに、指紋の曇り一つなく、生活観がごっそりと欠落していた。むしろ、室内の空気がドアノブという一つの金属を通じて、アパート全体の空気に喰らいついているような気もした。―――それが、周囲の生活観を殺し尽くした時、桂はまた隠れ家を変えるのだった。 「はいはいっと」 ドアはあっさりと開く。こいつは本当に指名手配犯なのか、いつも判断に苦しむ。 「銀時、土産は玄関に置いてくれて構わないぞ」 けろりと言い放つ涼しげな声はいつ聞いても腹立たしい。とっくに諦めてはいるけれど。 「ざけんな。今、万事屋は未曾有の経済危機なんだよ。どこにテメーに土産買う金があんだ」 「それは貴様が真面目に働かないからだ、駄目人間。未曾有とか難しい言葉使っても虚しいぞ」 「よーし、ヅラァ、その喧嘩言い値で買うぜ」 「じゃあ、百万。引越ししたらお金ないんだ」 「死んでくれ」 「まだ死なないな」 そうだろうよ、こんなけろりとした憎憎しい面の男は、当分棺桶には入らないだろうさ。 まあ、俺はこの馬鹿が笑って死ぬ状況を一つだけ知っているけれど。(絶対有り得ない) 「とりあえず銀さんがせっかく来てやったんだから、茶菓子くらい出せ。ケーキケーキ」 「六日前に高杉が持ってきた饅頭の残りならあるが?カビ生えてるけど」 「いるか!」 「大丈夫大丈夫。中の餡子は無事だ。多分。……俺は食べないがな」 「つーか、お前が始末に困ってんだろ、それ。どうせあのチビのことだから、ゲテモノ饅頭だろ」 「………」 「あれ、沈黙?図星?」 「……キムチ入り白餡饅頭だそうだ」 「餡子に対する冒涜だ!食べ物を大切にしないから、あの馬鹿いつまでもちっこいままなんだよ」 相変わらず、意味のわからないことにも高杉は情熱を傾けているらしい。ここしばらく、糖分の”と”の字も見ていなかった身には宣戦布告にしか聞こえなかった。 「言っておくがな、俺も一つは食べさせられたんだ。本気でまずいぞ」 しかもそれを持ってきた高杉は、土産は持ってきた奴が食うもんじゃないと心にも思っていない殊勝な事を言って一欠けらも食べなかった。 「………つくづく、どーしよーもねぇ奴だな」 「来る度人の話を聞かず、一方的に用ばかり押し付けてくる。…ああ、いつまで玄関にいるんだ、早く入って来い。ついでに、茶入れて来てくれ」 「お前も人の話を聞け!」 ああ、もうほんとこいつら同レベルじゃねーか。一応客なんですけど、俺。 生真面目な所は何も変わらないが、桂は仲間の悪影響ばかり綺麗に吸収している気がする。 例えば。 ―――何食わぬ顔で、冷静な側面と恐ろしく過激な側面を同居させる、辰馬に似た性質とか。 ―――うつけの振りして、ひたすら無茶を重ねながら、強かに目標を達する、高杉に似た性質とか。 ―――それでも、無意識に逃げ道を残しておく、自分のような臆病な側面だとか。 台所の棚から自分と桂の湯飲みを取り出す。幾度となく引越しを、それも短期間で隠密性を要求される引越しをしているにもかかわらず、四つのそれは絶対になくならない。 白椿、深淵の蒼、花火、金銀の名もなき流れ。最初に夜店で買ったそれは当の昔に壊れてしまっている。おそらく四代目くらいであるはずだが、割れるたびにそれぞれが自分の模様を描き続けているものだから、最近は最初のそれよりよい出来になってきてしまったように思う。湯飲みの模様など気にする生き方はしてこなかった。実は、今、その花を描けと言われたら、俺は多分描けない。だけど、湯飲みが小さな崩壊の音と共に割れた後、新しい湯飲みに向かった時には寸分違わぬそれを鮮やかに描き出すことが出来る。ああ、馬鹿馬鹿しい。 ざらりとした表面は生々しく持ち主の色に染まっている。こびり付いた手垢だとか(もっとちゃんと洗え)、些細な切り傷から染み込んでしまった血の跡だとか。それは隠しているあまりに多くの秘密と、いくら舌を抜かれても補えないほどの嘘のほんの一端にすぎない。まるで俺達の首が並んでいるかのように、倒錯的な重量を持ってそれはある。 万事屋では茶など入れないくせに、気がつくと茶さじにいつもと寸分違わぬ量の葉が乗っていた。几帳面さは自分の性質ではなかったはずなのに、次第に変化を執拗に拒む馬鹿二人の性質が流れ込んでいる確かな証拠がこの小さな茶葉に篭められているという事実が腹立たしくついでに情けなくてたまらない。 桂の家に来るとくだらないことで苛つく。今日もおそらくよく似たパターンの結末が待っているのだと思った。だって、手で葉の量をいじることにも嫌悪を感じたのだから。 ちらりと視界を過ぎった角砂糖の入った瓶を乱暴にもぎ取る。襖に手をかけながら、二個一度に放り込んだそれはきっと糖分が足りなかったせいだと思いたい、恐ろしいほどに甘美だった。俺はなんとなくこの襖の裏に隠れた物を知っている。 その部屋の色は何色と言えばよいのだろう。 全体はぼんやりとした木目で、曖昧とした色合いを蹂躙するのは百合の萎びた白で、不意に目を引くのは部屋の闇を間借りさせたような黒い花瓶で、興奮するのは枯渇した赤。 几帳面な桂らしくなく、卓袱台も花瓶も無駄な変装道具も刀も部屋の隅にごちゃごちゃと押し寄せられているものだから、俺はようやくここは桂の家であいつは一応まだ生きているのだと思う。どうして生きているのだろう。どうして死なないでいてくれるのだろうなんて考える。 その中で唯一和紙だけが光沢を保っていた。紙なんて書けりゃなんでもいい派の俺が見ても最高級の品だとわかるくらい絶妙なぼかしが施された紙だった。淡い桃色と黄色が全体の色を決めている。誰かが夢で見たといっていた極楽という場所の色に似ている気がした。やっぱり、おかしい桂。地獄から抜け出す事も怖いくせに。 紙の上には乱雑を装った百合が置かれ、幾枚かは既に固定されている。少なくとも十数本はあるそれは一様にくたびれていて、買った当初の面影はない。あの日からすでにそれだけの時間が経っているのだった。 「………うっわ、何これ……」 「押し花」 「あー、何これ、参りましたって言えばいいのかよヅラ」 もーコイツマジですげえわ。俺が慣れていく3倍くらいのスピードでどんどん遠くに走りやがる。 参っちゃうね。常識をわきまえた銀さんじゃついていけないよ、さすが大馬鹿。さすがキモい大将。あ、でも高杉もキモいな。毛玉はうん、暑いな、俺のほうがまだマシ。髪の話。 そんな俺の寂しい脳内ツッコミを気にしてくれる奴ではないので、桂はあっさりと言い放った。 「風流だろうが」 「……神楽によると夏バテにはでっかい氷で頭殴るのがいいらしいぞ。やってやろーか?」 「殺す気だろ。間違いなく殺す気だろ!?お前がリーダーにやってもらって効果があったら考えるが?」 「あぁ、天国行くね。間違いないね」 「だろう。自分が嫌なことを人に押し付けるな」 「押し付けられてくれないくせによく言うぜ。金貸せヅラァ」 「あるわけがない、俺は桂だいい加減に覚えやがれこの白髪」 「銀髪だっつーの。お洒落だろ。この墨」 「誉め言葉と受け取る」 「死ね」 「二度目だな。ボキャブラリー少ないな、分かっていたが」 「お前は相変わらず口減らないじゃねーか。………ってゆうかよ」 せっかく流せたって内心ほっとしてるとこ悪いね。言うよ。 「お前はいろいろ押し付けられてるよな」 「人が良いからな」 「いい加減その長い夢から醒めがやれ、アイタタタ」 「消えろ」 「無理です。ヅラってさー、馬鹿だよね。嫌な事はどんなに強要されても――たとえ強姦されても、やんないから、押し付けられたイコールお前も望んでたって第三者にバレんだよ」 「………」 「世界で一番愚か者っていう言葉が似合うよ」 俺もね。 すう。吸い込む息は今日の中で一番爽やかで気持ちが良かった。 「派手だったよなァ、この前の幕吏皆殺し事件。部屋は血だらけ、その上高杉が変装していたものの堂々と料亭に入ってきていたとくる。ついでに?旅館の目の前で死んでた若造、綺麗に首の皮一枚で、夜中花火はうっせーし。……お前は本当に愚かだよ。復讐はどうやったって出来ないって知ってるくせに、高杉一人止められなくて、というか本当はお前もそれをしてみたくて、高杉の影絵みたいになってるしかなくてさ。哀れで無様だよ、貴公子さん。高杉もだ。ずっとずっと闇の中を走って、久しぶりに誰かの手に触れたと思ったら、また別の地獄へ引きずり込む手だったんだもんなァ」 ただ罵ればよかったのだ。 俺を罵れば高杉はストレス解消くらいにしかならないだろうが、お前は少なくとも解放されただろうし、俺もすっぱりいなくなれたのに。というか、それを狙っていたなんて言えば、斬りかかられる。白夜叉は現在死んでいるから、……どうなる? 裏切り者と呼び、俺を突き放して、走っていけばよかったのだ。 いっそ切ないまでの矜持を持つこの男にお前は可哀相だと教えてやろうか。 別に愚かになっていていい。愚かでなかった事なんてなかったかもしれない。 わざわざ言葉を変えてみる。うっわ、俺も結構ストレス溜まってるよな。ヅラがわからないはずねえって知っていて使う愚かの意味は強烈に絶望的な憧憬。あの男は愚かにも種類があることを知っているだろうか。 なあ、桂。 なあ、ヅラァ。 過去を殺せないお前らと引き摺られる俺がかわいそうだよ、桂。 衝撃は烈風のようだった。無骨で冷えた手は、頬に激突すると同時に俺の体温を奪ってゆく。 じんわり、こう、懐かしさの篭ったこの世で一番愛しい味が口腔を駆け巡り、俺は必死で痛みを感じようとした。でも平坦な感覚器官は何も感じてはくれない。どちらかと言えば桂が触れない―――後ろに倒れこんだ瞬間に床にぶつけた頭のほうがずっと痛かった。 ビリ、と和紙が破けた音がする。もしかしたら、花も共に引き裂かれたのかもしれない。 馬乗りになって俺を見下ろす桂。 腹に来た衝撃で今度こそ花が破れ、花粉のかすかな香りが部屋に充満する。 今言える限りの言葉を持って桂を、ひいては彼の生き方を、侮辱した俺に向ける視線は怒りですらなかった。殴りながら、慈愛のように優しい。 「………銀時」 「…白夜叉に喧嘩売りやがったな」 「お前が選んだんだ。他でもないお前が」 「……」 「お前は家族を選んだ。お前を責めるのは、裏切り者と罵るのは俺ではない。白夜叉だ」 「……」 「喜んで喧嘩を売るさ。お前が再び白夜叉を選ぶか、それを忘れるまでな」 最後まで言わせてなんかやるものかと思った。 桂が一番俺に言いたい言葉など一生聞いてやるものか。 白い頬をあらん限りの力を持って殴る。浮いた奴の上体に吸い込まれる足。口元から流れる愛にも似た物質。不敵に笑ったのはどちらであったか。 立ち上がって対峙する。足が動くたびにビリビリビリと桂の構築する堤防が砕けていく。 俺が帰った後に、俯いてそれを修復する男の姿が一瞬見えた。 「―――っ!」 その後姿を見ていたら、ブツリと嫌な音を立てて、髪が引っこ抜かれた。 「痛ってええ!!ハゲる!ハゲる!ヅラの仲間になる!!」 「ヅラではない!桂だ!!ぐだぐだ言う前にその歪んだ髪なんとかしろパー!!」 「それ今俺のことに使ったろ?ストパーかける金よこせ、ヅラ」 「俺が引っ張ってかけてやる。座れ」 「完成したらスキンヘッドじゃねーか!」 「なんでわかったのだ?」 桂の指に絡み付いていた銀色がさらりと空を舞った。ぐにゃぐにゃ曲がりくねっているくせに、奴の手を縛るでもなく引き千切るでもなく、床の木目に逃げ出して見えなくなった。 置いていくなと叫びながら、置いていってるのはてめぇじゃねーか。 役立たずな銀色 その行為が労わりだとわからないくらいなら死んでしまえ |