もはや、乱世へと人を巻き込んだ異邦人達へ怒りをぶつけるというよりは、骨の髄まで喪失の苦しみに浸されながらも足掻き続ける自分達の小さな営みすら、自身の永遠へと取り込み続ける世界を心の底から憎く思っていて、どうできると言うわけでもないのだが、時に発作のように自分達を細分化し一点の穢れになってみたい誘惑にかられる。


千  尋  の  底  の  静  謐


「寒ィ」「当たり前だろう」「はいはい、薄着過ぎるって言いたいんだろ、ヅラァ」「ヅラじゃない桂だ」「てめーは口うるさすぎるんだよ」「お前こそだらしない。街中でその着物がどれだけ目立つか知っているのか」「ヅラの髪より遥かにマシ」「比べるな」「やだね。つーかいい加減に酒頼もうぜ」「誰の金で飲み食いすると思ってる」「ヅラの金」「口が減らないな、貴様は」「それが俺のいい所だろ?早くしねーと、お約束に間に合わねェよ」


桂は静かに溜息をつく。波止場の親父が気味悪そうに二人を眺めたからだ。まあ、気持ちはわかる。春の宵。幾度となく夜桜の不気味なざわつきに呼応するかのように目を光らす高杉は気持ち悪い以外の何者でもないだろう。
ヅラ、失礼な事考えてたろ。再び口論が始まるのを避け、桂は高杉の言葉を無視した。お前も同じ面なんだよ、も再び無視。早口で酒と肴を注文し、先に船に乗っていると言い残す。

京都の中でも屈指の美しさを誇る(と少なくとも桂は思っている)湖の対岸は見えない。それほど大きくはないが、濃淡くっきりと表される闇に塗りつぶされ、視界に入るのは対岸の淡い――それでいて妖艶な桃の残光だけだ。
高杉があっさりと追い抜いていき、黒々とした水を手に絡めた。行灯の光に照らされる顔。笑っているかと思いきや、全くの無表情だった。
そのまま歩き出し、彼が船に乗り込んだ時、ぎしりと板が抗議の声を上げた。
責めるな。不快であろうとも、お前には後悔がないだけまだましだ。



「高杉」「んだよ」「京はいいな」「思う存分暴れられるからだろ」「何故そう思う」「銀時がいねえ」「あいつがいようといまいと関係ない」「いいや、関係あるね。俺はこの前無茶すんなって説教された」「安心しろ、俺もされた」「どう安心なんだか、お前日本語弱いだろ」「弱くない」「弱い」「弱くない」「弱い」「……泥沼だな」「クッ、そりゃ、今の俺達だ」



新調したばかりなのだろう、部屋の畳は青々としていた。不思議に座るのが躊躇われ、桂は最初に右手だけをつき、それに重心を乗せてから座る。何かに飽きているような仕草にも見えた。
ジジくせ、と口元を歪めた高杉の顔を白い月の断面が照らす。そういえば今日はパイプを燻らせていない。

高杉の煙草は抑制的だ。だが、それを知っていると言えば彼が怒る事も桂は知っている。
例えば、人を斬る時には煙草を吸っている。一時、話題に上った幕吏皆殺しの後、彼は桂の家で尋常でないほどの煙草を吸った。しまいには桂が見かねて取り上げたわけだが、なんとか落ち着きは取り戻していた。
自分も変わらない。人を斬る時には極力冷静であろうとする。今も昔も。
高杉が煙草を吸いだしたのは攘夷戦争が終わってから。一度やれば止められないらしいのに、過去への依存が大きすぎて、依存すら出来ない彼。
冷静さなんて、くそくらえだ。吐き捨てた。今からの行為に冷静さはいらないさ、相手が相手だ。



「オイ、くすくす笑うなよ。気持ち悪い」「せめてキモいと言え。お前はキモいと言われるより気持ち悪いといわれるほうがアイデンティティに強いショックを与える事を知らんのか」「手短に話せ」「理解できないのは貴様の頭が悪いからだ」「お前の基準で悪くてもどうでもいい。そもそもヅラは気持ち悪い事が存在価値だろ」「このクールで冷静な男を捕まえて何を言う」「そりゃ、嘘だなァ」「何故?」



ようやく酒肴が運ばれてきた。主人は慇懃に礼をし、船を出すと言い残し去ろうとする。この屋台船は自動で動く。船頭もおらず、しかし漂うわけでもない。
「オイ、親父。俺達は何両で売られたんだ?」
至極愉快そうに高杉は逃げ行く主人の後姿に問う。無論答えは返らないが、彼は既に知っている。

凍る湖に浮かぶ船はこれだけで、夜桜の檻が幾重にも重なり閉じた空間に味方は互いしかいなくて、今も、執拗な視線が殺意を篭めて、絡み、人を絞め殺そうとしていると知っている。



「せめて、妓を身請けするくらいの代金かねェ」「反応から見てかなり安そうだぞ」「災難だよなァ」「全くだ。幕府ならもう少し経費を弾んだだろうに」「まァ、俺らも災難だぜ」「天人もよっぽど俺たちが憎いのだろう」「その何倍もな」「ああ、そうだな」「俺達も」「憎いというよりは、」



憎いと言うよりはむしろ、純粋にいなくなってほしい。あいつらが消えれば、次の日の朝には若き日の自分に戻っている気が今でもする。ああ、でも嘘。それも嘘。世界を逆行させてみたかったりだとか、ただそこに異様な物があるから斬ってみたいだけだとか、単なるストレス解消だとか、いろいろだ。
ゆっくりと食事を咀嚼する音が響く。ごくりと鳴る喉の音。思ったよりも強めの酒が喉を焼く。まるで首を絞められているくらいの閉塞さがそう感じさせたのかもしれなかった。
暑い。同時に、寒い。
和え物に伸ばされた高杉の手が粟立っていた。黙々と手酌する桂の手もそうだった。

もしも、この食事の中に毒が入っていたらとありえないことを考える。人は毒殺を平気で用いるが、天人達はそれをしない。獲物で切り刻みたがる。
毒を喰らうというのは、どういう気分だろう。
自らの一部として取り込んだ物が、じわじわと体を壊していく様子を意識の中で認識し続けるのは。
目の前の男はどうするだろうか、と桂は考える。ただ聞かれるだけなら、自分も彼も、その場で切腹すると笑いながら答えるだろう。しかし、いざそうなった場合、自分は絶対にそうしないことも直感で知っていた。

高杉は貪欲だ。一見無謀のように見えても、自らを軽んじているわけではない。戦略家とは違うが、勝算のない賭けには出ない。簡単なようで、酷く難しいそれは、実際にたくさんの仲間を奪っていった。
きっと最初は必死に吐くだろう。どんなに見苦しくても、もがきながら吐くだろう。



「……俺は、お前の背中をさするだろう」「はァ?自己完結で話すんな」「これに毒が入っていたことを考えていた」「もう遅ぇし」「実際には入っているはずがない」「あ、わかった」「当たっているか聞いてやろう」「ヅラのくせに偉そうなんだよ。もし即死しない毒が入っていたら、俺はどうするだろうか」「当たり。……お前は必死に吐くだろうと思った」



高杉の背をさするというのは、桂にとっては懐かしい行為でもある。
その辺にあるものをなんでも口に入れていた子供だった高杉はそれでしょっちゅう気分が悪くなった。その背を、あまりに小さな背を説教を垂れながらさするのは自分の役目だった。
彼が助かった時に、それは同時に彼を置いていく時に、俺は笑って死ぬのだろうか。



「なァ、桂」「暑い」「虹色の湖って綺麗かねェ」「一瞬綺麗で朝には澱む」「寒ィ」「なあ高杉」「あァ?」「屍骸が埋める湖はそれなりに美しいと思わないか」「屍骸と色を変える湖、風流じゃねェ?」「小さな小さな世界の色を塗り替えてみるか」「塗れるかね」「お前はどう思う」「俺が聞いてる」「やってみなければ分かるまい」「じゃあ出来る」



次第にかみ合わず、次第に歯車が外れていく会話。
最初は均衡していたような錯覚に襲われる。いや、最初から予定調和のように話されていて、全ての言葉が不協和音だけで構成された歪な譜面に過ぎなかっただけ



「そろそろ、か」「桜が喜ぶさ」「人の血じゃなくても」「血は血だ」「笑えるな」「いや、泣きたい」「全部剣がやってくれる」「最初の構えは何にする」「上段」「俺は下段」「どうせ乱戦」



ある一点を越え、言葉遣いの特徴すら消え、どちらが話しているのかも分からなくなり、まるで声が重なっているようになり、ひたりと静寂が落ちる。
舟揺れが酷くなった。湖が深いのだった。ずっとずっと、永久の上に浮かんでいるのだった。

どちらともなく、残った酒を相手の頭にぶちまけた。


禊のような気もしたが、流れの中に恣意的な膨らみだけがあった。


明かりが消える。聞こえるのは強いノイズと、若返った声と、今の声と。
月光は相変わらず白い。いつか染めてやるさと呟いたのはどちらであったか。


「たかすぎ」
「かつら」


不思議に、いつ離れてしまったのかすら分からなかったのに、同調していると言ってもいいほど澄み切った彼の心を見た。





   っ

      て

          



               き

      
                     た


                      
                                か



                                         っ


                                                た





斬ると言う行為で、死体が残ると言う事がこれほどの救いのように思えるのは本当に久しぶりで、お前の思い通りになんかなるものかと小さな湖に映った青い世界に話し掛けつつも、虹色にそれを彩ってあげる仕草はもしかしたら恋しているほどの甘美さなのかもしれなくて、とりあえず生きるためにこうするのだと思えば、桜も喜んで花を咲かせてくれるかもしれないと思った。




傾きかけた屋台船。
全身を澱ませた二人がからからと笑った。
手にはたった一つだけ残った酒が一つずつ。

「高杉、乾杯」
「おう」

片方の手で酒杯を、もう片方の手で互いの愛刀を交わす。
喉に流し込んだ酒は冷たいというよりは静かだった。

「いい月夜じゃねーか」
「そうだな」

月に向かって翳した手は望んだ色だけが付着していて、もし手が届いて月を握りつぶせたら、これ以上ないほど美しく染まるだろう。


「さっさとトンズラして飲みなおそうぜ。こりゃ、明日の新聞一面だぜ」
「やりすぎたな」
「反省はしてないくせに」
「そう言うな」
「俺らをこれだけで仕留めようってのが間違いなんだよなァ」


次第に笑い声は高まり、腹を抱えて笑う彼らは、永遠の静寂が表面を覆い尽くした湖を見ながら、冷えた酒の最後の一滴を飲み干した。