江戸に着いた日、俺達が故郷を捨てた日の詳細な様子など覚えていない。 俺達は既に本当は誰も望まなかった盟約を不敵な笑みさえ浮かべて成立させていたのだが、それには欠けてはならない人物が一人抜けていた。 後年、確か初めて肌を合わせた日に思いついたのだが、彼が偶然にも江戸にいたことは、先生を見捨てた何者かが俺達に与えた最後の帰り道だったのだ。大きなお世話よ、全く世は、時は腐っている。不幸なことに聡明になってしまっていたあの男は帰還願望病理を見抜いて、その奇妙に冴えた目を自分の変に燃える目に絡めてきた。 あの日を境に、二人の悪童は容赦なく廃棄され(それも不完全であったのだが)、代わりに鬼にも狂人にもなれなくなった偽者の二人の未来がその色彩を強めた。 笑えることに、俺達は酷くそれを恐れていた。 沈 黙 の 宴 淡い群青色が世界を塗りつぶしていた。 曖昧な色彩に頭がくらくらする。武者震いとはこういう感覚なのか、俺達は知らない。 「高杉。すぐに忘れてしまおうな」 隣を歩いていた桂がさらりと言った。 その言葉は今からの計画は明日には忘れていようという現実的な意味にも取れたが、俺はどちらかと言えば江戸が偽者であったことを忘れようという意味に取った。自分自身がそう思ったからだ。 「そうだな。明日にはもう今はないことにしようぜ」 「いいな」 桂はにこりと笑って、ゆっくりと刀に手を這わせた。行燈をかざすと、鐔に刻み込まれているはずの家紋が剥ぎ取られていることに気がつく。酷い有様だった。つい先日までは桂家の家宝であったはずの刀はその辺に転がる小刀で乱暴に家紋を削られて、桂の腰にある。 俺はこの刀の哀れな末路に貢献したわけだ、と口には出さずに笑う。桂の視線が行燈越しに俺の刀に注がれていたので、刀を見せる代わりに鐔に指を押し付けた。ぷつりという音を立てて乱れた鐔の屑が指に穴を開けた。 ほら、と桂にその指を差し出す。奴はぷくりと珠になった血を愛おしそうに舐めて了承の意を示す。 気味が悪いとは思わなかった。不気味さで言えば、わずか一年ほどで表層だけを残して何か別のものを飲み込んでしまった江戸という街だ。 「………先生がな、」 ひときわ綺麗に笑ったんだよ、あの日、あの時、この街で。 桂がその先生の仕草を思い出すかのように目を遠くに走らせながら言った。 「人形のように硬直した幕府の役人に笑った。俺には彼らが沈鬱な顔をしていたのか、何も感じていなかったのかわからなかった。旅籠に、水掘に、奉行所に、民衆に、蕎麦屋に、ぐるうと首を回して笑顔を向けて、最後にゆっくりと太陽をその目に映した」 大振りの刀は俺達の身体に合っていない。刀が俺達を持っているような不恰好極まりない状態だ。そんなガキ二人が夜に埋もれる。 「先生、全部好きだったのかもしれない。俺達が先生の全部を好きだったのと同じに、みんなみんな」 先生は萩だけを好きでいればよかったのに。そう言って桂は泣いた。 ああそう泣けばよかったのかと思った。 俺は黙って彼の背をさする。先生はもういない。俺達には夜しか残されていない。 桂の中で、いや俺達の中で真実が二分してしまった。 疑うこともなかった本当がその真ん中にいた先生が殺されて、パキンと音を立てて割れた。 望郷と寂しさから泣く桂は真実。 同時に冴え冴えと蒼く光る双眸でこの計画を持ち出した桂もまた悲しいことに真実。 「高杉。天人を斬りに行こう。―――銀時には内緒で、だ」 俺達が真剣を腰に差して江戸に到着した日の夜、桂がこっそり訪ねてきた。「高杉」と呼ぶか呼ばないかのうちに、有無を言わさず腕を掴まれて外に連れ出された。 桂が江戸に出発した日から、俺達は一度も会話を交わしていなかった。そして一言。 その時桂は、高杉が手渡した刀にゆっくりと頬摺りをしていた。 萩の海に似た深い藍色の目は、氷のような透明さをもって光る。俺と銀時が自分の色に決めたのは、毒々しい赤色だった。桂は間逆だ。冴えて冷え切った蒼。綺麗だと思う。そんな美しさは存在してはならなかったのだか。 土足で降り立った庭は刃物のように鋭い月光に照らされて明るい。桂の背後に光る月が俺達の顔を照らした。昼間に遠目から見た時には気がつかなかった、彼の目の色。 この時、悪童桂の悪戯は相手を永久に排除するものへ姿を変えたことを悟った。 「誰でもいい。一人になる奴を調べて斬ろう。一緒に来てくれるだろう?」 「勿論だ」 反射的に頷きながら、俺はこいつの友でよかったと思う反面、本当に泣きたかった。いや泣きたかったどころか泣いていた。 桂も変わってしまっているとわかっていた。俺達だって一月前を失ってここにいる。それなのに心の何処かで桂は変わらず、ただ泣いていればいいのにと願っていた。 でも俺は桂が変わっていなかったら、彼をぶん殴って無理にでも変えてしまっただろう。 何がしたいのかすら分からない。 少し歩こうという桂の案に乗って、築地の裏に移動する。夜の中にでろりとわだかまる枝の中に身を隠すと、母屋の輪郭は見えなくなった。背後は壁なので会話を聞かれる心配もない。 「で、標的なんだが、お前らが到着するまで暇だったから候補だけは絞ってあるんだ」 桂は懐から一枚の紙を取り出して俺の目前に広げた。ざっと目を通す。 「どう思う、高杉。銀時がいない状態でも仕留められる人選…というのも変か、になっているか?」 先生。もう俺達には何もないよ。 桂の人選は確かに的確だった。一人ぐらい斬られても幕府に怒鳴り込むまでの影響力を持たず、それでいて異常な再生能力を持つとかいう身体的特殊性がない種族だけをうまく選んでいる。 その上決行に都合のいい場所を挙げ、死体を捨てられる水路までの距離を全て調べ上げている。恐らくわかる範囲だろうが、地図には何族が大体何人で何処を動くかまで細かく書き加えられていた。 俺に残された仕事は静かに頷くことと、地図の全てを頭に入れること、そして生き物を斬るという行為を自分の中で肯定する作業だけだった。 それはまるで陽炎のようだった。行燈の光の中に浮かんだ小さな影は輪郭だけを消失し、ふらふらと頼りなさげに漂っている。小さな子供であろう、と腰の物から手を離す。それが、己の寿命を縮める行為だとは夢にも思わず。 ひたひた、ひた。 影は静寂を壊すことなく、着実に距離を詰めてくる。 (地球人には、殺す相手か殺される相手しかいないと思え) 呆けた頭に上官の訓戒が不意に過ぎった。誰何しなければならない。 そしてその必要はなかった。月光が網目のように地表に降り注ぎ、影をただの人間にしたのだ。 姿勢を正し、瞳を閉じたままの少年だった。彼の短い黒髪には、蒼い光が降りている。町人の子供が着るような着流し姿だが、着崩れることなく隙がない。そして、小柄に似合わぬ大振りの太刀。 少年はゆっくりと目を開く。彼の周りだけワープゾーンにあるような、冷凍性と停滞性。 その色は紅というものに似ていて、同時に冴え冴えと冷たい。―――歪な、殺意。 戦慄が走ったが、相変わらず世界に音はない。長年に渡って続く地球人との戦いが終わりを告げる日は来るのか。武器もある、通信機器もある、移動手段も地球人とは比べ物にならない。だが、我々の陣営にこんな殺意を冷凍した目の子供は生まれない。 少年の口が動いた。何かを奪われ続けている、怯えと怒りを篭めた、足掻きの声であった。 「先生を、返せ」 言うが早いか、抜き放たれた白刃が凍った世界を切り裂いた。 何かを振り払うような絶叫と共に、黒髪が突進してくる。水平に刀を翳して。 かろうじて右手が反応し、拳銃を小さな亡霊に向け、身体を捻る。彼の第一刀は脇腹を多少切り裂いたが、体勢を崩した小さな背中に向かって照準を合わせた。その時。 「なっ……!」 突然横合いから出てきた影が渾身の力で、銃をもぎ取った。もう一人いたのか!子供だから気配に気がつかなかった。今更思っても詮無きことが頭を掠める。 反射的に肘鉄を入れると、長髪の子供は胃液を吐き出しそうに呻いて吹き飛んだ。――その、口元。 どうしてそれを見てしまったのか分からない。余裕も猶予もない状況で、子供の口元に流れる赤い血が妙に鮮やかだった。 地面に叩きつけられる寸前の、にたりと笑った口元。心底嬉しそうに、心底悲しそうに。 意味を考える必要はなかった。ぐしゃり、と鈍い音を立てて背後から刀が貫通した。 下手だな。と本当に人事のように思った。地球人の侍は一刀で首をも落とすというが、自分に刀を突き刺した最初の少年は、大振りの刀に振り回されているだけだった。 彼が叫ぶ。 「子供二人も相手に出来ねぇくせに、なんで俺達の国に来た!!?」 喉に血反吐が競りあがる。腹に埋まった刀から伝わる激しい振動で声など出ない。 間髪を入れず、今度は正面から喉を突かれる。 「お前達のせいだ!全部!弱いくせに、先生を返せ!!」 長髪の子供の絶叫に合わせる声。もはやどちらが叫んでいるのかも分からない。 「俺達の故郷を返せ!!」 「先生のいる日常を返せっ!!」 「江戸を今すぐ元通りにして返せっ!!!」 「先生がいて、皆で笑っているはずだった俺達の未来を返せええぇ!!!!」 ガンガンガン、響くのは頭か、彼らが抜き差し叩きつける刀か。折れる。何もかもが。 顔は既に見えない。だが、何故か切実に思った。―――彼らは刀を握ってはいけない。 彼らの絶叫が響きながらも、相も変わらず偽者の沈黙を守る街に、彼らの居場所は既にない。 自分を殺した子供に同情するより、自分の子供を想おうとした瞬間、意識が消失した。 高杉と桂が抜け出した門の前を行ったり来たりする不審な影があった。 (ってゆうか、あいつら何してくれちゃってんの!?なんで抜け出すの!?なんでそれに決死の覚悟で厠に行く俺が気がつくの?布団盛り上げとくとかカモフラしろっつーの、馬鹿ヅラ、馬鹿杉!ここは萩じゃねーんだけど。そこら中に帯刀した天人と、後ほら、江戸って幽霊的なものがイヤイヤ怖いんじゃなくて、ほらあいつら怖がりだから危ないだろ。どぶに落ちたりしたら、うん危ない、そのまま抱きつかれそうだ) 探しに行くべきか、でも江戸って広いし、この科学では説明できない類の物に会ったら嫌だと、銀時は葛藤を続けていた。そもそも江戸の幽霊話を聞かせてきたのはあの馬鹿二人だったと思う。 銀時には、高杉と桂が感じた江戸への焦燥はない。村塾に来るまでに何度か来た覚えはあるが、ろくでもない街だとしか思わなかった。汗に塗れて、無遠慮な手から刀を守り、いかに報酬をケチるか思案する大人と渡り合っていただけの場所だ。 江戸の街ごときのために悲しむのは馬鹿のすることだ。やはり高杉達が馬鹿だという結論に達してしまった。俺達の先生を奪った幕府も天人も許さない。それだけの理由を持っていれば簡単に刀を握れるし、自分を崩壊させることなく斬れるというのに。 突然、自分は独りなのだと思った。 刺すような月光が自分を断罪している。本当は彼らと触れ合えないほど血で穢れているくせに、と。 暗闇が四肢に絡みつく。夜の底に凍結される。外の光は届くし、触れているような気になるが、彼らは真剣に慣れない。同じところにはいない。だか来てはいけない、来てしまったら先生が泣く。(もう彼は泣くことすら、)先生が悲しむくらいなら、自分が独りでいた方がまだましだ。 「銀時」 弾かれたように銀時が顔を上げると、そこには当然のように高杉と桂が立っていた。 「ちょ、てめーら…」 銀時の言葉を高杉が片手で制す。銀時の目が大きく見開かれ、ひゅっと強い音を立てて息が飲まれた。その手の色は、自分と同じ、―――鮮やかな赤色。 同じように両手を差し出した桂の指先から流れる液体がぴちゃんと落ちた。 二人の腰には昨日まで家宝だった刀がぐにゃりと曲がって抜き身のまま差されている。脂と血でぬるりと光ながら。 「オイ、銀時。水を持ってきてくれ。これじゃあ、中に入れねェ」 高杉が恐ろしいほど真剣な顔で言った。 「高杉……お前…」 絞り出した声は、多分先生が死んだ時よりも掠れていた。だって分かってしまったんだ。俺はずっと望んでいた最低なものを手に入れ、俺達はかけがえのない何かをまた失ったのだ、と。 「銀時、布と着替えも頼む。早く寝たいんだ。―――結構恐ろしいものだった」 うん、と高杉が素直に賛同した。 「馬鹿!!!ほんと……馬鹿じゃねえの!!?この、チビ、ヅラ!!」 力任せに、初めて生き物を斬った友人を抱きしめる。 「なんで、来たんだよ!!……俺がいるところなんかに!」 「ああ」 「お前らは、そんな血なまぐさいところとは無縁じゃなかったのかよ……!なんで、なんで」 「うん」 「………なんで、俺なんかの場所に来てくれたんだよ……っ!!!」 気がつけば、号泣していた。独りよりずっと悲しい。 自分を受け入れた友人が、これからもずっと一緒に、ああ!! 「……銀時。俺ァ、怖かった。肉を斬るって、こんなに怖いなんて思いもつかなかった」 「俺も怖かった。……ずっと、お前一人にこんなことを押し付けていた。ごめん」 「ごめん、銀時!怖かった、あいつがあいつの剣が俺達に当たったらって頭真っ白になった!!」 「生き返るんじゃないかって、本当に怖かった!!」 「いつか俺達もああなるんじゃないかって、怖かった!!!」 その日、俺達は先生が死んでから初めて三人で泣いた。 戦の中で忘れられていく夜の話。 |