絶対に、可哀相だと言ってはならなかった。




    青   、  滲  




男はじっと隣に座った男を見ている。断じて、己の意志で視線を固定したのではなかった。一体、絶えず客の入れ替わる屋台で真剣に隣に座った人間を眺める事がどれだけあるのか。それでも自分の冷えているはずの双眸はぞっとするほどの熱を孕み、焦点を人好きのする微笑を見せた男の肌の上に合わせた。

「天ザルを頼む」

店の主人に男は穏やかに声をかけている。それから酒も頼むと言い添え、妙な組み合わせですねと笑われた。曖昧に笑い、店主の苦笑を受け流すと男は笠を取りながら、一層笑みを深める。
「私におごらせては貰えないだろうか」
そうするのが自然だと言わんばかりの仕草だった。
だが、それによって男は自分の立つ境遇を思い出す。酒を飲む暇はない。
「………すみませんが、これから私用があるもので」
「厄介事でしょう」
失礼、と詫びを入れる前に遮られた。
柔らかに、心の底から同情するような眼光が見下ろしているはずの男から降り注ぎ、自分の声が綺麗に塗りつぶされていくのを感じる。


「料亭、幕府…鬼兵隊残党……」


にっと笑った男が首を切るジェスチャーをした刹那に、怒涛のように男が纏わりつかせている凄絶なまでの危険性と日常の根底に潜んだ自問自答への回答が一気に体内の空洞を埋め尽くしたが、孤独な右手が反射的に鯉口を切り、全ての躊躇いは人斬りの習性とも呼べる濃密な毒霧に霧散した。

男は――いや、まだ少年の面影すら残した彼は思考を廻らす。自身、考えが追いつかぬ間に。
この場で斬った以上店主は騒ぐだろう。幸い、ここは人通りがほとんどないし、この界隈は辻斬りのメッカとも言える。店主も斬るしかない。口止めでは仕事に差障りが出る。すぐに藩邸に戻って着替えればなんとか間に合う………

「貴殿には少々落ち着きがない」

初見ではまるで非力な女の物のように細い指だった。
だがそれは、人差し指と中指の間に挟み込まれた剣の乱れ波紋に映ると途端に男の――それも常に剣の道を歩んできた者の指に変わる。
抜き打ちを予想していたらしく、喉元に突きつけられた切っ先など見もしない。
「ああ、少し斬れてしまったようだ。防ぎきれたと思ったのだが、いい腕でいらっしゃる」
一方的に話しながら男はあっさりと刃を止めていた二本の指を解く。
……この会話の間に、どれだけ動かそうと思っても動かなかったその指を。

「刀を下ろして頂けないだろうか。私も追われる身ゆえ、目立つのは遠慮したい」
何がおかしいのか、男はくすくす笑いながら軽く刀を指で弾いた。チン、とほんの少し濁った音がする。
自分の視線がその指に絡め取られるのを感じた。白い指。白の中に数多の傷を封じ込めた指。
指の間に一筋の赤が流れる。視線はその赤へ移り、自分の腕を男が動かしているような感触に襲われた時には剣は元の鞘にそしらぬ顔で収まっている。
男は満足げに新たな傷跡を舐めていた。


「私は、貴殿の邪魔をするつもりは全くないのですよ」
指から舌を離し、髪を撫でる仕草。男はようやく彼の墨のような黒髪の流れを見た。
「………貴方は、」
最初から男は顔を曝していたにもかかわらず、ようやく彼の全貌が明らかになったような気がする。
攘夷志士として知らぬ者はいないほど有名なはずの、
「……桂、…先生」
声を絞り出すと同時に、斬られると思った。
自分の攘夷の意志に嘘はない。だが、高杉と並ぶ倒幕派の筆頭。幕府に仕え、過激浪士の暗殺に手を染める自分を許さないだろう。

「先生などと、気恥ずかしい」
しかし、予想とは全く裏腹に桂は小さく噴出した。ぞっとするほど朗らかに。
そのまま、日頃自分に雑用ばかり押し付ける仲間の愚痴を――名前は出さぬまま――話す。



年若き志士は自分の警戒心が綺麗に拭い去られていた事に気がついただろうか。
幕府、真選組から本気で追われ、天人からも睨まれるというおおよそ想像もつかないような戦いを生き抜いてきた桂の人間らしい一面は初対面の彼の肩から力を殺ぎ落とすには充分すぎた。



「私も、身勝手で迷惑な友人に、雑用を押し付けられただけなので」


そう桂は言い、顔を伏せた。
苦笑とも冷笑とも取れる頬の引き攣りを優雅な策略の中に隠すかのように。嗚呼、まさに狂乱。
そして、自分の声とは思えぬほど穏やかで静かな声が朗々と台本を読み始める声を聞いた。











つい、と上げた顎の先に鮮やかな花火が一つ上がった。
隣の男が珍しいものですねと暢気に言う。
一刻と満たない間に、こうまで引き摺る事が出来る人間も世の中には存在していると言うのに、一体何故彼らは遠いのだろうと今更思っても仕方のないことをまた思った。

夜空に一瞬だけ赤や緑、最後には白に近い青を散らした大輪の華はやたらあの腹立たしい男の生き方を想像させる。軽い吐き気すら、する。いくら振り払っても、ふと気がつけば縋り付いている自分にも吐き気がする。


合図。
閃光と目も眩むほどの色彩は大声で人を嘲る彼の嗤い声。


無理やり喉に冷酒を流しこむ。ちりちりと、声を塞ぐそれは絶対零度の接吻にも似ていた。嘲りは喉から入り、臓腑を凍らせ、忘れえぬ熱の中をかけた足を、手を徐々に冷やす。生き延びたという、過去の唯一の功績すら消し去ろうとする。
何が腹が立つかといえば、もう一人では体温すら守れないこと。石像のように人としての感覚に乏しくなった手。あの時、自分の視界を全て覆った冬の川がそのまま体温を持ってしまっていったのだった。ああ、あの男はそれを知っていて。


もともと始末するつもりだった、と言って情報を売った。
無用に被害を出す必要はあるまい、と言って隣の男の足止めをした。
もう目の前に現れて欲しくないからな、と言って会見の顔ぶれをほんの少し弄くった。


「……桂さん?」

黙り込んでしまった桂を気遣ったのか、男が酒を注いだ。
ほとんど何も考えず口元に持っていった水面に映る桂の顔には名前をつけることすら叶わない、どんな種類にも分類されない感情が溢れている。ぼんやりと水面を眺めているとそのまま吸い込まれそうなほどに、自分の顔は何一つ持っていないように思えた。執着も、悲しみも。追想だけがそこに浮かんでいる。

ああ、これが高杉の言う俺の答えかと思う。

この、虚像だけを見ている姿が。まるで破滅に焦がれているような姿が。
なぁ、テメェに守る物なんざあったのか。煩い、五月蝿い、所詮同じ穴の狢だと囁くあの声を潰してしまいたい。それを否定する事は出来なかった。失いたくないものは無論まだあったが、思い出は運命共同体、友は自分が守れるような存在ではない。

桂は半ば苛々してきた。どうしてだろう。隣の男があまりに何も見ないからか(いや、二度と会わないのだから関係ない)、高杉のように具体的な復讐対象がおらず欲求不満だからか(そうかもしれない)何をしてもどうしようもない気がして焦燥すら覚えないほどに麻痺した濁り水に沈んでいく感覚に耐え切れないからかもしれない。


笑おうとしたが、もはや引き攣ったそれすら表面には現れなかった。
そして、隣の男が憎いと思った。斬ろうと思えばあっさり斬れてしまうであろうことが憎かった。

本当は似ても似つかない残影の中に姿を隠し、赤い口腔でにやにや笑うあの男を殺してやりたいのだが、間違いなく相手も同じことを思っていそうで、揃って相打ちを覚悟するほど馬鹿でもなかった。あれが友達のカゴテリ―に分類されるなんて、時々は自分の脳内を疑いたくなる。

「貴方に一つだけ忠告を差し上げよう」
はなむけに。手向けに。
桂はそれ以上彼の若い顔を見ないようにして立ち上がり際に言う。
「あの料亭には行かれない方がよろしい。――間違いなく、殺されます」




目を瞑っていると、片目を恍惚と研ぎ澄ました男がゆったりと血の池にあの暴力的にまで白い百合をゆっくりと浸している姿が見える。彼は自分の足を這い上がる血流を悉く無視し、その赤い呪いは背中にもはや法則もない模様を描いていく。染み込む、刺青。ああ、俺まで背中が熱い。共犯者。背中越しに刺青の侵食する音がする。じわりじわり、と戻れない過去の色をした刺青が刻まれていく音がする。
なるほど、同じ穴の狢。上手く、これ以上ないくらいに自分達を表しているのが憎たらしい。そうだろう。言い聞かせていた。俺は高杉とは違うと自分に言い聞かせていたが、それすらあの馬鹿は見切っていたらしい。一方的にやってきて、こちらが匿名で通報するかもとか、無視するかもとは考えもしない。あの花火は卑屈に嗤う。笑いながら沈むことのできる男が、恐怖に慄く自分を嘲笑っている。




(………わかったよ、……高杉)




俺も鬼だといえばあの男は満足なのだろう。











一種の諦観が舌にざらりとした感触を残し、桂は飲み込んでいなかった酒を吐き出した。
若い藩士が驚いた様子を感じたが、振り向くつもりはない。

桂の目は数瞬の後、地面に落ちる水滴を捕らえる。澄み切った冷酒だったそれは、彼の口腔を通過したことで、ひどく濁って見えた。そして、その澱を確かめる前に地面に落ちて弾けた。


(あの男は死ぬだろう)


自分に傾倒していたが、あの生真面目な性格では必ず約束の場所に行くはずだ(それくらい生真面目な男の死に様は見てきたさ)。
桂は花火を上げた高杉があの男が通るであろう道を通って戻ってくる事を知っている。一張羅を着替え、例のだらしない服装に戻る時間を加えれば鉢合わせするのは容易に想像できた。

おそらくは抜き打ちで至極満足げに微笑んで。持ち前の直感で敵と判断するのか、高揚した気分を沈めるためにそうするのかは知らないが少なくとも暗殺専門の武士で太刀打ち出来るものではない。


どうでもいい話だった。
そう思いつつ夜闇を漂う桂の白い貌は怖気がするほど端整な笑みを浮かべている。



「……どうせ互いの身は錆刀。切るに切られぬ腐れ縁」



家に帰る前に花瓶を買おうと思った。高杉が家に残していった白い百合を飾る黒い花瓶を。
そして、親指を噛み切り、この文句を刻むのだ。愉快なほどに自分達を表しているこの文句を。




背中を這う刺青に密やかな安堵を感じるのは、落日の色をした堕落であったのかもしれなかった。



共犯者高桂。ここが始まり。
前日に押しかけてきた高杉が桂から礼服を借りて、本当の暗殺者の足止めを押し付けてた話。
桂は全然貴公子じゃない。狂乱だが。