ようやっとの思いでたどり着いた江戸は復興途中の活気に包まれていた。誰もが忙しく動き回り、項垂れている者など一人もいない。全速力よりもなお速く、人はこれほどの力を残していたのかと思えるほどの熱気。各地の攘夷志士が命を顧みずに焼き討ちした大使館は、腕利きの大工達の怒号と金槌を振るう音に合わせて以前よりも堅固なそれに立て直され、大雪で潰された町屋も屑材木の寄せ集めを組み合わせ、一日の中でも朝と夜では別の建物かと見まがうばかりの速度で回復していく。 高杉が寄りかかっている江戸大橋も例に洩れず、真新しい材木の集合体へと変貌を遂げた後で、それには職人の手垢と工具から零れた鉄の粒こそこびり付いていたが、一滴たりとも血などは落ちていないのだった。 快晴の空から絹のように柔らかな光が、一つだけ残された眼球目掛けて落下してくる。空には天人の船が嫌と言うほど浮いているが、誰も注目などせず、ただそこにある存在は、敗北の象徴ですらなかった。数多の血を生み出したそれらすら貪欲に飲み込んでゆく青に眩暈がした。 雪も溶け、悲しみも屈辱も推し包むような空の下を、資材や食事を売り買いする者、買出しに走る者、少しの暇を見つけては雑談をする者等、目的のない群衆が一瞬でも止まることを恐れるかのごとく走り回っている。 そして、ただただ呆然と世の流れの速さを見つめる高杉の横で、人々はついと河原を見下ろすのだった。高杉にとっては身を斬られるよりも苦しい行為をあっさりと、流れ作業でもするように。 何村の誰が死んだ、どこそこの奴は晒し首になったそうだ、怖いねェ、哀しいねェ、よくやるよ。 雑踏から発せられる数々の声が重なり合い、反響し合い、曖昧になりながらも最も残酷な事実だけが明確な音として駆け巡り、高杉を苦しめる。だが、誰一人として、涙を堪えて顔を歪める高杉になど見向きもせず、噂の中に一瞬の悲劇を見つけては、すぐに夢から醒めていく。人々は分かっているのだ。この嘆きに身を落としてはならないと。 その時、高杉の耳に普段は夢ですら聞こえない師の声がはっきりと届いた。師の講義の内容だった。 「民衆は、愚かで、気高く、臆病で、優しく、最も強いものです」 当時は村塾を一歩出れば身分制の社会が広がっていた。武士の子というだけで、自分や桂がどれほど酷い悪戯をしても町人達は戸惑いの色を浮かべて耐えていた。 講義の内容は全て暗唱できるまで復習したはずなのに、言葉だけが浮かび上がり、続きがどうしても思い出せない。今の高杉には、それを思い出せるほどの力が残されていなかった。 「………確かに、強い」 高杉は自嘲と共に目を細めた。瞼の筋肉がうまく動かなかった。 人々は生きている。河原の粗末な台には、仲間の「一部」が置き捨てられている。ごろり、とあちらこちらの方角に向かって度重なる拷問で変形した首が置かれている様は、まるで市の安売り最終日のようだ。 高杉は首の一つ一つを身じろぎもせずに見た。一目では生前の姿が分からなかった首を橋から乗り出して見ると、腫れあがった目じりに、特徴的な耳の形に、絶叫の形で静止した口元に、少しずつ仲間達の面影が浮かび上がってきた。 苦労の末、幕府と手を結び、最終決戦と息巻いたのはいつだっただろうか。暦の上ではたった一つの季節しか巡らず、戦争に出ていた時の長さを考えれば昨日のことと言ってもいいはずなのに、その出来事は遠かった。地平線を何を思うわけでもなく眺めている時のように、戦争は仲間達ごと手の届かない彼方にある。 その時、高杉の周りには希望に溢れた仲間達がいた。幕府の参戦が絶望的な戦況を動かす可能性という点では、それほど期待出来ないことくらいは分かっていたが、それでも奴らは正しく希望だった。幕府の参戦は、国を挙げての宣戦を示し、自分達は孤軍ではなくなり、徒に人が減り続けるだけの日々に終止符が打たれることを意味した。 皆、程度は異なれど寄る辺を求めていたのは同じだった。お上が出てくれば戦力は何十倍にも膨れ上がるという者、幕府の外交網の後ろ盾となり攘夷を決行すべしと叫ぶ者、単純に終戦の暁には仲間達の故郷めぐりをすると言う者、親類に喜びを伝える者、血なまぐさい絶望の上に生まれた希望は未来へと繋がるはずで―――高杉自身も、未来を信じた。 (派手に行こうぜ、銀時ィ) あの日。出陣の際に自分は後ろを振り向かず、手だけを軽く挙げた。本当にそれだけの別れで、もっと彼の姿を瞳に焼き付けておけばよかったとは思いたくないが、あの脆いほど優しい男が生きているのか確かめる術はない。もしも今生の別れであったとすれば、あまりのあっけなさ。神様どころか閻魔にすら嫌われているとしか思えない。 (今生の別れを) 逆に、桂と交わした別れの杯は、あまりに芝居めいていて笑えてくる。高杉が今生の別れをしたのは桂ただ一人だ。半死人の集まりのように薄暗かった陣に活気が戻る中、銀時にすら教えず、二人だけで交わした。桂という男は昔から最悪の事態を考えておかなければ気がすまないところがあったが、あの時もそうだったのだろうか。彼の瞳は最後の最後で掴み取った―――当然だ、彼もまた幕府を戦場に来させるために力を振るった者の一人なのだから―――好機に身を任せたい気持ちと何か取り返しのつかない不吉が襲い来るという確信めいた危惧に揺れていた。 酒の味も、桂が何と言って切り出し、自分がなんと答えたかも分からない。ただ刃のように鋭く青く光った友の目だけを覚えている。印象が薄かったのか、濃すぎて消えてしまったのかも覚えぬほどの、ある種なおざりな別れだった。本当は二人揃って別れを乗り越え、互いの惰弱を笑いたかったのかもしれなかった。 もう何も残されてはいないのだった。 大切な師も、ろくでもない幼馴染も、自分を信じてくれた仲間達も、誰一人として側にはいなかった。 挟撃のために戦線を割った。片方の鬼兵隊は圧倒的な人数に囲まれて粛清。銀時と桂はもう片方の戦線にあったが、間違いなく同じ結末に見舞われただろう。 恐らくその瞬間には全員が狂っていて、生命の気配を感じれば反射的に切り刻み、気がつけば自分以外に味方の姿すら見えなくなった。戦線を立て直そうにも、高杉の声は戦場に押しつぶされ、ごく少数の近くで戦っていた者は次々と盾となって死んでしまった。 「………俺ァ、……指揮官失格だ」 長い間動かず、後悔と疲労を呟いた高杉を見た町人がぎょっとした顔で、足早に去っていく。それを皮切りに周囲に集まっていた群衆が、一人、また一人と橋から離れた。捕吏を呼びに行くのだろう、と高杉は他人事のように思う。 明日自分の首も河原に晒されるのかと想像しても、あの世で戦友達と再会したら何と詫びればいいのだろうと思うばかりで、足は全く動かなかった。 師の言葉で『兵法』を教わった。桂や久坂と陣形や策略について議論と思索を重ねた。指揮官たるもの武器の扱いで部下に遅れを取ってはなるまいと、刀はもちろん、慣れない銃や大砲も修練した。 それ以上に、全ての知識を生かせる仲間が周りに在った。冷静かつ慎重な戦に長けた桂、斬り込み隊長でありながら隊の殿もこなした銀時、能天気な笑顔と海千山千の政治力を持った坂本、そしてこんな自分を総督と仰ぎ、どんな無茶な戦いにも一点の曇りのない目で参加してくれた鬼兵隊。 彼らは熱気と矜持に溢れ、自分を後ろから叱咤した。好き勝手やっている自分達が誤解や偏見で立場を危うくした時も、常に信じてくれた。指揮官の立場上弱音を吐くことはなかったが、彼らの真っ直ぐな人としての感情にどれだけ救われただろう。 今、自分に最後の涙が残されたのは、鬼兵隊あってこそだ。 それなのに、自分は、彼らを死なせた。 術策や兵術が頭の中には入っているはずだったのに、無残な死体しか残らなかった。 「…………すまねェ……ッ」 真新しい欄干に大粒の染みが浮く。高杉は声を震わせ、背を丸めて泣いた。 詫びの言葉が浮かんだと思えば、結末への悲嘆に変わり、更に憎悪に変化し、その中で気がつけば恩師や仲間達の笑顔に手を伸ばそうとしている。永久に収斂しない思考が虚しくなるほどに青く美しい世界に拡散して、自分という存在などとうの昔に死んでいたのだと思えるほど小さくなっていく。 「鬼兵隊総督高杉晋助だな」 そうはと言っても、髪を鷲掴みにされて地べたに叩きつけられれば痛みを感じる程度の神経は残されているのだった。本当に死んでしまえばよかったと思う。仲間達を全ての神経と思考を麻痺させても耐え難いほどの苦しみから護れなかった役立たずの総督のくせに、何故、まだ。 無抵抗の高杉を押さえつける手は六人分あった。二人掛りで後ろ手に捻りあげられ、髪を掴んだもう一人に顎を上に向けさせられる。 無理やり向かされた先には、どこかで見た役人の無表情な顔がある。だが見た場所を思い出せない。 男は「間違いない」と頷き、顎で部下に連れて行くように合図をする。 その際、逃走防止か思いきり鳩尾を殴られて高杉は激痛によろめいた。最後のまともな食事を思い出せない逃亡生活によって脂肪という脂肪を奪われた腹は、一切の衝撃を吸収せずに直接痛みを脳に伝える。ついで全身の痺れに、怒りも悲しみもありとあらゆる感情が吸い込まれていく。 残り滓の感情でもそれらは高杉の一切の動きを殺す程度には重かった。 ああ、この程度の痛みで人形のごとく心も身体も固まっていくのなら、首が飛ぶ瞬間もたいした恐怖はないに違いない。 (………そうだった、……なら) ―――自分は、許されるだろうか。仲間達は「アンタもこっちに来ちまったんですか」と笑うだろうか。 両腕を掴まれ、立たされる。最期に今一度と見上げた空は、何故かその瞬間だけ一隻の船もない。その真ん中には一筋の飛行機雲が気ままに流れている。萩の空ではないが、思い出せる限りの萩の空だ。 誰を思い出すわけでもない。皆を思い出した。 師を、父母を、鬼兵隊を、坂本を、学友を、仲間を、銀時を、そして――― "それ"を見つけた。 全ての道が一つにつながる、言葉にならぬ衝撃。 「……よォ、思い出したぜ」 高杉の口元に、薄っすらと笑みに似たような奇妙な形が浮かんだ。角度によっては涙を堪えるようにも見え、怒りに顔を歪めるようにも見え、得体の知れない狂気を飲み込んだようにも見える。 自分を捕らえる腕。特に筋肉質でも、刀傷もない。 それをあらん限りの力で食い破れば、白い骨とどす黒い血と悲鳴がぼたぼたと頭に落ちてくる。 「アンタが、鬼兵隊を呼び寄せたんだったなァ」 血で汚れた口元が、今度こそはっきりと笑った。修羅のような激しさで、制御できない爆発的な力がこみ上げる。 橋からは道路二本を経た裏通り、だが真っ直ぐに見えた亡霊が瞳の力を取り戻させたのか、高杉には自分に降りかかる全ての剣筋が見えた。 乱戦のさなか冷静に思う。この世の全てを素通りしていくような、力という力を失った亡霊。それは一瞬前の高杉に"客観的に考えて"ぞっとするほど似ていた。気味が悪く、嫌悪を覚えずにはいられない、生きようが死のうが心が動かなくなった人間の抜け殻。だが萩の空の幻影よりも、血の臭いのない世界よりも、死による安息よりも、恐ろしい執着をもって待ち望んでいた。 無力な腕と脆弱な精神とある種の狂気を、最高の懐かしさで繋ぎ合わせた生の気配。 桂、だった。 ◆ ◇ ◆ 桂に似た男が隠れているというあばら家に辿り着くのに、時間は要さなかった。 混乱期は平時よりも遥かに情報を集めやすい。特に混乱の原因が非日常的で衝撃的であればあるほど、人々の警戒心は弱まり、普段ならば不審がるような質問にも多くの答えが返ってくるのだ。 高杉は逸る気持ちを抑えて慎重に木戸を開けた。 「……っ!」 反射的に身を引く。闇の中に髪の房が触れた瞬間、捕食者に追い詰められた獲物のような悲鳴が響き、刀の一閃が迫ったのだ。その動きを読んでいた高杉は、先ほど奪った刀で攻撃をいなした。 そのまま力押しに桂を木戸の中に押し戻す時の感情の動きは何だったのだろうか。桂の一閃は戦をしていた頃と全く変わらず、自分の動きも鈍ってはいない。その事実の裏にあるものが誇りなのか、果てしない哀しみなのか分からなかった。 「よォ、生きてたかァ」 瞳孔が開いたままの桂に向かって、にたりと笑う。 その声が全身に染みとおった瞬間の桂の表情を高杉は一生忘れないだろうと思った。 喜び、安堵、絶望、哀しみ、苦しさ、全ての感情がよぎった。きっと自分も全く同じ表情をしているに違いない。聡明な桂は一瞬で悟ったのだ。戦いがまだ続くことを。 高杉は辛抱強く硬直した桂の頬の筋肉がほぐれ、役立たずに成り果てた目が再び世界を見通し、喉が彼の心を語る機能を取り戻すのを待った。 「………あ、あ」 桂もそれが分かったのか、必死に言葉を捕まえようとして何度か息を吐く。 息を整え、やつれた高杉の顔を正面から眺め、彼の背後に垣間見える青空を睨み、ようやく桂も弱弱しく微笑した。 「残念なことにな」 皮肉を含んだ切り返しを聞き、高杉は軽く肩をすくめ、懐から途中で入手した瓢箪を取り出す。 「ほらよ。酒だ。頭が働くぜ」 「フン、酒で頭を働かせるとは貴様らしい発想だな」 憎まれ口を叩きながらも桂は瓢箪をもぎ取り、中の酒を飲み込んだ。空きっ腹の胃を傷つける痛みが走ったが、体温の上昇には換えられない。貪った酒が口から零れた。 高杉はその姿を見ながら内心あまりの凄惨さに震えた。 桂の落ち窪んだ眼の下の隈がなんと深く、ありとあらゆる肉を失った身体が何と細く、そして何より桂の魂に刻まれてしまった闇の深いことだろうか! 時として冷徹な側面も見せたが、基本的には頭が固く、愚直なまでに誠実な男だった。どんなに追い詰められ、絶望の淵にあった時も、濃紺の双眸の奥は氷のように澄んでいた。刀さばきも、駆け方も、策謀も、全てが己の良心に忠実で、煩わしくも思ったがその実直さは嫌いではなかった。 「―――誰が残った」 「テメーと俺しか知らねェ」 鬼兵隊の全滅を話さなければと思ったが言葉にならない。 そうか、と桂は俯き何も言わなかった。 こんな男ではなかったのだ。夜よりも深い目で、呆然と諦めを飲むような男では、断じてなかった。 怒りが、再び燃えた。熱を発するべき体力などないはずの体中が燃え上がるような獰猛さだった。 高杉ははっきりと言う。今まさに心が決まった。 「銀時を探すぞ」 許さない。 天人も、幕府も、それを容認するものも全て。 先生を、故郷での日々を、仲間達の未来を、矜持を、自分を、友を容赦なく奪い去ったもの全てに逆らってやる。 「……高杉、……あいつも、分からないんだ」 桂は涙も枯れた瞳を大きく見開いて訴える。囲まれた。殲滅だった。はぐれてしまった、と言葉の足らぬ泣き言を言った。 「分かるさ。生きてる」 低く囁く声が、凍り付いた友を再び燃え上がらせられるように、高杉は不安を押し殺して言う。 つられて顔を上げた桂は、道に迷いった子どものそれのように、じっくり見ていると泣きたくなるような目だった。 「なァ、桂。俺ァ、神も仏も信じねェ。魂の救済なんざ踏み潰してきた。だがな、何かしらの悪戯で、悪運くらいは期待したいとは思うんだよ」 「……それは、俺達が再会したことか」 酷く力のない桂の微笑みに、高杉は苛つきを隠すように声を張り上げた。 「こんなものは第一歩だ!くだらねェ今生の別れが無効になっただけの、芝居で言えば余興さ。俺達は確かに悪運を拾った。それならば、あのゴキブリ並みにしつこい銀時の野郎が拾わないはずはねェ。―――それともテメーは何か?もう失いたくないから、生き残った連中ごと記憶から消し去って生きていくのか。そんな無様は俺が許さねェ!」 その言葉を桂が飲み込むまでに少しの逡巡があった。 雨水が土に吸い込まれるほどの時間をかけて、桂は理解する。自分が何を言われたのか。 魂の根幹を疑われた事実には、萎えきった心と身体ですらすさまじい反応ををした。 「誰に向かって物を言っている!!」 桂は柳眉を逆立てて、高杉の怒声に負けない勢いで怒鳴る。 「なら言い返してみろ、桂ァ!!無様な生き様を晒さないなら、次は死ぬのか!その空っぽの心ごと腹でも開くか!」 高杉も追撃を緩めない。声を上乗せするように叫んでくる。びりびりと鼓膜が揺れる音がどこからかした。 互いに掴んだ肩を力任せに揺らすので、がくがくと世界が揺れ、焦点すら定まらない。 ぐるりと桂の中で世界が歪んだ。 あの雪原で生の代償に埋められた矜持が不在を主張し、異形が残した汚れが内から身体を刻む。 「死ぬのなら、あの時に死んでいる!!」 あらゆる闇を抉り出すかのような低く掠れた声で桂は叫ぶ。 口元には何ともいえない笑みがある。付き合いの長い高杉でさえ見たことのない不気味な笑みだった。 「ああ、そうさ。……高杉、貴様は俺を嗤うか? 誇りと引き換えに色で生き残った俺を」 高杉は驚愕に目を剥く。桂が何を示しているのか瞬時に理解した。 絶句する高杉をよそに桂は顔一杯に悲嘆を浮かべて続けた。 「生きた。だからこそ、何もないんだよ。高杉」 一面の雪景色を歩くような沈黙が降りた。 桂の虚無と高杉の切望がぶつかり合い、どちらも勝てずに消えていく。 その均衡は今まで絶望だと感じていたものを全て凌ぐものだった。何もない恐怖。怒りすら発せられない無力。高杉は先ほどの人生を決めたはずの怒りですら、この冷徹な均衡に均されていくのを感じた。時間が戻ってしまう、―――あの橋に。 「それでも、」 高杉は必死に逆行に抵抗し、弱弱しく言った。 「………生きた価値はある、と思う」 ああ、これでは駄目だ。既に自分達は「生きている自己」を過去のものにしようとしている。 慌てて言い直した。 「いや、価値が、義務でもいい、何かしらがあるからこそ、生かされた。生きていれさえすれば、価値を作れる」 能面のような無表情で桂が続けた。 「誰が、何故、生かしたと言える?」 「運が、仲間が、何よりも自分が生かした」 桂に光は戻らない。そもそも、自分達の中で人生や自己についてもっとも考え、それゆえの懊悩と付き合ってきたのはこの桂なのだ。高杉などはむしろ成るようになると思っていたし、それこそ戦に負けるまで自己の存在への懐疑など抱いたことがなかった。 ゆえにどうすれば桂に届く言葉が出てくるのかが分からない。昔、桂の禅問答のような問いを聞き流し続けた報いだろうか。こんなにも自己の中で分散した感情、理由、言い訳を繋ぎ合わせて納得のいく言葉にすることが難しいとは。 高杉はひたすら焦る。これほどまでに桂の夜の底を写したような色合いの瞳を恐れたことはなかった。気を抜けば飲み込まれてしまいそうで、その上心の奥底には彼の虚無に共鳴する音が確かに存在し、高杉を引き摺ろうとする。それでも桂を失うわけにはいかない。 「桂。鬼兵隊が粛清された時、俺はたまたま殿にいた。テメーも知っての通り、普段ならば先頭にいる。だが、その日だけは別件の作戦のために殿にいた」 その情景が目に浮かぶのか、桂は黙して痛ましげに顔を歪めた。 「粛清は前から、なんの変哲もない陣形で押しつぶされた。数十倍の手勢の差があれば、正面でいいと踏んだのだろう」 「……貴様は、どうした?」 「どうもこうもねェ。無我夢中で人だか天人だかを斬り、ようやく陣形を立て直した時には半分に減っていた。退却を始めた時、殿にいた方にはまだかろうじて退路が開けそうだった。切り込んでようやっとの思いで退路を開いたら、少しの人員しか通過しない間に分断された。両手に余るか余らないかに減った俺達の隊は、銃や毒矢で追い立てられるうちに散り散りになり、最後に俺を庇った奴が死んだ時には一人だった。それだけの話さ」 高杉の声は震え、ゆっくりと桂の頬に伸ばした手は氷のように冷たい。 「桂」 見飽きたはずの見知らぬ顔を手で押し包み、高杉は目を合わせる。 濁り、醒めた目。だが、その奥にはまだ醒め切っても燃え上がる炎があると信じる。 そうでなければ、あの時、生きる全てを諦めた瞬間、この男に生かされた意味が分からない。 「俺ァ、さっき鬼兵隊の首を見た。捕吏が来ても情けねぇことに、これで奴等と共に死ねると思った。その瞬間テメェが見えた」 「―――俺が?」 「そうだ。ほっつき歩いてるテメェがな。そうしたら、不思議なことに力が湧いて俺は生き残った」 桂は少し困ったように相好を崩した。詫びにも苦笑にも郷愁を篭めた慈愛にも見えた。 「高杉、貴様は何故生きる?」 「怒りだ。俺は許さねェ。先生や仲間を奪い、その上汚名を着せて歴史に破棄しようとしやがる世界を。テメェを、俺を、銀時を容赦なく歪め、茶番として嗤った奴らを。―――だから生きる。おかしいか」 桂の瞳が初めて揺れる。凪いでいた水面に怒りの波紋が広がったが、桂はそれに身を任せる前で立ちすくんでいる。 「……確かにそうだ。俺もこの時代を許さない。……だが、俺達が歪んだのは俺達によってではなかったか。銀時の望みを歪め、必死に攘夷という砦を護り、代償に人と心を失った。高杉、貴様も見ただろう。江戸の人々が生き生きと生活し、笑っていたのを。本当に必要でないのは俺達ではないのか」 「桂ァ。テメェはそんなところで怯えるために侍になったのか?」 揶揄する口調だったが、高杉の目は恐ろしく優しい光を帯びていた。 「ああ、そうだ。志と侍の魂を抱えた俺達はもう必要ない。これぞ確かな事実だ。そして、俺達は自分達の弱さを隠すために生き方を崩したというのに、世界を道連れにする責任を何処かで取らなければならねェ。だが、それを捨て去った俺達にしか出来ないことがあるだろう? テメェにも分かるはずだ」 彼に求められるのは、ともすれば圧倒的な力に流されていく時代の中に打ち込まれた楔たる役割だと高杉は思う。どれほど傷つけられても揺るがず、彼に当たった時代の方が裂けてしまうような杭。とうの昔に蹂躙された志の亡霊を束ねる存在。それが桂だ。 彼が過去を繋ぎ、自分は時代を吸い上げる。喉が裂け、抱えきれない傷で心臓が破け魂がなくなろうとも、必ず渇きをもたらしてやる。渇きがなければ、全ては動かない。 杭を避けて水を壊すのは難しいかもしれないが、それを可能にさせる男も知っている。結末は酷く容易に思える。 高杉が続けようとしたが、先に桂が言った。 「時代はいずれ力と利益を持った者達に流されるだろう?」 それは二人にとって、敗北よりもなお耐えがたい荒廃に等しい。かつて自分達は江戸が好きだった。粗野で煩雑で、だが一本筋の通った世界が好きだった。 全てが失われるわけではないと思っても、このまま師が追い求めた美しさが踏みにじられ続けるのは我慢がならない。 「桂。テメーはそれを分かっている。ならば戦う責務がある。……思い出せ、恥辱の中でも舌を切らずに生き残ろうと決断した理由を」 言葉の最後は掠れてほとんど悲鳴のようだった。 恐怖が高杉を弱らせる。かつてのこの男ならば一瞬の迷いもなく舌を噛み切って死んだだろう。空恐ろしい思いに駆られる。 この男まで失っていたら、もう二度と立ち上がれなかっただろうから。 「―――高杉」 桂は瞳を閉じていた。 静かに瞑想する暗闇の中に何が去来したのかは高杉にも分からない。桂も一生言わないだろう。 だが、再び開いた双眸には、凍り付いた炎が燃えていた。 桂は高杉から視線を外し、遠くを見ながら言う。まるで二度と会えなくなった者への別れのように。 「さすが誑しの天才。思い出したよ。―――あの時、取り戻せるものだけでも取り戻してやろうと思ったのさ」 二人は再会してから初めて同時に不穏な笑みを交わした。 それは長州の悪童と呼ばれた頃とは似ても似つかぬ疲れ果てた頬によって生み出されたが、大胆不敵な活力は同じものであった。 「なあ、桂。思い出しついでに一つ賭けをしねぇか?」 桂は、恐ろしく追い詰められた表情で縋りついてきた高杉の身体をなるべく優しく受け止めた。 知っている。この男は類稀なカリスマ性で他の者を否応なしに引き摺っていく。だが迷いのないように見える行動の裏で、本当は誰よりも行く先を悩み、誰かに認めてほしいともがいている。 「なんだ」 「寝ないか」 何を馬鹿なと怒鳴ろうとする前に、桂は腕の震えと声に篭められた覚悟に気がついてしまった。 「なぜ」 高杉と桂は寝たことがなかった。銀時とは数え切れないほど行為に及んだが、白夜叉を中心に左右に立った二人はそういう関係になりようがなかった。 「もうすぐ捕吏が来る。ここを探す間にいろんな奴に声をかけたからな、通報されるのも時間の問題だ。正直な、演説をしておいてなんだが、自分を必要ねェと思ったうえで戦いに戻るのは俺でも怖ぇ」 「本当に何なんだ。―――安心しろ、俺も怖い」 桂は昔松陽がやっていたのを思い出しながら、震える幼馴染の背をさすった。その手に震えはない。昔からどちらかが怯えていれば、もう片方が相手を焚きつけていた。そんなどうしようもないことだけ変わらない。 戦は終わったと桂はようやく認めた。敗北し、失った。その終わったものを無理やり続けるのだから、きっと自分達も変わらざるを得ないのだと悟る。これもまた、代償の小さな一欠けらに過ぎないのだろう、とも。 「賭けよう。もし行為が終わる前に捕吏が来たら、俺達は無様な格好のまま斬られる。ただ松下村塾に泥は塗れない」 高杉は桂から身体を離し、部屋の隅に置いてあった蝋燭と脂を持ってきた。 「その時は、顔を見られる前に互いの顔を焼く」 「ああ、いいぞ」 桂は、仲間の命の上に生き残っておきながら不謹慎だと高杉を詰ることは出来なかった。 臆病と謗られても、あの友の肉が砕け、焼かれ、泣き喚く場所になど本当は二度と戻りたくない。 「―――高杉、貴様は試したいのだろう? 時が、俺達を反逆者と認めるか」 「そうだよ、嗤え」 高杉はまだ震える手足を叱咤しながら、桂をゆっくりと床に倒していく。 背筋が凍るような冷たさが背中を侵食する中で、桂は懐かしい悪童の最期を瞬きもせずに見た。 「桂。テメーが背負わされた汚れは戦いに重過ぎる。―――半分、寄越しな」 生真面目な共犯者は真摯にそう言った。 かつて師が白鳥の話をしてくれたことがある。長州では見られない雪のように白く美しい鳥だと。 白鳥は死に瀕した時、歌を歌うと言う。 桂はとりとめもない歌のように淫らに激しく啼いた。高杉もまた呻き、腰を打ちつけた。 激しく、今生きている誰よりも激しく。 二匹の白鳥が死ぬ。 死骸がゆっくりと身体を動かした瞬間、暗く澱んだ闇に一筋の光が入った。遅すぎる光が照らした先では、丁度着物を身に着けた桂が掠れた声で苦笑している。 「時の賭けには勝ってしまったな」 高杉は汗を拭って答えた。 「ああ、次は―――」 ゆらりと立ち上がった死骸は、部屋の有様を見て絶句する追跡者に向けて、流れるような仕草で刀を抜く。師に教わり、ここまで自分を生かしてきたように、隙なく流麗に。 「行くぜ、ヅラァ」 「ヅラじゃない桂だ」 いつものやり取りと初めて見る幼馴染の横顔に二人は大声で笑った。 優しかった白鳥は死んだが、絶望を知った革命者だけは残ったのだ。 |