毎年この季節になると嫌でも彼を思い出す。 紺碧の空、鮮やかな向日葵に、遣り水の一瞬の爽やかさ。そんなイメージなど何一つ体現していないくせに、彼には灼熱の季節が最も似合う。 本当は人を焦がすまでの熱に満ちた生命力も、誰かの瞳に自らを焼き付けるために存在する花火も、うだる空気に溶け込んだ死も、秋に喰われる一刹那まで主張をやめない執拗さも、全てが彼に収斂されている。夏という一つの季節を象徴する、あの暑苦しく激しい迷惑な男。 毎年これ以上暑くなったら死んでしまう、と呪文のように言っているがそんな夏は二度とない。 あいつがこの世に生まれた日以上の灼熱の夏などがあったら、自分達はとうの昔に蒸発している。 灼 熱 の 季 節 春は知らぬうちに過ぎ去り、感じる気配すらなかった。 春を感じる五感は焼け野が原に捧げられて帰らない。 自分は春が好きであった気がする。桜の花弁に触れると、白く暖かかったあの人の手を思い出した気がする。温い風が頬に当たると、あの暑苦しい長髪が靡く光景を浮かべた気がする。河原に咲くたんぽぽを見ると、にんまりと笑った腹の立つチビを連想した気がする。 それどころか、辰馬が俺達三人と初めて肩を組んだ日も、初陣を生き抜いた日も、先生の遺骨がようやく萩に帰った日も、あの二人が鬼の道に踏み入れてくれた日も春であった気がして、全く最終的に何もかもが血生臭さい! 豊かな土が仲間の血を吸い、遊び場だった墓が先生の骨を喰らい、友の小さな手に刀が馴染み、俺達の未来が焼け爛れ、温い風に腐臭が混ざり、喪失へ歩み始めてしまった季節―――春。 手が畳を這う。ふわりとした感覚。俺の形を残して部屋を埃が占拠している。廃墟と変わりない。ここは、廃墟でも遺跡でも戦場でもなかったはずなのに。 (きっと俺達の家は、もう、) 違う違う違う、ここはあのババアの家の二階。何故か貸してくれた。家賃も払えない、時々ババアのスナックから酒と糖分を持ち出して畳に転がるだけの俺に、約束を果たさず逃げられたらたまらない、と。 約束。なんて嫌な響きだろう。後悔しているのではない。その時俺は白夜叉では守れない何かを守ろうとしたはずだった。「裏切り者」の名を引き換えに、戦場から逃れようとした。嗚呼、どうして俺の不義を糾弾する奴が誰もいないのだろう。 誰も帰らない虚無が、戦場を忘れさせない。彼らの手足を斬り、志を封じて攫えば、彼らの不在はなかったのだろうか。 苺牛乳を取ろうとして、バランスを崩した。元白夜叉は盛大に顔面から埃の海へダイブ。部屋中の濁った空気が掻き混ざり、懐かしい匂いが広がった。それは死体と腐臭の匂い。なら、この残酷にも広すぎる空間に横たわる俺は骸骨だったのか、いや腐った苺牛乳が喉をきちんと通過している。 頭が混乱してきた。 "暑い" 暑い? さっきまでは春が云々とかぐだぐだ考えていた気がする。ああ、そうだ、春が来ることは二度とないのだった。そして、今日は夏でもない。 風が変わる、花が変わる、食い物が変わる、行事が変わる。これらの微細なことで身体は季節を感じるのかもしれないが、もう心までは届かない。可笑しいほど冷静。世界が動かない。俺達を素通りする季節。 ―――戦争に負けたのだ。 敗走の時よりも鋭く全身の毛穴からその事実が浸透する。暑い、暑い、暑い。熱くなどない。 身体は汗を流し、全身はだるい。でも、熱くない。心が、夏じゃねえ。でも当然のように冬でもない。世界は鮮やかに単色。鬼は、未来の惨殺を恐れて戦ったのではなかったか。生きている。不透明な未来は確かに存在する。それなのに、長い未来の小さな一つの季節ごときが、俺達の不在証明をしやがる。 何に八つ当たりしてもどうしようもないのに、空の苺牛乳パックを投げる。そして、 ブツッと、小さな音を立てて、何かが途切れた。 開かずの世界が崩れる。紙パックの端が偶然触れて、この部屋にぽつんと意味なく鎮座していたテレビが稼動した。奴らがいない世界に繋がるはずのブラウン管から洩れる無機質な音声が盛大に乱れ、俺の聞きたい名前を一つずつ発音していく。 ついにあの馬鹿の幻影を見るとか俺やっぱり死んだんじゃね? とか間抜けに考えつつ、知らずテレビをがっしりと掴んでいた。 【―――粛清された―――隊―督、――晋―が潜伏しているとされる――屋は依然、幕府軍の下厳戒態勢が敷かれ―――】 埃と汗が粘ついた。着物がべったりと張り付き、髪が汗で顔に張り付く。 気持ちが悪い。思考回路が回らない。アナウンサーの聞きやすい発音は全て届いているのに、それが事実として飲み込めない。 制御せよ、心を。もう二度と余計な希望を持って心臓をつぶされないように、でも……その名は、忘れようもない、そのしぶとい男の名は 「派手に行こうぜ、銀時ィ」 そう言って手を振ったあの男を待っていた結末は、…… 脳内の白紙に綺麗な文字が描かれる。流れる優しい字が、俺に刻まれる。 【幕府に粛清された鬼兵隊総督――――が潜伏しているとされる――屋は依然、幕府軍の下厳戒態勢が敷かれています】 先生の字が優しく笑う。テレビの中で、爆発が起こった。 (正面) 知らない声が俺の中で苦笑しながら言う。続いて三発、あさっての方向で火の手が上がる。火消しへの伝令。舞い上がる砂塵と怒声。青春と同じ色の地獄絵図。大使館が燃えた! (陣形が崩れた。俺達に止めを刺すだけの覚悟を見せてみろ) 俺には嘲笑と怒りに満ちたそれが、俺の声なのか、奴の声なのか分からない。 【煙で視界が利きません!幕府軍は四手に別れ、動き始めたようです。―――ああ!】 煙幕が斬られた。文字通り一刀両断に。 容赦のない白刃が踊る。俺にはまだその剣筋が全て見えた。自分のものとは思えない深い溜息が洩れた。 【高杉晋助です!たった一人で、斬り込みをかけています!!】 毒々しい着物が肌蹴る。隻眼の亡霊がこの世の誰よりも生命力を溢れさせて、斬る。 あいつは世界を斬れるだろうか。いや、あの馬鹿は逆境ほどよく笑う。 「生きてやがった……」 果敢なカメラがいるらしい。高杉の憎らしい顔がドアップになった。凄惨な光があいつにはよく似合う。相変わらず悪そうな面をしている。何もかもを失って、奪われて、彼の瞳が濁って、血まみれで汚らしいのに、恐ろしく美しい。変わらず頑固で生き方を変えられないあいつは、地獄の底でも凄艶に笑えるのだろう。 (俺はこいつに追われる) 暑い、暑い、暑い。喉が渇いて干からびて、とにかく猛暑を感じる。このまま奴を引き連れて蒸発してしまいたい。あの憎らしい笑みも、それを奴に覚えさせた世界ごと、全部全部凍結してしまえばいい。それくらい暑い。テロップ。8月10日のテロ。 高杉の横に車が乱暴に滑り込んだ。悪趣味な残滓を残し、高杉が車に吸い込まれて消えていく。 運転席から一瞬覗く、黒く暑苦しい髪。全く嫌になるほど見慣れている! スイカが喰いたい。体中が熱いから冷やしたい。素麺も、冷酒も、風鈴も欲しい。子供用のプールにも飛び込みたい。 ああ、一年で最も暑い夏が戻った。 |