追われた者はかく語る
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先生に向かって歩く間、おぞましいほどありとあらゆる音がはっきりと聞こえた。土を踏む音が、揺れる刀の音が大音量で耳を打つ。懇願する高杉の声、声が出せない桂の息づかいが、脳髄を踏み荒らした。 あいつらの壊れる音の中、歩いた。護りたかった。失いたくなかった。それなのに、壊れていくのをただ感じるしかなく、心の底の望みを知りながら、反対の方向に。 「ありがとう」 松陽先生の、俺を人にしてくれた人の、あいつらと出会わせてくれた人の、最期の声。 今でも時々思う。あの時「死にたくない」とあの人が言ったなら、俺はあいつらを斬ったかもしれない、と。 高杉は普段の罵詈雑言が嘘のように「お前を信じてた」と言って、桂は「背負わせてすまない」と言って、友になった日と同じように笑って死んでいったのだろう。分かっていた。俺もそう言っただろうから。そうして今度は先生を壊してしまった事実を見るのだとも。 もちろん、それは先生を斬った罪に耐えきれなくなった自分の妄言で、先生の大切なものは揺るがず、選択も変わらない。 ただ芯まで冷えるような朝、淡く柔らかい色の東雲を見ながら、路地裏に這いつくばっているとよく思う。 もっとマシな選択はなかったのか。自分が一人で向かったこと自体が誤りで、その傲慢の結果だったのではないか。全滅は見えていたとしても、全軍であたるべきだったのではないか。 またある時は、寝汗で布団に張り付けられながら考える。逃げたこと。二人の、あれほど大事な奴らの心を木端微塵に砕きながら、どうしても足が反対方向に向かっていった時の空っぽな思いが蘇る。 二度と会えないと思っていた。 二度と会いたくないという思いですらあった。 会えば否応なしに先生を思い出す。過去の彼らを思い出す。どうしようもない、馬鹿ばかりやっていた日常の匂いが漂ってきて気が狂いそうになる。二度と会わない。ただ生きていてくれさえすればいい。高杉も桂も、早く戦いなんて止めて、あの場所に帰ってほしい。だが彼らはそれを選ばなかった。 とどのつまり、俺はあの二人を甘く見ていたということなのだと思う。 あるいは壊れた音を、傷の深さを軽視した。誰かに彼らを救ってくれと身勝手に願って。 池田屋。 桂。 先生と俺達を弔い、背を向けて以来の再会。 昔と変わらないテンションで「ヅラじゃない桂だ」と言った彼は、昔と変わらずネチネチとした理屈をこね、逃げ足はより早くなり、仲間から厚い信頼を寄せられていた。 その横顔。 あの傷が全て塞がったかのような、これが戦の第一戦であるかのような涼し気で気迫にあふれた顔は、一瞬だけ、自分しか見えなかったのは間違いないわずかの間、うっそりと微笑んでいた。 俺達は戦の末期におかしくなり尽くしたはずなのに、一度も見たことのない種類の不穏な笑みだった。 その時、思い知ったのだ。 桂が、高杉が失ったのは、自分が思っているよりもはるかに致命的で茫漠とした何かということを。 そして、それを埋めるために苛烈に戦い続けるということを。 「だーかーらー、分かる? 本当はおたくらが爆弾処理とかしなきゃいけないわけじゃん。できなかっただろ。それを俺が身を挺して処理したわけ。はい、釈放だろうが。むしろ感謝状とかだろ。いらねえけど」 金一封が付いてたら悩むけど。感謝状なんて捨てればいいわけだし。家に残った米の残量を思い浮かべながら、その言葉は飲み込んだ。 「自分で持ち込んだ爆弾処理しても、そういうことにはならねえんだよ!」 目の前に座った男はイライラと煙草を吹かして言った。やっぱり瞳孔は開いていて、気配は物騒以外の何物でもなく、血の臭いが纏わりついていた。 だが、正直俺の方がイライラしているわけだ。 桂の顔を見ただけでざわついているのに、池田屋の後、強制的に真選組屯所に連行された上、俺だけ別室に押し込まれた。 隊士の対応も危険人物から引き離すような雰囲気だったから新八と神楽は大丈夫だろう。何より昨日刑事物ドラマを見ていた神楽が「キャッホー!」なんて取調室に駆け込んだ以上、屯所の米という米とカツを食い尽くし、追い出される未来が見えている。 で、危険人物扱いされた俺の前には、目つきの悪いこの男。イライラしない方が不思議というもんだ。 「俺の爆弾じゃねえよ。善良な市民が巻き込まれただけなの」 「ただの善良な市民にあんな真似できるかよ。―――お前、桂の仲間なんだろ」 激情を振りまいていたかと思えば、瞳に怜悧な色が出る。 こいつは一人で(あるいは一人の方が)俺を追いつめられると判断してここにいて、それはある程度の経験に裏付けされてるようだった。事実、瞳には冷酷さと俺を把握してみせるという渇望がある。 「俺、お前のことすごい嫌いだわ」 思ったことがそのまま言葉になった。 今日初めて会って、できれば二度と関わりたくないが、そう素直に思って口にした。 本当に嫌だ。 昔のあいつによく似ている。 「ああ、いくらでも嫌ってもらっていいが、質問に答えてもらおうか」 返答すら「ああ、あいつも言いそうだ」と思わせる、いや言われたことがあるだろう言葉で、猛烈な吐き気が襲ってきた。ただ、これは吐けないバージョンだと知っているけれど。 「お前は、桂の仲間か?」 高杉の顔が、一言一言噛みしめるように、無表情で、言った。 お前は、先生を殺し、仇を討つこともやめ、戦場から逃げた上で、まだ桂の仲間を名乗るのか、と。 「―――俺は攘夷志士じゃねえし、攘夷にも関係してねえ。なら、そういうことだろ」 吐き気が酷くなり、高杉の哄笑が聞こえた。臆病者と奴は嗤う。戦場に漂った腐臭としか言いようのないものが喉の奥でぐるりと蠢いた。 (俺は飲み下してみせる) あの時、爆弾の方に逃げた俺を横目に笑った桂はそう言っていた。奴の考えなど全く分からないことの方が多いのに、あれだけは確信をもって分かってしまった。 続く言葉は何だったのだろう。「お前にはもう期待しない」か、それとも「お前も飲み下せ」なのか。どちらも選べない。ずっと選ばなかったら、桂が選ぶのだろうか。 桂に仲間でないと断罪されること。 彼を仲間でないと目を背けること。 二度と会わないつもりで別れたというのに、想像しただけで、ものすごい暗さが押し寄せてきた。あの約束した子どもは元気だろうか。ちゃんと首切りの修行をしているのだろうか。先生は痛くなかったのか。桂。高杉。俺は―――いや、もしかしたらお前らも―――。 でも、感情の名前を認識する資格は俺達の誰にもない。 「それに、証拠もないじゃん」 だから俺は最も安易で傷つかなそうで、尚且つ、目の前の男の痛いところを突く質問で逃げた。なまじ口の立ちすぎる連中の中で生きてきてはいない。一番弱いところくらい瞬間的に見えないととてもじゃないがやっていられない場所だった。 予想の通り彼が不機嫌に舌打ちした瞬間、扉を蹴破る勢いで神楽が入ってきた。 「銀ちゃん! いつまで男と二人きりで閉じこもってるアルか!」 「ちょっと、誤解の生まれる表現やめてくんない」 その声に自分でも驚くほど肩の力がゆるりと抜ける。自分はこれほど強張っていたのか。 「私もう飽きたヨ。新八が厠から戻ったらさっさと帰るアル」 「おい、そこのクソガキ。テメェ、あれだけ米食らっておきながら随分じゃねェか」 神楽の後ろから、あの時容赦なくバズーカを向けやがったガキが姿を見せる。 「土方さん。上でなんやかんやあってお咎めなしらしいですぜ」 「そりゃ幸い」 土方より先に答えたらものすごい目で睨まれた。 仕方ねえだろ。お前がいる場所は、お前じゃない誰かの適当な意思でひっくり返るようなところだよ。 そう言葉が浮かんで飲み込んだ。懐かしいあの気配がまた笑う。二度目の威力は強力で、神楽の手が引っ張ってくれなかったら間違いなく吐いていた。 「よし、帰るぞ」 「旦那、またどうぞ」 「ふざけろ。二度とありません」 栗色の髪で、見目だけは柔らかなガキが、満面の笑顔で手を振る。その手を払い、取調室から出た途端、背中一面に冷汗が浮き上がり、動悸が耳の奥で別の生き物のように跳ねた。 思わず、強すぎたかと思う勢いで神楽の手を握ったが、しっかりと握り返されて、ただ、ああよかった、と思う。同時に臆病者めとも思った。 呼びかけようとして、かけるべき言葉すら分からない。 神楽に手を引かれたまま、向こうから歩いてくる新八に声をかけながら、ただ途方に暮れる。 さっき飲み込んだ言葉は、高杉の言葉だった。嘲笑った自分の声は、桂の息遣いだった。 もう二度と顔向けできないと思ったあいつらの欠片が俺の中にある。 俺の中で腐っていくのかもしれないし、俺が呑まれるのかもしれないし、返す刀であいつらがこの欠落で壊れるのかもしれない。ただ今は、これがある日突然喉を食い破ってくれるのか、それだけが知りたいと思った。 ◆ ◇ ◆ 首筋にちくりと冷ややかな空気が触れる、そんな感じだった。 遠巻きに偵察されている時よりもずっと薄い感覚で、その気配を知り尽くしていても、気を抜くと忘れてしまう。そうして忘れた頃にまたちくりと肌がざわつくのだった。 ―――相も変わらず、ネチネチした奴だ。 「銀さん聞いてる? それでよォ、この前の真選組のドンパチ?仲間割れ?で、ハツの家の庭が色々壊れて。ほんと、庭にいなくてよかったけどさ」 歌舞伎町の端っこにある河原のおでん屋で、長谷川さんは都合三回目の話を始めた。このおっさん、飲むと話繰り返すんだよな。 屋台の赤暖簾を背にした長谷川さんは相当出来上がっていた。さっきから卵をつかむのに苦戦している上、諦めて他の具を一口食べる間に酒は二口飲んでいる。 とりあえず酒を注いでやると一息で飲まれる。これは間違いなく二日酔い確定コースだ。 「聞いてる、聞いてる。それで奥さんが哀れな無職の長谷川さんを憐れんで、庭掃除の仕事くれて、その代わりに奥さんの庭を開墾してきたんだろ」 「全然、聞いてないじゃん! しかもさり気にささること言ったよね」 「え、ヤってこなかったの?」 「……銀さんって時々びっくりするくらい最低だよね」 長谷川さんは「時々」だなんて生ぬるいことを思っていたらしい。まあ、そんな長谷川さんだから、こういう日に一緒にいられる。 「ちゃんと庭掃除して、危なそうな石全部どかして、せっかくハツと茶を飲んでたのにさ〜。なんで俺、あんなこと言っちゃったんだろ。だって借金返してやるから就職してってさ、俺、こんなんだけど嫁に借金返してもらったらほんと終わりだからね。そりゃ突っぱねるでしょ」 長谷川さんの意地は厄介で、嫁さんの意地も遠回りだ。 「んなこと言っても、借金は踏み倒してるじゃん。ブラックリストじゃん。―――あんま意地張り通して、取り返しつかなくなったらどうすんだよ」 「あ、ちょっとブラックリストのことは止めて。受け止められてないから」 そこじゃない。意地も結構だけど、労わりが直接、そのままの意味で受け取れる距離は脆すぎる。 「貴様にしては良いことを言うではないか。意地は張りすぎると首が締まるぞ」 割り込んできた声と冷えた空気に、ひゅう、と自分の口からよく分からない息が漏れた。その間に、今一番聞きたくなかった声の持ち主は当たり前のように長谷川さんの隣に座り、熱燗を注文している。 「あ、ヅラっち! ちょっと聞いてよ!」 「ヅラっちじゃない、桂っちだ。何かあったのか?」 「いや言いにくいでしょ、それ。この前、ハツの家が真選組に壊されてさ、仲間割れなんだかしらないけど、勘弁してほしいよね」 長谷川さんは気が付かないし、この人は一生気が付かない人生を送ってほしい。でも、俺はぞっとした。 熱燗を舐め、竹輪を頬張るヅラの顔は控えめに言っても間抜けだった。だからこそ、瞬時に立ち昇った冷涼な気配に肌がひりつく。 「それは大変だったな。ハツ殿に怪我は?」 「いや、それは大丈夫。……そのあと喧嘩しちゃったから、会えねえけど」 「怪我がないならよかったではないか。喧嘩も男女のランデブーのスパイスだろう。―――まあ、もうしばらく辛抱してくれ。日本の夜明けにたどり着いたら、狗どもなど綺麗に掃除しておくから」 桂は立ち昇るおでんの湯気を見ながら、笑って言った。それは紛れもない殺意で、こういう時だけ働く俺の第六感は断言した。 こいつは今日狙ってここに来た。 「あの、そういう物騒な慰めが欲しいんじゃないんだけど。どっちかと言うと仲直りの仕方とか聞きたいんだけど」 「ふむ。よかったら、一度俺が話してもよいのだが……」 「駄目だよ、ヅラっち、人妻好きでしょ」 「いやまさか、長谷川さんの奥方にそんな不埒な妄想など」 「俺の目見て言ってよ」 そこまで話して、二人は同じタイミングで笑い出す。長谷川さん、マジすごい。こんな時のヅラには高杉ですら逃げ出していたのに。 「ん?どうした、銀時。酒が進まないではないか」 桂がにっこりと笑いながら、熱燗を勧めてくる。その目は底なし沼のように光がなかった。 千鳥足の長谷川さんが何とか住処のある公園に入ったのを見届け、無駄な抵抗を承知で万事屋の方に足を向けると、桂は静かに着いてきた。足音はほとんど聞こえない。 それどころか騒がしい歌舞伎町のすぐ傍だというのに、生きている人間らしい音はなく、このまま足元が抜けて夜の底にただ落ちていくような感覚に襲われる。 「―――で。怒ってんの?」 いい加減嫌になり、水を向ける。すぐに鼻で笑われた。 「怒られるようなことでもしたのか? 俺は狗のお巡りさんごっこは楽しかったか聞きに来ただけなのだが」 うっそりと笑う掠れた音。密やかで、静かな。それを怒っていないなんて言うつもりなのか。 「楽しかったか?」 いつのまにか隣に移動した桂の手が、ゆっくりと、恐ろしい力で左手首を掴んでいる。 「……成り行きだよ。楽しいわけねえだろうが」 成り行きで新八がトッシーを拾ってきてしまった。土方が全てを投げ捨てる思いでした依頼を聞いてしまった。 あいつらが昔の俺達に見えたんだよ。 気の合わない税金泥棒だけれども、もしあのまま近藤を失ったら、土方が―――沖田がどうなるのかと思ったんだよ。 でもこの答えが俺達にとって最悪だということくらいは分かっている。 「トッシーだろうが依頼人には違いねえし? うちには豆パンしかなかったし?」 「真面目に働かないからだ」 「働いただろうが。ちゃんと真選組の隊服着て士気を挙げて、檻の中のゴリラを救助したら結構金入ったぜ。家賃も払えたし、しばらく飲み代には困らないね」 「ほう、なかなかいい言い分じゃないか」 自分の口からは最悪の答え以上の更にどうしようもない煽りが出てきて、桂の顔から全ての表情が溶け落ちた。 街灯の青白い光に浮かぶ見慣れた顔は怖気がするほど凄艶で、こうやって桂が地獄の階段を駆け下りていくものだから、そんなものは馬鹿馬鹿しいと、お前の思う仇討は筋違いだと、夜明けを待つほどの価値がこの国にあるのかと言いたくなる。そうして、こいつが命を懸けるものを冒涜してしまうのだ。 だって本当の、お前の仇は、 「なあ、桂。俺も聞くけどなんでそんなに怒ってんの」 「怒っていない。あきれ果ててどうしてやろうかと思っているだけだ」 「いや、滅茶苦茶大人げなく怒ってんだろうが」 「貴様相手に恰好をつけても始まらん」 「何その開き直り方。……高杉に何か言われたかよ」 左手がごきりと鳴った。構えていたからよかったが、かなり容赦なかった。それでもこいつは俺の右手には触れない。 「……高杉は関係ない。俺は貴様がもう一度戦場を駆けた理由が、幕府の狗を救うためだったことが納得いかない」 唐突に、腹をくくるときの目の閉じ方をして、桂は言った。 その昏い迫力に思わず後さりそうになって、踏み止まる。桂は俺や高杉と違って、自分の本音に向き合い、発することを恐れない。それがどんなに醜悪で、嫌な部分を暴くものであったとしても。 だから時折恐ろしく疎ましく、同時に離れられない。 「―――紅桜でも随分な目に遭ったんだけど」 「あれは他ならぬ俺のためではないか」 ふんぞり返りながらこういうことを言われると、殴りたいが。本気で言っているのがなお悪い。 「銀時。貴様がどれほど奴らに俺達の幻影を見ても、それはただの幻なんだ。まさか情が沸いたか? 護るものをはき違えるな」 大きなお世話だと言えた。間違いなく桂自身も話していて理が通っていないことは分かっているはずだった。 「……帰るわ」 だが、これ以上言い合っていたら、俺達にとって、決して言ってはいけない一言を言ってしまう。忍び寄るその不吉な気配を察する能力は、そういえば昔の自分たちにはなかった。 「ああ。……“俺達は”今でもお前と共に進みたいと思っていることだけは忘れないでくれ」 「あのバカはそう思ってねェだろ」 「思っているさ。バカだから認められていないだけでな」 踵を返しながら止めのように言われ、心臓に鈍い刃を差し込まれたような気分になった。 思えば桂と口喧嘩をして分が良かったことも少ないのに、毎回口車に乗せられてダメージを食らっている。 「なあ、銀時。護るものは今も昔も何一つ変わってないと聞いた高杉は、荒れているなんてものではなかったぞ」 その意味は知らないが。 薄く笑って付け加えた憎らしい幼馴染はもう振り返らなかった。酷い。我慢していた吐き気が一気に戻り、蹲って嘔吐する。 共に歩きたい。あまりに当たり前だった。なくなるなんて考えたこともなかった。 今となっては絶望的に遠く隔たっている。 桂は、自分が直視できないその果てしない距離を這いずることを恐れず、その背中は常に凍り付いたように前を向いている。 苦しくて遠ざけてしまう時があり、彼が言う夜明けを信じたい時もあった。 結果的に、自分は回りくどい方法で高杉を揺さぶり、桂に揺さぶり返された。どうせ高杉もそれを分かって、奴に言ったのだろうが。 「どうしようもねえなあ、俺達は……」 近くの青白い電灯が「そうだな」と瞬く。こんな時先生がいたら容赦なく拳骨が落ちてきて、その手当をしているうちにいつの間にか一緒にいたのになと思いながら、意識が途切れた。 ◆ ◇ ◆ 家に帰りつくとふわりと懐かしい匂いがした。花の蜜のような、あるいは澄んだ山水のような、透明で芳醇な香り。 それはあの人が時々客人と飲んだり、月を見ながら舐めてたりしていた酒の匂いだった。 戦が終わってから探しても江戸にはなかった萩の酒で、ただある時、何食わぬ顔で下の居酒屋の棚にひっそりと置かれているのを見つけた。「春風」と奴からは最も遠いのか、一周回って最も近いのか分からない名前を見たらいつの間にか飲み始め、無性に寂しい時にお猪口一杯分だけ舐めると、あの人の少し酔った時の声が聞こえる気がするのだった。 「よォ」 記憶とつながった柔らかい匂いの中心で、何事もないように高杉が手を挙げた。 見れば我が物顔でテーブルに一升瓶を置き、見慣れないグラスに酒を注いでいる。うちにそんな繊細なガラス細工があるはずもなく、わざわざ持ってきたらしい。 「良い酒が手に入ってな。飲もうぜ」 高杉が酒に口をつけると微かに春に立ち昇る何とも言えない甘さが漂う。指さされた一升瓶は紛れもなくあの酒だったが、日ごろ飲んでいるよりものより多い。 「うちは指名手配犯の休憩所じゃねえんだけど」 こんな時の高杉には何を言っても無駄だが、とりあえず嫌味は言いたい。 「どこぞの指名手配犯は時々雨宿りにも使っているらしいが、休憩所じゃなかったとは知らなかったなァ」 時々家に帰るとよく分からないところが濡れていた謎が解けた。 「とりあえずヅラは殴る。というか鍵は? 最近変えたばかりなんだけどよ」 鍵を変えたのも桂が突然飛び込んできて、沖田にバズーカをぶち込まれたなんて救えない理由だった。その分も殴ると心に決める。 「……そりゃあ、まあ」 小馬鹿にする時の笑いをこらえる仕草で高杉は机の上に針金を置く。複雑に折り曲げられたそれを見て、ため息をつくしかなかった。 なあ先生。書物は人生を豊かにしますって言ってたけど、こいつらは書物で得た知識で相当ろくでもなさを増してると思うよ。 「一度ヅラの家に行った方がいいぜ。五本くらいあったからなァ」 「それでテメーはくすねてきたってことだな」 「そうとも言うが」 どうでもいいことに時間と労力を惜しまないところも昔と変わらず厄介に過ぎる。 「……もういい、とりあえずそれは置いてけよ」 「あァ。もう必要ないからな」 「おい、どういう意味だ。まさかお前も作った? 作ったよね?」 高杉はにやりと悪い笑みだけをして素直に針金を渡してきた。それ以上この話を続ける気はないらしく、俺の分のグラスに並々と酒を注ぐ。 ふわりと、一瞬だけ笑っていた。 好きな酒を前にした時見せる、昔のままの笑みだった。 「ほい。きつねうどん、揚げ抜き」 空きっ腹のまま飲み続けようとするのを止め、唯一台所にあったうどんを作った。作り終わってから般若のような新八の顔が浮かんだが、自分も夕飯を食べていないわけで、その上高杉と日本酒という最悪の組み合わせが目の前にある中で、ダメージの軽減は不可欠だ。 「テメェ、潔く素うどんって言えよ」 文句を言ったくせに高杉はすぐさま手を合わせ「いただきます」と静かに言い、すぐに箸をつける。 少し前は軽いつまみすら口に入れない時も多かった。やはり同年代ということだろうか。 しばらく無言でうどんをすする。 「……うまいな、これ」 高杉がぼんやりと眺めながら呟く。そう言うと思った。 「だろ?」 先生の味を再現しようとしたやつだからな。 うどんを食べ終わって、酒を飲みながら昔話をした。 俺は全く覚えてなかったが、この酒は一度だけ戦場で飲んだことがあるらしい。飲んだ記憶がないと言うと、俺が戻る前に酔った辰馬が残りをラッパ飲みしたと聞かされる。 「あのバカは味も分からねえくせに」 その光景を思い出した高杉も苦い顔だった。 「きっちりシメたんだろうな」 「ああ。俺じゃなくてヅラだったけどなァ」 「……次会ったら殴ろうと思ってたけど止めとくわ」 普段は蕎麦以外の食べ物や酒に全くと言っていいほど執着がないくせに、突然氷の冷たさで激怒した桂にシメられた辰馬にはさすがに同情する。道理であいつが酒の名称を気にするわけだ。 「そういや、下のばあさんは、なかなかいい女だな」 「え、お前大丈夫? まさか殺伐とした日々を送りすぎてストライクゾーン変わった?」 辰馬の他にも、何人かの思い出を巡った後、手酌で飲み続けながら高杉が少し笑って言った。その笑みには危険さも悪意もなかったから、とりあえず思いついたことを返す。もちろん鼻で笑われた。 「そういう意味じゃねェよ。ばあさんは飲み下して、正しい選択をした」 俺達にはできなかった正しい選択を。 もう一つしかない見慣れた目が、遠くを見るような透明さでそう語った。 愛した男は戦で死に、庇われた幼馴染はその事実に圧し潰され、つい最近まで帰ってこなかった。お登勢の元に、かけがえなのない二人の男が同時に帰ってくる未来はなく、ただ失ったものを数えるだけの日々があったはずだ。 「―――ああ。すげえババアだと思ってるよ」 彼女はその悲しみを怨嗟に置き換えず、ただ悲しみとして飲み下し、乗り越えた。そうして新たな居場所までたった一人で作り上げた。 その正しい選択。 「ままならねェなァ。俺達は」 俺達はどうだったのだろう。近づいてくる高杉を待ちながらぼんやりと思う。 きっと全てを間違えたわけではなかった。とりあえず皆生きていて、それぞれに新しい居場所ができた。どうでもいい話をする時すらある。少なくともあの日、皆で墓を作った時には微塵も思い浮かばなかった未来にたどり着いた。 「―――なあ、高杉。お前、何するつもりなんだよ」 それでも、最も根が深い場所に俺達は間違いを隠している。触れられずに置き去りになった決定的な喪失。表面に現れたら破滅的である何か。 頬に添えられた手は温かい。高杉は答えなかった。 柔らかく、労わるように落ちてきた身体を受け止めると、あの酒と共に松下村塾に漂っていた木の匂いまで香った気がした。 今日の高杉は穏やかに過ぎた。 静かな寝息を立てる高杉に跨り刀を抜いた。首筋に刃を当てる。よく手入れされた高杉の刀は銀色に煌めいていた。 分かりたくないのに分かってしまう。昔話を口にし、思い出に浸り、穏やかに笑う高杉。 つまり準備が整ったのだ。俺が目を逸らし続けた致命的な間違いを決着させる準備が。 昔から高杉はそうだった。ありとあらゆる緻密な伏線を張り、気の遠くなるような作業を積み重ね、全ての手札が手元に揃った時には、あの人のような横顔で勝負に踏み込んでいく。 「……斬りてェか、銀時」 「もう一度聞くけど、高杉、お前何するつもり?」 「ただの国崩しだよ」 合図だったのだ。高杉からの。 終戦から十年。彼が全てを注いだ国崩しを始める合図。それは故郷の音と同じだった。 「テメェは斬っていいんだ。その刀を少し進めればいい」 高杉は真っ直ぐ俺の目を見て言った。 「そうしないと、テメーはこの世をぶっ壊すってか」 「それもある。だが、本当はどうでもいいんだ」 息継ぎをする胸元がゆっくりと上下した。この息の根を止めなければ、高杉は止まれないのか。本当にそれ以外に正しい選択はないのか。幾千回繰り返した問答だけが脳裏で繰り返された。 「……お前になら斬られてもいいと本当に思っている。だが、できれば今はやめてくれ」 「やらかすことを黙認しろと?」 「違ェな。お前はバカだから必ず舞台に上がるだろうよ」 ぐっと奴の腹に力が加わり、見せつけるように上半身が起きてくる。このまま刀を真横にかざし続けていれば、高杉はそのまま刃に首を埋めるだろう。 反射的に手を引いた。彼の首には傷一つつかない。 「お前を救いたい」 高杉は言った。昔、道場破りに来た時と全く同じように。 それはほとんど宣誓だった。これからの血生臭い全てのことの方が現実ではないような。 ぎり、と無防備だった鳩尾に拳がねじ込まれる。拳をひねられ、猛烈な痛みが襲い、少しでも痛みを逃がそうと腰が浮いた瞬間、蹴り飛ばされ、俺は襖を破って居間まで吹き飛んだ。 「高杉!」 追いかけても届かないことは分かっていた。次に会う時がどんな状況であるのかも。 「言い逃げかよ……」 正しい選択。その言葉がぐるぐると臓腑を抉っていった。 「あれが奴だ」 真っ青な空を斬るように、戦艦が進んできている。一片の迷いもなく、悠然と。 先生を斬った日と同じような澄み渡った青空で、あいつも同じことを考えている気がする。 ここまでの高杉の策は見事の一言だった。 替え玉と本物を見分ける無駄をせず、全てに勢力を振り分けた。同時に最初から高杉の本命は伊賀で、十中八九本物の将軍が来ると読んでいたはずだ。 奴は派手な戦をよくしたが、その前段の手間と労力は惜しまなかった。張り巡らされた策謀、最後の読み合いは勘を駆使する。言ったことはないが助けられたことの方が多かった。 高杉は本気だ。 夜兎を使って忍を抱き込み、囮を使うように泳がした。城でいくつかの暗殺未遂を起こさせ、将軍を堅牢な城から引きずり出した。その鮮やかな手際。 何よりも桂の不在。 こんな時だけ二人が何を話したか手に取るように分かる。不在、それは静観、あるいはもう一段階底があり、桂の策はこれから始まるのかもしれない。 とにかく、高杉は本当に全勢力をもって国崩しに打って出て、俺はその舞台にしっかりと立ってしまった。 救いたい、とあいつは言い、それは泣きたくなるほど嘘偽りがなかった。 要するにあいつは国崩しの暁にはと言っていて、成し遂げるために今ここに向かっている。それで俺が救われるという致命的な勘違いを抱えたまま。 「奴を止めてェなら」 先生。 俺達にとって正しい選択は何だった。 あんたを救って皆で戦場から帰ってバカやって生きていくには、どれだけの選択をやり直せばいいのか教えてくれよ。 「息の根を止めるしかねェ」 俺達はこれから殺し合う。 救いたいと願いながら。 ◆ ◇ ◆ うたた寝をして目覚めると炎が消えかかっていた。手近にある枝を数本入れるとすぐに復活したが、底冷えのする寒さに足が震える。 木々の狭間からは屑星が散らばった空が見え、周囲には何の気配もない。この世で二人きり。本当にそう思える静寂だった。 赤子は夜泣き一つせず、とろとろと眠っている。何重にも布でくるんだ赤子を抱きかかえると体温が直に伝わってきて暖かいのか、それを通り越して火の玉を抱いているのか分からなくなった。 二人きり。いやもしかしたら三人、あるいはもっと多いのかもしれない。 松陽であるかもしれず、虚であるかもしれないもの。 どうしても救いたかった人かもしれず、この世を滅ぼすかもしれない者かもしれない。 赤子の心音はとくとくと柔らかく鳴り続けている。その音とぬくもりを感じたら、どうしても殺せなかった。 「バカ二人は何してるんだろうなあ」 思えばあの二人の気配を全く感じないのはいつぶりだろう。 少なくとも戦後は離れていたというのに、首を糸で繋がれたように互いの葛藤と苦しみを感じていたように思う。泥濘の底に突き落とし合うような関係で、苦しむことの方が多く、冒涜し合い、殺し合いすらした。 今なら分かる。俺達はああしなければ生きてこられなかったのだと。 気配があることに安堵して、苛立って、傷つけ合いながら見張っていた。死なないように。あの人を踏み台にして生き残ったことに圧し潰されてしまわないように。 「なあ。松陽じゃないのかもしれないけど、松陽。お前の弟子は皆そろいもそろって悪党でろくでなしになっちまったんだけどさ」 彼らの不在が苦しいと思った。会いたいと思う。きっと意見が割れて、また騙し合いをするのだろうけど、それでも。 「あんたを救いたいと思って動いてるよ」 足は自然と松下村塾へ向いていた。何の因果か、昔攘夷戦争に向かうために通った道を、あっという間に歩けるようになった子どもと歩く。 ふと思い出すのは桂の作った握り飯のまずさだったり、皆で水に当たって苦しんだ時の腹の痛みだったり、街道の茶屋で休憩中に必ずした高杉との喧嘩のような、どうでもいいことばかりだった。 あの頃は先生を助けたい気持ちは本物だったけれど、俺達は戦の百分の一も想像できないガキで、地獄への行進を行楽のように進んでいったのだ。 今、その逆の道を行く。昔は地獄へ続いていた。今度はどこにつながるのだろう。 すぐ先に最後の、昔の俺達にとっては最初の難所だった、崖に穿たれた道が迫っていた。 |