の果て




とにかく強い香りを。
肉に染み付いた死臭ごと中和してしまうような、強烈な香りを求めて、ただ走る。

眼前に広がる草花のうち、少しでも丈が高く、色が濃く、強い匂いを持つものの方へ進路を変える。不思議なことに、こういう時、恐ろしく冷静になる。踏み荒らした花の中に先生が好んだものを見つけたり、血が目立つ沈丁花を慎重に避ける高杉を見て悲しくなったりと、命の瀬戸際というものは細かな部分にばかりが目に付くのだ。

前日の雨を吸い込んだ土はふわふわと柔らかい。水分を失った夏の土のように固くなく、乱暴に走っても梅雨時期のように水はねもしない。すぐ背後で高杉が舌打ちをした。ああ、俺もそう思う。
こんな土の日は絶好の悪戯日和だったはずなのに、今は綺麗に二人分の足跡を残す土が忌々しい。




日常行為と全く同じように、人死が繰り返されていた。一週間もすれば、誰が何日に死んだか思い出せないほど、それは頻繁かつ予兆もなく起こった。
今日だって、昨日となんら変わらぬ始まりだったのだ。相変わらず俺と辰馬が寝坊して、朝から高杉とヅラがどうでもいいことで言い合って、作戦内容を確認しながら拳を合わせる、何の変哲もない一日のはずだったのに、 夜の奇襲の下見を兼ねて俺と高杉が隊を抜けた瞬間に、襲撃を喰らい、この様だ。

「高杉ィ、俺達、やばいんじゃね?」
「無駄口叩いてねぇで走れよ。話せなくなるぜ」

二人相手に、襲撃してきたクソ野郎どもはざっと百を超えていた。その上、かなり強い種族が多く見える。援軍を期待しようにも、本隊から最も離れた瞬間を狙われて、合流以外に成す術がない。

「今どこ?」
「知るか」

何を今更、と言いたげな声に、どんどん力が失われていく気がする。
それもそのはずで、既に合流場所が書かれた地図なんぞは、巻くことは難しいと判断した段階で高杉が食い破った。俺は几帳面な文字が咀嚼される音を漫然と聞いていた。

力強く為すべきことをした血の気のない口元は、周囲にこびり付いた返り血との対比で不健康さを際立たせ、酸素が回らずに震え続けている。ろくに食べていない身体は、刀のための筋肉を残して薄くなっていき、目だけが異様な光を放つ。それはこいつものに違いないのに、地獄を這い回る鬼の目以外の何物でもなく、俺はそれがひたすらに悲しい。




足元には柔らかな黄色に染まったたんぽぽの群生が、疲れ目を嗤うように咲いていた。
同じようにぎらついた菜の花の横を素通りし、少し温い空気を吸い込む。自分達以外はどこまでも春。
全く人生のどこをどのように間違えれば、皆で愛したはずの春に、待ち焦がれていたはずの春に、虫けらのように追われる羽目になるのだろう。

体力が削り取られるごとに、戦場に相応しからぬ爽やかさで開ける思考が、自分で自分を嘲笑う。
花を愛で、芸術に愛された人生を送るはずの男が、何故こんな目に遭うのだったか。自分の手だけが汚れていた時、確かに俺は虚しいと思い、心のどこかで最低な解放を望んでいたはずなのに、いざ血みどろの友と心中しそうになれば、綺麗なままで萩の何処かで生きていてくれれば、自分は二度と会えずに野垂れ死んだ方がよかったなんぞと思えてくる。 しかし、全てはもう遅い。


悔しいとか無力感とか敗北感を超えて、ただ嫌だった。己に厳しい高杉が仲間を護るために狂気を無理やり飲み下す様も、おせっかいで世話好きなだけでいればよかった桂の冷酷な顔を見るのも、坂本の目に自分と同じ苦しみを見つけるのも。

「桜の下にて春死なんって言葉があるじゃねェか」
くだらないことを考えていたら、高杉の声が割り込んできた。足だけは止めずに耳を澄ます。
「お前、好きだよな」
「今嫌いになった。平和な時代に畳で死んだ幸せモンの戯言だ」
高杉は疲れを口元に乗せて断言した。
「桜の下で死にたがる奴は多いが、本当に死んじまうのは、絶対にそこでは死にたくなかった奴なんだ。惨たらしいモンを糧にするから桜は美しい。……参るぜ」
「へっ……鬼の総督が弱気じゃねーか」
「ぬかせ」
双方にやりと笑みを交わしたが、それが空元気であると分かっている。
しかし口には出さずとも、見慣れた顔が不敵に笑っているだけで、最悪の決断から思考を逸らせる。

「………いるな」
絶えず太陽を眺めながら方角を変える高杉の声が急に冷えた。
「待ち伏せ?」
一応はぐらかしてみたが、高杉は間髪を入れず更に冷たく低い声で呟いた。「内通者」
「あー……、ちっとタイミング良すぎるよなぁ」
「テメーはどうしてそう能天気なんだよ。明らかに狙われてんのは俺達の首だろうが!」

言われるまでもなく、おかしすぎるくらいおかしかった。
斥候を襲撃することは定石であり、だからこそ腕の立つ者が行くのだ。しかし、襲撃するにしても、少人数かつどこにいるか分からない斥候相手に大規模な兵力は割かない。罠や見張りで対応するのが常識だ。
偵察の場所が厄介だったから白夜叉と鬼兵隊総督が出た日に、本隊から最も離れるタイミングで2個小隊以上を投入する。事前に情報を得ていなければ、割に合わない馬鹿な作戦だった。

「参ったね。そんな恨まれてるとか思いたくねーんだけど」
俺の失敗した苦笑いを見もせず、高杉は高い空をぼんやりと眺めながら、口元を歪ませた。
まただ、と思う。夏の葉の色の双眸に、仄暗い色が混じる。
「死んでも生きるぞ。本隊まで戻って、裏切りやがったクソを見つける。そうしなきゃ負けるんだ」
売られた現実よりも、殺意よりも冷え切った何かが高杉を取り巻くこの瞬間を生み出したことが、憎くてたまらなかった。






高杉が敵との距離を正確に知りたいと言ってきたので、手近な木の上に登り、距離と敵が隊を前後に二分したと教える。
木から飛び降り、高杉に追いついた時には、既に計略はまとまっていた。
「とりあえず半分殲滅する。崖の上に立って下に手を伸ばし、てめえの手にしがみつく俺を引き上げられるか」
言われた内容は計略というには無謀に過ぎるものだったが、彼が言い出したのならば勝算はある。
「両手でしがみつければな」
「片手じゃ無理か?刀を戻す時間はねェんだが」
「ああ、無理だね。片手で刀の重さがあれば、俺が落ちなきゃ引き上げられねェ。それに身体に一発でも銃弾を喰らったら持ちこたえられない」
「分かった」
彼がわずかな勝算を策に練るならば、俺のするべきことは高杉が分からない身体感覚を教えて策の成功率を上げることだ。
「じゃあ刀は始めにテメェに預ける。その辺に置いときゃいいだろ。俺は脇差で斬ってすぐに捨てる。これなら両手で行けるな?」
高杉は素直に頷き、すぐに修正案を言った。
「多分な」
「オイしっかりしろよ。失敗したら二人揃ってお陀仏だぜ」
危機的なことを言いながら、高杉は茶化すように笑う。だから俺も言った。
「大丈夫。俺は崖の上担当だから」
「つれねェな」
そうやって伸ばされた手を掴むためについて来たとは言わないが。



峡谷にかかったつり橋を見るたびに、なぜもっと頑丈なものを造らないのだろうといつも思う。
下は落ちれば確実に昇天できる高さ、谷底に流れる川は水よりも突き出た岩の方が目立つ始末なのに、粗末な木と植物で造られたつり橋しかないのはどういう了見なのか。まぁ田舎の爺さん婆さんが使う分には全く問題はないのだろうが。

「いたぞ!!殺せ!!」
俺と高杉が敵に追いつかれたのはつり橋の半ばを過ぎた頃だった。端までは平地全速力で走っても20数秒はかかる。だが、今は何秒あっても足りず、何秒あっても多すぎる。
「大4、中5、後ろから特大、今入った2、全員銃」
先頭を走りながら、背後の高杉の影の人数を報告する。高杉は無表情だ。
「中3、高杉右に一歩避けろ!」
高杉が避けた瞬間、その空間に銃弾が埋まる。狙いは正確。―――正確でなければならないのだ。
「よし、行け!!」
目まぐるしく回転しているであろう脳内を写して鋭く光っていた双眸が細められ、高杉が小声で怒鳴った途端、俺は速度を上げた。走りながら距離を詰めていたおかげで、すぐに岸にたどり着く。


―――銃声。


「高杉っ!!!」
もう5歩のところで、高杉が体勢を大きく崩した。顔は苦痛に歪み、腰に手を当ててよろよろと膝を付く高杉。動揺した俺と、敵の先頭の奴の目が合う。見る間でもなく嬉々として獲物に駆け寄り、引き裂こうという残忍な目だ。
「今だ!!観念しろ、猿ども!!」
背後にいた連中も色めきたち、更にでかい天人が橋に足を掛けた。その瞬間、高杉の口元にどこか甘い笑みが浮かぶ。

―――テメェらがなァ?」

桜の花が無造作に中空を舞うように、大きく踏み込んだ高杉が振り回した脇差の軌跡は、橋を支える蔓を気まぐれに断ったようにすら見えた。ぐらりと植物のひ弱な橋が大きく歪み、高杉がこよなく愛していた脇差が谷底に消える。
石ころのように落ちていく天人を背景に、俺に手を伸ばす高杉は、淡い色合いが混ざった空を切り裂くように目立ち、陽の加減で金色に輝いて見えた。






死ぬ思いで高杉を引きずり上げてから、休む間もなく山肌の獣道に踊りこむ。もはや走っているのか、落ちているのか、分からなくなってきた。
作戦が功を奏して、奇襲をかけてきた敵の半分は谷底に退場してもらえたが、運よく崖上に残った指揮官らしき天人が鳴らした笛の音は、まさにこちらの首を掻き切ろうとする音だった。


もう同じ手は使えない。俺が橋に登ってきた天人の重さに当たりをつけて教え、どう計算したのか橋が耐えうる限界に達するまで高杉が数えた。銃は高杉の私物で、俺が背後から見えないように撃ち、高杉はその音に合わせて倒れて見せた。天人の軍は銃を大量に持っていたが、それなりの腕がなければ、橋を支えるロープを切断しかねない状況ではむやみに発砲できない。だからこそ、銃声と倒れた獲物を見て、自分達の中の誰かが傷をつけたと油断したのだ。


「大丈夫だ!多分、このまま滑り降りて西にしばらく行けば合流地点、達すれば俺達の勝ちだ!」
いくつか腕に切り傷を作りながら鋭く天を向く雑草を掻き分ける高杉が、俺の弱気を鋭く突くタイミングで叫んだ。
「根拠は?」
「俺の勘だ!」
「そりゃ頼もしいね!」

男の勘なんて最高に当てにならないものの一つだが、現金なもので生き残れるかもしれないと思うと途端に力が湧いてくる。

「テメェは頼もしくねえけどな」
「馬鹿言ってんじゃないよ。護るっつーの」
「俺が、テメェを護るんだろう?」


目だけは懸命にぎょろぎょろと動かしながら、恐怖を覆い隠すための会話だけをする。
泥水を踏み抜いたのか、高杉の横顔は茶色に汚れ、無意識に引き抜いた雑草の欠片が手に纏わりついている。全く邪魔なペンペン草も、草部分が罠のように足を取ってくる蒲公英も、よく分からない虫の棲家になっているらしい倒木も全て消えてしまえばいいのに。
滑り落ちるたびに泥が下穿きにまで無遠慮に入り込み、拳サイズの石が飛び上がってきて頬を切り、草のむわっとした空気が乾いた喉をふさいで、春なんてろくなもんじゃない、あらゆる生物が息吹を主張する空気は、弱った者には辛すぎる。

獣道が果て、砂利道に変わった瞬間はざらついた感触がもろに足を直撃し、縺れるように方向を変えた。所々草が生えている他は、粒の揃った砂が白く輝いていて、左右に広がる山の色彩を綺麗に写し取っている。後、数歩だ。後一息、あの砂利が途切れる先にたどり着けば、俺達は春に勝つ。
高杉が先に飛び込み、ほとんど同時に俺もその光景を見た。





薄桜一色だった。空間全体が桜色に染まってしまうほどの花が、知覚出来ないほど弱い風に煽られて、散っていく。昔先生が描いた絵のように、薄い色合いのところは桜色、少し濃い部分は赤が入った薄紅と見事としか言いようがないぼやけた輪郭で桜が佇む。
まさにそこは、合流地点、桜道だ。目前には河があり水分補給に事欠かず、高台にある陣の土は乾いて足場がよく、背後の山は急で奇襲に向かず、左右の桜は生き物の潜伏を許さない。


―――その大河が、俺達の目の前になければな。


視界全体を覆いつくす生涯何度見られるか分からない美しい桜の中央に、桂の蒼白な顔がある。

「銀時ィ。男の勘は駄目だな、女にゃ敵わねェ」
高杉も桜と桂を食い入るように見つめながら、乾いた笑いを漏らした。ほんと、笑うしかねえよな。

この体力で渡ったら確実に死ぬ大河の向こうで、ヅラが「すぐに浅瀬を渡る!耐えろ!!」と叫び、仲間を引き連れて走り出したのが見える。

「高杉君。ヅラ君はどれくらいで来ると思う?」
「ヅラは足が速いからな。あいつらと戦って4半時足らず持たせればいいんだろうよ」
「限りなく4半時に近いくらいな」
「そういうことさ」

高杉が刀を抜き、乱暴に血を拭った。
その刃にも対岸の桜と、既に全員集合してしまった化け物どもが映っている。

「高杉、こういう美しいもんとグロいもんの合わせっていい句になるんじゃねえの?」
「やめとけよ。辞世の句になっちまうぜ」
「だな」


高杉が、あの桜に吸い取られた連中の力を借りようぜ、と怒鳴り、敵陣に飛び込んだ。
背中に張り付きながら俺もそう思う。―――ここは春の果てだ。クソみたいに、綺麗な春だ。



糧になってなんかやるもんかよ!