最初から惹かれたのでは断じてない。気がついた時には、相手が自分の存在意義にまで根を張り、手が届くのは互いしかいなくなっていた。だからこそあの男が過去を完全に閉じてしまえば死んでしまうと恐れ、ならば事実を目前に突きつけて憎まれてやると考えてしまった愚か者が、勝手に自分が足を引いた相手を忘れられないなどと言い訳を創造して、忘れたい忘れる気もないと矛盾ばかりを唱え続ける。それでも、とうの昔に狂ってしまいたかったというのに、不毛なやり取りに膿むような正常な神経が少しだけ残っているものだから、自己防衛本能の一環として誰かに痛みを押し付けて、相手の恨みを身に受けて磨り減っていく。なんと虚しい。









だ が 、 き っ と そ の 痛 み だ け が 、 俺 達 に 許 さ れ た 最 後 の 、








「白夜叉さんは、高杉さんの太陽なのかな?」

部屋を満たしていた旋律が止まった。静かに三味線を奏でていた万斉の手が止まり、跳ね上がった弦が指に紅い筋を残す。闖入者には容赦なく冷たい視線が注がれるが、それを気にするような人間は、そもそも高杉の自室に飛び込んできたりはしない。神威もその数少ない命知らずの一人だった。

「いきなり飛び込んできて、酒がまずくなることを言うんじゃねェ」
三味線を愛でながら酒を食らっていた高杉は、不機嫌に吐き捨て、右手を振った。その仕草が退出命令であることを知っている万斉は、溜息をついて立ち上がる。
「悪いけど、俺にも酒を持ってきてよ」
「……承知した」
一度も目を合わせてこなかった男が襖の向こうに消えたのを見て、神威は部屋を横切る。

「酒が来ないことなんぞ分かっているだろうに」
すぐに自分の隣に座り込んだ神威とは目を合わせず、高杉は猪口の中身を飲み干す。万斉が神威がいる間に戻ってくることはない。気配を消したまま、襖の前に座り込んでいるのだろう。(憐れな、)

「あはは。この船の人たちは、高杉さんにしか懐かないからね」
「テメェが嫌われてるだけだ」
「酷いなぁ。折角高杉さんが喜ぶだろうと思って来たのに」

しょんぼりしたかのように神威が俯くと、鬼神の性質にそぐわぬ桃色の三つ編みが揺れる。この男の髪は、高杉が知るもう一人の色とは少し異なり、桜の花弁の根元に近い色だ。いつか浴び続ける血の色に染められて、赤くなっていくのかと思いきや、初めて会ったときから変わらない色。
色素の薄い髪は嫌いだ。全くの白ではなく、薄っすらと他の輝きを乗せたあの髪ばかりがチラついてしまう。三つ編みも嫌いだ。編み込みなど出来ないくらい曲がりくねっていた髪を思い出してしまう。


「いろいろ、面白いことがあったんだよ?」
高杉よりも小柄な神威が、肩に寄りかかる仕草は甘えているような光景に見える。
だがその実、肩にかけられる力は恐ろしく強く、それでいて的確に骨と骨が当たるような角度で押し付けられているものだから、高杉には疼くような痛みが絶え間なく与えられている。人間の力の限界を示し、からかっているのだと分かっているから意地でも声など上げられない。

「高杉さんは、人を酔わせる匂いがするね」
神威の手が頬に触れ、もう片方の手で髪をいじられれば、このまま縊り殺されるような圧迫感。それは気のせいなどではない。


春雨第七師団団長の神威が鬼兵隊総督である高杉を訪ねてきた日は、高杉の記憶に恐れとして刻まれている。いや、その瞬間と言うべきか。挨拶より前に突然右目一杯に広がった銃口。それが火を噴くまでには、一秒もなかった。
その一撃を本能的にかわした次の瞬間には、傘が鋭い弧を描いて襲い掛かる。―――それは、恐ろしい光景だった。ほんの一瞬でも判断が遅れたら首が切られたことではなく、その軌跡があまりに鋭く美しかったことが恐ろしかった。あんな軌跡は白夜叉だけのものなのに。

そして、皮肉にも攻撃が、高杉が焦がれる彼の人のそれに恐ろしく似ていたからこそ、高杉の刀は彼の命を繋いだ。それ以後、神威は何かと用事を作っては会いに来る。「貴方は、俺以外の誰かと戦ってた。だから死ななかった。―――ムカつくからね」。果てしない暴力と情動と共に。


「酒の匂いだろう」
だが、そんな圧迫感にいちいち怯えているようでは、白夜叉と共になど戦えない。高杉はすげなく言葉を切り捨て、身をかわす。
「違うよ。そんなお上品なモンじゃない。もっと野蛮で、淫靡で、少しだけ綺麗な匂いだ」
夜兎の手が、高杉の髪を絡め、するりと逃れるそれを撫で梳く。攻防が、続く。

「神威」

成すがままになっていた高杉が、初めて目をあわせ、静かに言った。


「俺に触れるな」


高杉は、神威の乱暴な手を積極的に好いてもいないが、嫌いではなかった。だから彼の手が明確な殺意を持っていた場合だけは、底知れぬ恐怖を感じ抵抗するが、今のように戯れているだけの時は成すがままになっておく。彼の言葉ごときで高杉の基盤は侵食などされないし、少なくとも夜の重さを忘れる手助け程度にはなるからだ。
普段なら流されるはずの高杉に振り払われた神威は、更に笑いを深くした。

「……今日はそんな気分じゃねェ。それより、ご活躍だったそうじゃねェか。その話を聞かせろよ」
「もちろん、高杉さんのお望み通りに」
軽く手の甲に唇を寄せたが、触れるか触れないかのうちにまた払われた。
今日の貴方はおかしいね、高杉さん。まるで、俺に捕らわれないように必死で逃げている娘さんみたいだ。普段なら矮小で脆弱な人間の分際で、まるで相手にしていないくせにね。神威は口には出さず、そう呟く。ああ、来てよかった。

「うちの駄目な夜王が倒されて、吉原には太陽が出て、俺が何故かあの町を手に入れたってだけだよ」
神威は心底どうでもいいという口調で言った。
「あの化け物も女の色香には敵わなかったってわけかィ。いっそのことテメーも女に入れ込んで自滅しちまえばいいのになァ」
喉の奥で絡みつく笑いを発しながら、高杉が煙管を咥える。その手は少し震えている。
「日輪は確かにいい女だったよ。どちらかといえば、月詠の方が好みかな。どことなく貴方に似てるしね」
「だからテメーはガキなんだよ。俺なんぞに例えられたら、月も太陽も不幸すぎる」
「謙遜なんて貴方らしくない」
ずいと神威が距離を詰め、息が高杉の髪を揺らすほどに顔を近づけた。耳元で囁く。
―――でも、貴方は太陽でも月でもないね。もっと惨めで無様で酷くて」
高杉は眉を寄せ、黙って垂れ流される言葉を受け流す。お前などに言われなくても、「太陽」はたった一つだ。「月たち」は当の昔に死んでしまった。

「例えるなら、日蝕かな。太陽も月も手に入れられなかったんだよね?だから黒く染め上げようとする」

(そんな貴方には、苦しみに歪んだ無様な顔がよく似合う)

二人の目が合わさった瞬間、高杉の刀が鞘から躍り出て、神威の首筋に襲い掛かった。否、襲いかかろうとしただけで、実際には神威が高杉の右手を押さえる方が早かったため、首に触れることはない。

「………離せよ」
「やだ。キスしていい?」
「死ね」
「じゃあ、ヤらせて?」
「触れるな、と言ったのを忘れたか」
「覚えてるよ。だから、抱きたいんだ」

神威がいつもの穏やかな笑顔になった瞬間、高杉は猛然と抵抗した。顎を蹴り上げ、神威の目を狙って指を走らす。冗談じゃない。奴と戦った後の男に犯されるなど。
決まれば眼球を抉りかねない攻撃だが、勿論神威が食らうはずもない。高杉の右手を拘束したまま、襲い来る左手も力任せに掴む。そのまま口を塞いでやろうと引き寄せたら、不意に高杉の頭が消えた。

恐ろしい反射神経で軌道をずらし、高杉はあらん限りの力で神威の首筋に歯を突き立てる。
強靭な肉体を持つ夜兎の最高峰に刀を取られた以上勝ち目はない。それでも成された最後の抵抗。さすがの神威も顔を歪め、ぶつりと自分の皮膚が食いちぎられる音を不快に思いながら聞いた。

その間にも高杉は腹に蹴りをお見舞いしてくるし、隙あらば右手を解放しようとしている。
彼のこんなところが好きだ。もう彼らを惨殺した者達の物に成り果てた世界で、その弱い力でなお食い下がってやろうという無謀さが好きだと神威は思う。もう誰にも必要とされなくなった英雄が、憎しみの焔を滾らせ、可哀想に這いずり回る無様さに惹かれて止まない。戦うことを忘れた連中よりずっといいし、そして何よりその表情が嗜虐的な欲情を誘う。

「いつもはこの辺で諦めてくれるのに、機嫌が悪いね。どうして?」
そう言って神威が少し力を入れれば、必死の抵抗を続ける身体をあっさりと組み伏せることが出来る。酒の匂いを立ち昇らせ、怒りで頬を赤らめて。食いしばった歯と歯の隙間を血が流れる。つうっと、赤が、流れて、落ちる。


「今日の俺には白夜叉の臭いがするから?」


獲物がまた牙を剥く前にと、神威は素早く高杉の口を塞ぐ。乱暴に舌を突き入れて、かき回してやれば、噛み付かれるかと思いきや意外に素直に舌が絡められた。

「やっとその気になってくれたんだ。やっぱり大人はキスが上手いね」

口を離した一瞬に、高杉にかけられた言葉には、明らかに揶揄が含まれていた。
そんなことは断じてない、と声を限りに反論したいが、しつこい接吻が続いている以上叶わない。こんな無礼なガキの舌など噛み切ってやりたいが、噛んでしまえば血が流れ込んでしまう。今の高杉には、それは最も恐ろしいことだった。

甘い酒の匂いが喉の奥から溢れる。乱れた吐息が互いの髪を揺らせば、意識せずとも、高杉の五感は常夜の吉原に舞った夜叉を感じてしまう。その上、彼と――否、夜王を倒した銀時と空間を同じくした男の血をこれ以上食らったら、どうなるか。

せめて顔を見るまいと目を閉じた高杉の瞼を、熱い舌がまさぐる。降り注ぐ声は、在り得ない低さで、

「白夜叉は、綺麗だったよ。うちの夜王を倒すような鬼で、鋭くて、貴方が捕らわれるのも分かるね」
「………ハッ、……テメェごときに、あいつの何が分かるよ」
組み敷かれ、指の一本も動かせないまま、それでも高杉は不敵に笑っていた。神威もつられて笑う。
「分からないから知りたいんだよ。なんで高杉さんみたいな強い人が、一人の人間から逃げられないのか、とか。あの剣筋はどうやって生まれたのか、とか。どうやってうちの妹を腑抜けにしてくれたのか、とか。あの人の瞳の奥に潜む憎しみの根源は何か、とか。貴方が、どうして戻らない白夜叉の残滓だけで、駄目になっちゃうのか、とかね」

するりと帯が解かれ、冷気が直接高杉の肌に触れた。神威の手が肌をまさぐる。自分でも情けないことに、それほど上手くもない愛撫で息が乱れるのを止められない。

この手が、銀時と戦ったのだ。この目が銀時をからかい、殺戮を思い出させ、俺達の思い出を呼び起こした。銀時の開かれた過去の傷跡から、生々しい彼の思いが伝わって、振りほどけない。

「ねえ、貴方の太陽は白夜叉? 吉原の女達のように、全てを失って、勝ち目のない反逆を続ける元英雄の足が折れないのは、あの人がいるから?」

この心を抉り取ってもらえるとしたらどんなにいいだろう。夜兎の力をもってしても、望みのない帰還を待ち望んでしまう心を潰すことなど出来はしない。嗚呼、どうして忘れられようか。銀時に始めてあった日にかけられた飛び蹴りも、書初め一つで大喧嘩した日も、戦いを誓った日も、共に泣いた熱も、背中を預けた高揚感も、全て全て覚えているというのに。

忘れさせてやると皆言う。高杉に惹かれた者達は、皆。忘れさせてほしいと心底思い、そして忘れる気など毛頭ない。矛盾と嘘で塗りたくられた日々に、真実はあいつしかいない。だから、嘘同士で慰めあえる桂が必要なのかもしれない。


記憶の断片を忘れてしまいたい。(全ての断片を思い出して抱え込みたい)
彼に焦がれ磨耗していく無様な姿から救ってほしい。(本当は永遠に救われたくない)
日常のいたる処に彼の残り香を見つける日々などもう嫌だ。(それが感じられなくなったら、仕舞いだ)


「……あ、いつは、俺達の太陽なんかじゃねェよ。強いて言えば、俺と同じ屑星さ。たった一つの太陽を落とされた後に、弱弱しい力で抵抗してみせる、屑星の一つ」

だからこそ、いなくなっては生きていけないなど、こいつには死んでも教えない。

「ふーん。じゃあ、あの人を殺しても、貴方の存在意義は揺るがないってこと?」

真逆のことを言った神威を、高杉は笑い飛ばそうとした。だが、自分の引き攣った頬が言うことを聞かない。 そうであればよかった、と心の底で嘆く声。もう遅い、と満足げに笑う声。どちらも真実で、どちらも選べないから苦しい。
それでも、高杉はその身を引き裂く痛みを肯定してはいけない。自分の存在を賭けて。

未練ばかりの男に残された術は、ただ一つ。

「さァな。確かなのは、テメェごときに銀時は殺れねェよ。俺の存在を賭けて誓ってやってもいいぜ」

こうして、傷に触れる者たちを突き放し、その蹂躙を許すこと。
神威の目に怒りがよぎり、拳が握られる。高杉は倦怠と憐れみをもって、ただそれが振り下ろされるのを待つ。―――全てが終わる時は必ず殺そう、と思いながら。白夜叉に抉られる痛みに比べたら、この世の全ては素通りに等しい。






◆ ◇ ◆






境界線の先の気配が変わった。すぐさま立ち上がって殴りこみたい衝動をこらえ、万斉は目を閉じる。
気が狂うまでは耐えろ。彼は唱える。 高杉の痛みに比べたら、自分がここで情事の音を聞くことなど、どれほどのものであろうか。


「………っはぁ、…やめ、」


万斉には、もはや意識を部屋に集中するべきかせざるべきかも分からなくなっていた。日頃は襖という境界線は、記号的に音を遮断してくれる。その状態に精神を騙すのはそれほど難しくはなく、万斉の痛みもある程度は薄らぐはずなのに、嬌声が耳に飛び込んできて離れない。

いつものことだった。神威が来た時、万斉は部屋を追い出された後、必ず襖に張り付いていることは。暴走した神威を止められるわけもないが、それでも知らないうちに高杉を奪われるなど耐えられない。
(そして、高杉や桂や坂田のように、地を這う存在になることを想像するだけで気が狂いそうになる)

神威が気づかぬはずもなく、高杉は何も言わない。ただ、本当に時々酷く優しい顔で万斉を見る。その労わりが、万斉の惨めな心を貫く。

「万斉」

呼ばれて顔を上げると、また子が少し泣きそうな顔で立っていた。こんなところに来ていい事は何もないだろうに。馬鹿なと思うが、自分の方が馬鹿であることも分かっているので何も言わない。願わくば、彼女はこの鎖を断ち切って幸福に溺れていけばいいのに、と思う。
「部屋に戻らないんスか」
そう促しながらも、また子は万斉の隣に腰を下ろす。
「お主こそ、戻らないのか」
「寝れないっス」
「拙者もでござる。後で、晩酌でも?」
同意を篭めて、二人の視線が合った。廊下には、愛する者が蹂躙される様をただ聞くことしか出来ない敗者二人の自嘲が溢れ、部屋の中からは、不埒で不実な水音が相変わらず洩れている。

二人は知っている。晩酌で飲み交わす酒は、酒などではないことを。二人は受け入れるしかない。高杉が身体を犠牲にして、鬼兵隊全員を守っていることを。そして、自分達の力では神威に対抗など決して出来ないことを。


情欲の空気が高まっていく。同時に、心は否応なく冷える。


「お主がいてくれなかったら、気が狂う」
万斉はそう言って、また子の小指に自分の指を絡めた。
「人は簡単に狂えない」
「そうでござるな」
どうして、自分達は高杉にそう言えないのだろう。震える小指も、鳥肌が立った腕も、噛みすぎて血が滲んだ唇も、乾きすぎて涙すら滲まない瞳も全てその厳粛な事実を知っているというのに。あの聡明な男が最も間違っている事実を突きつけてやらないのだろう。


「………はっ、ああっぁ……!ああっ!」


彼に惹かれてしまう心を消し去ってくれるとしたら、なんでもする。本気でそう思う。だが、願いが叶うことによって、自分の存在が崩れてしまう願いを祈る度胸はない。

自分達は、神威が帰った後、寝るだろう。力なく気を失っている高杉を清めた後、「晩酌」として、互いの身体を貪るのだろう。そうでなければ、この冷えた体温を取り戻すことなど不可能だ。

目を閉じず、ただ唇だけを合わせる。目を閉じあうような関係ではない。
ただ、同じ痛みを共有する者として、肌を合わせるだけだ。まだ人間でいるために。


(きっと、白夜叉が、桂が、晋助を離す日などは来ない)


恋愛感情もなく、熱源を追うことで自己を保つような生ぬるい関係はあまりに楽すぎて人を溺れさせる。自分達も、本当は奴らとたいして変わらぬ。恐らくは、自分よりも強かで柔軟な彼女は、最後の最後で自分を煉獄に置き捨てていけるだろうけれども。




高杉の声が最大限に高まった。この地獄の一場面の幕切れがようやく来る。場面がいくつあるのかは知らない。



「あっ、ぁあああっ……っ!………ぎ、…ぎんと、……!」



最後は、殴打の音で消えた。万斉とまた子は、もう一度、乾いた唇を舐めあった。










忘却とは努力行為である。会わない見ない聞かない触れない。「ない」尽くしで否定し尽くせば、忘れてしまうことは可能なのだろうか。この首に絡みつく歪で惨めで甘い感情を。
それも、仮説を実行できればの話ではあるのだけれど。




高杉の「月」は、攘夷戦争で散った同志。自分達も最初は月であったのかも知れないけれど、汚濁に塗れて堕ちたと思っている。