―――生きるためには彼を斬れ。
美しくあること以外になんとかこの世を生き抜く慰めがないのなら、愚かと嗤って永遠を追うがよい。
残酷にして寛大な今が唯一の美を腐らせようとするならば、美が死ぬ絶望に喰われる前に勝手に自分を救うがよい。

―――救われるためには綺麗なさようならを。
思いつくわけがなかろうよ、嗚呼、誰か助けてなんて死んでも言うものか!  

































見慣れた着流しの柄が雲一つない空とゆるやかに交差していた。ベランダの手すりはここ最近誰も掃除をしていないのに、きらきらと光の乱反射を描く。空は抜けるように高く、きっと今日のような日なら宇宙と地球の狭間は薄皮一枚にも満たないに違いない。
蝉の声、何処からともなく聞こえる遣り水の音、確かに暑いがからっと爽やかな夏の匂いがする。

短時間で乾いた銀時の着流しを太陽に翳すと、青と青が重なって柔らかな色合いの夏が生まれる。
世界は鮮やかな色に満ち満ちていた。その世界に生きる一人として新八は笑いながら遠く伸びゆく空を眺める。世界は何処までも美しく、誰にでも優しいような気がした。





「ごめんくださーい。桂ですけどー」


玄関先から聞こえた声の持ち主の無意味に暑苦しい髪を思い出し、なんか気温上がった気がするなあと失礼なことを考えながら、新八は玄関の扉を開ける。
予想通り万年暑苦しい髪をたたえた、よくわからないが常にうざい男と名高い桂小太郎が機嫌良く笑っていた。

「こんにちは、桂さん。えっと銀さんなら仕事もせずに出てますよ」
「ああいいんだ。今は銀時に用があるのではなくてな。………時にリーダーもいるのか?」
新八が答えるより先に奥から神楽の声とぱたぱたと廊下を駆ける足音が二人の耳に届いた。桂が嬉しそうに顔を綻ばせる。今日は本当に機嫌がいいらしい。
銀時は桂が機嫌がいい時ほどろくなことはない、と断言するが桂が嬉しそうに微笑んでいると、辺りの空気は格段に暖かくなると新八は思う。
桂さんが幸せで笑える日が来れば、きっと銀さんは誰よりも嬉しい。
「ヅラー!久しぶりネ!」
「元気そうでなによりだ。金のない銀時が夏だからと素麺ばかり食わせているのではと心配でな」
「それは外れてませんよ。というか今冷蔵庫の中にはアイスと素麺とかまぼこしかないですし」
「銀ちゃんは二日連続で飲んだくれだけどな」
桂は呆れた溜息をついた。もはや笑うしかない。
「……すまぬ。今日は俺と高杉と飲むから三日連続だ…」
「「いい加減にしろよ、駄目人間」」
「待て待て。どうせあの天パーのことだからと用心して、土産を持ってきたんだ」
綺麗に声をそろえた二人に冷たい視線を浴びた桂は、手荷物を二人の前に出した。


「わぁ、綺麗!」
全員で居間に移動し、一番上に積まれていた箱を開けた神楽が歓声を上げた。
「だろう?これは気に入ってもらえると思っていたんだ」
満足げに笑った桂が神楽の頭を撫でる。普段なら子供扱いをするなと足蹴りが飛ぶ行為であるが、箱の中身に視線を奪われていた神楽はなすがままだ。
「確かにすごい飴細工ですね……」
「アメ…何?」
「うん、飴細工って言ってね。飴に熱を加えて、溶けかけたところを捻ったり切ったりして好きな形を作るんだよ。これだと、動物とか花とかあるでしょ?それにしてもすごいな、これ。名工の作品ですか?」
慎重な手付きで新八は一つの飴細工を手に取る。紅の花弁が幾重にも重なり、柔らかな曲線が優美な風合いを醸し出す花。瞳が吸い込まれてしまうのではないかと思うほど美しい。
「かなりの腕前のはずだぞ。二人とも、銀時が帰ってくるまでにじっくり見ておくといい。ちゃんと冷蔵庫に入れてな。あいつは芸術性に乏しいからすぐにかじりつくに決まっている」
「これ、食べれるアルカ?」
「勿論だ。もともとは飴だからな」
「綺麗だからそのまま取っときたいヨ!」
「リーダーからその言葉を聞けただけで、飴も本望だろうよ。まあ……」
美は儚いものだがな。
「なんです?」
「いや何でもない。それから一番下に小さな箱があるだろう。それは銀時へのものだから、奴に会ったら開けてくれ」

言われずとも、二人の視線は万華鏡のような輝きを放つ飴細工に収斂されていて動かなかった。
桂は慈愛に満ちた目だけで微笑み、万事屋を辞した。普段なら聞こえるはずの足音はない。
















波紋の軌道を目で追う間に、自分達はジグゾーパズルに似ていると思った。四者それぞれが四隅から自らの色をボードに描く。その腐敗した境界線同士が混ざり合い、曖昧で整然とした文様が踊る。
我ながら上手いことを考えた、と高杉は胸を狙った突きを避けながら少し笑う。俺達は永久に完成しないジグゾーパズルだ。もし完成するのなら、自分は今の突きで死んでいなければならない。

突きをかわした高杉の姿勢は否応なしに崩れたが、すかさず桂の助太刀が入る。まったく全てが未完成だ。文様の中心を彩る白夜叉は、俺達を抉るだけの力は持つ虚像であるけれど、パズルを完成させる実像ではない。彼が実像を取らないからこちらも徐々に曖昧になっていく。虚像もまた生者を侵食するのだ。
「高杉!手が止まってるぞ!」
「わかってらァ」
正眼に構えを正した高杉の瞳に冷ややかで真剣な殺気が篭る。


「いい加減、俺達を解放しろよ。―――白夜叉」


視線は共に戦場を駆け抜けたのと同じ速度で、深い紅を宿した相貌に突き刺さる。
自らの名を呼ばれた男は素早く桂の刀を振り払い、酷薄に嗤った。


「そりゃあ、テメーらに散々追い回された俺の台詞じゃねーの?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
桂の沈鬱な声が三人の狭間に流れた。個々の事象がそれぞれの言葉を通じて縛られていく。
「俺達が追ったのは、白夜叉を忘れた振りをしてのうのうと生きていた坂田銀時だ」
高杉が後に続ける。
「だが、今俺達の剣を受けるお前はどっちなんだよ」

一気に肉薄した高杉の刃を正面で受けた銀時が怒鳴る。
「聞きたいのは俺だよ!」
「馬鹿が。坂田銀時なら俺と桂二人の剣は受け流せない。もう死んでるはずだ」
「そして白夜叉ならば俺と高杉はとうに首を刎ねられている」
「なァ、銀時、白夜叉、何故だ。どうしてお前はどちらの形も取らねェんだ」
「教えてくれ。お前のせいで俺達の物語は完結しない。―――誰も助からない」


嗚呼、鬼はきっと疑問の海で死ぬ。助けてを言えない弱虫と、助けてを忘れた愚か者の腐臭が俺達を殺すのだ。かつては高杉と桂がいるだけで世界が病んでいくと思っていたけれど、なんのことはない。互いに愚かだっただけ。互いに未来に膿んでいただけ。互いに全てが怖かっただけだ。

殺し合いの場に似合わぬ濁った三対の目が諦めたように伏せられた。
似たもの同士、同じ事を考えたらしい。

出会ってしまったその時に物語の終焉は保障されていたのに、永遠なんて馬鹿らしいものを求めたから、終わらせたくなった時には終わらなくなったのだ、と。








互いの幸福と永遠のため、本当は白夜叉は死ななければならなかった。そんな考えですらない思いつきは不意に生まれた。恐らくどちらが発案したかなんてすぐに忘れてしまうだろう。
その悪い風は腐臭漂う夏に乗ってやって来た。道端の蟻を意味なく踏みたくなるように、突然だった。


始まりはただ暑くて疲弊していた、そんな感じだった気がする。
クーラーのない桂宅の畳に頬を擦り付け倒れている大の男二人。高杉は桂の髪と存在が、桂は高杉の煙草と着物の柄が暑苦しいと主張して譲らない。
半刻に一度は温度計と湿度計を眺め、気温は高いが湿度は低いからりとした天気が映し出されているそれに、げんなりする。止めておけばいいのに高杉が障子を開け放ち、雲ひとつない青空を傷んだ空間に招きいれた。清涼な夏が二人を蝕む。
桂がぽつりと言った。

「青空に閉じ込められてしまう」

会話の中で必然性と偶然性が錯綜した。
「銀時はもう戻らないかもしれない」
「……ん。白夜叉が青空に凍結されて死んじまう」
二人の無意味で矮小な手が空を握り潰そうとした。当然届かない。
「なァ、桂。銀時は幸せかもしれない」
「……ああ、白夜叉が幸福に蝕まれて刀を忘れてしまう」
「美しくねェなァ」
「可哀想だな」

風が吹く。疲弊と膿みの風が。

「可哀想な白夜叉。―――助けてやりたい」
何かを追い求めるための風は掻き消えた。終わりにしたいと強く願った。
「不幸で不毛な俺達。―――終わるだろうか」

高杉と桂の目が合わさる。青と赤が炯炯と燃えていると思ったが、実際は鮮やかな太陽光の反射でそう見えただけで、本当は底にかつての色を閉じ込めただけの澱みが浮かんでいた。

「銀時を、白夜叉を斬ろう」








それから以降、斬り合いが始まるまでの段取りは本当に容易かった。ある程度杯を呷った後、何処からともなく流れてくる抉り合いの波に乗せて刀を引き抜けば終わりだった。
多分共に歪めなかった時から、誰もがこうなることを夢見てた。何よりも恐れながら。

「そういや、聞こうと思ってたんだが、いつのまに真剣を持ち歩くようになったんだァ?」
力押しで首に触れるか触れないかの位置に迫った刀を押し返そうとしながら高杉が不敵に笑う。
「テメーらが俺の中に入ってこようとし始めた時からだよ!」
「答えになってねェよ。俺達は昔から、自慰の手段すら知らなかったから、相手と融合してしまおうとしてきただろォ?」
「………互いの魂を削りあってな」
銀時はそう吐き捨てたが、その唇に浮かぶ諦観がにじみ出た笑いがそぐわない。
その横顔を見た桂の顔がくしゃりと歪み、泣く寸前の顔になった。横合いから脇腹を狙う。
「だから矛盾するものを何一つ出すなと言っているではないか!」

つい、と高杉の首を狙った銀時の顔が桂に向いた。

赤い瞳。見慣れた坂田銀時の顔。覚えている、あの表情を知っている。
乱れ波紋に何より綺麗に映るあの笑み。



「クソが。白夜叉を殺したい、白夜叉に殺されたい。俺はお前らほど我侭な奴に出会ったことねえよ」



桂の目がこれ以上ないくらい大きく見開かれた。
全身の血が沸騰し、心臓を抉るような警告音が体内に響く。
あっさりと高杉を蹴り飛ばし、空いた刀を一閃。吹き飛ばされながらも高杉が叫ぶ。
「ヅラ!!」
高杉は確かに白夜叉の刀が桂の肌にめり込んだ瞬間を見た。
桂は数メートル吹き飛んだが、かろうじて刀は取り落とさなかった。完全に狙いを桂に定めた銀時が止めを刺すべく追撃をかける。懐かしい戦場の速さだ。

ギン、と濁った戟音が響く。
白夜叉の逃れようのない剣筋を、完璧な体勢で高杉が食い止めた。


三日月形に銀時の口が捻れる。物騒な笑みだった。
「へえ。不健康そうな修羅さんは、青空の下でも戦えるようになったのね」
「おう。白夜叉の相手をするのに場所を選ぶ馬鹿がいるかい」
「いるんじゃね?―――お前ら、青空が怖いだけじゃん。俺達が流した血の痕なんて何処にもない綺麗な世界が怖いだけだろうが」

「……違う。世界は怖くない。お前が埋没してしまうことが怖い」
嘲笑い合いの会話にもう一つの声が割り込む。銀時が驚いたような、知っていたような顔をした。
「あれ、ヅラ無事?殺ったと思ったんだけど」
「頼むからこの状況でヅラは止めてくれ。高杉もだ、聞こえてたぞ。何が無事なものか。とっさに左腕を犠牲にしなければ死んでたぞ」
その左腕はもはやぶらりと垂れ下がっているという状況で、折れた骨がぬるりとした血液を纏って突き出していた。もう刀を握ることはないだろう。
「お前は両利きだから脇差用の左手は絶対犠牲にしないと踏んだけど、マジ残念だよ」
「俺も正直残念だぜ?今桂が死んだら、俺達の話は終わったのにな」
「そういう考えもあるかもな。なに数分の誤差だ。―――行くぞ」

三者素早く間合いを取る。嗚呼懐かしい。愛しくはない、戦場の香など。悲しくもない、日常飽和など。感情それ自体が名前を失って宙に浮いているのだ。嗚呼、でも忘れてなどいなかった。馬鹿馬鹿しいくらい多くの感情が、それぞれ譲り合わずに自分達の絵をかき消していく。


「お前らは結局さ、坂田銀時と白夜叉とどっちが好きだったんだよ……」


高杉と桂には聞こえなかった。それを聞いてはいけないことを本能が熟知していた。
銀時も凄絶な笑みを返す。友よ、ずっと昔からこの瞬間を知っていたと思う。


先に突っ込んできた高杉の一閃を刀で受けず、身体を動かして軌道を肩にずらす。
嫌な音を立てて、右肩に刀が埋まった。夜叉は簡単には死なない。刀を持てなくなるまでは。

「さよなら、高杉の最後の光」

横一文字に赤い線が空中に浮かぶ。曖昧模糊とした関係性を綺麗に切断する赤い糸。
嗚呼、運命でなかったらよかったのに。


高杉の両目が切り裂かれても、桂は叫び声一つ立てなかった。それどころか高杉は苦悶の叫びを上げることもなく、これ以上ないくらい不敵に笑った。こんな場面でも、悪戯が改心の出来に終わった笑みが村塾時代と変わらない高杉が大嫌いだ。
今や幼馴染の顔全体は緋色に染まり、かろうじて肌の色が露出しているのは口元と―――銀時の刀を掴む両手だけで。

「この技、お前の十八番だよなァ」

刀が食い込む。もしかしたら夜叉を隠した男も、過去の繋がりが手から零れ落ちることを多少は恐れていてくれたのかもしれない。幸せな妄想か、現実逃避か、いやこの手段だけが俺達を現世で生きさせる技だったはずだ。

白夜叉の手足に等しい刀は、高杉の手に食い込んで離れない。

これがこの馬鹿の馬鹿らしい友情表現であり愛情表現だったなんて!
これほどに、鬼なんぞに惚れ込んでいたなんて! 全く仕方のない馬鹿どもだ。


桂が突きの体勢を取り、大地を踏みつける。高杉が手を離し、自らの刀を拾い上げる。
銀時が刀を握る手に力を込める。






――――銀時!!」






それは共に生きたかった志士達の絶唱。
ああこの世よ、止まってしまえ。












虚しいほど乾いた音を立てて、刀が落ちた。
彼らを縁で結んだ過去の刀が。―――白夜叉の刀が。

心臓を桂に、腹部を高杉に貫かれた銀時が不器用な笑みを浮かべ、子供をあやすように高杉の髪をかき回す。





「………最後に、銀時って呼ぶって反則だろ……」





ぼたぼたと銀時の吐く血反吐が高杉の髪を濡らす。



「つうか、……ちみっこ…晋ちゃんも、……ヅラも、泣きすぎ。 だっせー」



鮮やかな赤目が急速に濁っていく。銀時は目を閉じない。最期の一瞬まで、二人の涙でぐしゃぐしゃになった情けない顔を拝んでやるとでも言いたいように。

「ちみっこ、言うな……。天パー」
「ヅラじゃない…桂だ」

声は既に死んでいる。答えは返らない。
相変わらずうんざりするほど青い空。心臓が最後の仕事を追えた瞬間、銀時は先生が死んだ日もこんな日だったなと思った。






















万事屋に高杉から電話があったのは夕暮れも沈みかけた時間だった。夕闇は薄く薄く空に残滓を残し、淡い桃色のヴェールを纏っているように見える。高杉は銀時が動かなくなったから迎えに来い、と言う。酔い潰れるには早いと思ったが、あの面子ではかなりの無茶をしてもおかしくないと思い直し、場所を聞いた。
意外に複雑な道順を新八がメモするのを待ち、高杉は一方的に桂が持っていった二つの箱を持って行けと言って電話を切った。相変わらずわけの分からない人達だと思いつつ、何故か彼が泣いていたような気がして、不審に思った二人はすぐに出発した。









「………銀さん? 新しい余興か何かですか?」


せっかくお土産があるんですよ。僕達は十分見ましたから、銀さんが一瞬で噛み付いたって怒りませんよ。飴細工……嫌いなはずないですよね、糖尿も恐れない甘党ですものね。そろそろ起きないと、神楽ちゃんと二人で食べちゃいますよ。


言葉は舌の先で容赦なく白紙に戻される。こういうのをきっと狐に化かされるというのだ。
あるはずがない幻影は妙に克明だ。ああ、旅人が山の奥で綺麗な女の人に化かされて一夜を過ごす理由がわかった。

「銀ちゃん。赤は私のカラーアル。さっさといつもの青い着流しに戻るヨロシ」


河原にだらしなく寝そべった男は答えなかった。周囲から腹が立つと評判だった皮肉気な笑みを湛えたまま。心臓と腹部を見慣れた刀に貫かれたまま、どこか楽しそうに、どこかほっとしたような表情で眠っている。ある位置の視点を殺してしまえば、昼寝にしか見えない。





神楽の手から飴細工の箱が零れ落ちた。二人を魅了した鮮やかな細工が地面に叩き付けられ、一瞬で弾ける。周囲に紅、緑、青、黄、様々の色の破片が満ちた。空間の全ての要素に色が組み込まれたように境界がなくなる。

新八が持っていた箱から、自分達の出番を待っていた二つの紙切れが赤い池の中に落ちた。
黒と白。それ以上でもそれ以下でもない。不祝儀の封に―――あの二つの不吉な名前。




「空がぎらぎらしてて目に痛いネ」
「きっと世界はぎらついて曖昧なんだよ」




二人を押しつぶす空。あっさりと色彩を消して血に沈んだ彼と彼の旧友。世界に澱んだ色を届けた飴細工の残骸。




―――その日、世界の色彩が狂った。






続きます。次はこの後の高杉桂。  メッセでお話を振ってくださった淡織さん、ありがとうございます!