――――不自然なほど、ゆっくり目を開いた。 難く閉じられていた目に映っていた闇は少なくとも漆黒で何も見えなかったが、充分それに慣らされた目は視界を彩る濃淡まで鮮明に描けるまでになっていた。 星のごく僅かな光の周りからじわりじわりと辺りを黒が侵食する。小さな、それでも無数の星と茫漠でありながらたった一つの黒はどちらが笑っているのだろうか、とどうでもいいことを不意に思って、またすぐに忘れる。思って、通り過ぎたならば放っておけばいい。ある一点に視線を凝縮する。黒一色と信じていた場所が濃紺にも、誰かの着物の色に似ている紫にも、下界を映す臙脂にも、冷涼な蒼にも見えてくる。もったいないくらいに、満天の美しい空がそこにはあった。 静かな夜。自分が横たわっている草原の草からも、背後を守る鬱蒼とした森からも、もっと身近に言えば思い思いの時を過ごす仲間達からも、そして―――今から消すはずの館からも、押し殺されたゆえに濃密な生命の鼓動が聞こえているが、それでも静謐の底に埋まった心地よい夜。 何をすることもない。とりあえず深呼吸をすると、白い息が吐き出される。ようやく今は霜夜で、本来なら体の奥底まで凍るほど冷たいのだと思った。 「早く、夜明けにならないかなぁ」 返事を期待しない単なる独り言だったが、三方向から素早く言葉が返ってきた。どうやら、流れを求めて延々腹ばいになって身を隠すのに全員が飽きていたらしい。 「退屈じゃのお」 「この面子で短気じゃねぇのなんて、いねえよ」 「一緒にするな」 そう言った一人の声音も暗にそれを肯定している。 今日は剣を振るう前に不謹慎だとか説教しないんだな、と思った。 「流れ星でも探すか?」 「どうせ高杉の願いなんて背が伸びますようにだろー」 「言えてるな」 「全くじゃ」 「………じゃあなんだよ、テメーらにはあんのか」 「さらさらストレートヘアーになれますように」 「……呆れるほど正直な奴だな」 絶え間ない日常の断片に呼応してゆらゆらと頼りなく動く視線。あの澄み切った色の虹をずっと覚えていよう。星が早く崩れ落ちればいい。どんな物で、何処にあるのかもわからない。でも歴然とそこにあり続ける星が、独特の滑らかな滑走を描き、頭上に落ちてくればいい。 まだくだらない話題が流れている。誰も声を押し殺してはいないのに、全くと言っていいほど世界に反響しない囁きに変換されていた。きっと喉を壊すまで大声を張り上げても聞こえない、俺達の叫び。星の光を丸々手に入れることなんて出来ないけれど、自分達は全く持ってちっぽけだから、せめてここに落ちてきてくれるだけで、未来は。 落ちろ、震える星。 ―――それが、疾走の合図。 「あ」 その時、実際は一刹那に四対の眼光が濃厚に絡み合い、誰も捕まらない間に離れ、全員が空から零れ落ちる星を見た。声を揃える必要もなく。ただただもう一度、いつも通りの会話を。 「ワシ、こんな坂走ったら、途中でこける気がするぜよ」 「そん時は俺が蹴落としてやるから安心しろ。というか、いつもじゃねーか」 「大丈夫、ほら昔の人が鹿が降りられるのに人が降りられぬはずがないとか言ったではないか」 「そりゃ馬の話じゃん。ヅラ、頭悪いー」 落ちた星が、白光を伴い視界一杯に広がる。色が変わった。 ――――暁天。 視界に映る誰かの足。同時にそれは自分の足が、容赦なく草を踏み付ける音。走りの合い間に細く細く息を吐く。白い息。先に真っ直ぐに伸びる、白い軌跡。 桂は急激な斜面を駆け下りている中でも全く姿勢を崩さない。前方にのみ体重をかける。時に大岩を避ける際も、軽く跳ね、着地した瞬間には元の体勢に戻っている。一直線の背骨に、流れる黒髪すら刀の切っ先のように歪まない。理想の他は何も知らない彼の余りに実直で愚直な駆け方。 高杉も背筋を伸ばした道場式の走り方。だが、障害物は跳躍で避けない。ゆらゆら、上体の重心だけを自由にし、体を傾げる。彼の軌跡は絶えず曲がりくねっている。毎度毎度、よく転ばないものだと感心するしかない。本質は何処までも頑なでありながら、前進の為なら道のうねりを気にしない彼の駆け方。 坂本は桂や高杉とは対照的によく転ぶ。それも大袈裟に物を避けようとして。だが、転がりながら、いつのまにか、ひょいと体勢を起こしていて速度は全く変わらない。憎たらしいほど飄々と、満面の生命力を漲らせ、様々に変質できる彼特有の駆け方。 やっぱり、相も変わらず独特の駆け方をしやがる。そう思っていた彼の眼前に、先へ立ち塞がる大岩が映った。高杉が右に重心を倒すのが見える。いつのまにか先頭に踊り出ていた坂本をある一定の流れを漂うかのような桂が追う。 「いくか」 呟きは彼自身の耳に届く前に、空気を揺るがす。確かに足という重しがあるはずなのに、全くその重量を感じない。速度は自然に上がり、彼は高く跳躍する。丁度、振り上げた足が地面と水平にまでなるほど。―――舞にも似た、白夜叉の、反射が幾重にも重なって凄絶なまでに美しい疾走。 顔面にぶち当たる冷風。いずれ頬が切れるのではなかろうか、と思えるほどに鋭い。暁天。薄く赤を地平線に限りなく伸ばした空。駆ける仲間の影がこれまた薄く地表に伸びる。草原、凍りついた霜。ああ、自分達はこんな冷たい場所にいたのか、偉くないか。寒いはずなのに、凍えてもいいはずなのに。体の表面一枚の異常なまでの怜悧さ。内面は溶けてしまうほど熱い。何が燃えるのか。多分、そのギャップが一番熱い。 にやりと不敵に笑い続ける坂本の横顔。一直線に駆ける彼らと作る未来。駆け下りる先のぼんやりとした明かり。遅い。ここまで気がつかないか。なめてやがる。喉の奥に絡む笑い。誰もが笑っているのだろうが、声は全く聞こえない。 射殺すような無表情の桂の横顔。無音。足音すら、氾濫する感情なのか本能なのか分からぬざわめきに消える。彼の手が腰の剣に這うのを見た。男のくせに嫌に白い手。敵への怒りがあるのか。それ以上に、未来予想図を描けたあとなら、それもどうでもよくなったのか。 一番緊張に頬を強張らせている高杉の横顔。死ぬものか。誰もに共通の思いを象徴する生真面目な姿勢。高杉に真面目だなんて表現は気持ち悪いけれど。黒一色の拵えを銀色が照らす。ああ、大丈夫だ。肩を叩いてやりたくなった。やったらやったで、拳が待ってる。 風を切る音。極彩色の世界。わだかまる澱。流してしまえ。呼応する筋肉。身体の中で響く心音。絶え間なく、生きている音。触れる愛刀。躍動。鋭い、敵襲を告げる鐘。おいおい、マジ遅せーんじゃねーの。人間、舐めんなよ。 ただ走る。 今このときを走る。 「――――行くぜ!!」 白夜叉は戦陣の幕開けの声が、自分の喉から搾り出されるのを聞いた。 それは、まだ果てしない未来を信じていた頃。 |