それは真綿で優しく首を締め付けられる感覚が一番近しい。一人が激烈に俺を抉っていくとしたら、すぐにもう一人が無意味な優しさでその傷を埋める。最初の一人はそれを遠くからながめていて、その視線に怯える俺は、ああまた喰らわれると思いながらも、傷を直されてしまったものだから立ち上がるしかない。傷なくして斃れることはあの人が許さない。もちろん、あの二人も彼に許されないから生きていて、自分に触れるのが彼らの生存活動の一環だと分かってはいるのだが、それでも苦しいものは苦しい。鬼になりたくなかった。同時に、彼らになってほしくもなかった。不本意ながら彼らが死ぬのはもっと怖かったので、自分が鬼になって火の粉を振り払おう何ぞと傲慢極まりないことを考えていたら、あっさりと彼らがこちらに渡ってきてしまった。赤と黒の彼岸に。そうしたら、今度は俺の足が自然に逃げた。志は消滅し、彼らの生々しい何かが汚れた場所に残った。


どこへなりとも走っていってしまえ、と言いたかった。

どうしても、どうしても、どうしても言えなかった。




境 界 線 は 紅 い か




はいよ、銀さん相変わらず駄目な生活だねえ。と大きなお世話な台詞を吐いて親父は皿を置いた。

オイオイクソ親父、俺、お前のシケた店のめっちゃ常連なんですけど失礼すぎるんですけど、と心の中で毒を吐きつつ、大人な俺は「うるせーよ」とだけ言って皿を抱えて、その色合いに思わず顔を顰めた。

「なんだよ親父。その辺に落ちてる落ち葉食えってか?」
大好きな、こうもちもちとしたと触れて転がしたい感じのぽてっとした白い餅の上、少し大きめの紅葉が置いてある。親父は風情だと何とかほざいていたが、無視だ。全く老人っていうのは、すぐに風情だ趣だとか言うからよくない。


白い砂糖を纏わり付かせて、白い餅の上に乗った紅葉はべったりと広がった人間の手足に見える。小さなその色には、橙がかった赤と紅がかった赤が混在している。
今にも、染み出してきそうな赤を風情と呼ぶことは俺には出来ない。

だがあいつらなら、きっとそう言う。その声は、延髄辺りから聞こえた気がした。自分の身体がそれぞれバラバラに彼らのことを考える。そして、右手の次に有能な目が見つけてしまった。

紅葉舞い散る橋の欄干に寄りかかる人間の、黒い髪を。黒い流れが、不吉な二つ。


「万事屋。テメー、本当に仕事ないんだな」
高杉と桂の後姿に、更に黒い影が乱入してきた。そのあきれ返った表情はムカつくけど(オメーらみたいな税金泥棒と違って、仕事探すのも大変なんだよ!)、正直気が紛れて助かった。
「そういう多串君もサボりでしょうが」
「俺は土方だ!見回りの途中なんだよ。ここいらに桂が出たっていう目撃情報があってな」
「オメーいつも言ってない?桂が出た桂が出た、仕事してるんですかぁー」
いやいや、10メートルくらいのところにいるからね、ヅラ。更に危険なオプション付きで。
というか、気持ち悪い長髪、趣味の悪い着物、刀二本と揃ってるくせに、なんであいつら見つからないの?それ以前に、ヅラの目撃情報とか毎日毎日聞こえるんですけど。

多串が煙草に火を付けて、無断で人の横に座る。まだ立ち去る気配はない。
無遠慮な視線が突き刺さり、何かが琴線に触れてイラつくのが分かる。お前、俺を疑う前にすこーし視線をずらせばお目当ての人間がいますよ、仕事する気あんの?
「何、皆の銀さんの隣に黙って座ってんの?金取るぞコノヤロー。税金返せコノヤロー」
「別に俺が何処で休憩しようが勝手だろうが。今、このタイミングで桂でも出たら面白いじゃねえか?」
だからいるしよ。だが、この距離……季節、色合いでは厳しいとも思う。


高杉が桂に何か囁いた。その唇がほんの少しだけくいっと動き、手が舞い散る紅葉を掠める。さすがに口の動きまでは見えないが、彼の後姿から漂う安心感は感じる。

彼らが見下ろす河原はどれほど赤いのだろう。あの河原は、俺達が三者三様に死んだ川の流れだ。
何を話しているのだろう。ろくなことではないだろうが、勝手に頭が想像する。
「なあ、ヅラよ。赤いじゃねェか、美しいじゃねェか」「桂だ。だが賛同しよう。鮮やかではないか、美しいではないか」張り詰めた静寂を纏って流れる水に浮かぶ、紅葉。救いを求めた赤い手は流されただけだった。「俺達は生き残った。なら先が見えようとも戦うしかねェ」「俺達の叫びを、忘れさせたりはしない。彼らの叫びを忘れたりはしない」「春には桜が、夏には陽炎が、秋には紅葉が、冬には椿が」「俺達には刀が」「赤を思い出させる」


「風流だと思わねえか?」
正直に言う。横合いから聞こえたこの一言。土方の声以外の何者でもなかったのに、俺は高杉とヅラの声音を聞いた。
「………なんだって?」
当然のように右手は木刀にかかっている。心の半分で「やめろ」
(こいつを斬ったら、家族を喪う)、もう半分で「遅い」と(そのスピードでは、あいつらの世界についてはいけない)呟く。

殺気は出なかった。ごく自然に触れただけの体勢で、それなりに反応も素早いはずの土方も気がついていない。彼は殺意も抵抗心も失せ、なおざりに斬るしかない殺しをしたことがあるのだろうか。
「冷気で薄い灰色の空。嫌にゆっくりと散る紅葉。対照的に地味な人間の着物。……ま、テメーにそういう感覚はないだろうがな」

ああ、ないな。

まだ静かに話を続ける高杉と桂が見下ろす河原。そこは先生が斬られ晒された場所で、鬼兵隊もまたそこで斬られ、俺が桂と最後に戦った場所に連なり、江戸に舞い戻った高杉が仲間の首を見た場所で、その高杉に会ってしまった桂と二人で世界への復讐を決めた場所で、また俺達を繋いだ場所だ。
赤い、河原。付きまとう死の匂い。そして影を落とすターミナル。
あのビルが、先生の血の上に影を―――

「失礼だね、土方」

俺だってあるさ、風流心とかいう食えもしない心くらい習いましたよ。
自分で自分の声が冷え切っているのが分かった。きっと自分に迷うと、ここにきてあの馬鹿二人はターミナルを見上げる。それだけで走り続けられる。


「正面の、あの建物がなかったら、世界は美しいかもな」


ざぁ、と風が吹いた。
隠されていた気配が風に乗って香ってくる。世の底にこびりつく危険で、甘い、復讐の香り。

一気に灰色の世界で、あの二人の姿が浮いた。奴らはこの瞬間、世界の異端となっていた。
どこまでも、どこまでも、排除されるであろう鋭さを放っていた。

(今の白夜叉では、彼らを止めるどころか付いていくことも出来ない。ただただ、彼らが時代に死んだ後、泣き喚いてようやく剣を取れるだけだ。お前はいつでも遅すぎる)

土方の瞳孔が一気に開いた。橋の両側から沖田とゴリラの叫び声が聞こえ、にわかにあたりに喧騒が甦った。
いいな、お前ら。日常的に一緒に走って、背中を預けられてさ。
(それを捨てたのは、俺だというのに)


くるりと振り返ったあの二人が、大声で笑う。背筋は伸び、降り注いだ三つの視線は静かに張り詰めていた。
俺が覚えているものと変わらぬ速さで刀を抜き、爆弾を投げる。黒い隊服と奴ら自身を巻き込んだ煙で視界がブラックアウトしたが、炎に焼かれて焦げる紅葉だけが赤かった。


四肢を炎に焼かれ、いびつに舞うしかない葉。
互いに反対方向へと駆け出した二人がどちらかともなく叫んだ。




「風流だなあ!!」




土方もいなくなり、ぽつんと残された俺には降りかかる炎も刃もない。
温い午後。テロリストも警察も消え、江戸の庶民としての俺が残る。望んでいた。本当に心の底から望んでいたんだ。


それなのに、何かがちぐはぐで場違いだった。
気配を操り、腑抜けた裏切り者を嘲笑う二人の視線すら今はなかった。―――茫漠としていた。





こちらに戻ってきてくれと言いたかった。俺が憧れたお前らが昔持っていた世界がここにはある。

どうしても、どうしても、どうしても言えなかった。




いつも銀さんは高桂に苦しめ苦しめられているけれど、本当にこの痛んだ関係を切ろうと思えば切れると思うんですよ。それくらいの冷酷さはないと、攘夷戦争を生き残れたりはしないはず。でもずるずると続くのは、根本のところで銀→←←←高桂くらいになっているからという話。