優しく指で触れただけで、薄く引き伸ばされた皮を突き破り、みっちりと詰まった果肉があふれ、甘ったるい果汁が指を伝う柿のような月がぽっかりと浮かんでいる。
橙色の月が連れてくるのはぬるい風だ。
熟れている。きっと虫がわくのももうすぐだ。






◆ ◇ ◆






人肌のように生温かい夜風を切でり、桂は道を急いでいた。足取りとは裏腹に、まったく気が乗らない。正直疲れていたし、行けばろくでもないことが待っている。
だが、行かないという選択肢は、残念なことにない。

「よォ、桂ァ。いい月夜だしよ、うちで飲もうぜ」
事の発端は、半刻前、一方的に約束させられた電話だった。思い出すだけで苦々しい。背後には聞きたくもない喘ぎ声なのか悲鳴なのかうめき声なのかよく分からなくなった無残な声と、湿った音が入っていた。

目当ての建物が見えた時、もう一度月を見る。真ん丸とつややかな暖色。つるんと飲めそうだ。
月でも飲めたならば、戻れるだろうか。

せめて柿が食いたいなあ、と思う。








「こんばんはー。銀時くん、いますかー」
子どもたちがいないことは分かっていたが、一応玄関先で声をかける。数秒経ってなんの返答もないことを確かめ、音をたてないようにして中に滑り込んだ。

万事屋の空気は悪かった。外よりも嫌な熱気が立ち込め、生々しくべとついている。
きっと先は更に酷い。覚悟を決めて勢いよく開き、桂は自分の顔が嫌悪で歪むのを感じた。

「テメェはもう少しマシな声掛けが出来ねえのかよ」

部屋中に充満する煙草と体液と追憶の匂いが顔面にたたきつけられた。
嫌々と酒が転がった居間に足を踏み入れ、寝室へ目を向ける。襖は開け放たれ、その内部が見える位置に来たときには、その嫌悪しかなかった匂いは蠱惑的なそれへと変わった。
寝室に転がった煎餅布団の上、すなわち匂いの中心。高杉がいた。

「貴様の格好より酷くないだろう。あのバカはどうした?」
「風呂。小休止って奴だ」

高杉は簡潔に答える。全裸で、うつぶせのまま、桂を見ようともしない。
「ヅラ、適当な酒でも持ってきてくれ。正直、まったく動けねェ」
そうだろうな、と冷然と思った投げ出された体液まみれの全身は真新しい引っ掻き傷だらけで、一部が蚯蚓腫れになりかけている。それだけで、家主の精神状況は想像に難くない。

舌打ちを飲み込んでから、冷蔵庫のビールを適当に取り、一つを高杉に投げる。もう一つは一気飲みした。
彼が転がる布団は、情事の痕跡で汚れ、濡れすぎている。
あんな布団に転がるには、素面ではやっていられない。



高杉と会ったのは、あの夜以来だった。
手を触れたら指ごと落としてしまいそうな、鋭い夜。一つの復讐が成った。
「また一つ、零れ落ちちまった気がするなァ」
けがらわしい烏の色を消し去ろうとしたのか、全身に返り血を被った高杉は、自嘲気味に笑った。高揚を過ぎ去って、蓄積された疲労だけが残ったのだ。
「何を今更。貴様らしくない」
だが、自分は弱音を吐く相手ではない。それどころか、反対のことを口走り、追い詰める悪党だ。
後ろにいた河上が目線だけで人を殺そうとばかりに睨んでくる。本当に不幸なことに、目線では誰一人死なない。

桂は微笑む。かわいそうな河上。本当に高杉を心配し、護ろうとしているのはお前だよ。
奴が選ぶのが俺だというだけで。

「ああ、そうだな」

ほら、高杉はこちらの地獄を選ぶ。
汚れた大狸の血がまとわりついた手が差し出され、すぐに合わさった。触れた細胞一つ一つから、腐り落ちていく。そんな映像を見た。



かつら、と色めいた声で呼ばれて、ひとまず布団の脇に腰を下ろす。
「なんだ、その距離はよ」
仰向けになった高杉が喉の奥で笑い、桂の髪をゆっくりと引く。その感触を確かめ、断崖絶壁にかかった梯子を掴むな強さで、指に絡められる。
「テメェがちんたらしてる間にこれだけ酷い目に遭ったんだ。癒してくれてもいいんじゃねェか」
「俺が、貴様を?癒す?―――笑わせるな、」

しかし、その言葉が終わるころには、唇を合わせてしまっている。磁力に引かれるように、逆らえない力で。
舌は入れない。それでも、合わさった部分の、相手のものであった感触が消え、次第に自分のそれと同化していく。同じものになって、均されて。絡め取られた髪のせいで、起き上がることもままならず、桂は自分が高杉に埋もれていくような生々しさを苦々しく思う。
まるで、磔だ。そう思って、叫びだしたくなる。

(なぜ、こんなにがんじがらめになっているのだろう)

数えるのも空しい、夥しい数の絆が、先の戦争で消えた。
本当に護りたかった人を護れず、徒に死に行く仲間を見続けた。何より。


「よお、ヅラァ。何、二人で盛り上がっちゃってんの?」


引きはがされ、体勢を立て直す間もなく転がされた。
容赦のない素早さで押し倒してきた見飽きた目は、獰猛な欲望に満ちている。


―――こんなはずじゃなかった。


一緒にいられると思っていた。こんな、壊れた繋がりがなくとも。
一緒にいられるはずだった。傷は埋めてみせると思っていた。
先生が殺された後も、こいつらだけは失わないと誓ったのに。






「ねえ、小太郎」

先生の声がする。自分たちの日常に戦争の影など微塵もなかった頃、こりもせず大喧嘩をした銀時と高杉に拳骨を落としてから、先生は自分だけを散歩に誘った。
青々しい草の匂いに溢れた川辺を歩いた。幼い自分は、喧嘩ばかりの二人に憤慨していた。毎日毎日飽きもせず、バカなんじゃないかと。
先生は穏やかに笑っていて、だんだん居心地が悪くなった。少しだけ羨ましかった心を見抜かれた気がして。
高杉があんなに本音でぶつかるところを見たことがなかった。

「先生。……あいつらは、似てますよね」
気まずさに耐えきれなくなって、口を開いた。
いつか、あの二人だけで、自分を置いていってしまう気がするとは情けなくて言えなかったが。
「そうですねえ。でも、いい方向にも、駄目な方向にも似ているかもしれないですよ」
師の答えは半分は予想通りで、もう半分は思いもしなかったことだった。
「駄目な方向?」

着物を引きはがし始めた銀時の顔に、電撃のようにその顔が重なる。


「あんまり自分を大切にできないところが、私は心配です」


逆光に隠れた顔は左半分が見えない。目じりが少し下がって、瞳がうっすらと濡れていた。
さびしそうに、澄んでいる。切ない、という気持ちを初めて知ったのはきっとあの時だった。

「ねえ、小太郎。銀時と晋助は似ていて、とっても仲がいい。でも、真っ直ぐすぎて意地っ張りなところもある。自分を大事にできないところもある、そういう危ういところまで似ています」

それは、実は怖いことなんですよ、と師は大人の顔で言う。

「弱い部分が違えば、補い合えることもあります。どちらかが少し折れれば、傷つけ合わなくてよいことの方が世の中には多い」

一瞬、冷たい風が頬を撫でた、温かい日差しの中にも、一筋の冷たい風が潜んでいる。

「彼らが大人になって、しっかりとした信念を持った時。どうしようもなく傷ついた時。本当は手を取りたくてたまらないのに、同じように意地を張って、傷つけ合ってしまうかもしれない。―――だから、小太郎にお願いです」

引っかけられた小指には、師に似合わぬ痛いくらいの力がこめられていた。
今なら分かる。彼は、自分は側にいられないかもしれないから、と言いたかったのだと。


「前も言いましたね。喧嘩両成敗。小太郎、あなたがあの意地っ張り二人の手を取って、結びつけてあげてください」


あなたなら、きっと出来ます。
そう微笑まれて嬉しかった。先生に頼られて、同時に見失いかけた居場所を見つけたようで。


それが、どんなに難しい約束かなんて、考えもしなかった。






「……ヅラ?」
それまで荒々しく肌を貪っていた手が、不意に頬にそっと触れた。
そのそぐわない優しさで急激に現実へと引き戻される。
「お前、……泣いてんの?」
「何を言って、」

触れてみろ、と頬に手を導かれて流れる冷たさに驚いた。本当に泣いている。しかも溢れて止まらない。
何が何だか分からなくなり、思わず銀時を見ると完全に茫然として手が止まっていた。

嫌だ。瞬間的にそう思い、むきだしの肩に噛みついた。

「痛って……なんなの、お前!」

手加減なしの一撃の効果は絶大で、瞬時に銀時の目に獰猛さが戻る。
仕返しとばかりに噛みつかれ、声を上げながら、桂は高杉を呼んだ。

「……高杉っ、高杉…!!」

手をばたつかせ、その体温を探す。これまで一緒に落ちてきた共犯者の気配を。

「俺はこっちだぜ、桂」

これ以上なく優しげに笑った気配が、月夜の影のように下りてきた。生々しい赤に輝く舌で、涙を掬いられる。



そうだ、全部取ってくれ。ひとつ残らず。
嫌なんだ。
お前らを残して、俺だけが涙を思い出すなど。


「銀時、さっさと来い」


丁寧に涙をぬぐう唇が笑ったのを感じる。銀時が自らの唇を軽く舐める。艶めく、不穏な口元。


(なあ、銀時。俺達は何でこんなに語る言葉を持たないのだろうな)


乱暴にねじ込まれ、背骨全体に衝撃が走った。のけぞった喉元を高杉が甘噛みする。全身を食われている感触に、産毛が逆立った。


本当は彼が話したかったことなど分かっている。そして、それは素面で、向き合って話すべき内容だということも。
だが、根本に関わる話は怖くて話せない。爛れた熱に浮かされて、前後不覚にならなければ口も開けない。
臆病者の桂、と脳裏に浮かべてみると酷く冷たい音に思えた。
貴様の約束の今はこれだ。生涯に一度の願掛けをしたその髪はなんだ。
結びつけて共に生きるどころか、堕落の手段にしか使われない!

「っ……銀時、結局、今日は何なんだ…」

せめて、と思って水を向ける。
とても先生が期待した役割を果たせているとは言えないが、吐き出したいことだけでも叫ばせたい。


「あぁ、聞こうと思ってよ。……あの狸、殺ったの、どっち?」
待っていたというように、銀時が言う。
腰を激しくたたきつけながらの言葉は、必要最低限しか残れず、半分呻き声に近かった。
「テメェは、そんなことも分からねェのかよ。両方、に決まってんだろォ」
銀時の逆鱗を正確に刺激できる唯一無二の笑みを浮かべた高杉が、その唇を貪る。避けそこねた銀時が仕方なさそうに舌を絡める。しばらく後の呼吸のタイミングで高杉が続けた。
「手筈と背後を整えたのは桂。止めを刺したのは俺。」
「……へぇ、てめえらお得意の陰湿な手法って、やつね」
動きがさらに乱暴になった。声を出すのが辛くて、桂は口をパクパクと開閉する。それを見た高杉が頷いた。
「あァ。俺達ァ、それが専売特許だからよ。でもなァ、舞台がなけりゃあ、滑り込むこともできねえんだぜ?」

きれいだった、と嬌声の中から言葉が浮かぶ。それを呟いたのが、自分自身だと、すぐには分からなかった。

「ぎんときが、開けた大穴が、きれいだったぞ……。月、の下で、な。でも、その分、かなしかった」

悲しかったよ、貴様が泣いているようだった。

数秒経って意味を理解した、堅牢な江戸城を廃墟に変えた男が、絶望的な顔になり、動きが止まる。
その分は桂が動いたが。


―――気が、済んだかよ」


先生の言う「どちらかが引く」というのは、きっとここで「気が済んだ」と言えることだ。
そうすれば、自分たちの欠片だけでも安らいだ。


「いいや。ますます燃えたぜ」


高杉の最悪の返答は、本音ではあるが、中核ではない。強いて言えば覚悟と鼓舞。強情と実直。
先生を奪った天導衆、烏、天人、天人、全てを許せない。叩き潰す策謀を巡らす時、高揚するのは、自分も同じだ。
しかし、叶うことならさっさとその泥沼から逃げ出したいし、復讐を言い訳にして棚上げになっている役割を果たしたいし、疲れはてて昔のように怒鳴り合いもできなくなった状況を終わらせて、一人では抱えたくない傷は、こんな熱じゃなくて、つながりで、埋めたいのだ。



高杉はそれを言葉に出来ず、銀時は気が付かず、自分は気が付かせない。



「……この、ロクデナシ」



顔を歪ませて吐き捨てる銀時。彼の傷口は再び痛み、同時に高杉も更に膿む。
―――手に取るように分かるのに、自分は、飛ぶ予感に突き動かされて、白い鬼の首を抱くだけの役立たず。

思ったよりも強く抱きしめ返されて、また泣きたくなる。肩越しに、もう一人も縋り付いてきて、一つの生き物のようになった三人の傷だらけの体に、黒い糸が被さっていく。


桂は意識を手放すその時まで、意地だけでこらえた。
落ちる時も同じなら、涙を取り戻す時も一緒でなければならないのだから。
涙を切望したとしても、その時までは耐えてみせる。






くるしい。しかし、





この実りのない関係が終わる時は必ず来るだろう。
助けてと言っても、教えてと願っても、あの時のように、先生は来られない。

だから。熟れきったこの傷口を切り離すのがたとえ刀であったとしても、あの約束だけは、必ず護る。

先生の影に誓った、あの青々しい涼風にかけて。






熟 れ す ぎ た 夜 に