望む未来を手に入れるにはそれを造ってしまえばいいと言った男がいたが、その言葉を言っているのはあの男ではなく骨の髄まで染み渡った不意な瞬間にしか思い出せない仲間達の怨嗟の声で、濃淡織り交ぜて浮遊する幻影を、生き残った者が思いつく限りの方法で鎮めているだけで、つまるところ執拗に追い求める物に逆に追い詰められていく。少なくない人数が、狂人の振りをしている。男は言った。宇宙を見ていった。「おい見ろよ、この星屑の一つの星で、その中の一つの国で、銀時が、桂が、俺が、幕府が、天人が目くじら立てていろんなものを追っていやがる。そして辰馬が、もう見つけられないくらいに広い空にいるくせに、きっちり星の座標を覚えてて、必ずちっぽけな場所に帰ってくるんだぜ、おかしいだろォ?」 その酒の名は「夜明け前」と言う。薄紅色に似ていて、喉の粘膜を通る瞬間、それを食い破ったのかと思うほど強烈な痛みを伴う。がらがらと、執拗に喉元を抉りながら通過していく酒。味は人によっては極上に甘く、人によっては切ないまでに冷たいらしい。共通項は、手っ取り早く狂える、辛い酒というだけ。 くせになるというわけではなかった。現に、座敷主が「度胸試し」とか意味のないことを言いつつ引っ張り出してきた、一番大きい酒杯には薄っすら埃が被っていた。 「……そのまま飲む気か」 気にせず杯をあけようとした高杉の手が払われた。 不満げに目を細めた高杉を微塵も気にすることなく、陸奥が杯を丁寧に拭っている。 「テメー、いい加減その几帳面すぎんのやめろよ。ヅラになるぜェ」 「おまんらがずぼらすぎるんじゃ」 「あれ、今日は随分機嫌いいじゃねぇか。いつもなら、説教の一つや二つ垂れるくせによォ」 「担当者がおろうが。最近わかった事実じゃが、おまんらの馬鹿さ加減は修正不可能」 「アッハッハッ、言われちゃったの!」 「他人事みたいな面すんな、毛玉。髪切れ。もう思い切って去勢しろ。なァ、陸奥」 「何日で気が狂うか、興味はあるぜよ」 「…クッ」 「おんしら、本気覚えとけよ……」 恨めしげに坂本が二人を睨む。陸奥は平然と睨み返してきて、高杉は既にその事など忘れたように酒を手に取っていた。あしらわれている。 「辰馬ァ」 「あー、夜明け前ぜよ」 「ふぅん―――いい名じゃねーか」 何度聞いても覚えない(覚える気がないのだろう)酒の名に、高杉はこれまた幾度目かの同じ評価を下す。瓶を高く上げ、朧げに片方だけ残された瞳が揺れる。どの酒瓶を誰が持っても、対岸の者にはそう見えるはずの光景にぎくりとさせられ、坂本はそっと陸奥を盗み見た。彼女は知らない。黙々と、酒と共に並べられた夕食を取り分けていた。 「なぁ、辰馬」 「んー?」 (隠せ隠せ) 「宇宙の夜明けを、お前は見たか?どうしようもなく、独りだと思う混沌は宇宙にあるのか?静寂しかない停止した場所は?」 彼の自問自答は、答えを期待する事すら捨てている。 陸奥と坂本の杯それぞれに波波とその液体を注ぐ高杉の隻眼には、彼だけが永遠に見ることのない混沌の色が映っている。果たして、それを見ることが叶うのならば、彼は、 「未来は造る。造らずとも、ひたすらに同一の色だけで人を押し潰す、夜の未来の色くらい、大抵想像がつくんだよ」 「高杉」 「おう、」 低められた陸奥の声。酒瓶がするりと移動し、陸奥が高杉の杯を充たす。 かつん、冷涼で澄み切った音が三対ばらばらに合わさり発生した、耳障りな悲鳴と同じ音程の波紋に調べを乗せて、高杉は謡うように一気に言った。 「だから、夜明けが見てえよ。夜明けの上に乗っている色なら、闇しか見えねぇ俺の眼にも、馴染む気がする。どんな色だろーな。流した分の、地平線まで赤い奴か。なんもねえ、真っ白な奴か。楽しみだなァ」 「……晋助、…」 例えば、この不器用に過ぎる男が、桂や銀時にも同じ本音を言う事が出来たのならば、表面は笑いで暖かい自分の奥底にある冷えた一点は溶け出されていたのかもしれない。多分、していた。 激しいわりに、線の細い彼。違和感さえ感じる穏やかさはここでしか見られない。 暖かいような、同時に咎められるより辛い後ろめたさのような。 陸奥は、嬉しいんじゃろ、と呆れたように言う。 頭のあんたが嬉しそうじゃから、わしはいつも高杉を迎え入れるんじゃ、とも。 「―――こりゃぁ、極上の酒だ。一時とも同じ色をしちゃいねえ」 「銀時達と飲んじょっても、皆別の色を見るぜよ、きっと」 「だろうなァ。……いい酒だ。飲むぞ、辰馬、陸奥」 一瞬、高杉のもうないはずの双眸が見えた気がした。炯炯とした紅蓮が燃え続けている。 もう酔いが始まっているのだと、坂本は思った。時、既に、遅し。 「晋助、どっちが先に潰れるか、勝負ぜよ」 「受けて立つぜェ」 「どっちでも構わんが、見苦しく吐いた場合には掃除夫になってもらうぜよ」 乾杯に加わりつつも、冷静に陸奥が口を挟む。口調がきついのは前科があるからに他ならない。 「俺様は客だぜ」 「ワシは、晋助を客だと思ったことはないがな」 「密航の上、好き放題し放題の馬鹿は客とはいわん」 会話が止まる、一瞬の間隙を縫って乾杯をするのは、誰と飲んでも変わらない。喉を焼く熱に耐えながら、一気に酒を流し込むと、視界に膝を崩した陸奥が見えた。そういえば、船員達と飲んでも姿勢は崩さない彼女がだらしなく座るのも、泥酔するまで飲むのも、高杉が来る時だけだ。だらしなさは伝染する物なのか。そう思った辺りで、心臓に直接突き刺さったかのような、熱に思考を持っていかれた。 (………暑い) 不意にそう思った。そして、陸奥はその地点で、冷やされた、と静かに溜息をつく。 時計を見れば、飲み比べが始まってから既に一刻が経過している。酒に弱いというわけではないから、全部ではないだろうが、意識を失った時間があるのは明白。この危険な男が二人揃うとろくな事が無い、そう考えを新たにして、もう一度乱暴に杯を開けた。 まるでその感覚は、氷の塊が喉の至る所を傷つけながら通過していくかの如く、投げつけてやりたい幾万の言葉を奪って内臓を直接傷つける。 頬杖をつき、無心に酒を喰らいながら、騒がしい男達の醜態を観察する。 「……辰馬ァ。お前、久しぶりに…一弦琴弾かねェ?」 「都都逸でも、やるがか?」 「いーねぇ、三千世界も、いくかァ」 「おんし、ほんとに自分大好きじゃなー。ハッハッハッ」 「クックックッ、俺ほどの男が自分嫌いでどうすんだよ」 「背が低い所とか。怠け者な所とか」 「身長はともかく、お前には怠け者だとか言われたかねーよ!」 「馬鹿いうでなか。金時と、ヅラと、晋助と並べて、一人前社会人はワシだけじゃ」 「おーそーか、比べる材料が虚しいが、まァいい。俺の三味線も持って来いよ、怠け者じゃないんだろ」 やられた、という顔になって渋々席を立った坂本の脚は、少し震えが走っている。 それを見て高杉がニヤニヤ笑う。 その笑顔は間違いなく、陸奥がこれまで出会った人間の中で、最も忌むべきものだ。 あれは、人を多かれ少なかれ、不安定にし、後ろを振り返らずにはいられない心境を生み出す。正面からは見られない(そして、見られるようになった時が、奴らに地獄へ引きずり込まれた時なのだ)。 身に潜む、凄絶で切ない、彼の苦しみを文字列にすることは出来る。彼らは知らなかったと言い張るだろう。でも、陸奥には、これをこうしてこうすればこういうことになる、と全て彼らがわかっていて、気がつかない振りをしていただけに思える。高杉も、遠くにいると思っている坂本も、桂も、そして一番過去を見せないあの銀髪すら。 高杉の嫌いな所をあげろ、毎日やる経理の計算より簡単に、あらゆる物事を上げられる。一番最初はこうだ。その憎たらしい笑顔に、苦しみが一片も見られないところ。 「なァ、陸奥ー」 暇だ、とずるずると這って来るこの男。ああ、それを隠しているだろうとも。ついでに、見せるところでは見せているだろうとも。だが、ここでは見せない。彼にとって宇宙は緊急避難所と同義で、陸奥は暇つぶしの道具でしかない。桂は巻き込まれないだけ充分にましだ、と言う。判断の難しい所だ。 「……今思いついたんだけどよ …ォ」 「おまん、そろそろ限度じゃな。どうせくだらないことじゃろうが、言ってみい」 「寝ねぇか」 この男は、一体どれだけ自分を諦めさせれば気がすむのだろう。 力が入らないらしく、だらしなくしなだれかかってきた酔っ払いを引き剥がす。 「お前、辰馬とは寝ねぇんだろ」 「それで、あの馬鹿を引き止められるのなら、いくらでもやっちょる」 「うわァ、怖ェ女。……ついでに、賢い女は苦労すんぜ」 「おまんが賢くなかが、やっかみか?」 「俺は勘の男なんだよ。そして女は馬鹿くらいが丁度よい」 嗚呼、ロクでもないこの男。 「なら、ワシは落第じゃ」 「でも、丁度いい女はつまんねぇ。そーいや、俺、お前と寝た事ある気がしてきた」 「……忘れた」 「じゃあ、俺も忘れた。……辰馬が、帰ってきた」 そう言って、離れる一刹那、高杉の武骨な指が首を撫でていった。 残る熱は、恋の色を反転させた色で、呪いの色を果てしなく薄くした色をしていた。 酔いの色。 「辰馬、三千世界やるぜ」 「じゃ、久しぶりに弾くかのー」 二人の男の、ロクでもない指が、世界の弦に触れる。滅ぼしたいのか。 断絶を謡う、慈しみあった、二人の都都逸。 三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい 何度でも思える。この男はどれだけ自分を諦めさせるのか。 離したくない。自分はここを離れたくない。 敵わない。 「坂本、高杉。……一つ、おまんらを謡ってやる」 消えない楔を隠し続ける男と、絶えず人を揺さぶる男に。 夢か現かそれとも嘘か 狂え狂えの夜明け前 三秒後。 大爆笑した坂本と(泣きやがる)、そりゃお前のことだと笑った高杉の両方の足を陸奥は踏んだ。 自分は絶対坂本と離れたら耐えられない。 それを耐えていて、他の連中の分の楔も全部持ってる高杉だから、迷惑でも嫌いでも全てを奪っていく男でも、少しだけ尊敬せずにはいられない陸奥。 陸奥が思ってるほど坂本は高杉に近くなくて、高杉が思ってるほど坂本は遠くない。 ところで、土佐弁と紀州弁ってなんですか。 なんとなく史実高杉も目指してみた。 |