人生が迷路のように曲がりくねり、その周囲に浄も不浄も入り混じった、ぎとぎとした現実が転がっていて、奪った命が道を惑わそうと手を伸ばしてきても、道を構成する土、草、頭上の空の色には萩の風情が一滴だけ染み込んでいる。なぜなら、血まみれの足で道を踏み荒らす自分達ですら、どうしようもなく立ち止まってしまった時には、魔法のように見慣れた顔と声が断片的に寄り添ってきて、彼らがいなければ思い出せなかった記憶を浮かび上がらせ、足を取り戻してくれるのだから。そうして足を得た後は友を置き捨ててあさっての方向に走り出す。全く自分達は、分からなくていいことまで伝えられるのに、分からなければならないことだけ黙殺し合う。言葉が足りないと分かっているのに、言葉を尽くさない。だからこそせめて、置いて来た思い出だけは、共に抱えていこうではないか。 (そう言いたいのは、誰か) 少し黄ばんだ障子に、黄色と橙色を混ぜたような陽の一筋が触れた。糸のようだった光は時間を待たず次々と仲間を引き寄せ、強い日差しとなって、部屋の中の夜を追い払う。 闇が抵抗むなしく薄れ、橙色に変わる。同時に瞼の裏も同じ色に染まった。 朝だ。 そう感じた瞬間に、俺は布団から跳ね起きた。橙色の光に出迎えられるかと思ったが、意外にも外の空の半分がまだ群青色を保ち、残りの半分を朝焼けの薄い赤色が染めていた。 しばらく朝焼けをぼんやり眺め、それから慌てて着物に手を伸ばす。急がなければ、せっかく早起きした意味がないのだ。 廊下を駆けたい衝動を抑え、古い床板の軋みで家族を起こさぬよう静かに居間に向かう。 一歩一歩進むにつれて、味噌汁の匂い、卵の匂い、そしてそれらを全て包み込むように炊き立ての白米の匂いが漂ってきた。きゅっ、と情けない音を立てて腹がなり、少しだけ歩く速度を早めた。 「おはようございます」 「おはよう。小太郎さん」 「いつも朝早くすみません」 居間には、近隣の家も起きるか起きないかの時間だというのに、母上が朝食を作って待っていて下さった。塾は昼からなのにこんなに早く起きる自分にいつも付き合ってくれ、嬉しいのと同時に申し訳ない。「いいのですよ」と笑って、湯気が溢れる櫃からご飯をよそる母上の荒れた手を見ながら、今日もしっかりと勉学を行い、早く楽をさせなければと思った。 失礼にならない程度の速度で朝食を食べ、身支度を整えると、母上に呼び止められた。 促されるまま両手を出すと、小さな風呂敷包みを手渡される。 「おはぎを作ったの。皆さんでおあがりなさい」 両手のささやかな重みに、おはぎと聞いて目を輝かせるであろう天然パーマが浮かんで消えた。昔は、母上の差し入れは昆布とか漬物とかだったのに(勿論、とてもおいしい)最近甘味が多くなったのは、銀時のためであると知っている。恥ずかしいことだが、俺の家で銀時に好意的なのは母上だけなので、このような早朝にこっそり渡してくれていることも。 玄関先でもう一度礼を述べてから、玄関から飛び出す。出迎えてくれたのは快晴で、所々に捻じ曲がった形の雲が浮いている以外は高く青い空だった。 (さて、どっちから行くか) 門を出たところで立ち止まる。気持ちは急くが、これは重要な選択だ。 選択は二つある。一つは村塾への近道。だが、こちらは藩校明倫館の近くを通らなければならない。友人に会う分にはいいが、高い確率で先生の高い志と高度な学問を理解しない愚か者達が、藩校ではなく村塾に通うことに嫌味を言ってくる。いちいち言い返すのもぶちのめすのも面倒だ。 二つは少し大回りになるが、松本橋を通っていく道。急がば回れというし、あえてこちらから行くか。いやしかし、俺が裏をかこうとしているということは、近所の馬鹿も同じことを考えている可能性大だ。人間が出来ている俺と違って、何かにつけて張り合わなくては気がすまない馬鹿を相手にするといつの間にか汗だくになっていてよくない。 俺は、裏の裏をかこうと思って近道に足を向けた。 (………) やはり止めた。なんで高杉のために俺が道を変えなければならないのか。 「………おはよう高杉、ところで貴様、道を変えないか?」 それなのに、大通りに出る頃には、熟慮の結果を悔いることになってしまった。丁度通りの左側から見飽きた顔が早足で歩いてきて、失礼なことに目が合うと「げっ」と呟いた。 奇遇だな。だが、それは俺の台詞だ、高杉。 だがここで、高杉の挑発に乗っては口喧嘩になり、学問前に余計な体力と知力を消耗することになる。何より恥ずかしい。早朝とはいえ、大通りに来るとぱらぱらと通行人もいるのだ。 「バーカ!俺の方が先にこの道歩いてたんだよ!お前が変えろよ、ヅラ」 そうだというのに、高杉は全く人に対する迷惑を考えず、自己中心的な言葉を吐く。……この野郎。 「ヅラじゃない桂だ!後先は単に地理的な問題だろう!俺は断固としてこの道を選ぶが、朝から貴様と登校したくない」 「俺の台詞だ!」 「あ、待て!卑怯だぞ、貴様!」 勝手に話を打ち切って走り出した高杉に、素早く横を抜かれ、顔にふわりと風が当たる。 「バーカ!戦略ってやつだよ」 毎度思うが、その勝ち誇った顔ムカつくぞ。問答無用で蹴りを入れたい。この温厚な俺をこれほどイラつかせるのだから、貴様は敵が多いのだ。 頭の片隅で冷静に思いつつ、息を整える暇もなく、駆け出す。早朝の冷気が一度上がった気がした。 あの馬鹿だけには負けたくない。 早起きの者達が活動を始めた城下町では通行人を交わすのに苦労して追いつけなかった。高杉は妙にうまく身体をかしがせて、障害物を避けていく。直進しているようにしか見えないのに腹立たしい。 だが純粋な直線距離では俺の方が速いので、松本橋付近の直線で距離を縮めた。もうその小さい背中は手が届く位置にある。 距離を確かめるために後ろを向いた高杉と目が合った。一瞬、火花が散ってすぐに消える。目の前には、松下村塾に続く長くうねった坂がある。最後の勝負だ。 「うりゃあああ!!」 一歩が重い。 家から走り通しの肺には空気がほとんど入らず、入ったとしても穴からすぐに抜けていく気がする。 正直止まりたい。だが、よろけながらも高杉が走っている以上、止まれない。 「ちょ、お前ら!?」 そして、ほとんど目の前など見ていなかった俺と高杉は同時に、玄関にいた白い物体―――銀時に激突してようやく止まった。 「おい、銀時。貴様、午前の講義から爆睡するとは何事だ。そのようなだらけた生活を送っているからパーな毛が生えてくるのだ」 「…………ぐー」 昼時、駄目な学友に親切丁寧な忠告をしたが、当の本人は机に突っ伏したままもぞもぞと動くだけだった。銀色の髪がぴょこぴょこ跳ね回るのが、綺麗といえば綺麗だが、おちょくられている気もして苛々する。 そして俺にはお見通しだ。銀時のこのいびきは狸寝入りだ。 「銀時ィィィイイ!!!」 「ぐーがーーぁぁああ」 耳元で叫んでみると銀時は更に大きないびきを出して対抗してきた。こしゃくな。 「馬ぁ鹿。テメーは叫ぶだけしか能がねえのか。ココを使え、ココを」 声だけで分かっていたが一応振り向くと、額に手を当てたどこかむかつく格好で高杉が立っていた。どうでもいいが、貴様、すごく悪い顔だぞ。本質が透けて見えると言おうと思ったが、先ほど掃除をしていた銀時に激突し、ゴミを撒き散らした俺達は松陽先生に「放課後お掃除してくださいね」と微笑まれ、罰掃除をすることになっている。余計な喧嘩をしているべきではない。 「では貴様がやってみろ」 「よし、ヅラ、お手を拝借?」 にたあ、と効果音が聞こえるような笑みを浮かべて、高杉が両手を銀時の背に当てた。 「合点承知。だが俺は桂だ」 本当に悪いことを考えさせた時だけは高杉、貴様は一流だよ。他は全て俺が勝るがな。 「「銀時、覚悟!!」」 高杉は背後から腹を、俺は脇から未だに反省の気配を見せない馬鹿を思いっきりくすぐった。 「高杉ィィ!ヅラァァア!!どこ行きやがったァァァ!!」 心の狭い銀時は、くすぐりに耐え切れず教室を転げまわった挙句におやつを一つ潰してしまったのが嫌だったらしい。講義が終わった瞬間、すごい形相で追いかけてきた。 とりあえず一度は振り切り、庭木の上に避難したものの、銀時が走り回りながらも門をしっかり見張っているから帰るに帰れない。 というか、そのおやつは母上の差し入れのおはぎだ。むしろ俺の方が怒るべきなんじゃないか。そして貴様は、潰れたものも普通に食べただろう。どうせ綺麗な形で餡子の一粒一粒を眺めるのが楽しみなんだとか言うのだろうが。 だが、食い意地が張った銀時が甘味関連で怒った時は何を言っても無駄で、口で言い負かそうにも問答無用で殴られるから無理だ。高杉に知られたくないから言わないが、銀時は食べ物が関わった時だけ恐ろしく満面の笑みで殴ってくる。普通に怖い。 「おい、ヅラ……」 見つかれば間違いなく酷い目に遭う状況下で、何故か隣から声が聞こえた。 馬鹿が、見つかったらどうするんだ。 「なんだ、貴様まだここにいたのか。頭が働かないからといって隠れる場所を真似るのは止めろと言った筈だが」 ここは隠れる場所の少ない塾内で、先生に迷惑をかけることなく隠れられる絶好のポイントだぞ。 「アホか。そりゃお前のことだろーが。ヅラ、お前、船幽霊なんだから木登り苦手だろ?無理するなよ」 「馬鹿め。まぁ、貴様より水練が勝っていることは認めるが、木登りも負けはせん。お前こそ無理をせず大人しく銀時に殴られて来い」 「ヅラが行けよ。今日の授業でやった戦術的犠牲って奴だ。学んだら実践が信条とか言ってただろ?」 「それ以前に俺は友達思いだからな。まずは高杉、貴様に貴重な勉学の機会を譲ることにしよう」 「大丈夫じゃね? 両方、きっちり勉強させてやるよ」 「「へ?」」 近くにいてはいけないはずの人間の声が聞こえて、不覚にも間の抜けた声を隣の馬鹿と同時に発しながら振り向こうとした肩に、がしっと手がかかった。 反射的に高杉の着物を掴むと、逆に向こうにも掴まれる。 そして高杉の肩にも白い手がかかっていて――― 「つーかまえた」 銀時がなんとも爽やかな表情で、にんまりと笑っていた。 ◇ ◆ ◇ 「桂ァァァアア―――!!」 しつこいぞ、狗。 いつもなら適当にからかってやる所だが、今日は少しまずい。癪なので顔色を変えずに走っているが、俺は先ほどから三時間も真撰組に追いかけられているのだ。最初は土方と沖田だけだったのに、連絡を取ったのかわらわらゴキブリのように湧き出て、交代や待ち伏せを重ねられては、俺の強靭な体力も消耗する。そもそも、一人相手にパトカーを使うか!? なんと卑怯な!! 何がまずいかと言えば、俺が持っている包みには銀時の和菓子が入っていることだ。銀時の奴め、たかが親友が家に飛び込んできて玄関が壊れたくらいでキレるとは、なんと狭い心だ。それも俺が悪いんじゃなくて、追いかけてきた狗どもが悪いのに。 だが、菓子を約束して逃れた以上、菓子の状況がそのまま俺に降りかかってくる。もう既にシェイクされている気がしてならないが、きっと気のせいだ。 江戸の市民達を巻き込まないように避けながら、逃げ道を探す。後ろには土方、300メートル先の車道には応援のパトカー、沖田はどこに入るのか分からないがところ構わずバズーカを打ちこんでくる。 ああ、めんどくさい。菓子さえ持っていなければ水路に飛び込むなり何でも逃げられるのだが。 「ヅラァ」 「ん?」 本当にかすかな声だった。江戸の雑踏の中では隣にいても聞こえないような囁きだったが、何故か耳に馴染んで残った。 気がつかれないように目だけで聞きなれすぎた声の主を探すと、一つ先の路地から一瞬だけ毒々しい色の着物が覗いた。趣味は最悪だが、目印としてはそこそこ役に立つな。 俺がその路地に飛び込んだ時には、高杉の背は次の角を曲がろうとするところだった。 「テメェ、よくも毎日飽きもせず追いかけられてるなァ。誰かに気でもあんのか?」 しばらく前から見物していたのだろう(性格の悪い奴では大いにありえる)高杉は、見張りも待ち伏せ役もいない逃走には最適なルートを走り、結果として数分で逃げ切ることができた。 ……なんだかあれだ、狗はムカつくが、高杉の勝ち誇った顔はもっと嫌だな。 「馬鹿言うな。俺は貴様のような手当たり次第と違って、恋愛相手はきっちり選んでいる。まずは交換日記を最低三ヶ月以上続け、この間は二人きりでは会わん。一回目のでーとでは夕食前には相手を送り届け、二回目で水族館、三回目でコンサート、四回目以降にようやくラブホテルでデュエットという風に徹底しておる。故に、あんな野蛮な芋侍など対象にはならん!」 プロのお姐さん達に翻弄される爛れた恋愛しかしたことのない天パや、しょっちゅう違う相手を口説いては不健全な道へしけこもうとする貴様や、それすら超えて病気を持ってくるもじゃ毛とは根本的な考え方から違うのだ。恋愛とはロマンを語ることでも、悪戯に身体を求めることでもなく、あのモヤモヤしたわけのわからん感情に振り回されることにこそ意義があるのだ。 「いや、テメェ最初はウザいくらいに面倒な手順踏んでやがるくせに、すぐヤってんじゃねえか。手ェ繋ぐとか、接吻するとかあんだろうよ」 冗談抜きで背筋に怖気が走って、俺は高杉から飛びのいて叫んだ。 「キモい!貴様、激しく恐ろしくキモいぞ!どの凶悪面で恋人繋ぎや接吻を語るか!? 想像しちゃったじゃないか!うわああああ、気持ち悪い!これ以上気持ち悪いことない!責任取れ!」 夢に出そうだ。高杉の恋愛論を夢で見るとか、うわ、これが所謂グロいか。寝ゲロとかしそう。 「単に吹き飛びすぎのテメェに合わせて話してやっただけだろうが!テメェにだけはキモいとか言う権利はねェ!!大体、俺くれェになるとその場その場で対応を変えられんだよ!そもそも、色恋をマニュアル化してる段階でテメーに未来はねェ。死ね、今すぐ人様に迷惑をかける前に死ねよ」 「………いや、二人まとめて死ねばいいんじゃね?」 議論が白熱し、叫びだした頃合になってようやく横の路地にいた銀時が声をかけてきた。 どうでもいいが貴様、目が虚ろだぞ。大方、高杉の発言に耐え切れなかったのだろう。俺もだが。 「お前らなんですか、色恋語る前にその脳みそが爆発した頭を何とかしなさいよ。なんで追いかけられてる指名手配犯が、頭に鈍痛が走るような議論して怒鳴ってんだよ。捕まるぞ?いや別に捕まってもいいんだけど、むしろ死んでほしいけど、んなアホな死に方させたら寝覚め悪いんだよ」 「銀時よォ、お前、結局俺達が心配なんだろ?なあ、ヅラ」 「桂だ。素直じゃないなー銀時君は、全くもう!」 銀時の怒りと周囲に集まる殺気が高まりだした瞬間、高杉と目が合う。―――まあ、頃合だろうな。 「銀時!受け取れ!」 今まさに俺達のどちらかに飛びかかろうと姿勢を低くした銀時の上方に向かって、土産を投げる。ああ、すまん、和菓子たちよ。決して粗末にするつもりはなく、あの狗どもが悪いのだ。祟るならそっちか胃袋に収めた銀時にお願いします。 「……テメッ」 食い物の匂いを野生の勘で察知した銀時が体勢を崩してキャッチした時には、俺と高杉の手は銀時の腹に伸びていた。 銀時が爆笑と共に崩れ落ち、少しだけ遠くで追跡者の声が薄っすらと聞こえ、刀を抜く音が生々しく聞こえた。 江戸の裏道は細く曲がりくねっていて、灰色と黄土色が混じったような澱んだ色で塗り固められた壁に囲まれている。道の表面にはゴミや痰、ガムの屑がへばりつき、均されていないコンクリートのぼこぼこした部分には時折雨に流されなかった血が着いている。饐えた臭気が立ち昇り、昼間でも相手の顔に薄暗い影がかかるような汚れた場所に俺達は生きている。 「ヅラァ」 ひらりと袖を靡かせて高杉が薄っすらと笑った。 「桂だ」 銀時の怒号はずっと遠くなり、追跡者と言い合いをしているような声が聞こえる。 「まあ、協力してくれたことには礼を言おう」 「へェ、珍しい。素直じゃねーか」 ここは、あの城下町とはかけ離れた泥つきと粘り気を含んでいる。 だが、よく分からないところで、何かが繋がっているような、そんな喜劇的なおかしみがある。 「雀百まで踊り忘れずと言うだろう。貴様らひねくれ者と違って、俺は昔から素直だからな」 「テメェには昔からがっかりだよ」 「俺の台詞だ」 ぼんやりとした形しか掴めないが、昔もこんなことがあった気がする。 どうせこの三人のことだからあったのだろうなと思う心は、夢見がちなご都合主義だろうか。 |
いつかはノスタルジア