どうしてそのことを思い出してしまったのかわからない。 その出来事は自分にとっては必然かつ不可避の結果であって、嘆き悲しむものでも後悔する類のものでもなかったのだ。長年の薄汚れた仕事のせいで病的に骨ばった手―――敵であった男がもしかしたら妻子に伸ばしたかもしれない形の手―――を埋めきった瞬間に、出来事は永劫の完結性を得たはずだった。 銀時はソファーの上で体勢を変え、見慣れた万事屋の天井を眺めた。この天井は好きだった。新しい木材で作られたそれは、日常の中でそれなりに痛んでいたが、何物をも投影したりしない閉鎖的なもので彼を守っていた。 それが今日はどうだ。 傷んでいるな、そう考えが浮かんだ途端、それは故郷の土の色を帯びてしまっていた。 そんな気味の悪い天井を見ていたくなかったので目を閉じたら、土は一瞬で瞼の裏に移動してきた。ごく狭い視界には掘り返されて黒々とした側面を露出した土が映っている。記憶から消えていた人差し指の第二関節分までが空に向かって突き出ていて、それには三方から小さな影が投げかけられ、辺りに陰惨な匂いが立ち込めていた。 一つの影が実体を取り出した刹那、銀時の鍛え抜かれた危機回避能力が思い出してはならないと叫んだが、当然のように無意味に終わった。次の瞬間、影の中から血に汚れた白い着物が現れた。また紺色の着物を纏ったもう一つの影が、近くに落ちていた刀を掴んだ。最後の影から袴が姿を現し、続いた子供の手が懐紙で、紺色の着物の腕が抱えた刀の血を丁寧に拭い始めた。 ―――最後に、白いかつての自分の腕が、突き出た指を完全に地中に埋めた。 三つの影がゆっくりと去り、その歩に合わせて追憶も移動を始めた。黒一色の視界に、風雨に晒された街道の土が混ざり、かすかに桃色を溶かした青空が頭上を巡った。 瞳を封じたまま、銀時は萩の城下町を見下ろしていた。音声が直接的に脳髄を刺激し始めていた。無表情のまま彼の表層部は恐怖に慄いたが、さして深くもない辺りから深遠にかけての部分は町への愛しさを感じていた。 萩は故郷としての効能と毒を十分に発揮している。多くの先人達の血と肉が交じり合った大地と、歴史の色を余さずその身に吸収して気まぐれに色を変える空に住人達は根を下ろしていく。 よく根無し草と言われるが、銀時の根は萩の地にあった。覚悟を決めてそれを置き去りにしてきたはずなのに、毒にして優しい故郷の風は逃亡者にも柔らかく帰郷を促す。 ―――あの土地はよくない。今認識してはならないものが詰まっている。その怯えに関わらず、曖昧な記憶一つ一つが思慕の念を呼び起こす。それが故郷というものの本質が今はもういない白夜叉を嗤っている。 そんなことを漫然と考えていたら、今度は萩の薫りまでが侵食してきた。本当に音もなく突然だった。 「おい、銀時。テメー、鍵もかけねェ、俺が入ってきても気がつかず惰眠を貪るたァ何処まで駄目人間になりゃあ気が済むんだ?」 懐かしく傷んだ薫りが口をきいた。おい、この声は幻影にしてはあまりに現実的で嫌な感じなんだけど。夢に沈み始めていた自分の鎖をかろうじて引きちぎって跳ね起きた銀時を呆れ顔の高杉が見下ろしていた。 オイオイ指名手配犯の方、何人の家に勝手に上がりこんでいやがるんですか、と言おうとしたが口から出てきた言葉は普段なら絶対に言ったりしない―――高杉や桂が望んでいる種類の―――言葉だった。 「………高杉。お前、萩に行ったの?」 銀時は目の前に来ていた高杉の黒髪に緩慢な仕草で指を絡める。確かな黒という色を無視して、指に絡み付いて離れないそれは鮮やかな青空の色に見えた。 「嬉しいこと言うじゃねェか。その通りだよ」 わかるに決まっている。 今日の高杉は突き放せない。この男に触れていいことは何もないとわかっているのに、自然に彼の肌を求めてしまう。こんなのは異常だ。銀時にとっては不幸なことに、彼は故郷の空気という最強無比の鎧を身に着けてやってきたのだ。 髪から手を外し、骨の浮き出た首筋をなぞる。銀時は、俗に言う愛撫の行為の皮を被った略奪の行為―――珍しくも高杉の方が人間の体温を保ち、銀時の指は死人のように冷たかったので―――に反射的に身を引いた高杉の腕を素早く捕まえた。 「高杉ィ。飲もうぜ。ってゆうか酒出せ」 拘束されたまま、高杉は高らかに笑った。 正直、ここ数年でこれほど歓喜の波に身を任せたことはなかった。 目の前の夜叉を封じた男は高杉を獣と呼ぶが、飢えを満たそうと首筋に噛み付き始めた彼こそが獣だった。ここに来る度、忘れかけた切なさを思い出して苦しむが、稀に彼の中の夜叉が生きていることを感じられる。わだかまる修羅すら殺し喰らえる白夜叉は眠りながらも健在なのだ! 「丁度よい。萩で買ってきた酒があらァ」 「なんて酒?」 「夜叉。……酒が飲みたかったら、一度がっつくの止めろ」 はたして銀時はすぐに高杉を放り出し、いそいそと酒杯を取りに台所に消えた。一体何があったのか知る由もないが、今日の銀時は夜叉に恐ろしく近い。普段なら恐れるであろうその名の酒を、その身に取り込むことを喜んでいる。 酒の包装を解きながら首筋に触れると一度の接吻で血が滲んでいた。 ああ、気まぐれに任せて夜叉は修羅を殺せばいいのに!そして正気に戻り後悔する瞬間に、死んだ修羅の心が流れ込んで、夜叉と修羅を併せ持つ―――終わらせるための男になればよい! 喜んで殺されるのに! 並々と酒を注ぎ、杯を合わせると酷く濁った音が空気を振るわせた。耳障りな音であったが、自分達にはふさわしい。二人は気にせず一気に杯を空けた。 銀時は舌の上を甘い液体が通過するのを感じた。我々はこの酒を知っている。あの時の共犯者達に今は追い詰められているのだが、それは思い出とは別次元の話だ。 思い出す。先生の書斎にこっそりと忍び込み、三人でほんの少しずつ舐めあったことを。名前に似合わず花のように甘い酒だった。当然強い酒に耐性のなかった頃の話、すぐにばれてこっぴどく叱られた。そう思うといい年をして、これだけで酔った気がする。 「なあ銀時。俺はたいした用事もなく帰省したわけだが、道々この酒のことを思い出したんだ。一歩萩に近づくにつれ、今までは他の鮮やかな残像に打ち消されていた色彩の薄い思い出が心に滲み始めてな。だが、どう思い出そうとしても俺はその酒の名を思い出すことが出来なかった。………村塾には入れない。先生は答えてはくれない。仕方なく酒屋に片端から酒を注文して一日飲み続けた。花椿、残雪、月光、大地、春……先生が愛した名前のついた酒を全て飲んだ」 人と比べてもかなりの酒量を持つ高杉ですら、最後の方は吐きながら、それを探した。だが飲めば飲むほど中枢神経の麻痺という生体的反応と、濃淡様々の過去が混ざり混沌の色を帯びるという精神的反応からその味が遠くなっていった。 自分達は過去の檻から逃れようともしないまま鎖に繋がれて生きているけれど、その愛してはいけない鎖は所々知らないうちに解像度を落としていくのだ。消えない、しかし薄らぐ。 皮肉にも過去の薄れを憎む高杉の鎖は静かに淡さを増し、それを望む銀時の鎖は願えば願うほど濃さを増してゆく。 「俺はその時になって、村塾の思い出が遠くなっていることに気がついた。これ以上堕ちる所なぞ思いつかないというのに、その自覚は果てない不安と共にあった。不安を認めてしまった瞬間、俺は酒の名を思い出した。……懐かしい名であったと探したのだが、その名は俺達が後になって懐かしいものと認定した名だったんだよ。きっと先生は名を気にせず、この酒の甘美さを愛したのだろうが、記憶を手前ェに都合のいいように塗り替えていく俺達は、事実を捻じ曲げて名を勝手に愛していたわけだ」 かなりの勢いで杯を口に運んでいた銀時の笑みにひんやりとした冷たさが浮かびあがった。 「へェ?意外なこと言うんだね、高杉。お前から過去取ったら何が残んの?」 文節ごとに挟まれた僅かの沈黙には、鯉口を切る瞬間に流れる情熱と冷静さが同居していた。 自らの発声器官からそれらの感情を吐き出した男は、目の前の男を抉るつもりなのか、慈しむつもりなのか。 「そうだな……刀と酒と詩くらいは残るだろうよ。だが、よしんば俺が――桂がと言ってもいいな――全ての過去を忘却してしまったとしても、決してそんなことにはならねェんだよ」 緩慢に、しかしながら迷いなく高杉の手が銀時の首筋に伸ばされる。 その首が途切れていないことを確かめるように耳から首をなぞり、頬に触れた。激情をかつて夜叉であった男に任せた高杉の愛撫はこの上もなく優美で静かであった。 我々は、もはや無意識のうちにでも対極の行動を起こせるのだ。 「俺が過去への執着を失った時は、銀時――テメーが過去に執着を再び起こす時だからさ。鬼同士の関係はよく出来ていやがる。確かに俺達は正反対の行動を取るようになったが、完全な対極というものは、完全な輪と同義だろ?輪は巡るが結果は変わらず、どちらの選択をするにせよ、どちらかが真逆の選択をすれば、何も失われるものはない。愉快だろォ?」 口調は現在のまま、高杉は不器用に泣き笑いのような表情をした。 今となってはそぐわないものに成り果てたかつての笑みはごく自然に現れた。過去の断片がまた別の断片を呼び起こし、誘い寄せる。酒という形を取った高杉の思い出が、同じ過去の空気を吸った者と一方的とはいえ共有されることで、その輪郭を取り戻していた。 つまるところ、高杉と銀時は互いに自分に致命傷を負わせ得る者同士なのだ。 高杉は銀時の幸せを壊す男であり、銀時は高杉の絶望を食らう男である。 だが、相手を切り捨てる行為もまた致命傷と同義なのだ、哀れなことに!例えば相手の首を刀で飛ばして、三日三晩生首を抱いて泣いて、それから故郷に彼を斬った刀と遺体を埋めて、かつての彼の声を聞かぬようそして彼に絡むものを何も見ぬよう、耳を塞いで目を閉じて生きたとしても、気がついた時には自分が彼の生き様を再現しているはずなのだった。 「高杉」 銀時の、二人だけが見える血に塗れた右手が高杉の利き腕を捕らえる。右手一本に夜叉の虚像が映し出されていた。容赦なく高杉の右手首にこめられた力は、間違いなくそれを折ろうとしていた。 「―――お前、どーしたらその憎たらしい面と口が機能出来ねェくらい、ボロボロになってくれるんですかコノヤロー」 日ごろの口調で、だが凄絶な微笑を浮かべてそう言った銀時の口腔から真紅に燃える舌が覗いて二人を嗤う。果実が腐り落ちる寸前の甘さと爛れた抉りあいの色が部屋に充満した。銀時は高杉が痛みに少し顔を顰めたのを確かめてから、空いた左手で高杉の髪を鷲掴みにして、強引に引き寄せた。相変わらず高杉の体はされるがままという状態で、それが一層銀時を苛立たせ、衝動に任せてその唇に噛み付かせるに至る。 無意識下の意味では、戦いの風に焦がれる白夜叉が望むものを修羅から奪い取る行為。 現実の意味では、銀時が過去の象徴を恐れ、憎んで、どうにか調伏したいという苦し紛れの行為。 無意識よりも更に根底の意味では、出会ってしまった宿命を嘆きながらも、互いを愛する矛盾の意味。 どこまでも哀れで愚かな男達よ!夜叉も修羅も狂乱の男も、誰かが止まれば止まるのに、それを知りながらも知らないふりをして、泣きながら各々の膿んだ傷に別の誰かが刃を押し込んでいる! 高杉が目線だけで笑った。唇はかつての忘れえぬ熱を再現して熱かったが、相手を絡め取る視線はこれ以上ないくらい冷たかった。この男は、常に一番わかってほしいこと(理解したら今の坂田銀時がいなくなるのだけれど)だけを知らぬふりをする、と高杉は心の中で吐き捨てた。 だが、坂田銀時は馬鹿ではあっても愚鈍ではない。我々は愚かではあるが、真の意味での逃亡者ではない。誰か一人が逃げたなら、きっと今頃墓の中。 口が一瞬解放された瞬間を狙って、高杉は流麗に言葉を紡ぐ。 「テメーがこっちに戻ってきたらだよ。なんでもさせてやるぜ?まあ、俺か桂かどちらかは残らねェと寂しがりやの坂田君が泣いちまうかもしれないが。俺を嬲り殺すもよし、新しい刀の試し斬りに使うもよし、共に喧嘩するもよし。いくらでもテメーのために泣いてやらァ。―――なァ、銀時ィ」 もはや銀時の目には、冷ややかを通り越した、日頃は心の奥底に眠る消えない氷点が浮き上がっていた。予感は完全に確信に変わった。―――高杉は、謀っていたのだ。 萩に行った所までは気まぐれであろうが、そしてこの最悪のタイミングで故郷の風を纏ってやってきたのは偶然であろうが、しかしながらその他の全てを計算して来ていたのだ、この憎むべき修羅は! 高杉は薄れた過去を回復するという自身の目的のために銀時を利用し、かつ必死に忘れようとする幾多のことを脳裏にべっとりと塗りつけていった。酒に油断した自分も自分だが、そういう油断するようなアイテムを提示し、一つ一つパーツを埋めるように白夜叉の生命線を刺激し、俺の生命線を抉っていくこの男をどうしてやろうか。 もしこれが桂であったら、自分のことは棚に上げて彼がいかに可哀想で救われないかを言い尽くせば、ある程度の報復にはなる。現に銀時は幾度となくその残酷な方策で桂を傷つけてきたし、これからもそれを続けるだろう。 全く高杉はたちの悪い最低の男だ。(笑えるくらい自分と同様に!) 何故なら彼は救われないことをとうの昔に承知しているのだから。 恐らく鬼兵隊粛清の辺りに、この世で一番可哀想なまま激しくなることを決めてしまったはずだから。 いくらでも傷つけてやりたいけれど、俺もなりえた姿を消すことは出来ない。斬った瞬間に、ぎらついた目の俺が、過去に背を向けて嫁さんと三味線を弾いている高杉を追っているかもしれないではないか。 「高杉……俺はお前が憎いよ」 言うが早いか、銀時は高杉の首筋に噛み付き、甘ったるい匂いを胸一杯に吸った。 こうして触れ合う度に加速度的に患っていく。 「ああ、俺もお前が憎いぜ。脳天から足の爪の先まで憎くて憎くておかしくなりそうだ。――だがなァ」 銀時の危機回避能力が先ほどよりも更に騒いだ。(いけない!この先を聞いてはいけない!)もはや暴走にも等しかった。 嗚呼なんて馬鹿なことをしたのだろう。こんな高杉でストレス解消をする暇があれば、問答無用で奴が一言も口を出来ない位に弱らせておくべきだった。 修羅もまた夜叉をむさぼり喰う。高杉はこの一言を突きつけるためだけに、他の全てを―――下手を踏めば俺達の致命傷になりうる事柄すら―――伏線に使っていたのか! 「もういい、黙れ高杉!!」 高杉はあっさり現在の毒を含んだ笑みを取り戻し、命令形の形を取った嘆願を一笑に付した。 「同じくらい、絶望的に、焦がれてるよ」 ああどうしてこいつと会うたびに何かしら一つのことが終わっていくのだろう、本当に夢ではないかと思うほどあっけなくこいつは俺から何かを奪えるのだろう、奪われるくらいなら奪おうと心に決めてそれなりに奪ってきた俺からいとも簡単に、まったく俺達は常に終わりに身を切られながら生きている、しかし全ては終わらないどうしてどうしてどうして、罪だけが果てないのか!! 家族、故郷と呼ばれるものに憧れた心を思い出してしまった日の話 |