その答えを知るのは早すぎても遅すぎてもいけなかった、何故なら早すぎればまるで八百屋お七の如く独り炎に焼かれて無様に消え逝くばかりの末路で、遅すぎれば最期には何も残らない事を毎日悲しんで生きなければならないからだ。




人魚の墓に後ろ髪




その庭先は色褪せた赤色に埋め尽くされている。誰が手入れをしているとも思えないのに整然と砂利が敷き詰められ、色の大半を白色が占めるその場の赤は冴えるようでありながら、同時に風化しようともしていて 風が吹き抜けるたびに小さな円心を控えめに描くそれは、目をぼんやりとさせ、遠くを透かし見るようにして眺めると幾重にも重なるグロテスクな万華鏡に似ている。


彼は氷水のたらいに埋められた自分の足を同じ円状を描くように動かした。爪に、指先に、水が触れる範囲全体に痛みを伴う冷たさが広がっていく。 からん、からん、と中の氷が奏でる音は割りと好きであったが、なにしろあまりに不調和に過ぎる。
通り抜ける風。彼を蝕む消えてはまた現れる鳥肌。それは果てしなく不均衡な夏だ。


彼の纏う粗い木綿の絞りは鮮やかな群青の色をしていて、現在進行形の拷問に精一杯の抗議をする彼の骨ばった足は霜焼けとあかぎれの薄い血の色を滲ませている。
覆い被さる重量を持つ空は平坦な灰色。きっと幼馴染の彼女の浴衣は赤か紫だろうと彼は思った。彼女は自分のこれからの生き方を映す色を好むのだ。
重なり合う日常の色々それぞれがアンバランスを競い合っている。

「全蔵、ソーメンできたわよ」

あ、やっぱり赤だったと全蔵は気だるい返事を返しながら思う。彼女はあの浴衣が好きで、夏祭りの時には芸がないと思えるほどいつもそれを着ていた。
黙々と皿を並べる彼女――さっちゃんは、その薄紫の髪をこれまた深紅の簪で結い上げている。あの男は確かに赤色など太陽の色が好きで、それを丁寧に映しこんだような男だったが、どうしてか必要以上に青に焦がれる奴でもあった。彼女は彼女なりに、精一杯の抗議をしている。抗議即ちまだ世の中にどうしようもないものなどないと固く信じていたあの頃の名残。

「おい、猿」
「さっちゃんとお呼び」
「足がヤバい。凍傷でもげるかもしれない」
「もげろコノヤロー」

地味にありったけの勇気を振り絞って水牢から足を引き抜けば、予想より数段酷い痛みが襲った。
先ほどまでの思考の一片には、世の中にこれほど冷たいものがあるのかという思考が確実に埋もれていたはずだが、まだ水の中は暖かかったようだ。風が容赦なく水分を蒸発させ、足から残り僅かの熱を奪う。
多くの者は何も知らない。もしかしたら俺達も何も知らないまま人生を終えることが出来るかもしれない。でも、その事実を知ってしまう確率は俺達が殺しをやめる確率よりは高く、例えば攘夷戦争後天人が地球から消える確率よりは低いような気がする。現状況で不可能の下にあり、確率に挑もうとさえしない領域よりは上にある程度に過ぎない。
だからそれを知るのは運の悪い奴だ。あいつは不幸なんかじゃない。運が悪かった。どうしようもない状況の下の、どうにかしようとさえ思わなくなる瞬間をおそらく味わってしまったであろうあいつは。そしてこれから味わうかもしれない誰かは、俺達は。



猿が持ってきた素麺にはあらん限りの憎しみを篭めて青い氷が敷き詰められていた。素麺の無機質な白が、その青い氷を捕らえるように絡まっていて、それは今まで食べた素麺の中で一番おいしそうに何故だか見える。
視界に飛び込んだ鋭角的な氷の光を無言のうちに憎む。それは生まれて初めて経験した―――恐らくは、影としての一生の中の最初で最後の―――あまりに真っ直ぐな憎しみだった。

「というか、マジ寒いな。つーか、氷入れすぎだろ」
「五月蝿いわね」

じゃあ食べるな、とも黙れ、とも言わず二人は向かい合って腰をおろした。一時申しわけ程度の沈黙が下り、続いて再び雑談が始まった。心の最下層に沈んだ悲しみと憎悪とやるせなさの結晶だけが静寂を主張するのに、口は回る回る。彼ともこんな下らない話をしなかったものだから、それしか再現出来そうに無い。

先ほどから視界を吸いつけてやまない鋭角の青。一片の温もりも美しさもなく、只の世界一醜い石に成り下がっただけの物のくせに、破滅的に輝いている。恐ろしく不快だった。



思い出さないほうが幸せなのに思い出す。
醜いの裏には必ず美しいがあるとあの男は言った。大して気に求めていなかったが、今思い出せばあの時が戻れない一点だった。氷点は酷く突然に。喪服も着ない俺達の氷点イコール彼の沸点だったなんて。

曰く。

あの女は花街という特殊な場で生きるうちに泥に塗れ、俗に溺れ、恐ろしく醜くなった。夢中になるんだよ、それでも。だと。
お前は醜さと美しさを同時に内包できるほど器用ではなかったくせに。


(全蔵。お前も絶対そういう女に惚れるって)


彼はこれ以上ないくらいに自信満々だった。迷いなどなかったのだろう。
そんな彼の絶望は緩やかでなかった。

最期に怖い事言ってくんじゃねーよ、そう呟くと猿はバカばかりで嫌になると吐き捨てる。守ってもらうだけの女なんて最低、でも守らせもしない女は殺してやりたいと彼女は続ける。
この世でテメーみたいなわけのわからん女を守れる男はどれだけいるのか疑問は残るが、――いやうちの親父とかなしな?―― 一応意味はわかる。

理解しがたいのは、先ほどの理論からすればコイツはきっと裏稼業の男に惚れるだろうってことだ。
女ってのは全く持って意味不明。ガキの初恋(俺なんか時々団子をくれてた茶店のひとつ年下のおかっぱだった。食い気じゃねえか)には似合わないくらいの勢いで、裏稼業には到底向かないアイツに惚れたくせに。
忍の命運を呪いもせず、あがらおうともせず、それでいてあの女と逃げても差し支えないくらい無責任な人間になりたかったアイツの愚かな所に惚れていたくせに、どうしてそれとは反対の奴を理想に掲げるのか分からない。



今度は、しん、と嘘くさい沈黙が下りた。
猿が無造作を装って箸を取る。そう監察する静かな心の合間に、自分も箸に素麺を絡めている。

「高級簪も形無しだな」
「そうね。長年修業を積んだ職人が日夜宝石なんてものを見極めて掘り込んで、馬鹿な男が自分の使う消耗品も惜しんで貯めた金でようやく買った簪も、私がその消耗品で一突きすればこのとおりバラバラよ」
「ついでにそれは、何も知らない俺たちの汚れたままの歯で噛み砕かれて、彼の想い等一生涯理解できない俺たちに食われるしな」
「笑っちゃうわよね」
「まったく」

明日には、日々を生き抜くのに忙殺され忘れているだろうが、それを嘲笑う事も出来ないほど無意味で馬鹿馬鹿しいもののように思った。
いや、それら、か。冬に女にやれば粋がないと言われるに違いない簪も、彼が失った夏にしがみつく俺達も、何処かに置き捨てられた彼の死体も、それを回収に出かけた仲間も師匠も。
嗚呼、それどころか、今も客に足を開いているであろうあの女も、猿が将来惚れるであろう鬼に近しい男も、あいつが残した俺への呪縛も。

「……過去にのみ価値がある…」
「なによそれ」
「や、なんとなく」
「どうでもいいけど」

過去にまで価値がなくなるならとうの昔に死んでるって言うんじゃない、と彼女は言った。
人は全てを取捨選択して生きていく。何もかもを捨てなかったとしたら、このくそちっぽけな存在が背負いきれないくらいの未来に潰されそうだ。
俺達は現在を捨てていくのかもしれない。

昔は過去に縛られるなんて病的だと思っていた。あまりに流動的な職なものだから。
今は過去に縛られることこそが、人への最も明確な啓示たる気さえする。
復讐、追跡、逃走、そのどれもが自由にならない忍という職が憎い。


覚悟を決めてそうめんにその宝石を絡める。
馬鹿な男、馬鹿野郎。
お前が命を捨てる羽目になったものはこうして消えていく。
残念ながら俺達は愛する人々ではない。


がり、がり、がり。


病的にそれを噛み砕く。赤い風車が北風に舞う。小袖の隙間を冬が蹂躙。
嗚呼、友よ。知らなければよかったのに。
馬鹿な夏の男。ついにはその炎で焼け死んで、俺達にその心を食われた男。

「知らなければよかったのに」「誰も知らさなければよかったのに」

冬と夏のコントラストが泣き喚く。
何かが哀しい。
何が。



「馬鹿な男」「馬鹿野郎」



夏の似合う笑顔の男はとある寒々しい季節にに俺達皆が知らなかったことに侵食されて死んだ。













………
……
ところで、今日は一度もくしゃみをしていない。
こんな馬鹿馬鹿しい無茶をしても、二人とも、一度も。
答えは簡単。今はまぎれもない夏だからだ。



女や男が出来た奴から死んでいく。身に染みて知っていますよ、ご同輩