To error is people. To forgive is divine. Fuck you! 過ちは人の常、許すは神の業。 くそくらえだ! 振り乱した髪の一房が乱暴に引き千切られ、喉に声にならない叫びがせり上がる。 酒に悪酔いした時に似ている視界は無様な回転を続け――それは自分自身が直立することも出来ない無様さの中にいることと同義であったが――誰かの甲高い哄笑が脳髄に響く。 走れば走るほど、彼の足を貫く矢の先端から憎むべき輩の毒が染み込んでいく。 桂はなんの表情も写さなくなった顔の筋肉だけを動かし、下唇を乱暴に噛む。それは、身を寄せてはならない甘美な誘惑と紙一重であった。走り続ける為の痛みを供給する唇からほんの少し歯を内側に寄せ、その奥にわだかまるものを噛み切れば良い。そこには快哉すらある気がする。許されないが故に、絶望的に惹かれる。 切腹を――否、自害を止めた友がいた。彼は最期まで美しく生きようと言い、確かにあの瞬間、桂は最期まで戦うことを決めた。だがそれは対等の敵ではなく、単なる獲物に過ぎなくなった時にでも適応されるべき誓いであったのか。 友よ。 殺しても死にそうにないが(そういう男達がどれほど死んできたことだろうか)彼もまた人である以上、生死は不明。それでも銀時の言葉は桂を縛りあげたままだ。切腹で死ぬのだと思っていた自分をあっさり打ち砕き、彼はどうしていいかわからなくなった桂を置いていく。 心の深遠でいつか酷い目に遭わしてやると吐き捨てる。様々に腹が立つ。 言い逃げのままいなくなるのかもしれない友に、彼にあっさり決断を譲り渡した自分に、先生のように悠然と死を受け入れられない卑小な自分に。 虚しい。そう無表情のままに嘆く桂の背に一本の矢が突き刺さる。 瞬間、死人のそれのように自らの頭に重みが生まれた。その重みはこの硝子細工のように現実に乏しく、今まさに崩れ落ちようとしている短き人生の中で何度も拝んできた首級の重みであった。 (そうか。―――首になろうとしているのは、俺か……) 体内を駆け巡る毒は急速に生体機能を蝕み、緩慢に彼の矜持を屠ってゆく。 自分は今この瞬間も侍であるのだろうか。 自分は先生の遺志を受け継いだ弟子であるのだろうか。 友と肩を並べていた時の自分はとうの昔に死んでしまっているのではなかろうか。 彼の果てしない孤独を纏った独白の間を捕らえるかのごとくもつれ、雪に沈みゆく足に鎖がかすった。 (生け捕りにしようと) 酷く穏やかな心地がした。 不快な認識が進行するにつれ、白と黒と赤に塗りつぶされたはずの世界はその微細の色を取り戻し、鮮明な光を放っていく。先ほどまで自分の未来を阻む物としか認識されなかった雪はくっきりと美しい。桂は白夜叉の白より美しいそれに目を細める。 自らの血で描いた道標の赤が目に染みる。嫌に高杉に似、異常な鮮やかさを保つそれは二つの決断を孕み、遠い地平線が世界の大きさを思い起こさせる。自分と、追跡者と、死体に群がる鴉と蝿だけが静寂の中で生命力を燃やしている。 生け捕りが何を意味するかくらい、当然わかっていた。昨日の自分ならば憤死してもおかしくない。 世界は変わらぬ美しさであるというのに、一体何がどう変わったのかわからないまま、桂達が愛したそれは消えていて(その姿もぼやけてしまっているのだけれど)、彼自身も知らないうちに変容し普遍への挑戦から落伍していく。 瞳に柔らかで優しい光がよぎる。静やかな狂気に近い。 知らず、桂が信じた精神の楔が崩れ落ちたのと呼応するかのように。 桂の足が氷を踏み破り、足元が割れた。 足元の雪が流れ落ち、鏡に似た硬質さを宿した水に還っていく。 異常気象に守られた強靭な雪の狭間を流れる清水の上に、桂の体は投げ出される。扇状に広がる視界を二分する冬の水。宙に投げ出された、操り人形のそれのように力なくぶらつく二本の腕。 血にまみれた腕を洗い流す時がやって来た、と何故か冷静に思った。 一瞬だけの無音。 (いつの日か、走馬灯について話した。無論、誰もその確たる姿を知らなかったが、死ぬという明確な自覚と身体への衝撃が合わさって、一刹那だけ絡みつく現在から逃れた万華鏡のような時間を味わえるらしい、と。そんな詩人になればよかった男はとうの昔に死んでしまったのだろうが、俺達の中に美しい走馬灯とやらを見ることが出来たのは何人いるのだろう。少なくとも俺はそれを見る権利がなさそうだ。死に方は思っていたよりは普通らしいが。心臓麻痺なんて、状況を無視すればごく普通の死因は俺だけな気がする) 神よ。 桂達は常にその名を嘲笑した。 各々が長々しい言葉で適当に定義していた、救いであったのかもしれないものに冷笑で報いた。 だが、我等に救いは似合わぬ。 白夜叉は、鬼兵隊総督は、宇宙への逃亡者は、自分は、皆は―――救いから逃げ出すかのように、ここまで走ってきてしまったじゃないか! 神よ。 くだらない矜持の形で存在し、誰かの救いを食い潰した神という名にしておいた、何かよ。 断罪宣告は声にはならない。 (ああ、銀時が俺達を捨てた瞬間がわかった) 今この瞬間。俺の心臓が止まる前に偽者のまま死ね。 不思議と凍りつく冷たさというものは感じられなかった。 一瞬、小川に落ちた瞬間に死んだのかと思ったが、一応感じられる緩やかな怜悧さがそれを否定している。手から剣が離れ、流れの中に消えていく。何かを取り返そうという気力はもはやない。 今度は、桂の中で全てのものがぼんやりしていた。 赤と黒と白と微細の色達がありえないはずの共存を始め、今まで見てきたあらゆる色がモノトーンに還元される過程と、モノトーンに極彩色が侵食する風景とが自然に混ざり合う。それはあまりに自然すぎるゆえに狂騒と呼ぶにふさわしく、視界の隅に白と黒と赤が巡り巡る。 白。先生の白。雪の白。銀時の白。死の白。 赤。高杉の赤。血の赤。斜陽の赤。手の赤。 黒。坂本の黒。夜の黒。絶望の黒。無の黒。 曖昧さを内包する世界構造を否定するかのように鮮やかな三色の狭間。桂は緩やかな青を見た。 ……帰ってきたのだ。 子供の頃から共に生きてきた仲間はいないけれど、彼らと生きた場所に帰ってきた。 萩。 俺達の、―――故郷。 (全く、桂さんの所の悪童には困ったもんだ) (ああ。高杉さんとこの、クソガキにもな) ケラケラと甲高い声でびしょぬれの小さな桂が笑っていた。重い着物を引きずりながら岩に這い上がろうとする桂の手を、岩の上にいた高杉が掴む。 「上手くいったぞ、高杉」「見てたよ。さすが悪童の水練だ」「桂家の悪童の名は伊達じゃないだろう?」「だな。早くあがれよ」 桂と高杉はそろそろと阿武川から離れ(そんな行動をしても犯人なんぞこの二人しかいないのだが)、一目散に神社の石段を駆け上がる。 水の音が自分の一部に聞こえるほど神社は川に近く、本堂こそ寂れてはいたが、何よりそこは二人の最高の遊び場だった。 水練の達者な桂はしょっちゅう川に潜っては漁師の船をひっくり返したり、その長い髪を手に絡めて突き出して、漁民の子供を脅かして遊んでいた。漁師の中で「桂の悪童」といえば知らないものはなく警戒もしていたが、たちの悪いことに逃げ足が早い。本気で捕まえようと身構えた日は現れず、安全そうな日に現れてはそういう雰囲気になる前にするりと逃げて神社の上で笑い転げていた。 (類は友を呼ぶ、とはよくもまあ言ったよ) (よりにもよって、あのクソガキが一番の友とはな) (お武家様がどこから悪戯の技術を覚えてくんだか) (俺達のガキの腕前じゃ敵ぃやしねえ) その桂の相棒が高杉だった。女の子をからかう場合等、単独犯の時もないわけではないが、桂が悪戯をする時は大抵高杉が隣にいたし、その逆も然りだった。 高杉は陸地の悪戯を好んだ。明倫館に入学したばかりの子供達を"探検"と称して雑木林に誘い込み(実際に連れて行ったのは桂だったが)、行く先々に回りこみ、山彦を演じて、ついにはそう広くもない雑木林で遭難したと錯覚させて泣かせた時にはさすがの桂も舌を巻いたのをよく覚えている。 半日かけて意味のない場所に掘った落とし穴に、三日後に間違えて自分が落ちたり、遠泳計画の途中で疲れて勝手に漁船に乗り込んでこっぴどく叱られたり。くだらないと思われることは余すことのない、悪ガキ二人であった。 そして二人の迷惑極まりない行動が頂点に達した時、三人目の悪童が現れた。 ―――そう。重力に逆らった銀髪を持つ、無類の喧嘩と甘味好きが。 心臓の音が脳髄に響く。そういえばそうだった、と思い出すことを思い出した。 高杉。銀時がいない時期もあったな。熱い。気がついてはいけなかったのか、それとも気がつかなければ死ななければならなかったのか。というか、嗚呼、まだ生きようとするのか卑屈な俺は! 先生。高杉。銀時。久坂。坂本。誰もが人と出会うたびに、彼の人生の澱みに縛られる。熱い。煩い心臓の音。答えが浮かぶ。歪む。視界が。過去が。決断をしようと、前もって足掻きを始めて泳ぎを始める自分自身が。熱を持って歪む。 (このやろう!) (―――桂!?) 記憶の中で額が割れた。その時の痛みの思い出が、現実の痛みを呼び起こす。桂は目を見開いた。眼球に触れる水は刃のように冷たく、川に落ちた時に割れた額から流れ出る血の赤が上方へ流れていた。激痛がようやく実感され、くぐもった呻きが口から漏れた。 あの日。人生の中で最悪とも言えるほど、悪戯に失敗したあの日。 村塾に入門した当初(それはすぐに破られることにはなったが)、桂は塾内において多大なる努力をしまじめな生活を行っていた。師松陽は、桂が初めて尊敬した人物だった。桂は自分を含め塾には藩の厄介者ばかりが、何かの罠のように集まったことを知っていた。塾で先生に迷惑はかけるまい、そう決意をしていた。その呪縛にも似たものを破ってくれたのは当の松陽であったけれど。 無論、人間の本質はそうそう変わりはしない。もし変わるのであったら、ねじれの位置の未来を末路に向かって歩まなければならない彼らは、互いの喪失を代償に太陽の下へ戻れるはずだった。 桂、及び高杉の悪戯は日に日に迷惑さと狡猾さと頻度を増し続けた。彼らにとっては塾で大人しくする分のストレス解消と趣味以外の何者でもなかったが、被害を受ける側の我慢は限界に達した。 いつものように岩場の高杉に手を振り、船縁にまんまと辿り着いた桂を一人の漁師が櫂で思いっきり突いた。額に櫂の洗礼を受けた桂の小さな体は、死体のそれのように力なく海中に沈んだ。 高杉以外の誰もが、最悪の事態を想定したらしい。ざわめきが広がる中、高杉ただ一人が平然と岩場に歩いていった。何故だか、彼が死ぬ時は自分が死ぬ時に重なるような気がした。 高杉の理由なき直感は、何十秒後かに海中から現れた黒髪によって証明された。 (高杉、引き上げてくれ。やられちゃった) (なんだ、普通じゃねーか) (悪童がこれしきで死ぬものか) (違いないな。ってゆうかお前、ほんとにしぶとそうだし) (お前もな。お前ほどではないが、憎まれっ子何とやらと言うだろう?俺達は間違いなく長生きだ) 今よりもはるかに細く頼りない腕が、しっかりと岩場を掴む。 割れた額からだらだらと血を流しながら、小さな彼はにへらと笑った。 人の心臓は時として泣けるほど脆い。動け、あと少し動けばいいと願って何度裏切られたことだろう。体力など有り余っているように見えた男達のそれが、どんなにあっさりと動くのを止めたことだろう。 それなのに、まだ足掻き続ける心臓の音が響く。強い音。忌まわしく、いとおしい響きが聞こえる。 代償は冷え切る矜持と心。 ―――ほんの幾ばくかの残影が、再び桂に笑みを与えた。それは酷く引き攣れていたけれど。 名高き長州の悪童が、こんな怪我ごときで死ぬはずは、ない。 桂の腕は幽霊に似ている。そう表現したのは坂本であった気がする。その時自分は、ふざけるなお前の丸太みたいな腕と一緒にしてもらっては困る、と一蹴したがある一側面では大当たりだったようだ。 水と共に血反吐を吐きながら岸を掴んだ手は病的に真っ白だったし、べっとりと顔に張り付く髪は腹立たしいが銀時曰くの貞子のようだ。 更に岸に――この先ろくなことがなさそうな生に這い上がる桂に付き従う愛刀はない。何かを守ろうとする手段と彼自身を守る手段は同時に失われた。ただそこにある存在として、自分は生きるしかない。確かに、虚しい位、幽霊に似ている。 それでも彼は幽霊に似ているだけで、当然ながら幽霊ではない。誰もが桂に触れることが出来、紙一重で生き残りながらも桂は無様な獲物のままだ。 蘇った痛覚が、蘇った敵の毒が体を内から切り刻む。今度こそ桂は悲鳴を上げて雪の上で転げまわった。一度桂を見失った敵の声が近づいてくるのを感じても、悲鳴は止まらない。 久方ぶりの悲鳴はかつての桂小太郎の断末魔にも等しく、ある意味で抑制され続けた本音の顕在でもあった。 鬼さんこちら、ここまでおいで。 子供の頃大声で歌った歌が脳裏を駆け巡る。 これを歌った仲間は失った。これを歌った道で育んだ矜持も今から失う。自らが自らを定義していた全てを、主義を、守りたかったものを、生き様を、理想の死に方すら忘却の過程に追いやりながら桂は倒れる。 冷えている。堕落している。卑怯である。先生に顔向けも出来ない。 でも、生きることは出来るかもしれない。 何もかもを一度失った。だが悪童はこれしきでは絶望しない。侍の絶望なんて、馬鹿馬鹿しい神が彩る、くだらない嘘に振り回されたりはしない。 どうせなら、自分自身で一から考えた嘘の中に本音など埋葬してしまったほうがいい。―――そして、誰が望まずとも取り戻せるものだけでも取り戻そうと思う。―――なあ、銀時。 そして幽霊は鬼に囚われる。 もしかしたら坂田銀時が、高杉晋助が、坂本辰馬が愛し憎み焦がれ疎んだのかもしれない、そして師松陽が冴えた永遠の中で覚えている桂小太郎のラストシーンを彩る笑みはきっと世界で一番優しい。 幾許かの、しかしながら破滅的な重量を持った時で無残に変わり果てた彼の身体から力が抜ける。 桂の手は待った。濁りきった目を伴って。 彼を殺した輩が、退屈しのぎの終了に舌打ちをして自分の死の確認に身をかがめるその瞬間を。 桂の白く痣だらけの腕が、ゆったりと、にいと微笑みながら、憎むほど愛した―――刀に触れた。 |