全てを奪ってくれるかもしれないから
(きっと全てを奪ってくれるから)、時々(ずっと)、お前(貴方の)の傍にいたいのだとあの男(彼らは)は言った。


黒  白  の  風  葬     
        

一本の白い百合がある。
豊富とも言いがたい資金で、わざわざ花屋にまで出向いて買った花束の中の一番白いものだ。
苦しい首元から懐紙を取り出し、壊してしまわぬよう丁寧に花を拭う。一体、懐に懐紙など携帯するのは何年ぶりだろうか。
じっ、と最後の蝉の声が聞こえた。これで、蟲の世界では早朝まで静寂が続く。活動するのは門前灯に集る蛾くらいなもので、その蛾は時々白刃を翳して襲い掛かってくる。辻斬りの横行。殺戮の悲鳴が上がらぬ夜はない。これが、奴らが選んだ世界の姿なのだと思うと愉快でもあり虚しくもある。


浮かぶ灯篭の光。それは網膜に強烈な像を構築し、呪いのような重量を伴って、脳に沈下する。
その光を除き、辺りに無明の闇が落ちているかのような錯覚があったが、彼の眼前には全室に煌々と光を充たした料亭が浮かんでいる。中の淡い光を受け、飾り障子の影が、帳の下りた庭に注ぐ。以前一度だけ訪れた、時の権力者ご用達の料亭はそれだけで大輪の花にも見えた。
男は最初の一歩を大またでいつものようにだらしなく踏み出したが、二歩目で思い直し、数年ぶりに背筋を伸ばした。剣以外では本当に久しぶりで、この昔は伸びていた背は何を見ていたのだろうか思う。自分で、自分の変わりようが(変化を、許さない)不思議だった。
紺袴に白掠りの羽織り、懐に挟んだ白い百合。
知る者が見たならば気味悪がるほど、彼にしては異常なまでに隙がない着こなしだった。

(もうこんなものは着るものかと思っていた)(自分達を捨てた幕府の傘下に入って戦っていたのが腹立たしかった)(だが、より恐怖に満ちた復讐がこれによって敵うのならば)












「総督」

彼は門前に立つ自分の背後に過去の影が立つのを見る。
振り向かなかった。その瞬間に消えることが分かっていたし、幻影の中でありながら克明にそのときの様相を写し取った自分の顔など見たくなかったからだ。
「幕府の後ろ盾がついたとあらば、攘夷戦争勝てますね」
「あァ、戦争は端から勝つつもりでやんだよ」
法螺吹きめ。
「……鬼兵隊に幕府からの出動命令が出た。おそらく白夜叉や桂達にも使者が飛んでるはずだ」



―――ぶっ潰すぞ、最終決戦だ」



嗚呼、この振り返ってあの愚か者を怒鳴りつけたい衝動を叶えてくれる奴がいるとしたら、跪いてもいいとまで思う。我慢できなくなって振り向いた。ぽっかりと、横にいた者も後ろにいた者も全員がいなくなった空洞に、最後に残された自分の不敵な笑顔を殴りつけたはずの手が空を掻く。そこには真夏の夜の温く不快な空気しかない。

忌々しい。
腹立たしい。
憎たらしい。
舌打ちをして再び灯篭に目を向けると、殴りつけた―――数十時間後には絶叫に歪む、妙に誇らしげな自分の顔が嗤う気配がした。

独り言として胸にある澱を吐き出したかったが、客の来訪に気がついた女中と目が合い、無理やりに柄の悪さを押し殺す羽目になる。


―――お約束の藩士様どすか?」
白粉と紅が京女特有の甘美で荒廃的な形に歪む。
"高杉"は笠の下で丁寧に礼を返し、穏やかに微笑んだ。


「はい。大公儀直々の思し召しということで、時間よりも早く着いてしまいました。案内して頂けますか」







高杉は部屋に通され、居並ぶ男達の前に出ても笠を取ろうとはしなかった。
「……このような稼業ゆえ、ご無礼を御赦し下さい」
その声は感情が全て殺ぎとられたかのように平坦で、熟練の仕事人特有のそれに似ている。
場にいた男達は無言で頷く事で応える。

―――仕事は」

自分の顔を笠の下にわだかまる闇色に染めたまま、余裕のある仕草で部屋を見回す。一流の料亭で、妓が一人もいない奇妙な座敷。しかし、掛け軸も生け花も互いに協和し完全に均整の取れた世界を演出している。本当に無造作に取れた均整。歪みの渦中にありながら、自分だけはそしらぬ振りを決め込み腐りきったこの世に順応している様子がありありと表れていた。

「掃除を」
「………して、相手は」

震えが走る。自分で考えたとはいえ、このふざけた騙しあいに飽きてきていた。
早く、出来るだけ早く、その決定的な一言を。
あの日と同じように、人を梯子にして自分達の下らない立場を維持する言葉を、安全圏にいることを前提とした愚かな笑みを称えながら言えばいい。


何故か言葉を待つ自分の方が緊張していた。
正座という、日頃は好まない姿勢のまま、高杉は不均等に動く指で袴を握った。紺一色。絡めた手に吸い付く色もなく、視線を集中させる模様もない。まるでこの世は黒白だけで出来ているようで、それから派生する色は紺や鈍色、灰色ばかり。間違っても、極彩色や仲間達一人一人の肌色や、生きている限りそれに沈んでいく赤は出来上がらない。オイオイ、滅びの、斜陽の、赤は、橙はどこにある。当然だと言わんばかりにあるモノトーンに狂ってしまいたくなる。

桂などはだらしがない目立つと会うたびに文句を言い続ける着物が恋しい。別に好んできていたわけではなかった。本当の敗戦後、生き残っていた仲間達とも生き別れになり、這いずりながら逃げ回っていた日々のどこかで着替えたように思う。
それまで町人の服装など観察したこともなかったから最初は、だらしなく着崩して歩くのに少しばかりの抵抗があったが、圧倒的に動きやすさが武士の堅苦しい服に勝っている事を知り、それは普段着になった。もちろん戦に備えて陣羽織だけは今でも取ってあるけれど。
自覚ある着用の理由は二つ。注意されてから直すのが癪だった事。そして、もはや戦一つ勝とうとしない武家に縋りつく夢も見れなくなった事。
最後の理由。知りたくなかったような、でもあっさりと納得するほど、どうでもいい類の理由。




(ああ、無色の世界が怖かったらしい……――




「攘夷志士の核、桂小太郎と高杉晋助を、始末してきて頂きたい」


口元を覆い隠していた濃い影が徐々に光を取り込み薄れてゆく。
笠が深紅の紐と共に畳に落ちる乾いた音。高杉は笑いながらそれを聞いた。
にっ、と哄笑の合間に別の形に頬が歪む。残念ながら、俺は自分を殺すことも出来ませんで。

いつもの包帯を取り去った目。
一本の剣筋に塞がれた左眼。
片方の目が背負うはずの闇をも吸収し、悲しくなるほどに澄みきり、濁りが全くないがために紅に光る目は、まるで魔術の如く辺りの時間を縛る。


―――"元"鬼兵隊総督高杉晋助はここにおりますが」


そういう男の声が聞こえた時には、既に黒白世界は崩れている。
隻眼が仇を見据える。
敵と呼べるかどうかも怪しい。鬼兵隊粛清を命じたのは他でもない天人。だが、天人達の利害に迎合し、思想もなく責任も取れない赤子当然の幕府は、数えるのも馬鹿らしいほど高杉から――皆から、たくさんのものを奪い尽くした。
高杉は時代の中、現れるべくして現れた革命家。深くは考えない。考え、悲憤する分の涙はとうの昔に流しきってもはやない。―――そこに許せない物がある。その許せない物も、彼ら自信の意思で行動しているならばまだよかった。一騎打ちで叩き斬ってやった。異邦人だけが明確な色を持った世界に仇も自分も踊らされている今、残る答えは破壊のみ。

この場に集まったのが、攘夷戦争時の重役であることは既に知っている。
それは復讐か、否か。

こみ上げたおかしみの衝動に素直に従い、高杉は愛刀を振るった。
くつくつと喉の奥に絡む笑いはぞっとするほど冷たいが、次第に体内に生まれた黒冷水になじみを覚える。


凄絶な、微笑。


「あらゆる物を奪うのなら、テメェらの世界に殉ずる覚悟……見せてもらおうじゃねェか」


ごとり。
驚愕の無表情を貼り付けたまま転がった一つの首を、高杉は半ば慈しむように掲げた。
滴り落ちる赤。割れる、人を閉じ込める檻の世界。ぼたぼたと髪が濡れ、求めてやまなかったのかもしれない液体が滑り落ちる。

恐怖が、自分達を殺すであろう男の狂気への懼れが、その場にいた生き物全ての首を締め上げる。
剣も取れない。命がけの舞台にも立たない。抵抗も出来ない、過去を殺した男達。




「天誅だ。……腐りきった幕吏ども」




慈しむように、斬る。
わざと全身に返り血を浴び、一足先に世界から彼らを解放してやる。

高杉は人の形を取り浮遊する、過去と今の境目に浮かぶ茫漠とした空間を斬った。輪郭も、定義する言葉もなく、自分の中に封じ込める事も出来ないが、逃れる事も出来ない名もなき"何か"はこういうときにだけ明確な形を持って現れる。
その度にひたすらに斬る。細切れに、最後は塵と化すまで。


凄艶な、哄笑。


可能な限り細分化し、そのどこの断片に失ってしまった何かが含まれているのか、見てやるそのときまで、狂っていると言う暗示と復讐という言い訳の中で、―――風葬を、













手に鮮やかな赤い百合の花が一本ある。
白は一切染み込んだ色彩にかき消され、あらゆる意義を飲み込んだ花を持ち、彼は立っている。

自分に、彼らの墓を立ててやる力はなかった。
罪人として処刑された死体は遺族の下に返されることもなく、容赦なく衣服を剥ぎ取られたまま決まった場所に葬られる。半ば野晒しの状態で死してなお咎を責められるような場所に。
遠目に彼らの一部を見るのがあの時持っていた全ての奇跡を凝縮した結果で、到底役人に金を掴ませ遺体を引き取るなど無理な話だった。敗走した、あれほど強かった仲間達も皆が。

「……くっだらねぇよなァ」

彼らはここにさえ来なければ、故郷で死に、先祖の眠る墓に入ったはずだった。
戦いで死ぬわけでもなく(野晒しなんて気に病むことはなかった)、目上の者から必要とされた喜びを動力に駆け回り、信じたお上に殺された。

「とんだ茶番だったな」

そう、全ては茶番。
走って、喉が嗄れるほど叫んで、何よりも泣いたそんな日々はすべて整然とした舞台上の出来事。



手首を捻り、形にはならない言葉をぼんやりと頭の中で浮かべる。
謝罪でもなく、悲憤でもない―――自分を流し続ける直感に似たものを。



(だが、茶番にはひっくり返す楽しみがある)



(お前らが最後にどう思ったのかは知らねェが、諦めはしねェよ)



「ご愁傷様」
(茶番の世界よ)




赤い花が誰かの棺の上に落ちた。







天誅。俺が間違っていても、お前らは正しかったんだよ。

何が書きたかったって、敬語の高杉が書きたかった。
同時刻の保護者編へ続くよ。黒白(こくびゃく)と読んでちょ。