永遠の思い出
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きっとものすごくついていなかったのだ。 城下町の中心に家があるのに、近所に同じ年ごろの子どもがあいつしかいなかった。母上同士仲が良かった。何より家が近すぎた。路地を一本挟んだだけなんて、出くわさないはずがない。 それどころか、お宮参りの神社も同じ、お食い初めの仕出し屋も同じ、七五三の着物をあつらえた店も同じときた。全然覚えていないが、ものすごく嫌だ。 桂小太郎というのは変な奴だった。 例えば、ものすごく暑かった日。昼寝から起きたら(呼んでもいない)桂が思いっきり頬を擦り付けてきていた。張り付いた頬のもっちりとした感触が気持ち悪かったことをよく覚えている。 「なにしてんの」 「本で読んだんだ。暑い日には、だれか冷たい人にくっつくといいらしいぞ。でもお前は暑苦しいな」 俺はすぐに桂を殴って、そしたら頭突きをされた。気が付いたら母上に看病と説教をされて、数日家から出してもらえなかった。 ようやく許しが出て、行くところもないから桂の家に行くと、桂は「高杉ごめん」と書いた半紙に埋もれて寝ていた。いや見舞いに来いよ。仕方なく半紙のすみにへたくそな顔らしきものがない一枚だけ持って帰った。 桂の家には書物が山のようにあって、いつでも読んでいいことになっていた。 俺の家では父上の書物は触れてはいけなかったから意外で、それを口にしたら「俺の家で読めばいいじゃないか」と何でもないように言われた。 俺達は暇に任せて手あたり次第に書物を読んで、すぐに試した。時々、ばあさんから拳固が降ってきたが。 試したいと思うことはほとんどかみ合わなかった。桂は猫の肉球に触る方法を調べていたかと思えば、次の日は火薬の作り方を読んでいた。俺は兵法を片端から読んで、将棋やら喧嘩やらでしばらく勝ち続けたのだが、一週間風邪で寝込んだ間に桂はそのすべてを読破していて、簡単に勝てなくなった。 性格も合わないし、喧嘩ばかりだし、こいつ嫌いだなと思うことも多かったが、当たり前のように一緒にいて、それはずっと変わらないように思っていた。 その桂が引っ越す、という。 ある日藩校に行ったら噂になっていた。ばあさんが亡くなって一人きりになった桂を引き取ろうという話があるのだと言う。その家は遠方にあるということも。 そこまで聞いて、藩校を飛び出した。 いなくなるのか、あいつが。俺に黙って、そんなことあるのか。 いや、肝心なところで水臭い奴だった。ばあさんが死んだ時も、俺はなんて声をかければいいのか悩みながら葬式に行ったのに、「来てくれたのか」といつも通り笑って、あとは一度も話しかけてこなかった。その後も一度も泣いたところを見せなかった。 「桂!」 家に飛び込むと、桂は玄関先で雑巾がけをしていて、ここから出ていく準備を終えたように、廊下が冷たく磨かれていた。腹がぎゅうと痛くなる。 「なんだ、高杉。お前、藩校は」 いつも通りの、なんてことのない声が妙に大きく聞こえた。 「どうせさぼったのだろう。丁度いいから大掃除を手伝ってくれ」 「―――お前、養子に行くって本当かよ」 ぴたりと雑巾を動かす手が止まった。桂は何も答えず、ふらりと台所に行ったと思ったら、湯飲みを二つ持って戻ってくる。その、何か大事な話をするような前触れが嫌で、目をそらす。 なのに、そらした先に、にんまりと笑う顔があった。 「素直に俺がいなくなったら寂しいと言ったらどうだ」 瞬間的に頭に血が上る。誰がと叫ぼうとしたが「断った」と桂が言うのが先だった。 「俺は萩にいたいからな」 「なんで。悪くない家だって…」 「ここに未来があると思ったんだ」 「……未来ねえ」 「ああ。友と切磋琢磨して、いつか尊敬できる師に出会って、学んで、それを何かで活かす輝かしい未来が。とても他の土地に行く時間はないさ」 ほら、と茶を差し出される。熱すぎるし、薄くてまずい。 「それにしても、お前が真っ先に血相変えて来るとはな」 俺は知っている。この笑い方は、途中で止めないと際限なく調子に乗る前触れだということを。 「誰が血相変えたんだ。俺はただ、お前みたいな馬鹿が向こうで恥かいたら哀れだと思ってだな」 「お前より馬鹿じゃないぞ」 そういうことだけ真顔で言うところ、嫌いだと思う。だから言ってやった。 「それに、お前、俺以外に友達いるのかよ」 「たくさんいるに決まってるだろう」 「例えば」 「……お地蔵さんとか。お前のこういうところ、嫌いだぞ、言っておくが」 桂はずずっとわざと音を立てて茶を飲んだ。その不貞腐れた時の行儀の悪さを見ていると、全力疾走してきたのが馬鹿馬鹿しくなる。 「仕方がないから、もうしばらく世話してやるよ。ばあさんによろしく頼むって握り飯もらったような、もらってないような気がするしな」 「忘れてるじゃないか。俺なんかお前の母上に、晋助は寂しがり屋だから仲良くしてくれって饅頭もらったんだからな。世話してやるのはこっちだ」 睨み合ううちに、気が抜けた。 ごろりと縁側に転がると、せっかく拭いたのにと声が降ってくる。 やっぱり、何も変わらないのかもしれない。桂も、自分も。 ため息をつくと、「言いたいことがあれば言え!」とまたうるさい声がする。 答える気はなかった。少なくとも養子の話が完全に立ち消えになるまでは、桂の言う輝かしい未来も、尊敬できる師も想像できないなんて言いたくはなかったから。 ―――その一月後、電撃のように先生と銀時が現れ、俺達は松下村塾へ転がり込むことになるのだが。 ◆ ◇ ◆ 「人生には何が起きるか分からないな」 その声は深淵から突然聞こえた。 いつもと変わらない夜。無理やり怪談話を聞かされた銀時の厠に付き合って、そろそろ寒いなと思っていた時だった。瞬間的に厠で話し続けているはずの銀時の声が消え、深淵としか呼びようのない、冷え切って乾いた砂しかないような空洞からの声がわんわんと響く。 「まさか化け物が、弟子に囲まれて陽の下にいるとは」 嫌なことを言いますねえ、と自分は答えた。 初めて聞いた声なのに、やり取りの方法は何故か知っていた。 「陽の下が長ければ長くなるほど、弟子たちと心を交わせば交わすほど、“弟子たちが”地獄へ近づいていく。松陽、私たちの地獄が浸食するのだから」 地獄。 心の底の最も狭く、暗いところに塗りこめて抱えている場所。 恨み恨まれ、憎みに嫉み、ありとあらゆる恐怖と排斥、怨嗟、不要と言われながら消えることもできない苦しみ。長すぎる時だけはあるのに愛一つない茫漠。不毛な場所。 だが、あの子たちといるうちに、暖かい何かが周囲を埋め尽くし、その場所は確かに小さくなっていた。 そう思った途端に反論が来た。 「地獄は消えない。凝縮されるだけ。―――私たちが……できるまでは」 声は嗤っていた。愚かなものを憐れむように。あるいは労わるように。 その時。 「松陽! いるんだよね、そこにいるんだよな! 黙らないって約束しなかったっけ?」 「え、あ、銀時?」 ぶつり、と嘲笑がかき消え、少し上ずった銀時の声が戻ってきていた。 「いや、それ以外に誰かいるの? そういう怖…不思議なこと唐突に言うのやめろよな」 「すみません。ちょっとぼうっとしていて」 そそくさと厠から出てきた銀時は落ち着きなく周りを見渡してから、手を開いた。 「その、松陽が怖いんなら、手繋いだりとかさ、いいんじゃないかと」 「なら、お願いしてしまおうかな」 明らかに銀時がほっとしたような顔になり、手が握られる。人間の血の通った体温と、頼りないくらいの小さな手。 ―――この手がいつか私を。 「いや、震えてるのは寒いからだからね。何もバカ杉の怪談が怖かったからとかじゃないからね」 「何も聞いてないですよ」 思わず笑いがこみあげる。きっと、銀時はしばらく気が付かないだろう。君の反応が面白いから晋助は塾に置いてある怪奇物の書物を片端から読み漁り、話す前に一度小太郎に聞かせて相談しあっているなんて。 「では、こうしましょうか。一つとっておきの怪談を教えてあげます。晋助に話してみてごらんなさい。怪談は人に話した方が怖くなくなりますから」 廊下を歩きながら、一番古い記憶の怪談を探し出す。「昔々、おじいさんとおばあさんが」から始まる古い話を聞かせた人の顔はもちろん分からない。あるいは思いだせない。 ぎゅっと手を強く握られ、硝子のように澄んだ目が向けられた。 ―――化け物を生んだあの人も、こんな風に厠についてきたことがあったのだろうか。 「……松陽の意地悪。明日の朝言えばよかったじゃん」 「ははは。すぐ聞きたいかと思って」 「そんな気づかい、本気でいらねえから。絶対わざとだろ」 部屋に戻ると、当の晋助と、怖さを増す改変をした小太郎は熟睡したままで、銀時はそれも気に食わないらしい。布団に入ると、ぺったりとくっついてきながら「明日は絶対怖がらす」なんて言っている。 不意にまたあの気配がざわついたが、害意はない。ただ、微笑んでいるようで、それには思いかけず優しい気配が混ざっている。 その日から、声は時折聞こえるようになり、次第に自分も「彼」と呼び始めるようになった。 また「彼」が来た、というように。 はじめは一週間に一度。次第に三日に一度。一日に一回、決まった時間。季節が一巡りするころには、時間を問わずに聞こえるようになっていた。 今日はこうだった。 教室に入ると丁度「二人将棋」の決勝の大詰めだった。二人将棋は、今塾で流行っている変わり将棋で、二対二で、二人が交互に打ち合って対局する。ただし、味方でも相談してはいけない。対局相手はもちろん、味方の考えも読まなければいけない遊びだ。 その中心、今にもつかみかかりそうな勢いで怒鳴っているのは、同じ陣営のはずの小太郎と晋助だ。 「お前は馬鹿なのか! わざわざ陣形を崩してどうする!」 「うるせえな。テメェがさっき駒を逃がしたから、一手詰みが遠のいたんだよ!」 もともと二人将棋は、やたらと強い二人へのハンデとして考え出されたものだった。子どもはよく見ている。良くも悪くも正反対を行く二人だから組み合わさると勝率は一気に落ち、興味のない銀時を除けば、誰にでも優勝の目が出るようになったのだ。 「お前らは本当に気が合わないな。この駒、もらうぞ」 「久坂!」 なぜか相手を責める時だけは声が揃う。 そもそも将棋はそんな罵詈雑言と共にやるものではありません、と言おうとしたら、「どの子どもだ。お前を殺してくれるよう育てているのは」と声が笑った。湿り気を帯び、揶揄する時の声音で。 「本命は銀時。化け物のお前が、人の剣を教えようとしている。だが、あの二人には別の天分がある。もしや剣ではなく、知略がお前の首を落とす日も考えているのか」 一気に教室の音が遠ざかった。 静謐で暗澹たる場所に彼と私だけがいて、聞くに堪えない言葉なのに、否定の言い訳一つ出てこない。 そうだろう。彼は私自身なのだから。 彼は私を通じて日々を見ていて、私の惰弱と矛盾を嗤う。 あの子たちが可愛い。大切だ。まだ見ぬ世界を見てほしい。強くなってほしい。目指す侍になってほしい。ずっと笑っていてほしい。何より幸せになってほしい。―――そして、強い心と支え合う仲間を得たその後で、私を殺してほしい。 彼が言う。「お前も無茶を言う。お前を殺せるようになるまで、弟子たちはどれほどの地獄を歩けばいい。故郷にはいられまい。生死をかけた戦いの日々に身を投じることは果たして幸せか。お前を追いかけず、この場所で生きていくことが彼らの幸福ではないのか。よしんば、彼らが地獄を飲み下せたとしても、私たちを殺した後、彼らが幸せになれると本気で信じているのか」と。 分かっています、と卑怯な自分の声がする。 銀時の傷は友と触れ合うことで塞がり、彼の空洞にはいつの日か愛が埋まるだろう。晋助の渇望は友と競い合うことで満たされ、誰かに伝えることに喜びを覚える日が来るだろう。小太郎の寂しさは友を支えることで和らぎ、いつまでも彼らを結び付ける優しさと強さになるだろう。 どんな場面でも喧嘩ばかりしている様子が浮かぶが、それでも、共に歩み、悩み、悲しみ、喜び、人生を全うしていくだろう。 気が遠くなるような幸福。彼らにふさわしい一生。 置いていかれる。―――置いていかないでほしい。 「それがお前の本音か、吉田松陽」 彼は淡々と続ける。否、それは同時に自分が考えたことでもあり、少しだけズレる声音と息継ぎだけが、彼と私の境目を作った。 「後何年、老けもしない師匠をそばに置いてくれるでしょうか」「彼らはきっと受け入れる努力をするだろう。その強すぎる精神を削りながら」「私たちは経験している、その結末を」「思いだしたか?」「いいえ。でも、あの子たちに気持ち悪いと言われたら、拒絶されたら、」「お前が選んだ子どもたちだ。世のために気味の悪い化け物を退治してくれるかもしれない。そうすれば、」「あの子たちに憎まれて殺されろと」「愛されながら殺されたいとでも言うつもりか。お前も難しいことを求める」「それでも、」「分かるよ。死にたい。それ以上の望みはない。だが、五百年も殺され続けて、最期もただ一人、憎まれて終わりたくない」 次第に発話が揃い、声音が混じり、ただ一つの醜悪な本音に集まっていく。 憎まれ、疎まれる死はこりごりだ。だが、そのために、あの子たちにその咎を背負わせようとする理由はどこにもない。 愛した記憶は思いだせない。だが、彼らが私を慕ってくれているそれが、私が彼らに抱いた想いを愛と呼ぶのなら、この重荷を抱えたまま斬れとは、なんという所業を強いるつもりか。 「やはり私は……」 言い終わる前に彼が絶望的な声音で言った。 「―――いや。そうとばかりは言い切れない。“彼らは”ただの人間だ。私たちは彼らがたどり着くと仮定して皮算用をしたが、人間は脆い。ほんの少しのことで死んでしまう」 そんなことは許さない。 ぞろりと身体の奥底から熱い塊がせり上がった。それは幾千回通り過ぎた血と腐臭の記憶を塗り固めたおぞましい何かで、―――ぶつり、と意識が途切れた。 「先生……松陽!」 長い悪夢から覚める時のように、唐突に“戻った”。 いつの間にか、居間には夕餉が並べられ、自分は漬物を取り分けている。目の前には呆れた顔をした銀時が、焼き魚の皿に大根おろしを添えていた。 「あ、あれ。もう夕餉の時間ですか」 「俺達がさっきから作ったのは何だっていうんだよ」 咄嗟に銀時の目を盗んで暦を確認すると、あの二人将棋の日から一週間経っていた。もちろんその間の記憶は全て抜け落ちている。 「何かあったのかよ。おかしいのはいつもだけど、最近変だぜ」 「いつもとは何ですか」 「だって、この数日は料理をすりゃあ包丁で手を切りまくってるし、味付けはおかしいし」 「それは……」 「後、ヅラと高杉に稽古つけた時、ボロボロにするまでやっただろ。あいつら、あの後すごい燃えてて、稽古に付き合わされて迷惑なんですけど」 それはいつのこと、と聞くつもりで、声が出ない。 彼が何かしたのか。それとも、全ては逆で、私が彼の一部に過ぎないだけなのか。 まさにその瞬間、天啓のように答えが分かり、一気に視界が開けた。それと同時に感覚が研ぎ澄まされ、目をそらし続けた気配を思いだす。私は、あの子に吉田松陽にしてもらったにも関わらず、あの闇を直視しなかった。 いきなり戸が蹴破られ、“見慣れた”者達が姿を現した。 奈落。 古巣の気配にここまで気が付かなかったことに、衝撃を受ける。 「人は変わらんな」 彼の声がした。怒っているようでもあり、心の底から悲しんでいるようでもあった。そうかもしれない、という気もする。人は不死を求め、同時に排斥する。いつまでも。 「松陽! てめえら、それ以上、先生に近づくな!」 「銀時!」 ほとんど彼に頷きかけた時、自分を庇う体勢で銀時が飛び込んできた。鞘を払い、腰を落とした見事な構え。 肝が冷え、同時にその後ろ姿に泣きそうになった。銀時をかわして前に出ながら、彼だけに言う。 「いいえ、人は変われます。私も変わりたい。抗いたい」 「……何故。私たちは十分に抗い、そのたびに絶望に打ちひしがれてきた。私はもう嫌だ。松陽、お前も終わりたいのではなかったのか」 「終わりたい、その思いは変わりません。ですが、この五百年の間、私たちを庇ってくれた人はいたでしょうか。私は二人の弟子に庇ってもらった。その意味を返すため、抗います。そう決めました」 彼は長い溜息をつき、「では私たちはいずれぶつかるだろう」と静かに言い、気配を消した。 「さて皆さん。私の実力は知っているはず。私だけを捕らえ、この子には手を出さないのであれば共に行きましょう」 「おい、松陽!」 銀時が抗議の声を上げる。 しかし、銀時を殺されないようにしながら、家の外まで含め、この数の奈落は殲滅できない。 「―――それとも、相打ち覚悟で一手勝負しますか? 外にいる方々はともかく、皆さんくらいは全員死にますよ」 中央の男の顔はよく見るとかつての部下で、その目が微かな恐怖に揺れた。 「いいだろう。お前が来るなら、ここは引こう」 「松陽! やめろよ!」 悲鳴を上げた銀時を後ろに突き飛ばす。触れた体温は絶望的に離れがたい熱を帯びていた。 銀時。こんなところを見せてすまない。 優しい君のことだ。きっと傷になってしまうだろう。自分を責めてしまうだろう。 こんな方法で、君を護ろうとする師匠をどうか許してほしい。 「銀時」 君に言った、いつか私という化け物を退治してほしいなんて、酷い言い方だったね。 最低な師匠だ。 だから、違う約束をさせてくれないか。私を終わらせるためではなく、君が光の中を歩いていけるように。 口を開く。重い約束になるかもしれない。でも、君ならできると心から信じている。 今こそ、どうか新たな約束を。 ◆ ◇ ◆ 湿った陰気な夜だった。久しぶりに家に帰る羽目になり、その理由が葬式だったことも薄暗さに拍車をかけている気がする。妙に蒸し暑く、ひたすらに喉が渇いた。 死んだのは父が目をかけていた親戚の子で、俺の代わりに跡取りとして養子に迎えようとも思っていたはずの奴だった。 ほとんど顔は覚えていないが、さすがに葬式に出ないわけにはいかない。式には桂も来ていて、父の何か言いたげな目線から逃れるために終わるとすぐに桂の家に引き上げた。 「お前の勘当を解くか、吟味していたな」 家に入った瞬間、桂が真顔で言った。 「……開口一番それかよ」 「言ってほしくなかったか?」 そういうところだよ。 人が一番言われたくないことを、事実として突き付けてくるところも嫌いだった。でも。 「いや、今日に限っては助かった」 その一言で、父の迷いが伝染する前に、戻らないと覚悟を決められた。 きっとこいつは、俺が跡取りに戻って先生のところに行けなくなったとしても、友達のままだろう。ただ、根が単純な馬鹿だから、失望を隠せない。 俺は先生に会えず、銀時に負けたままで、そして桂に諦めたと思われる人生なんかごめんだ。 「そうか。もう寝るか」 「ああ。疲れたな」 布団を敷いて潜り込んだ時には、半分以上頭の中に靄がかかっていた。 疲れ切って、こんな日は朝まで目を覚ましたことがないのに、何故か目が開いた。 びりっと背筋が寒い。それなのに口はカラカラに乾いていて、目をつぶろうとしても闇が追いかけてくる感じがして、また開いてしまう。 「高杉」 「うわっ。起きてたのかよ」 いきなり声をかけられて、思わずはね起きた。びっくりするだろうが。 「今、ちょうど起きた。―――何だか、外で誰か話していないか?」 一瞬ふざけているのかと思ったが、桂は恐ろしいほど真剣な顔をしている。耳を澄ますと、本当にかすかだが、風の音なのか人の声なのか判然としない音が聞こえた。 「見に行こう。何だか嫌な感じがするんだ」 そう言った桂はすでに上着を羽織り、木刀を指している。慌てて続こうとして、木刀を家に置いてきたことに気が付いた。 「……刀、忘れてきた」 「高杉、お前それはダメだろう。―――じゃあ、あれでも懐に入れておいてくれ」 指さした先には、あいつの父上が持っていた短刀がある。俺の知る限り、一度も家の外に持ち出そうとしなかった、桂にとって唯一無二のものだ。 「さすがにあれは持てねえよ。俺が木刀で、お前があれでいいだろ」 「なんでそんなに偉そうなんだ」 声は不満そうだったが、刀を持って行かないという選択肢はあの時の俺達にはなかった。 少し後には心の底から持って行ってよかったと思い、ずっと後には時々あれが地獄への第一歩だったのではないかと思ってはその考えを嫌悪することになる、選択。 いつもは静かに開く木戸が、嫌に大きな音を立てて軋んだ。 声の主はすぐに見つかった。家を出て、すぐに突き当たる大通りの先で、火消しと役人が言い合いをしていた。声が聞こえるところまで路地に隠れて近づく。 「何で鎮火に行っちゃいけねえ! 火が降りて、街まで燃えたらどうする!」 「命令だ! 燃え尽きるまで何人も立ち入ることはまかりならん」 「殿様がそんな城下町を危険にさらす命令をするもんかよ! お前ら、火の恐ろしさを忘れたか」 そうだ、そうだ、と火消し達が押し通ろうとする。火事は下手すれば城下町ごと焼き尽くしかねない、それは身分を問わず誰もが共有する常識だ。 ぐっ、といつの間にか桂に腕を掴まれていた。痛い。振りほどこうとして、見上げた顔は蒼白だった。 ――――まさか。 高台。 俺達は、毎日橋を渡り、坂道を登って、あの場所へ通ってはいなかったか。 「殿ではない! ―――幕命だ!」 城下町へ降りてくる火。 思考が結びつくより早く、役人が叫んだ。血を吐くような、苦渋に満ちている。 「幕府だと?」 「そうだ! 逆らえば、藩がどうなるか。……とにかく火を橋で食い止めねば」 聞けていたのはそこまでだった。 この分だと橋は役人が張っているだろう。回り道をしても、結局はどこかで大通りに出てしまう。だが、なまじ毎日悪戯をしているわけじゃない。 口を利かなくても、前を走る桂も同じことを考えていると分かる。 一番細い裏路地をいくつか抜けると、いつもの河に突き当たる。ここは唯一の子どもでも渡れる浅瀬だった。都合のいいことに、最短距離の橋はそう遠くないが、ちょうど河が蛇行していて見えない位置にある。 「渡るぞ」 「ああ」 何度も渡っているが、夜に渡るのは初めてだった。 いつもは目印となる対岸の大岩も見えないし、水は黒々としていて底がないように思える。足を滑らしたら終わりだ。急いで服を脱ぎ、紐で頭の上に縛る。二人分の帯は固く結んで命綱にした。 「俺が先に行く。木刀は杖代わりにするぜ」 「分かった。行こう」 河に足を入れると、経験したことがないくらい冷たかった。 一番深いところでも膝までは来ないはずなのに、黒い水がべたりと絡みついて、飲みこまれるんじゃないかと思う。 だが、木刀を突き刺すとやはりいつもの深さで、なんとか歩き出せた。 「高杉、大丈夫か?」 「誰に向かって言ってんだ」 こういう人が不安になった時に、必ず声をかけてくるところもうっとおしい。だが自分の足はそれで落ち着いてしまって、確実に進んでいる。今は足元以外、気にしないと決めた。そうしないと、この体中から湧き上がる嫌な予感と恐ろしさに耐えられないと思った。 「……上がるぞ」 気が遠くなりそうな暗闇を進んで、沈黙を破ったのは自分の声だった。俺達はもう対岸にいる。 桂が服を水につけてから着た。慌てて同じようにする。 対岸に渡ってしまえば、もう嫌な予感だなんて言えなかった。 かすかな焦げ臭さ、遠くに見える灯りのような何か。 「裏道から行こう。あそこは大人は知るまい」 頷いて、走り出す。 飛び込んだ先は獣道。この道を見つけたのは銀時で、三人で城下町まで下りた。どの悪戯に使おうかなんて考えていたら、反対側から先生が来て、拳骨をもらって。 「村塾の方だ!」 「分かってる!」 一歩進むごとに、焦げ臭さが強くなる。しかも、熱い。 きっと違う。村塾の先にだって集落はある。村塾だったとしても、先生と銀時が焼き芋でもやって慌てて小火を消している最中かもしれない。……じゃあ、なんで火消しは来れなかった。幕府がこんな片田舎に何の用があるのか。いや、幕府が何かしてきても、先生と銀時が負けるはずがない。もうすぐ、同じこの道から逃げてくる。出会ったらすぐに街に戻ればいい。 頭がぐちゃぐちゃのまま走る俺達は何度か転び、斜面を滑り落ちかけ、無我夢中で互いを引っ張り上げた。先生。銀時。なんで出てこないんだよ。もう着いちまう。この先は――。 最後の斜面に立った時、もう見えていた。 燃えている。松下村塾が。 小火なんてもんじゃない。丸ごと火の中に埋もれている。 「先生! 銀時!」 斜面を転がり落ちて、村塾の裏口に出る。裏口側はまだ火が回っていなかった。 「返事くらいしろよ!」 叫びながら、分かっていた。先生達は逃げていない。この中にいる。それなのに裏木戸が開かない。向こう側に何かふさぐものがあるように。 身体が先に動いた。先生に教わった通り、腰を落として木刀を振るう。バキっと嫌な音を立てて、木戸の半分が割れる。そのまま、残った半分を蹴り飛ばすと、向こう側に立てかけられていた棒のようなものを吹き飛ばし、木戸が完全に開く。 飛び込んだ先は、惨状としか言いようのなかった。 ただの火事じゃない。教室は荒らされ、何本かの柱が折られている。意図的に。 その上、火は玄関を焼き尽くし、教室の半分に迫っている。 ―――そこに、きらりと揺れる、銀色。 「銀時!」 教室の柱に縛り付けられ、必死にもがく銀時の足元の数歩先には舐めるような火が迫っている。 桂が慌てて、銀時の口元にあった猿轡を外す。 「銀時! 先生はどこだ!」 叫んだのは同時だった。 「……ここにはいねえ。連れていかれちまった」 地の底から聞こえるような、周囲の炎を全部忘れてしまうほど冷たく、自虐に満ちた声だった。桂が即座に頷き、短刀で見たこともない結び目に縛られた縄を切る。 銀時がこう言うなら、先生はいない。連れ去られ、そして銀時は殺されようとした。 ―――幕府に。 「俺が、いたのに」 護れなかった。 小さな、声。かき消える寸前の、弱弱しい懺悔。 「とにかく出るぞ! もうすぐ、崩れる!」 銀時の声以外何も聞こえなくなりかけた時、桂が叫んだ。恐ろしくよく響いた。 力が入らない銀時の身体を二人がかりで引きずり出し、裏口から斜面に飛び込む。 すぐに俺達の場所が燃え尽き、崩れ去る音が聞こえた。 ◆ ◇ ◆ 乾いた風が低い位置を流れていた。空気は雨を連れてきそうな湿り気があったが、鈍い色の青空が所々に見える。 実家に植えられた夏蜜柑はまだ小さく、熟していない。その葉の陰に一人の姿がある。 「母上」 父がいないのは分かるが、どうしたのか、いつもいる庭師も下働きの爺さんも誰の気配もなかった。ただ母上だけが静かに立っている。普段の穏やかな顔ではなく、凪のように張り詰めた顔だった。 「―――俺を勘当して下さい。先生を助けに行かなければいけません」 ずっと後になって、数多の人間を見送る経験を経て分かったが、母上はきっと俺がもう戻らないことを分かってたのだ。一線の向こう側に渡ることを。家族を捨てて、あちら側にいる先生を、あいつを追いかけていくことを。 「いつ、発つのですか」 「今日です。村塾で合流して。銀時、桂、久坂達も一緒です」 「それなら、しばらくあなたを蔵に閉じ込めておけば出て行かないかしら」 「いいえ。きっと桂が鍵を開けてしまう。実は、あいつの家で鍵開けを練習してましたから」 今日、母上に会うことは桂だけ知っている。というより、知られた。こっそり行って戻ってくるつもりだったら、玄関に待ち構えていたのだ。 「お前が一刻で戻ってこなかったら、蔵を破りに行ってやる」 「……止めねえのかよ」 桂は珍しくこちらを見ないで言った。 「父上には勘当されたが、母上にはまだ何も言ってないだろう。けじめをつけるのも、持っている者の務めだぞ」 何を、と言われなかったのが辛かった。それは、ずっとあった負い目だった。 「目的はあなた達の師を助けること。なすべきことは、敵は分かっているのですか」 「分かっています。先生を攫ったのは“天人”です」 もう一度、目を合わせる。 厳しい目に射すくめられて、心臓の辺りが痛んだ。別れだというのに、嘘をついた。その上、恐らくバレている。だが、万一調べられた時に「幕府」を知っていては累が及んでしまう。 「母上」 言いかけて、手で制された。 「分かりました。師匠を無事救うまで、この敷居をまたぐことは許しません。それから、あなたの友と生き残らなければ、萩の地を踏むことも許しません。……晋助」 幼い日のように甘く柔らかい声で呼ばれ、母上は大粒の涙を流していた。 「約束です。皆で帰ってくると」 「はい。必ず」 「友を信じなさい。自分を常に見つめ、道を問いなさい。そして決して、死なないように戦いなさい」 必死で泣かないようにこらえ、なんとか笑う。 もっとたくさん話をしておけばよかったと後悔が襲う。先生がどんなにすごい人とか、銀時はむかつくけど情が深いやつなんだとか、桂は昔よりふてぶてしくなったけど楽しそうだとか。 だから心配いらないんだと、俺達が全員揃って助けられないわけがないんだと、もっと伝えられただろうに。 集合場所の松下村塾に行くと、桂以外は全員揃っていた。焼け焦げた柱に手を翳す銀時、地図を読み込む久坂と入江、砲術の教本に目を落とす山田、同窓の仲間たち。 桂は、と聞こうとしたら、すぐ後ろからその声がした。 「いや、すまん。道中の握り飯を作っていたら遅れてしまった。一人一つずつ取ってくれ」 「おい、遠足じゃねえんだぞ」 あちらこちらから野次が飛ぶ。だが、こういう場面で握り飯を配るのが桂というやつだ。取ってくれと言ったくせに一人一人の手渡しをし、俺に渡した時には、後残ったものは二つ。 「……ヅラ、お前、」 「ヅラじゃない桂だ」 笹の葉で包まれた包みは温かくなかった。ほとんど確信に近い「まさか」を問おうとしたら、既に目の前にはいない。 「銀時! お前もさっさとこっちへ来んか! 円陣をやろう」 「いや、もう引きずってるから! てか、円陣ってなんか恥ずかしくね?」 銀時が答えたことで、明らかに場の雰囲気が緩んだ。きっと今日も殺気立っていたんだろう。 先生が攫われた日からのこいつは明らかにおかしかった。話しかけられれば答えるし、一度桂に頭突きをされてからは勝手に出て行こうともしていないし、実戦に向けた剣術指南もしていた。 だが、目はずっと遠くを見ていて、ふとした瞬間に針のように冷たい気配をまき散らす。桂には「お前も似たようなものだ」なんて言われたが。 「げ! なんでテメーが隣なんだよ!」 そんなことを思っていたら出遅れて、隣には銀時がいた。その顔はものすごくブサイクで、もちろん「こっちこそ!」と言ったけど、心の奥底で少しだけほっとする。 「馬鹿者! 出発前から喧嘩していたらこの先覚束ないだろうが」 言い合いになりかけたところで、銀時の更に向こうから強引な手が伸びてくる。あまり体温の高くないはずの手は燃えるように熱かった。 厳かな声が響く。こういう時、どんなに騒がしくても桂の声はよく通るのだ。 「すぐに先生を救い出し、皆でここに帰ってこよう」 「おう!」 全員の声を飲み込みかねないくらいの音量で、銀時が叫び、それが俺達の戦の始まりになった。 確信をもって言えるのは、あの時は俺たち全員が疑いなく信じていたということだ。先生を救い、全員で帰り、松下村塾を建て直して、また変わらぬ日々を過ごしていくという未来を。本当に一片も想像できなかったのだ。この円陣で折り重なった友の体温が溶けるように抜け落ち、俺達の弱さによって先生を失い、別れていく結末なんて。 |