真に疲弊し、絶望よりもなおざりな感情に支配された時、ただひたすらに眠くなるのだ、と知った。かび臭い押入れを開け、下段の布団を半分だけ引きずり出す。そこに丸まって、暗闇を戻せば、すとんと奈落に落ちられる。 銀時は眠りながら考える。子どもの俺たちはすごかったなあ、と。先生が殺されて、その首を前にしても、全身がバラバラになるような怒りと共に、復讐だけを見て動き続けられた。なあ、先生。疲れたよ、眠いんだ。 夢の中で体が反転し、銀時はお登勢の店に落ちた。銀色の髪の残骸が、部屋の片隅で死んだように眠っている。そう、あの時は、脱水症状になるまで眠り続け、夢の中でも振り捨てた姿を追い、まどろみの狭間に強烈な閃光と共に飛びこんできた彼らにたたき起こされた。 もうきっとないだろう。ひたすらに眠い。軍議でも戦闘でも眠くなったことはないが、他はすべて眠りに投げ込んでおいてきっといい。 冷たい布団に温かさは必要ない。――お前らの眠りは温かいか。 桜が途切れなく落ちる様を見ると、なぜだか頭がぼうっとする。よく見ると一枚一枚色が異なる桃色と紅の花。まさに桜吹雪とはよく言ったもので、きっと吹雪の中で体温を失い白に埋もれるように、桜吹雪は人の呼吸をふさぐのだ。 不吉な花が埋め尽くす冷たい庭のすぐ傍で、銀時は冷たい女を組み敷いていた。その首は縁側から零れ落ちそうで、風向きが変わって桜吹雪が俺たちを殺してくれたらいいのにと思いながら、意地の悪い気持ちでそれを言葉にした。 「髪、黒く染めてやろうか?」と、彼女の足を踏み外させた真実を。 「いらん。それより頭が落ちそうじゃ」 けんもほろろの返事に苦笑し、陸奥の首に手を添えて一歩下がった。すると彼女の金色に近い茶色の髪だけが縁側から零れていく。 彼女はあらゆるときに銀時の髪に触れた。 習慣のように。洗面所で出くわした時、食器を片づける時、戦いから戻った時、軍議を抜け出した自分にげんこつを食らわせる時、閨の中ですら、髪を引っ掻き回し、穏やかに感触を楽しんでいたかと思いきや、銀色が何らかの光できらめくたびにがっかりと手を放す。 ふわりと養分を食う蝶のしなやかさで振ってきた唇から悲しみを受けながら、銀時はぼんやりと考えた。死体を見た者と、1%以下の望みだけを残して失った者とどちらがマシだったのか、と。 自分は見た。あの日、地下牢から出てすぐに、もう見張られる必要のなくなった二人を見た。やっぱり笑ってやがると思い、涙が流れないことに驚いた。 陸奥は見れなかった。あの前日、自分たちを助けに来ようとした辰馬の乗った船は、彼女の目の前で撃墜されたのだから。 「お前の銀髪は綺麗ぜよ。特に金色の黄昏の中、一滴の返り血で濡れた時の色は、目がくらむほど綺麗じゃ」 そう、宇宙に光る、きっと目がくらむほどの鮮やかな光の中で、彼は死んだ。 馬鹿じゃねえのか。……俺たちのためなんかに、お前は、 「趣味悪ィな」 心の半分でその光景を垂れ流すにまかせたまま、わざと平坦に吐き捨てると陸奥はにこりと笑う。 「もう一度見たい」 頬に優しく手が添えられた。まったく女というものは得だと思う。その奥に隠れた真意がどれほど悪意に溢れていたとしても、柔らかな栗色の髪をなびかせ、肩にすがる様は慕わしいものに見えるのだ。 「またかよ。我慢足りねえんじゃねーの?」 毒づくように返したつもりだったが、自分の口から漏れ出たのは奇妙に軽やかな笑いだった。 「どっちが」 陸奥が喉の奥で笑った。 熱に浮かされたように、うっとりと次の計画を語る陸奥の背後に、薄紅色の死が降り積もる。 庭にあるのは細い桜の木一本だというのに、あの桜道を思い出す。今から思えば戦の散り際を語っていた、あの絶望的に美しかった桜を。 より積もればいい。クズ箱のような自分の中に、死でもいいから降り積もれば。 より深い口づけを交わすと味わいなれた苦みが広がる。反射的に自分の顔が歪むのが分かる。 「陸奥さあ、その煙管やめろよ。不味い」 文句を聞き、陸奥はかたかたと白い歯を見せて笑った。「好いた、の間違いじゃろう?」 「自分でも不思議なんじゃ。あの輩が生きていた頃は、なんと面倒で勝手な男かと思っていた。けんど、いなくなってみると、あいつが癖になった」 もう諦めた、と彼女は言う。彼女の、彼女をまったく幸福にはしない賢さに驚きながら、心の奥底から納得した。丁度一滴の水が、乾ききった地中に迷いなく吸い込まれていくように。 ――そう、高杉は癖になるのだ。 侵食されていないつもりでも、気が付けば奴の一部が自分の中で蠢いて止まらない。香が、酒が、体が、奴を映し出す。 その証拠に煙草の味が消えるまで口を犯すと起き抜けに見る夢のように気持ちいいのだ。 「次は何が欲しいんだよ」 そうして高杉の熱に惑わされて、軽やかな足取りで階段を下ってしまう。 迷惑至極、同時にこれだから生きていける。 「たくさんじゃ。ふざけた烏ども――その前に、周りを守る狗どもじゃの。黒い鬼の首が欲しい」 「よくばり」 「女は皆強欲じゃ。そんなだからモテないんじゃ」 「それは天パのせいだっての」 どこかで聞きなれたばかばかしいやり取りをしながら熱を食らう。 哀しいな、とは二人とも言えない。 ◆ ◇ ◆ 彼女のすすり泣く声が聞こえる。それは頬を擦り付ける廊下から伝わり、腹のそこでわんわんと鳴った。 普段は嫌というほど鳴くくせに、こんなときに限って蝉の声は遠い。音は紛れない。ならば太陽はどうだろうと空に手をかざしてみる。 「……暑いんだな、あ」 腕を上げようとして、妙に重たいことに気が付く。一度認識が追い付けば早い。急に吹き出てきたとは思えない多量の汗が腕を流れているし、全身が廊下に張り付いてしまったかのようにべたついている。 眠ろうか。きっとその方がいいのに、意識だけは明瞭だ。このまま彼女と、合間に混ざりだした彼の嗚咽を聞くぐらいなら――。 「泣けるっつーのは、いいことだな」 急に涼しくなったと思った瞬間、僕は土方さんに氷水をぶっかけられていた。 桂さんと高杉さんが死んで、いくつかのことが変わった。そのどれもが致命的で、僕たちの日常を木端微塵に叩き潰し、それでも飽き足らずさらにいくつかの絶望を連れてきた。 帰らない銀さん。連れられるように消えてしまった坂本さん。沖田さんを殴る神楽ちゃんと、黙って殴られる沖田さん。殴打の音の狭間に現れた白夜叉の手配写真。その哀しいひとは酷いことに表面上の笑顔は変わらず、隣にいる人間たちも皆、失った人たちで――。 そして、――沖田さんの病。 神楽ちゃんは二度と彼を殴らなかった。代わりに、それは二人のすすり泣きに変わった。 「飲むか?」 「こういうときは普通ウーロン茶か何かでしょう」 差し出されたのは缶ビールで、疑問形で聞いたくせに既に二つ開けられている。 「氷水はかけてやったじゃねえか。真夏の気だるさの特効薬はビール、これ以上はねえ」 僕は近藤さんに内緒で土方さんと飲むことが増えた。土方さんの小さな変化。彼はもともと未成年を、それも置いていかれた惨めな人間を酒の道に引っ張り込むような人間ではなかったが、あれ以来、不自然なまでの優しさで人をその沼に誘い入れた。 彼の苦しみ、ひりつくような孤独は、きっと周りの人間を駄目にする種類の優しさで現れるのだ。 「土方さん、さっきのは……その、泣けるっていい、って」 「泣けない奴は辛すぎるだろ?」 即答にしばし戸惑い、そして理解する。この人は、泣けない人間を見た。 「あいつは泣けなかった」 目を合わせただけで、先に答えが返ってきた。 「言っていた。泣き方が分からない、と」 言いたいことは山ほどあったが、言っても仕方がないことだった。 銀さんはあの日から帰らず、白夜叉という名前になって暴れまわっている事実はどこにも消えない。だから黙って、まずいビールを無理やり飲み込んだ。 「言いたいことは言えよ。言わない言葉は後悔する」 そう気を使ったというのに土方さんはこちらを見ずに言い、石を飲み込むようにビールを流し込んだ。 仕方なく一番マシな言葉を探すうちに「俺が先に言う」と声がする。 彼は言った。怖いくらいの真顔で。 「俺は後悔してる。泣かせてやれればよかった。……行くな、と言えばよかった」 その絞り出すような声の狭間で、自分の中に埋もれていた堰が切れた音がした。 「じゃあなんで!!なんで殺したんですか!!あの人が、あの人たちを失ったらどうなるか、わかっていたでしょう!!」 違う。“こんなことを言いたいのではない”! 「……せめて電話一本くれれば、迎えに行ったのに!銀さんがどう喚いても、絶対離さなかったのに!」 「すまん」 土方さんは、静かに、短く拒絶した。 「せめて、せめて、銀さんが万事屋に入るまで、見張っててくれれば……!!」 「つけた見張りは、皆死んだ」 あの日から空きっぱなしの空洞に、更に乾いた風が吹き込んだ。 「一刀だった。あの腕前を、俺は他に知らねえ」 途端に蝉の音が五月蝿くなった。もうこれ以上は何も聞くな、と誰かに言われているように。 「死んだ連中は俺の仲間で、家族もいた。――“本当は俺が殺したようなもんだが”、奴に殺された以上、敵と認めるしかねえんだ」 「本当は?」 聞き返したが、首を振られる。これ以上何かを言うのを罪悪感で問答無用に押しつぶしてしまうような疲れはてた苦笑と共に。 「テメェに頼みがある」 「……はい、」 嫌だと言っても、勝手に言うんでしょう。大人は勝手だ。彼もそうだった。なんでも自分一人で抱え込んで、こちらを安全地帯に置き捨てる願いばかりを口にした。 でもその声をもう一度聞きたい。もう一度ぶん殴れば、手が届くと信じたい。 「俺は死力を尽くして戦う。御託を並べても、許されないことをしても、俺の一番はうちの大将を守ることだ。あいつが生きていれば、近藤さんが死ぬ」 そうじゃない、と叫ぶ声は吐息に消えた。言えない言葉が降り積もる。 今度は姉上が泣くじゃないか。 なぜアンタは、銀さんがいて、姉上がいて、いつものように近藤さんが追いかけて殴られる未来をないものにする! 「けどな、俺はあいつに殺されると思う」 信じられない言葉を聞いた。幕府や天人の重鎮は殺しても、彼を手にかけるなんて――。 「殺すさ。あいつも。――俺は殺そうとして剣を向けるんだからな」 わずかばかりに残っていた小さな明るいものをぐしゃりと踏み潰す声は、恐ろしく静かだった。 「俺は奴に勝てねえ。差し違えたいところだが、それも厳しいだろう」 “あいつは、失ったことであいつらを選んだ”。 だから馬鹿馬鹿しいぐらいに楽しかった馴れ合いは終わったんだよ。 少しの未練と人生への感謝と共に死に行く人間のように凪いだ声のまま、床に押し付けられた彼の手がぶるぶると震えた。 「言える立場じゃねえとわかってる。でも、あいつが帰ってきたら、今度こそ泣かせてやってくれ」 たとえ、江戸中が焼け野が原になっても。 俺たちも、幕府も、鬼兵隊も、桂の残党も、快援隊も、全員が死に絶えたとしても。 あの馬鹿らしい日々の方が、夢幻に思えたとしても。 「お前らは、あいつの家族のお前らだけは残れよ」 殴りたかった。本当にいつだって、この人たちは力及ばず見ているだけの人間の心が、どれだけ切り刻まれているかも知ろうともしない。 拳は切るように寂しげに笑う鬼の手に吸い込まれ、一瞬だけ包まれた。 ◆ ◇ ◆ 綺麗に銀杏の葉が掃かれ、隅に寄せられた玄関をくぐり抜けると、その熱気に驚いた。混んでいる。失礼ながらこれほど多くの客が贔屓にしていたのか、と感心してしまった。 「銀さんはどこかしら」 「どうせ遅刻じゃねーのか」 ハツが客の髪型を一回り見て、不安そうに言う。ここに来る前につかまってしまったのでは、と顔に書いてあったが、俺は単なる寝坊か前日に飲みすぎて厠から出られなくなっただけだと思う。 「長谷川さん」 その時、ラーメンの湯加減を厳しく見つめたまま、かすかに店主が二階に首を向けた。 俺とハツはああ、と納得して頷く。銀さんは今や江戸きってのお尋ね者、そして幾松は別のお尋ね者にも同じように便宜を図ってきたのだ、と。 奥の席に案内されるふりをして、カウンターにすべりこむ。二階へつながる階段は、熱気にあふれた店内と同じ場所とは思えないほど冷たく、暗い。 その先、座敷の襖を開けても、床の間を睨む銀さんは微動だにしない。 ハツが息を飲んだ。その音が妙に大きく聞こえて、制止しようとしたら俺も息を飲んでいた。そのあまりの虚ろさに。 ある人間を失えば、残された者まで死んでしまうことが、目の前で本当に起きようとしていることへの驚きに。 「ヅラァ……」 遺影を見ていた。「フハハハハ」という美形の顔を台無しにする高笑いが聞こえてきそうな、ふんぞりかえった桂さんがそこにいる。 その桂さんが彼ではないただ一つの証拠は、銀さんが何度「ヅラ」と嫌がっていたあだ名を言っても、お決まりの言葉が返ってこないことだけだ。 「桂……!」 幾度かあだ名を呼んだ後、銀さんは咳き込みながら、彼の名前を呼ぶ。白昼堂々死に装束の色を着て、血の気のなくなった顔色で縋る銀さんの方が、今にも死んでしまいそうだった。 自分よりもずっと年下のくせに、ずっと年上に思えていた人間が、やはり二十代そこそこの若造なのだ、と不意に思う。ああ、桂さん。アンタは死んではいけなかった。アンタらの年齢じゃ、一人残された痛みは重過ぎる。 その時、ミシ、と強い音を立ててハツが床を踏んだ。 俺の方が心臓が止まるかと思った。対して銀さんはさして慌てもせずに、振り向いてにやりと笑う。隈と乾燥した口元が酷い。 「よォ。ちゃんと旅支度はして来たんだな」 疲れ果てた肌にのぼった満足の笑みを見て、今生の別れにアンタら夫婦とメシが食いたいと呼び出した男の真意を知る。 奴は俺たちがちゃんと揃って江戸の外に逃げるのか、それだけを確かめに来たのだ。――城門の中に広がる地獄に、自分を置き去りにして。 今や江戸幕府は攘夷志士の反乱を抑えきれなくなり、天人の軍勢まで借りてようやっと一進二退の戦局を維持できるまで弱体化した。 幕府軍の主力は真選組だが、日に日に刃こぼれのように人員が削られていくらしい。真選組の実働部隊を束ねる鬼の副長は、街中で見ても、怒鳴り声をあげてバズーカをブッ飛ばしていた頃が想像もつかないほど静かになった。時折嵐のように攘夷志士の首を狩ってくるという。 誰もが遠からず江戸幕府の時代の終わると知っている。 そして、終わらせるのは目の前の白夜叉という名前になってしまった銀さんだということも。 そんな中、幕府重鎮の家柄であるハツの周囲に不穏な気配を感じるに至って、俺たちは逃げると決断した。 「萩はいいぜ。道中もうちの隊の奴が付くし、何より今は紅葉の季節だ。城下町は白い壁、横の裏山は紅の街、その中に埋もれる俺たちの塾にも行ってほしい」 銀さんは謡のように、これまで言わなかったすべらかに弱弱しく長口上を述べた。 口げんかだけは一級品の男の、とぎれとぎれのラジオにも劣る弱い羨望のような、安堵のような、これは別れの言葉だ。 「その辺で昔の俺たちが馬鹿やってたら、叱ってくれ。先生を困らせるな、ってな。自分で言うのもあれだけど、ろくでもないことは全部やったんだ」 ハツが目に入ったまつ毛を取るふりをして涙をぬぐう気配がする。俺も泣きそうだ。 「大丈夫。ほんの少し旅行して帰ってくれば、江戸は綺麗さっぱり。何も、誰も失わないよ」 アンタ、誰よりも失ったじゃないか、と慰めさせてもくれない。 それどころか、進んで独りになっていく。 「銀さん!!駄目よ、子供のあなたを叱れるのは、あなたじゃない!!」 ハツの声が、電撃のように充満していく孤独の中心をぶち抜いた。その瞬間、逃げると決めた時に消えたはずの勇気が湧く。 「そうだ!銀さん!!アンタは、俺たちと行くんだ!てめえの故郷で、泣きながらでいい、てめえを取り戻すんだよ!!」 詰め寄られた銀さんは、目を見開き、口を半開きにしていた。びっくり箱から予想もつかないものが出てきた子どものような、もう二度と見れないと思っていた幼い銀さんの顔。 そう彼は子どもだ。こんな時代を変えるような戦いで犠牲にならなくたっていい、ただのさみしがり屋で、素直でない憎まれ口をたたきながらも皆と楽しく過ごすことだけを考えた優しい、どこにでもいる子どもであるべきなのだ。 「――長谷川さん。ハツさん」 事実、すがりついてきた彼は、数多の命を屠った鬼とは到底思えない。銀さんをハツと二人で抱きしめると、幾度となく助けられた飲み仲間が、自分たちの子どものように思える。そんな彼が、震えている。おびえている。悲しんでいる。一体誰が彼をこんなにした! 「……いいなあ、あんたらみたいな親だったら」 欲しかったなあ。 絞り出す声を掴もうとした瞬間、するりと銀時は離れていた。そしてゆるりと笑う。――絶え間ない孤独を受け入れた笑み。 「もう選べないんだ。……俺は、陸奥の、万斉の、また子の手を取った。あいつらが残した奴らを裏切ったら、今度こそ俺はあいつらに会わせる顔がねえ」 まいったよなあ、と面倒見のいい笑いで言う彼は、一つの恩も返させてはくれない。 門の外まで自分たちを見張る彼を、無理やり外に引きずり出そうとしても、やんわりと拒絶し、おそらく二度と会う権利すらくれないのだ。 ◆ ◇ ◆ その秋の終わり、美しい紅葉が流れていくように、ターミナルが燃えた。 ◆ ◇ ◆ 雪だるまがいる。 白くうねった髪の先に、粉雪がふっとかすめた。すぐに溶け、垂直に水が落ちる。 その水滴に絡みつくように、平坦な雪雲からバラバラと散る白が首の下で小刻みに震える銀髪に積り、徐々に色を変えていく。 本当に雪だるまに似ている。俺は我ながら的確な表現だとひそかにほくそ笑んだ。白装束に、白い髪、肌色を埋める雪。 ああ、でも一つ足りない。 「……これで、雪だるま、完成だな」 腹からあふれ出た赤をひっつかみ、髪に塗る。手が上げられず、俺の覚えているそれよりは歪な帽子になったが、完成には変わりない。 見慣れたマヌケ顔がぼやければ、白夜叉の雪だるまでも風情があった。 付け加えた帽子に落ちる白は、髪よりも早く溶けていく。俺の手に触れた雪はいつまでも溶けない。 ああ、……俺は、死ぬのか。 「――恨まねえの」 雪だるまがくだらない口をきく。人の腹を容赦なくぶっ刺した後に言う言葉じゃねえよ。 「……いい、近藤さんたちが、待ってる」 目を開けているのに疲れて、目を閉じた。凍える冷気が触れると、春眠のように幸せな気がした。もう少し時間があれば辞世の句にしてもよかった。 「土方…土方……土方っ!」 瞼を開ける力は既にない。それが無性に残念で、冥途の土産にこいつの涙でも拝みたかったと思う。 そんなくだらない考えが浮かび、我ながら悪趣味に過ぎる、と笑えた。もうこの男の涙は枯れ果てた上、彼のかけがえのない連中を奪った自分に捧げられるはずもない。 ――それでも。 悼んでくれただけで、いいさ。 「伝言、は」 息を吐き出した時、これが俺の最期の言葉だと分かった。笑える。それをこいつのために使うとは。 「……待っててくれ。さっさと地獄に行ったら許さねえ、川の前で待ってろ」 必ず伝えるよ。お前の半分をごっそりと抉ってあの世に行った酷い連中に。 身体の芯にあった熱源がずるりと奈落の底に落ちる。なあ、銀時。この奈落はお前が落ちた場所か? 意識と、痛みと、冷たさが消える。 最後の最期に、ただ一人残された友への憐憫が浮き上がり、そして消えた。 咥えた煙管から甘い匂いが立ち上る。昔はこの匂いを埋め込まれることが嫌でたまらなかったのに、いつのまにか癖になっている。戦術を練る時も、戦いの中で人の心をそぎ落とす時も、数少ない休息の時ですら手放せない。 「鬼の副長も仕留めるとは、さすが白夜叉じゃき」 背後の襖を乱暴に明けた張本人を煙を吹きかけて労うと、白夜叉は憎しみに滾る目でこちらを睨んでいる。ぞくぞくした。 のう、白夜叉。鬼の副長を斬るのは楽しかったか。苦しかったか。 「陸奥さあ、それ、止めてくんね? って、俺バカみたいに言ってる気がするんだけどよ」 「煙管か、白夜叉と呼ぶことかの。――ああ、両方じゃったか」 「おまんはわしが分からないかえ? 取り残されてから無様に高杉の生きざまを映すわしが」 坂田がまずいものを飲み込んだように顔を歪める。「あのさあ」と頭をかきながら発せられた言葉が続く前に襖が開いた。 「総大将!もうそろそろ軍議始まるっスよ!」 「ああ、すぐ行く」 坂田よりも一層乱暴に部屋に上がり込んだまた子が肩を怒らせている。 自分たちがくだらぬ喧嘩をしている間に、他の全員が揃ったのだろう。 「あ、坂田も!今行けば、大福あるっスよ!」 「マジか」 坂田はあからさまに「助かった」という顔で、そそくさとまた子の横をすり抜ける。去り際にまた子が拳を突出し、拳を軽く合わせてようやく笑ったのが見えた。 「一応先に聞いて覚悟しとくけどよ、今度はどんな無茶をさせるつもりよ」 坂田が振り向かずに言う。声音が少しだけ深い落ち着きを取り戻している。――それでいい。 本丸を守る狗が消えた今、見るのは次の獲物だけだ。 「無論、ふざけた烏どもの羽をもいでもらうき。一羽、残らずの」 坂田は肩を落として、不穏に笑うというちぐはぐな反応を寄越した。 「最悪の人使いだが、俺も賛成だよ。総大将殿」 力任せに廊下を踏み鳴らす音が遠くなり、まんじゅうを争う声が聞こえ始める頃、ようやくまた子が口を開いた。 「ダメっすよ、追い詰めすぎたら」 バァン、と粉雪の舞う中空に向けて懐かしい大振りの銃を突出す真っ直ぐな背中が歪んで見えた。 「ああ。あのタイミングで来てくれて助かったぜよ。つい、の」 また子は縁側に腰掛け、積もった雪をぐしゃぐしゃとかき回した。白に草履の跡がつき、土の色が汚らしく混じっていく。 「潰れさせない。晋助様の望みが全部叶うまで」 のう坂田。おまんは、高杉の遺品をもつわしと、坂本の遺品をもつまた子を心底理解できんと思う。それはそうだろう。貴様は、最後まで、同じように契約した盟友の絶唱を無視し続けたのだから。 人生をかけて付いていくと決めた男をみすみす死なせた女二人だからこそ、盟友になれる事実など分かられてたまるか。 「ああ。頭、おんしも川の周りで女なんぞ引っかけとらんで、しっかと見るぜよ」 貴様を殺した場所の末路を。 喉から自分でも聞いたことがないほど甲高い笑いが聞こえた。 |