子ども心に先生の髪が好きだった。もちろん俺達はあの人の全てに魅かれていて、いつの日かあの太刀筋に追いつき、強い魂を持った大人になって肩を並べる存在になりたいと思っていたし、心のどこかでその未来は叶うのだと思っていたからこそ、髪という目に見えやすいものをずっと覚えていたのかもしれない。 銀時は全く髪質の違う自分の髪を何とか真っ直ぐにしようと引っ張っては、鼻で笑う高杉と喧嘩になっていた。その高杉も父親の目があって伸ばせないとこぼしたことがある。 ―――俺は。 夜、元結を取った時、頬に髪が落ちてくると少しだけ温かい気持ちになった。 今。 それは無惨に散らばって、 何で、 あの人の首が、 地に。 ◆ ◆ ◆ 「身は軽くなったかよ」 交わりを終え、崩れ落ちるように覆いかぶさってきた高杉は開口一番そう言った。不敵に笑って見せようとして失敗した真剣な気配の先に、木材の隙間から一筋の光がさしている。 その淡い光とともに、急速に、惨たらしいほど急激に、現実が戻ってきていた。 無様に生き残った俺たちは、このあばら家で馬鹿らしい賭けをした。勝ちたかったのか、負けたかったのかも分らぬまま、熱をつないだ。 賭けに負け、あの熱を抱いたまま死体となっていたら、どうだったのだろう。あまり変わらなかったかもしれない。そう思えるほど、先ほどまでの熱の方が夢幻であったかのように、汗でじっとりと湿った身体は冷たい。 「……お前の身体は、冷たいな」 陽の筋と、すでに燃え尽きようとしている蝋燭の炎の重なりが、高杉の目を暴いた。それは凍り付いて、澄んでいた。元の色がどうしても思い出せない。見慣れた、いや見飽きたほどの男が全く知らぬ冷たさの底に沈んでいる。 「―――桂ァ。俺の目で、見てみろよ。テメェを」 身を起こされると正面に一つ残された目がある。ああ、と嘆息したのは自分だった。 高杉が分かったかと微笑む。 覗き込む見知らぬ顔になった自分の、その濁った目に向けて。 「世界に喧嘩を売るんだ。体温なんざ、いらねぇだろ」 高杉の言いたいことの全てが分かったその瞬間、激烈な、雪に埋もれた川よりも芯を凍らせる寒さがよぎって、それもつかの間で過ぎ去った。 「それで、身は軽くなったかと聞いたんだが」 高杉の目が“分かっているだろうな”と念を押す。 分かっているさ。喉が動くよりはるかに早く、奥まったところから、それは静かに聞こえた。 俺達は賭けに勝った。 ならば戦わなければならない。途中で倒れることは許されない。 「おかげさまでな。半分になった」 だから、そう応えた。彼が最も望むだろう答えを一言一句違わず。 こういう暗い道へ進む時だけ、自分たちは完全に通じ合える。 「そいつはよかった」 満足そうに高杉が息を吐いたのを合図に、どちらともなく張り付いたような身体を離し、手早く身支度をする。首筋にぴり、と冷気がよぎった。 刀を差し、元結を探そうとしたところで、ようやく扉が開いた。 遅きにすぎた鮮やかな白い光の中に、追跡者の影が陽炎のように、何とも弱弱しく浮いている。 乾いた笑いをもらしたのは、自分の方だった。 昨日まではその影に怯え、神経をすり減らし、いやそれどころか先ほどまでは次に来た者に斬られようと思っていたはずなのに、今はすとんと「ああ、斬れるな」と思ってしまった。一切の体力がなくなったはずの身体が軽くなり、どこで奪ったかも分からない刀が「さあ行こう」と言うように手に馴染むのだ。 「髪、結うか?」 追跡者の殺気が膨れ上がっていく中、いつのまにか高杉が見つけたらしい。差し出された傷だらけの手に余った布で作った粗末な紐がのっている。初めて母に作ってもらったものや祖母の形見のそれはとうの昔に千切れてしまい、戦場で適当に作った紐だった。 「……いや、いい。お前が持っていてくれ」 高杉は驚いたように目を見開いたが、黙ってそれを懐にしまった。 ―――そう。お前に預ける。 俺の心が折れないように。 あの日を決して忘れないように。 「行くぜ、ヅラァ」 きっと無様で滑稽だろう。 今更、先生の髪を模したところで、何になる。 先生は俺たちのために死に、もう二度と戻らない。 それでも。無様に残った髪で、あの人と同じ髪型で、この先に行く。 どれほど虚しく、血生臭い道のりであろうとも、毎朝この髪を見れば、立ち止まれまい。 「ヅラじゃない桂だ」 一瞬目が合った後、高杉が駆け出す。 向かわなかった方の敵の腹を薙いだ時、陽光の中で自分も高杉も笑っているのだと知った。 ◆ ◆ ◆ 銀時に再会する時、僧侶の変装を選び、髪を結ったのは正直に言えば惰弱だった。 気が進まず、そして怖かった。髪はこの数年で伸び、師と同じような長さになっていた。髪質も近かったようで、色を除けば自分で見ても、ああ似ているな、と思うのだ。 数年間、影も形も見当たらなかった銀時を見つけた時、あれほどの歓喜があったというのに、今では顔を合わせるのが酷く怖い。疎まれるかもしれない。いや、疎まれても、罵声を浴びせられても、仕方がない。ただ銀時の前に、彼が斬った先生と同じ髪型で現れるのが恐ろしい。 「何としても銀時を戻すぞ」 それなのに、自分はそう高杉に言うのだ。 自分たちが銀時の傷そのものだと分かっていながら。 「ああ。最初はテメェが行け」 高杉は、戌威星大使館からの経路図と池田屋の図面から顔も上げずに言う。図面には自分が書き込んだ脱出経路が書いてある。時折高杉の指が赤字を追い、そのまま通り過ぎることもあれば、墨で追記することもある。 「俺が先でいいのか?」 「まだテメェの方がまともに話できるだろ。俺は早朝には京に発つぜ」 高杉がつまらなそうに言い、図面を投げてきた。 「もう行くのか?」 「あァ」 そろそろ潮時だろう、と高杉は言った。片方だけ残された目の奥底は濁って見えない。 江戸での地盤を固めたところで離れることは、動き出す前に決めていた。 もう二度と同じ轍を踏まないために。同じ場所で、同じように戦うことはできない。 だが現実問題、刀一本だけが残った状態では、とにもかくにも衣食住、武器類の確保、そして将来幕府と天に届くための人脈確保が必要で、そこだけは二人で始めた。 「今は俺とお前しかいねェんだ。交渉に行って、大人数で押し包まれたらどうしようもねェからな。一人が交渉、一人が抑えだ」と珍しく高杉も慎重に言ったのだった。 交渉は江戸の商人、それも攘夷戦争で縁者を失くした者、そして売上を幕府に依存せず、街中の顧客を確保している者を順にあたった。最初の十人までは、意見が一致した者のみとし、以降はどちらかが諾と言えば近づいた。 商人への接触は全て自分が担当した。 「お前は見目だけは誠実に見える」 初めての接触を前にして、そういう分かりやすいのがいいんだよ、と高杉は嫌そうに言った。 「見目だけとは何だ。この誠実そのものの人間を捕まえて」 「戯言で腹は膨れねェぜ」 「まあ、お前よりは確実に人となりが良いことは認めよう。――誰から行く?」 ひとまず身を隠した廃寺にはどこからか隙間風が入り、床に置いた紙を攫おうとする。数十枚の紙を刀や手足で飛ばぬように留めなければならない。 チラシの裏には、既に目を付けた十人の隠語、背景、影響力をまとめてあった。すでに屋敷は下見もしている。後は決断だけ、という局面だった。 「池田屋だ。一番警備が厳しく、死人が多い」 高杉はそう断言した。 「一応聞くが、その警備をかいくぐるのは俺だぞ」 どうにも高杉と話すと反射的に文句を言いたくなるが、すでに脳裏には池田屋の警備が鮮明に浮かんでいる。こういう時の高杉の勘は外れない。たちの悪いことに本人もその自覚はあるようで、にやりと悪い笑い方をしていた。 「自慢の警備をかいくぐって目の前に現れるくれェ見せなきゃ、このご時世で、俺達に賭けようなんざ思わねェだろ」 そうして、交渉は成り、初めの舞台は池田屋になった。池田屋だけでなく、初めの十人はすべて引き入れ、すでに商人以外の職業の者にも広げる段階にきている。 そして、どちらも口には出さなかったが、それぞれの仲間が集まり始めていた。 「俺はしばらく京で動静を探る。朝廷にも探りを入れたいところだしな」 「当てはあるのか?」 「あるようでない、と言ったところか」 「無茶はするなよ」 「俺たちがやろうとしていること以上の無茶があったら知りたいね」 「全くああ言えばこう言う! 道は遠い。そのくせ一つ一つが危険だ」 意外にもその時、高杉は黙って頷き、続きを目で問うてきた。 「俺たちは一歩でも踏み外せば死ぬ薄氷の上にいる」 「懲りもせずにな」 雪の夜のように静かな相槌が打たれる。 この男はこんなにも凪いだ声を出すのだったか。 「だが、その小さな一歩で死ぬことなど許されない。だから無茶はするなよ。貴様という奴は昔から、俺が想像もできない無茶をする名人だからな」 「……まァ、正直テメェにだけは言われたくねェが、心には留めておく。それから、これ以降は自由にやろうぜ」 この数か月、どちらが先に、どのタイミングで言うか悩み、何度も言いそびれたことを、高杉はあっさりと続けた。 自由にやる。それは基本的には策を共有しないということだ。 情報は共有する。必要があれば協力もする。だが、それ以外はすべて、別れて単独で決める。 「そうだな」 躊躇を悟られたくなくて、即答する。 ここからは、一人だ。助け合える距離にもいない。知らぬところで死ぬかもしれない。策がずれることも、ぶつかることも出てくるだろう。高杉の目標は「国崩し」で、自分は「国盗り」なのだから、自由にやれば恐らく相容れないことばかりで。 だが、それでも。 「……そんな顔するんじゃねェよ。心配しねェでも、俺もお前も地獄から逃げられねぇよ」 「分かっている。そんなことくらい」 「じゃあ何か? 俺とお前の策がぶつかることでも心配かよ」 「……」 癪だが、図星だったので言葉が途切れた。それでも結論は一つだと分かっているので、言い返そうとした。 そうしたら高杉の顔が、ほとんど目の前にあったのだ。 「桂。先に言っておくが、俺は必要があればテメーを裏切るぜ」 いや、確実に裏切ることになる、と高杉は断言した。今まで一度も見たことのない顔だった。 「俺とお前の見ているものはもう違ェ。ぶつからない方がおかしいんだ。その時、俺がお前を、お前が俺を出し抜かずにどうする」 嫌でも分かってしまう。高杉の言いたいことが全て。高杉の言うことは正論で、彼はもうこの先の戦いしか見ていない。子どもの時から変わらぬ、こうと決めた時の迷いのない目をしている。 「桂、お前なら、」 その先は聞きたくなかったので、手で制す。 「立場が異なるはずの俺たちがぶつからない、ぶつかっても被害がないのであれば、早晩繋がりを悟られる。そうなれば攘夷戦争の二の舞だ、だろう?」 裏切り、裏切られる。それに何も知らぬ仲間も巻き込む。自分たちの嘘の中で死んでいく者も出るだろう。 「そうだ。俺たちなら、互いの策を読み切れねェ。騙してやろうぜ、―――世界ごと」 「銀時をも」 口火は切らせてしまった。だから、どうしても言いたくなかった一言は先に言った。 「銀時の力は絶対に必要だ。だが、三人にはなれない。銀時の目から見ても、俺たちは離れていなければならない」 俺たちは銀時を騙す。騙して、また戦場へ引きずり込む。 なんという悪業だろう。 俺たちのために、銀時に咎を背負わせたのに。 銀時の傷は、あたたかな場所でこそ癒されるべきものなのに。 「なあ、高杉。銀時にはなんと声をかけたものだろうか」 「知るかよ」 どうせ大した話してねぇだろ、と失礼なことを言いながら、高杉が髪に触れてきた。頭を押し包むようにして、指がするすると降りていき、毛先に至る。 不意に、どこからか土葬をしたばかりの湿った土のような臭いがした。毛先に触れた手が、不思議なほど柔らかく頬に触れる。 「大使館の前だ。変装するか?」 不覚にも、涙と、大声を出して、もう止めだと叫んで、逃げて、刀を捨てて、耳をふさいで生きていきたい衝動が沸き上がった。 銀時を苦しめに行くのだ。この髪で。 今の言葉が高杉らしくない優しさであったから、もうそれ自体が、罪を思い知らされるようで、どうしてこの道しかないのか、まだ初めの一歩ですらないのに、もう一歩も進みたくない、と思う。 「坊主にしようと思う。……髪は結っておく」 「あァ、それがいい。―――出会いの一度だけな」 二度目は駄目だ、と囁かれ、本当に何度も思えるが、高杉など嫌いだと思う。自分が臆病風に吹かれたとき、的確に退路を断つのだ。 「それから、池田屋の脱出経路だが、白夜叉の舞台にしては地味だぜ。もっととんでもねェ場所になるかもしれねェよ」 悪童だった頃の面影を残した知らない笑みで。 ―――結局なんの進歩もない俺たちは。 「ヅラ小太郎か!?」 「ヅラじゃない桂だ!」 数多の言葉を考えていたのに、銀時を目の前にしたら全てが無駄になった。 爆炎が彩る大使館前で、全くいつもの通りのやり取りをして、駆け出す。 子ども二人を引き連れた銀時は、相も変わらず死んだ魚のような目をしていたが、最後に別れた墓場で見た時とは違う、人間らしい気配が戻っていた。 生きていた。 生き延びていた。 「そのニックネームで呼ぶのは止めろと何度も言ったはずだ!」 叫びながら、もう一度銀時とこの馬鹿げたやりとりをできる日が来ることを疑っていた自分を知る。本当はずっと恐れていた。銀時の心が粉々に砕けて、体は生きていたとしても、もう二度と会えないのではないか、と。 疎まれてもいい。 ただ会えてうれしいと思ってしまった。 罪は消えない。それどころか、俺たちは銀時を追い詰める存在になり果てたというのに、この優しい男の目に、目が合った一刹那、過った安堵を見つけてしまったから。 「銀時」 口を開いた先で、説得はものの見事に失敗し、癪なことに高杉の予想は的中した。 あまりに鮮烈な風が駆け抜け、爆音とともに宙を舞ったのは、遠い日に、ふてぶてしく木の上から喧嘩に乗り出してきた馬鹿のままで。 郷愁よりも思い知る、という感情に近かったかもしれない。 俺たちはまだ終われない。 腐れ縁は続いているのだ、と。 ◆ ◆ ◆ 身体が泥のように重い。空気も薄いのか、喉も塞がり、息苦しさも感じる。 夜のもう一段底を見たからか、闇は少し薄くなったようだが、ただ茫漠と広がっていっただけのような気もする。 酷く疲れていた。 高杉の家を襲撃してから三日。日中はずっと寝ているのに、疲れが取れない。 紅桜の夢を見る。高杉の声の狭間に。 工場に忍び込み、紅桜の性能を盗み見た時、これは高杉の本気の策だと確信した。その場にあったものだけでも、暴走させれば間違いなく江戸は火の海にできる威力だった。量産できれば更に脅威となりえる。 高杉が紅桜につぎ込んだであろう膨大な時間と手間を考えなかったわけではない。だが、自分は受け入れられないと判断し、紅桜の方を灰にする選択をした。 「裏切者」 そう弾劾したかったのは、高杉の方だろう。攘夷戦争時は、幾度となく天人の武器に翻弄され、仲間を肉片に変えられ、炎にまかれた。刀一本でどこまで出来るのか苦悩し、強力な武器を心底欲した。高杉はその思いを現実のものにしただけで、無関係の者を巻き込みたくない、という自分の方が甘いのかもしれない。 だが、高杉は一度も裏切者と言わず、紅桜が破壊されても涼しい顔で、第二手を打った。 比べて自分は。 春雨を見た瞬間、「裏切られた」と思ったのだ。 まだ覚悟も決まっていないのか、裏切られたなんぞと寝言を言うのかと嘲笑う高杉の顔を見ながら、叩き斬ってやりたい、と思った。いや、正確に自分の甘えを突かれたことに苛立った。高杉が慣れぬ薄ら笑いを浮かべて、対岸に渡っていくのが虚しかった。この馬鹿が、と。お前、これまでどれだけ一緒にいたか、分かっているのか、と。どれだけお前に迷惑をかけられ、それでも続いていたではないか、俺たちをあんな天人どもとの交渉材料にするとは、と喚きたくなった自分にも腹が立った。 「斬れ、桂。そして誓え」 身体は眠っていても、そう宣告した高杉の声が、脳裏を延々と巡る。 本当にあの男は嫌な奴であり、腹立たしさにまかせて乗り込んだのに、斬ることも斬られることもできずに帰った自分は臆病者だ。どうしようもないまました選択は、当然のように、初めから決まっていたかのように、地獄の階段をもう一段下るだけのものだった。 そんな最悪の体調で、ようやく会合を終えて隠れ家にたどり着いたら、もう一人の馬鹿がいた。 普段は寄り付きもしないくせに、なぜ今日に限ってくるのか、と思ったが、昔からこいつらはタイミングというものが悪い。 ―――だが、それでもおかしかった。銀時は、紅桜の一件で深手を負い、再度逃げ出さないようにと隔離されていたはずだ。なのに、ここにいる。 瞬間、先ほど入った情報と合わせて、事情がひらめいた。同時に、自分でも驚くほどの暗い喜びがよぎり、それを悟られないように言う。 「貴様は、怪我をした時にはおとなしく寝ていなさいと何度言えば分かるのだ。それも? 看病をしてくれている子どもたちから逃げてきただろう? 布団から逃げ出した馬鹿を探す方の身にもなれ。薬は飲んだのか? 昔、俺が懇切丁寧に薬草から作った痛み止めを捨てていたことも知っているんだぞ。苦い薬が飲めないなんて我儘を言うんじゃありません! というか、貴様が最後の蕎麦を食べているのはどういうことだ」 「長い。もっと端的に言えねえのか、ヅラ」 反射的に出たが、適切この上ないありがたい説教に対して、銀時は聞く耳を持たない。 それどころか、わざと大きな音を立てて蕎麦をすすり、天ぷらをかじっている。 「ヅラじゃない桂だ。なぜ貴様が俺の家で蕎麦を食っている」 「いやそこかよ。怪我の話じゃないのかよ」 「正直貴様の怪我よりも、最後の蕎麦と天ぷらを食べていることを問い詰めたい」 「……仕方ねえだろうが。あんな重傷負わされたのに、新八の家じゃ飯も食えねえし、寝てもいられねえんだから」 「ふん。寝ていようにも、どうも犬どもに嗅ぎまわられたらしいな。人気者で何よりだ」 蕎麦の恨みがあったので、普段より一手多く嫌味を言った。 「ああ?」 銀時の瞳が一瞬で剣呑なものに変わった。いつもより早い。奴もまた意識をしないようにしながら昂っている。 哄笑が聞こえた。 自分のものか、奴のものか分からぬ、醜悪な哄笑が。 実際のところ、紅桜と対峙した銀時を見た者はそう多くない。少なくとも警察につながりうる者は。むしろあれだけの騒ぎが起こり、戦艦も潰れたからこそ、あの場にいた部外者には目がいかないのが自然だ。 それでも真選組は銀時に目を付け、密偵を差し向けた。―――その意味。 「言っておくが俺ではないぞ」 「何が言いたいんだよ、ヅラァ」 銀時の声が一段低くなり、鋭さを帯びる。 「言わなければ分からんか? 俺は幕府の犬どもに情報を嗅ぎつけられるようなヘマはしていない」 「いや、しょっちゅう追い回されてるだろうが。テメーの目撃情報も聞き飽きたんですけど」 「馬鹿め。あれは情報収集に決まっておろう。攘夷志士が警察を恐れてどうする」 「恐れるっつーか、阿呆みたいな見つかり方を止めろってことだよ」 「なんだ。心配してくれるのか」 「幻聴が聞こえんならさっさと病院行け。頭と同時に治療した方がいいだろ」 埒が明かないと思ったのか、銀時が腹立たし気に蕎麦を一気にすすり、汁を飲み干す。おかげで俺は晩飯抜きだ。せめてもっと味わえと思う。 おそらく、薄々勘づいているのだろう。真選組にリークがあったことを。手を引いたのが、誰であったかも。そして苛立っている。 昔と違うのは、苛立ちを拳に乗せて振るえないことだ。昔からあの馬鹿は、銀時の琴線を頻繁に、そして適切に踏んだが、その場でやり合えていたのだ。 今、ぶつけられなかった感情は、血生臭さとなって銀時に絡みついている。 「一晩は泊めてやる。新八くんたちが心配するだろうが、その気配では帰るに帰れまい」 仕方なく、エリザベス用の布団を出す。正直、これ以上、どこぞの馬鹿が仕掛けた嫌がらせも、影響も、後始末も何も考えたくない。一刻も早く寝たいのだ。 固まったままの銀時を待たずに、先に布団に潜り込むと、肌に張り付くほどの冷えで、今夜はこれほど寒かったか、と思う。 「銀時、俺はもう寝るぞ」 「―――桂。“お前ら”いつまで、こんなことするんだよ」 それは、ほとんど同時だった。あと数秒遅かったら、意識を飛ばせていただろうに、先に聞いてしまった。 いつのまにか布団の横に来ていた銀時の銀髪が、鈍い蛍光灯の白で瞬く。光っている、と思った瞬間、奴の瞳の紅が普段より濁っているのにようやく気が付き、眠気が吹き飛んだ。 「――――っ!」 跳ね起きようとして、腕を取られた。そのまま伸し掛かられる。 もがいたが、体勢が悪すぎた。銀時は左手しか使っていないのに、まとめて押さえつけられた手首は少しも動かず、容赦なく腹に乗られて、蹴り飛ばすこともできない。 「いつまで、と言われてもな。この国の夜明けまでかもしれないし、気が済むまでかもしれない」 「……」 銀時が無言のまま手に力を込めた。 本気で怒っていることは分かっていた。しかも、この力勝負の体勢では抵抗するだけ無駄だ。逆に全身の力を抜いていなす。 「貴様がどのような答えを求めているのかは知らんが、俺も、―――あの馬鹿も止まらんぞ。いい加減愛想が尽きたが、決別してもそれだけは同じだ」 銀時が何か言いそうになり、呻いた。 何も言えない、傷ついた銀時。かわいそうな、中途半端な男だ。 違う道に行くといいながら、決別に傷ついている。 だから、離せないのに。 ―――その甘さによって、悪党に追われ続けるというのに。 「なあ、銀時。実は三日前から答えが出ずに悩んでいたことがあったのだがな。礼を言う。貴様と話していたら分かった」 言葉はするすると流れるように出てきた。 あの日、高杉が一言でも詫びのようなことを言ったなら、斬ってしまおうと思っていたのだ。 人々ごと国を壊すやり方は受け入れられなかった。だから対立した。しかし。 (必ず国を盗り、天を崩す。―――そう選んだ) 理屈は通っていない、と自分でも分かっている。ある意味で高杉は筋の通った行動をしていると分かっているが、餌にされたことに傷ついたという事実は変わりない。 だが、一方で。 詫びを入れるような半端な覚悟で裏切ったのなら、許すまいと、彼の首に刃を当てたのだ。 だから、銀時。 この話は三日遅かった。 「……今、両手の骨を折ったら止まるのかよ」 そう言う銀時の声には、獰猛な笑いとは裏腹に、切実さがあった。 心臓の奥底がじくりと痛んだ気がしたが、隙だ、と思う方が早かった。 「貴様、俺の諦めの悪さを忘れたのか。腕が使えなくなったら義手にでもするさ。―――まあ」 ほぼ無意識のうちに、手首の方に銀時の体重が移った瞬間、痛む腹筋を叱咤して起き上がり、頭突きを繰り出す。 「うわっ」 手首を押さえつけていた手が外れた。頭突きを避けて防ぐか、手首と腹筋を押さえて押さえ込むか迷った結果だ。 「貴様にそれができたら、の話だ」 手首を取られたままなら再度の力押しで倒されただろうが、一度外れればこちらのものだ。かわされた一度目の頭突きの勢いのまま、目の前の首に手をかける。 「銀時。俺の思いは変わらない」 少し熱があるのか、手のひらに触れる銀時の首筋は熱かった。あるいは自分の手が冷え切っているのかもしれない。 「お前の力が必要だ。もう一度、俺の手を取ってくれ」 古びた長屋の床が馬鹿げた攻防に抗議するかのように、鈍い音を立てて軋む。この軋みは、きっと自分たちの関係の音だ。 同じものを護れず、生きて会えた幸運を踏みにじり、傷つけあう愚かな音。 「……俺はもうやんねえよ」 項垂れる寸前、銀時の目が、暗く染まった。自分も、高杉への苛立ちも、紅桜との戦いもすべて素通りし、遠くを見つめている。あの人が、騒ぐ自分たちを見ながら、時折そうしたように。 そろそろ、引き際だった。 「貴様も無駄に頑固だな。だからこんな捻じ曲がった髪が生えてくるのだ」 「その中途半端な長さのヅラよりましだよ」 「ヅラじゃない、地毛だ。貴重なショートカットだ。よく拝んでおけ」 思えばこれほど短かったことは、覚えがない。高杉と知り合うよりも前かもしれない。 「ショートカットとかキモいんですけど」 「じゃあこの手はなんだ」 悪態をつきながら、銀時の手は何かを確かめるようにゆっくりと毛先を弄んでいる。 「あぁ? 地毛かどうか確かめてやってんだろうが」 馬鹿者、と言おうとして、銀時が寂しげに長さを確かめていることに気が付いてしまった。 そうか。 お前にとって、長髪が、斬られる瞬間は、 「―――銀時。もう寝た方がいい」 俺も、お前も、短い間に、思い出に触れすぎた。 もう一度くらい憎まれ口が返ってくるかと思ったが、返ってきたのは「……そうだな」と疲労の滲んだ声だった。 ◆ ◆ ◆ 「あ」 しまった、と思った時には、元結が切れていた。 さっき木に登った時、枝に引っかけてしまったような気はしていたのだ。その時は切れなかったが、今頃になって。 イチョウに登って、悪戯用の銀杏を取ろうなんて馬鹿な発案に乗らなければよかった。(断ったら断ったで、そんな時だけ結託する馬鹿二人に「登れないのか」などと言われるが) 「ヅラァ、さっさとしろよ!」 「今行く!」 高杉の急いた声は、大分離れている。もう戸のあたりかもしれない。 家に取りに帰る時間はなかった。講武館との練習試合の開始まで半刻もない。 「小太郎。どうしたんですか?」 「先生!」 答える前に、ああ、と微笑みが返ってくる。 「ちょっと待っててください」 先生はそのまま教室を走り抜け、居間の押し入れを開けた。……そして、がしゃん、と大きな音を立てながら、豪快に中のものを放り出し始める。 「先生?」 「このあたりに、昔使っていた元結があったはずなんですよ」 ぽいぽい、と効果音が付きそうな軽やかさで積み上げられた布団や書物が小さな山になったあたりで「ありました!」と先生の声が明るく弾んだ。 その手には、鮮やかな藍色の紐がある。紺色より明るく、空の色よりは深い、明るい雰囲気の青。 「私が昔使っていたものでよければ、小太郎にあげます」 え、と声が出た。 「良いのですか?」 「はい。普段は髪を結いませんから」 差し出された元結に、すぐに手が伸ばせなかった。嬉しくて。少し解れた端が、先生が使っていた時を感じさせて、じんわりと胸が温かくて。 「テメェ、いつまでチンタラしてんだ!」 ありがとうございます、と言おうとして、高杉の声に遮られた。先生が笑う。 「ああ、時間がないですね。さ、後ろ向いて」 「いや、自分で」 「まあまあ」 先生に髪を結ってもらっていいのかとか、こんな機会はもうないかもしれないとか、高杉に見られたらまた突っかかれそうだとか、ぐるぐると回っている間に、先生は素早く髪をまとめ、きれいに括ってしまった。 「ヅラ! 置いていかれてえのか!」 そして、丁度手が離れていったとき、五月蠅い足音が最大になり、怒れる高杉が飛び込んできた。 「晋助、大丈夫ですよ。もう小太郎も行けます」 その後、元結の件は二人だけのちょっとした秘密にしましょう、と自分にしか聞こえないひそやかな声が下りてきた。 「先生!」 不機嫌だったはずの高杉の顔が、ぱっと明るくなった。もうこちらには目もくれていない。 いつも思うが、現金な奴だ。 「さあ、駆け足すれば試合まで十分間に合います。先に出た銀時が河原で寝ているかもしれないですし、起こしても、……多分間に合います」 そうだった。と、嫌なことに声がそろった。 珍しく銀時は時間より前に支度を終え、散歩してから合流すると出かけて行ったのだが―――、日中はまだ温かく、絶対にそのあたりの日向で寝ている気がする。 「絶対寝ている!」 同じ結論に達したらしい高杉が青くなって叫んだ。何しろ遅刻は不戦敗だ。 「行くぞ、高杉!」 「いや、お前が遅れたんだろうが!」 名残惜しそうに先生に一礼をした高杉が駆け出していく。走り際に乱暴に投げられた荷物を受け取り、ほとんど無意識に髪に手を当てると、きつくもなく、ゆるくもなく、結ばれていた。 「先生、ありがとうございます。大切にします」 勝てる、という予感が胸に広がった。いや、今日だけではなく。 この元結は生涯大切にする。不用意に切ったりしないように、ここぞという局面でだけ使うのだ。 「先生は髪を結わないのですか?」 「うーん、ここぞというときに結うかもしれません。大掃除の時とか」 あの時の先生の少し困ったような、あるいは冗談を言うときのような、柔らかな微笑みが明滅する。あの年の大掃除では、髪を結い、襷掛けをした先生と共に、隅から隅まで村塾を磨き上げたのだった。すぐさぼろうとする銀時や、止めておけばいいのにその銀時と口喧嘩をした高杉が拳骨で地に埋まったのも、今はただ懐かしい。 「なかなか絶望的な光景だ」 宇宙船から見えるのは、漆黒の闇、星々の瞬きはかすかで、煌めくのは異国の艦隊の光だけだ。 惑星を取り巻く環のごとく布陣を敷いた解放軍の艦隊が一斉攻撃をすれば、地球はひとたまりもない。この場でどれほど刀を振るおうとも揺るがせない事実だけがある。 船が着けば、すぐに交渉が始まる。解放軍を留められなければ、地球でどれほどの勝ち星を挙げようが意味がないのだ。 (やはり刀一本なのかもしれんな) エリザベスから渡された包みの中にあった戦装束と、暗闇を照らす艦隊を見ているとそう思えてくる。 昔、この装束を着て走っていた頃。俺たちは本当に刀一本を引っ提げて、先生を救い出し、皆で松下村塾に帰れるのだと信じていた。今のこの光景を見たら、当時の自分たちは何と言うのだろう。 「ヅラぁ。おんしは絶望的なんて殊勝なことを言うたまじゃなか」 きっとあの二人は馬鹿だから「上等だ、やってやろうぜ」とか「喧嘩は派手じゃないとな」などと言って、悪い笑みを浮かべるのだろう、と思ったところで、声がかかる。 いつのまにか背後に坂本が立っていた。 「ヅラじゃない、桂だ。ノックぐらいせんか」 「いや、ここわしの部屋なんじゃけど。敵母艦には既に接続された。もう将軍も準備を始めとる」 坂本は継裃に着替えていた。いつもの胡散臭いグラサンもない。 正直あまり似合ってはいなかったが、体裁は整っている。 「なんぞ失礼なこと考えとるじゃろ」 「単にやたらと胡散臭い勅使もいたものだ、と思っただけだ」 「いや、誰に言われてもお前にだけは言われとうない。―――随分、懐かしいもんを出しとるみたいじゃが、まだ出番ではないぜよ。わしらは将軍を擁する勅使、裃くらいは着るのが礼儀というものじゃ」 坂本の視線が、昔の戦装束に注がれているのは少し気まずかった。敗北の染みついたそれを後生大事に持っているのを見咎められた気もしたし、確かに先ほどまではこれを着ようかと思っていたからだ。 「わしは、正直、お前らの中でヅラの詐欺が一番たちが悪いと思っとる。攘夷戦争の時から、ここ一番の詐欺を仕掛けるのはいつもお前じゃ」 「俺がいつ詐欺を働いたというのだ。あの馬鹿どもの詐欺の尻ぬぐいはしたがな。それに、昔から言おうと思っていたが、坂本、貴様こそ銭ゲバの法螺ばかり吹いていたではないか」 「そういうところぜよ。―――けどのう、ヅラ」 「桂だ」 「この局面、そして地球の実力を売る交渉の場に立つのに、わしら以上の適任はおらんぜよ」 「……」 「少なくとも、馬鹿二人は、こういう交渉には向いてなか。途中で、隠し刀で暴れ出すのが目に見えとる」 そう言った坂本の目は、昔この男が初めて船を手に入れてきた時と同じように、楽し気に笑んでいる。本当にこいつもろくなものではない。 だが、薄暗かった視界が徐々に明るくなっていく。 漆黒の宇宙に、地球を屠らんとする戦艦の山。 刀を振りかざし、爆風の中を、叫び、慟哭し、ただ走った、今昔。 何の変わりがあるだろう。 「―――そうか。まだ大掃除には早いか」 「いや、掃除じゃなくて。撤退させるんじゃ。いっつも思っとったけんど、お前らは物騒でいかんぜよ」 「一括りにするのは……いや、そうかもしれんな」 俺たちは吉田松陽の弟子だから。 侍を、道を悩み続けることを示し、俺たちの誰もが一度も勝てなかった、極めつけに物騒なあなたの。 先生の元結は手元にあった。腹当の裏地に布を接いで織り込んでいたものだから、所々血で汚れていたが、見間違えようもない。 (大掃除の際には必ず) きっとその時も、そう遠くはない。 共犯者に預けた方は今どこにあるのかは分からない。奴のことだからとうの昔に戦いの中で燃やしてしまっているかもしれない。 ―――だが、もう何でもいい気がした。 「なあ、坂本。生涯誰にも言う気はなかったのだがな。聞いてくれるか。―――ただ、絶対に誰にも言うなよ。死んでも言うなよ。特に銀時と高杉に言ったら、貴様のデリカシーごと舌を抜くぞ」 「なんで聞いてもらう方がそんな脅しをかけるんじゃ。まあ、言いたいことはパアッっと言うのが一番ええぜよ」 「……髪を結わなくなったのは、先生の真似事だったよ」 あの人の髪が好きで、あの人が好きで、失ってしまったことがつらかった。 「髪型だけでも先生を模していれば、諦められないだろうと思ったのだ。事実、効果は覿面でな。もう全部投げ出そうと思うたびに、鏡の奥から、先生が見ていた」 そして思い出した。 銀時に、誰よりも先生を救いたかった銀時に、あの人を斬らせて生き残った咎を。 「馬鹿げていたのかもしれない。女々しいと思う者もいるだろうし、過去に囚われていたともいえるかもしれない。だがな。今なら思う。そんな無様な真似事をしてでも、走り続けてきたことに悔いはないと」 銀時は悪態をつきながら、時折こちらが泣きたくなるほど懐かしそうに見ていた。 高杉はどこかに置き捨てたはずの優しい表情で、労わるように髪を触っていた。 それも、きっともう終わる。 俺たちはもう大丈夫だ、と言えたのだから。 ぼん、と乱暴に頭に手が置かれた。 坂本は何も言わない。そのまま手で、髪をかき回し始める。 「止めろ。これから交渉の席に着くのに髪がくしゃくしゃになるではないか!」 「いや、そんなしんどいエピソードがあるんなら、わしとお揃いのもじゃもじゃスタイルにしてはどうかとな」 「冗談じゃない。ねじれた天然パーマは二人で間に合っている」 裃を身に着け、髪を撫でつける。 ここは宇宙で。勝ち筋は遠く。置いていくぞと怒鳴った高杉も、能天気に惰眠をむさぼっていた銀時も、いってらっしゃいと送り出してくれた先生もここにはいない。 ―――だが。 訂正しよう。 「最高の光景だ」 俺たちは懲りもせず、馬鹿の一つ覚えのように戦い、ここまで来た。 宇宙中が敵に回ったこの状況こそ、反撃の初戦に相応しい。 |
楔