世の中に生きるやつらの中には、浮世は白昼夢に過ぎないと信じている奴がいて、まあ俺もその一人ではあるのだけれども、そういう無気力な俺達はただなんとなく、あらゆることにこだわって泣き喚きながら生きている奴らに憧れたりするものだ。


陽  炎


(よーし、四方向、土方さんなし)

駐屯所の自室から首だけをのぞかせ、安全を確認した沖田は剣を腕に抱え塀を乗り越えた。
もちろん、その際運悪く目が合ってしまった山崎を睨むのも忘れない。そしてもし土方さんに見つかったら、俺も俳句を始めたって言おうと言い訳まで思案しつつ、真っ直ぐに昼寝場所に足を向けた。

出来るだけ早くその場から立ち去りたい沖田は小走りで右角を曲がる。
駐屯所はそれなりに便利な場所に立っていて、すぐに市が見えた。だが、市は嫌いではないが、昼寝には騒がしくていけない。
そう思うのなら、さっさと通り過ぎれば良いのに、沖田の足は鈍る。本人すら全く気がつかないほど穏やかに鈍り、装飾品を売る店を通過した辺りで元の取り戻すのだ。
通り過ぎた店が、この一角の果てで、目の前の枝垂桜が目印。よく芸者とその旦那が忍んでいたりするが、さすがに白昼にそんなことは起こるまい。

(あ、眩しいかな)

ちかり、と瞳に飛び込んできた光を遮断すると意外に手が汗ばんでいた事に気がつく。
沖田は苛立ちげに前髪まで押さえていた手から力を抜き、だらりと下ろす。
それはまるで蜻蛉のような手だと思った。




その蜻蛉の手は、つい三時間前には刀を握り締めていて、消えない赤色に染まっていた。
まったく、最近の江戸の情勢は悪くなる一方で、攘夷派の潜伏先と聞くや否や御用改めで斬り込む毎日を過ごすしかない。隊士も日毎に減っていく。
今日も人を斬った。連鎖的に、チャイナに会いたいと思う。
たとえ聞こえる言葉が傷を抉る効果しかない、辛辣な言葉であったとしても。

人殺しの鬼の癖に。
あんたにそれを言う資格はありませんぜ。


しかし、おそらくだが、あいつにはあるのだ。
いくら過去の血に両手が染まっていても、浄化しようと思える環境にあいつがある限り、あいつには人殺しを非難する権利がある。

………もしもの話。真選組として絶対に言ってはいけないことだが、尊王倒幕思想が勝利し倒幕がなされたならば、もう一度この世は戦国時代になるのだろうか。
不意にこみ上げた咳を軽くいなして、沖田は少しだけ笑う。
それならきっと、万事屋の日常を守る為に、あいつは再び人斬りになってくれるかもしれない。


一人で綺麗になって、俺を追いていくだなんて許せねェ。


そして、その場面ほど沖田が簡単に予想できる光景もない。予想が現実となった時を考えまいとすればするほど、克明に情景が胸のうちに浮かび上がり、右手を握りつぶすつもりで力を篭める。つうっと流れる川の向こうに、明日も誰かを送る人生を流れる自分。
こほこほ、曖昧な笑みを咳が消し、沖田は愛想よく装飾屋の主人に声をかける。
「邪魔するぜィ」




青空の蒼と、桜の桃色の両方を吸い込んだ影が後退したように見えた。
沖田はひたりと足を止める。何を思ったか、一瞬腰元の剣に指を這わせ、また離す。その間にも目は美しいといわれる色だけを混ぜ込み、逆に澱んでしまった影を見ている。
澱んだ影色に、同じく生々しい色合いではあるが、それ故鮮やかな色が浮き出てきた。
細く、白い、足。


「…………うっ…」


あつ、と彼女はうめいた。それでも瞼は歪みながらも、しっかりと閉じられたままで、それが絶対に自分を視界に入れない拒絶のように沖田は感じる。それを待ってた。
確かに暑いだろう。普通の人間ならば、ぽかぽかと気持ちのいい春の日でも彼女にとって陽光は敵と同義だ。

「傘はどうしたんだィ、アホチャイナ」

無論、沖田の独り言に返答はない。
後頭部を組み合わせた手のひらを乗せ、大の字に転がった神楽の傍には、いつも肌身離さず持ち歩いている傘が見えない。
大方、枝垂桜の影にいるから大丈夫だと高をくくったのだろう。
ほんとアホだなァ、と沖田は今度は声に出して笑った。

(………なあ、本当のあんたはどっちだよ?)

夜兎、だろ。戦ってる時のあんたは、土方さんとか旦那とか、喧嘩をするために生きてきた人たちと全く同じ目なんだぜ。俺と何も変わらない。
でも今は日が高くなるにつれて小さくなっていく影も読み取れずに、惰眠を貪るガキだ。

視線を淀川に流すと、予想通り赤い傘が視界に飛び込んできた。落としたようだ。
傘は命綱だとあいつは言った。だから、どんな夕立が来ても、信用ならない奴は入れないとも。

「俺がいないと、だたのガキなんですかねェ」
すいっと刀に触れる。
前に山崎が言っていた。「沖田さんの剣は副長みたいに殺気が漂ってるわけじゃないんですよね」
その後、山崎に答えは教えなかった。真選組にいて、説得力のなさ過ぎる答えだったからだ。
「俺は基本的に斬ろうと思って斬らない」
殺したいと思わない、殺気のない剣しか振るえない。
……今日の剣にはそれがある。
どうして今日は菊一文字を持ってきたのか、とようやく沖田は考えた。


(でも、俺がこれを抜いたら)


その瞬間に、彼女は跳ね起きるのだろうと思う。
滑らかな銀色の刀身にチャイナドレスの赤が見えるのは、俺が殺したいと思ってあいつを斬る時だ。

本来、菊一文字で人は斬らない。一度しか、ない。
多分、あいつに会いそうな日にこの剣を持ち歩く。それは、



きらり、と赤い光が過ぎる。
隊服の上着に指していた簪についた安っぽい玉が光る。よく見れば朱色に近い。
何度か角度を変えてそれを眺め、元に戻す。
泣く子も黙る真選組の隊服と簪。
鬼の子と子供の赤い傘。

勢いよく上着を神楽の顔に放り投げ、聞こえない程度に沖田は腹を抱えて笑った。




半刻後、真選組駐屯所。
見覚えのありすぎる赤い傘を差して戻ってきた沖田を再び山崎が発見する。
沖田は後ろから聞こえる土方の怒声を無視しながら、悪びれなくからからと笑う。

「山崎、土方さん。―――急襲が来ますぜ」




あいつが、春の陽炎でないのならですけどね。




END

神楽に簪をあげる沖田君。何をやってても(同僚にとっては)迷惑。
沖楽は基本は殺伐とした事を考えてても、馬鹿だから表には出ないといい。
結局は馬鹿だなぁで済む感じで。