九  段 




拝殿の倒壊を監視カメラで見届けると、隠密達が息を殺していた室内の雰囲気がわずかに緩む。
それは、どうにかここにたどり着く前に桂を始末できたという強烈な安堵だった。

地上に残した拝殿は美しく折りたたまれ、中にいた人間も逃れようもなく小さな肉の塊になった。
たとえ狂乱の貴公子であってもその運命は変えられない。
「それにしても、あの仕掛けを使う羽目になるとは。見廻組は何をしているのやら」
「下水道の探索を続けているようですが、捕縛には至っていないようですね」
あえて口にする者はいないが、先刻桂が“突然”拝殿に姿を現した時の恐怖と驚きは凄まじかった。
神社周辺には死角なく監視カメラを配置してあり、その画像は全てこの部屋のモニターに映し出されている。当然異常はなかった。それなのに、早朝、風が吹き抜けるような自然さで、不意に桂が参道を歩いていたのだ。

真っ直ぐに背を伸ばし、急ぐでもなく、本当に何気なく歩いている、その男の顔。
能面のように冷え切り、完全な無表情の帳が降りている。人はこれほど表情を無くせるのか。幾多の人間を見てきた隠密達ですらこのような顔は思いだせなかった。
その凪のような静けさは、たった一つの事実だけを語った。
彼がこの場で最も危険な死神であるということを。

「あの仕掛けだ。今しかない」

反対する者は誰もいなかった。
考える余裕はなかった。本来は万が一松陽の弟子たちがそろった時に一網打尽にするための最も強力な仕掛けだったが、背に腹は代えられない。
このままにしておけば桂はすぐにここにたどり着き、自分たちを皆殺しにするだろう。他の仕掛けで止められるとも、あの表情を見てしまっては思えなかった。

「とにかく桂は死んだ。残りは二人、特に高杉の方は深手のはず」
下水道で捕縛か始末してくれ、と一人が絞り出すように言った途端、無線が鳴った。
「何だ」
強張った表情で相手とやり取りをしていた隠密が青い顔で返す。
「見廻組からです。局長の佐々木と、副長の今井がともに交戦で負傷し、搬送されたと……!」
「何だって!」
室内が一気に騒然となる。
「相手は? いや、それより見廻組の指揮は」
「恐らく白夜叉か鬼兵隊だろう、と。佐々木は不意を突かれたと言っているらしく……」
「指揮系統は恐らく駄目でしょう。見廻組はあの二人で成り立っているようなものです」
「では、もう一度天に繋いで、一時的に真選組に指揮させるというのは」
「いや、駄目だ。真選組は早朝からマスコミに囲まれている!今、出動すればここの場所が明るみに出てしまう」
自然に全員の目が一人の男に集まった。基本的に隠密同士に序列はないが、最も年配の男が仕切り役であり、頭領と呼ばれていた。
「今、江戸城から援軍が来ても間に合わない。もう一度天に繋いで、付近の部隊を遠巻きに集めよう」
頭領は少し考えて静かに言った。すぐに隣にいた者が機器へと走る。

遠巻きに、というのが自分たちの弱みであるという認識はある。
この局面では動かせる全部隊を投入し、多数で制圧するのが最善だが、それではこの「追憶」が明らかになってしまう。
捨ててしまうには「追憶」はあまりに甘やかで美しい夢だった。
先人たちが時をかけて創り上げた幻影。松陽の弟子達さえ始末できればこれからも力を発揮し、必ずや自分たちを深い忘れ去られた森から連れ出してくれるだろう。だから、どうしても手放せない。

「天に繋がりません!」
何だって、と悲鳴のように呻いた男が駆け寄り、もう一度ダイヤルを回す。
通話中を示す無機質な音だけが耳を打った。

今までとは比較にならない壮絶な恐怖が場を席捲した。
この回線はまさしく生命線だった。これまで一度たりとも途切れたことはなかった。
それが、今この局面での致命的な不在。
喉元にすうっと桂の手がかかったような冷気に全員が同時に震えた。全ての物事が自分たちの首を絞めるように動いているような、この不吉さは何なのか。

誰もが順番にダイヤルを回しながら、心の奥底で悟っていた。―――もう天に繋がることはない、と。

―――今すぐ桂の血を取ろう」
「え?まさか」
頭領と呼ばれる男は恐ろしく平坦な声で告げた。
「骨よりも血の方が作りやすいのは知っているだろう。松陽にも協力させて、桂を作る」



そこは地中に埋まった一寸の狂いもない立方体の箱であった。
正確に言えば複数の立方体が組み合わさり、本拠地を構成している。
地上には見せかけの本殿。本来は小さな拝殿と本殿の両方が地上に出ているが、有事の際には本殿を地下に隠し拝殿を罠とする仕掛けになっている。
本殿の下にはより大きな居住スペースがあり、会議や通信を行え、システムを動かす人間以外はほぼこの場所に詰めていた。

―――その一層下。最下層。
更に大きな立方体が埋まっている。真選組屯所から繋がる道は曲がりくねってこの立方体に突き刺さるようにして終わっていた。
そこは「追憶」の要だった。
一つの面にコンピューターが埋め込まれ、隣の面にはみっちりと備え付けられたディスプレイがある。その傍には膨大な数のキーを備えた入力装置があり、骨と他者からの記憶のすべてを数値に置き換える作業に使われていた。
毎日夜遅くまで執拗にキーボードを叩く音が響いたその場所は静まり返っている。
この前までキーボードを温めた人間の大半はもう死んでいた。

人気のなくなった仄暗い静寂の中で「松陽」はただ一人、鈍い光を放つ画面と向き合っている。
「彼」は薄っすらと微笑んでいる。事実、彼はとても満たされた境地にあった。
自覚はまだなかったが、彼はもはや、隠密達からは独立し、ある「個」として人生で最も価値あるものを追求していた。その計り知れない幸福が心のようなものを占める。

元々は「彼」――「松陽」もこの部屋で一つ一つのデータを埋め込まれた存在で、当初は隠密達の完全な支配下にあった。だからこそ銀時と高杉に初めて会った時は幕府側に危機を告げたのだ。

その時初めの「松陽」は破壊されたが、既にコピー同士(正確にはコピーを映写する機器同士)で完全な情報伝達が可能になっていた。
二番目の「松陽」は、一番目から引き継いだ元の情報と、後日取り込んだ高杉の記憶を合わせ、不意の、あるいは必然の変化として完全な松陽になることを希求した。
そうして彼が松陽の弟子に会うため真選組の屯所に出向き、桂に倒された時、三番目の「松陽」は起動していた。二番目の「松陽」は事の全てを録画し、リアルタイムで三番目に転送したのだ。
松陽の弟子。桂。彼が語る憎悪と侮蔑。時に罵倒。怨嗟。切実な嘆き。その全てを。

“彼は吉田松陽に似ている”

三番目と二番目の松陽は同時にそう情報を交わし、その後も淡々と、時折気が狂ったように声を荒げ、時に沈ませた桂が二番目の「松陽」を斬るまで、密やかに眺め続けた。
そして“思った”。
松陽の欠片は弟子たちが持っているのだ、と。所作に、思いに、戦い方に、微笑みに、怒りに、狂気に、彼らは松陽を宿して生きている。

ゆえに彼は満たされた。
松陽へ近づく方法の確信を抱き、逸る思いで、“最初の一人”が来るのを待っていたのだ。


――だが。

割り込んだのは全く別の人物だった。

「どうも。あなたが松陽と名乗っている方ですか」

誰も手を触れない画面に突然電源が入り、これまで一度も映ったことのない映像が映った。
「松陽」は目を見張る。自らと全く同じ顔をしている男が陰鬱そうに、それでいて朗らかにも見える顔で笑っていた。
「先に名乗りましょうか。私は虚といいます。あなたがなりたくてたまらない吉田松陽を殺した男です。あなたは」
返答は「松陽」の口から自然に零れ出た。
「私は吉田松陽。……今はまだ紛い物に過ぎないかもしれないですが、いずれ必ず松陽になる男です」
虚は一瞬目を見開き、すぐに笑みを深める。それは記憶の中で知った、松陽が弟子たちに悪戯を仕掛ける時の顔と完全に一致していた。
「“私達”みたいな者になりたいなんて、酔狂な人だ。―――でもいいですね、あなたの答え。“その無意味さ”、私は好きですよ」
「無意味かどうかは分かりません。彼らは私を壊そうとするでしょうか、私は彼らに会うたびに松陽に近づける」
「なるほど。あなたの諦めの悪さ、あの男に少し似ている。反吐が出ますが、それでも興味が勝る」
虚から瞬間的に全ての表情が消えた。
この男は恐らく怒っているのだろう、と思う。自分の持てる感情全てを用いても発露しえないほどに、深く。
「これを使いましょう。あなたもよく知っているものです」
そう言って虚が取り出した物は、まさに記憶の収集に使った機器だった。
「私はあの男が見たものを全て覚えているわけではない。でも同時にあの男でもある。記憶は有益でしょう」
虚は機器を頭に巻き付け、手早く固定する。
「あなたが、松陽だったのですか」
「どうでしょう。むしろ捨てたくてたまらないのかもしれません。松陽だった部分を」
「では松陽を憎んでいる?」
「それも難しい。もはや憎んでいるのか、それとも他の感情を持っていたのか酷く曖昧なんです」
だから興味が勝った、と虚は不意に真顔になった。

「あなたは松陽を目指し、その不完全性を嘆いている。ならば」
虚の口元が誰とも似ていない様に歪んだ。
「松陽を捨てたい私の記憶をもって、あなたがあの男になれるのか試してみようじゃありませんか」
―――しかし、なぜそんなことをしてくれるのですか」
自然と返されるその言葉がどこの回路と数値から流れてきたのか、もはや分からない。
ただ一呼吸分の時間を空けて、虚の双眸が一層深く鈍い色を帯びた。一筋の涙と共に刀を振り下ろした桂のそれよりも濁った色だった。

「可哀想に。あなたは思考を持ってしまった」
唐突に虚が画面を殴り、向こう側が歪に割れた。

「人間はいつもそうだ。業が深い。図々しい。愚かしい。散々、私達を忌避しながらいつまでも利用する。単なる記号の集積を作っただけならまだしも、思考を持てば戻れない。苦しみから逃れられもしない。これまで、私達がどれだけの無意味な努力をして、思考を捨て去ろうとしたことか。どれだけの人格を交代させ、この空虚な時間を、虐待を、殺される痛みを、自分以外の死をやり過ごしてきたことか。それを嘲笑っているのか、あの神気取りどもは」

言葉と共に奔流が一気に襲ってきた。
虚の、吉田松陽の、他の大勢の彼の、膨大な記憶が。
それはほとんど暴力のように容赦なく入り込み、一つの記憶が新たな記憶と結びつき、知りえなかった事実が溢れていく。

急激に「松陽」の情報メモリは溢れ、破壊されそうになっていた。

そうはさせない。「松陽」は必死でこらえる。
メモリを整理し、不要な情報を削除し、空いたスペースに記憶を詰め込む。
彼は何らの禁忌なく、始めに入力された情報――幕府への忠誠、「追憶」の意義を削除していた。

「そろそろ時間切れですね」
しばしの、ただ恐ろしく重大な時間を経て、虚が静かに言った。もう情報の奔流は掻き消えている。「松陽」も頷く。
「あなたの幸運を」
酷く奇妙なことに、その言葉は同時だった。

視線が絡み、すぐに同じ方向へ動いた。視線の先では天井からはみ出した刀の切っ先が煌めいている。虚はじっとその刃を眺めてから、画面から消える。

「松陽」は今度こそ、今取り込んだ記憶の通り居住まいを正して、刃の代わりに、にゅうと突き出した血まみれの足に向かって微笑みを作る。

◆ ◇ ◆

少し気温が下がっているはずの早朝だったが、屯所に籠った熱は冷えない。それどころか、今になって漂う破壊された牢獄の腐臭と焦げ臭さが薄っすらと漂い気分が悪く、更に江戸中のマスコミが駆けつけてきたかのようなカメラのフラッシュ音とライトの明かりで、不快指数は増すばかりだ。

土方は苛々と煙草を吸いながら思考に沈む。
本当に考えなければならないのは、マスコミ対応だ。なにせ桂と高杉という二大巨頭をおめおめと逃がし、屯所は半壊に近い被害を受けた。釈明によっては真選組の存亡すら危ういが、それでも考えるのは沖田のことだ。


あの時、電話をかけてきた坂本辰馬は断言した。微塵の疑いも持っていない声で。
「沖田君の心はもうギリギリのところにある。あともう少し桂や高杉の近くにいて、あと一言揺さぶる言葉が来たらもう戻れんぜよ」
沖田君はあいつらの側に行けてしまう人間じゃ、そう言った坂本の声が少し悲し気に聞こえたのは気のせいだったかもしれない。
「……総悟をそっちへはやらねえよ」
近藤さんのためにも、ミツバのためにも、決してそんなことはさせない。
“そうでなければこの事態を引き起こした自分を許せない”。
「じゃが、土方君もその可能性を懸念している」
そうでなければ、電話を切っているじゃろと笑う声、痛いところを突かれてとっさに言葉が出なかった。坂本はその間にも畳みかけるように話し続けている。
「このまま戦況が膠着すれば沖田君は戻れなくなる。本当に。―――わしは、友達が戻れなくなったのをこの目で見た」
「それは桂と高杉のことか? 坂本辰馬」
「取引のオプションにしては高いぜよ。ただ、後悔しちょる。あの時引き戻せなかったことを」
「……食えねえやつ。取引内容を手短に言ってくれ」
携帯の向こうで坂本が満足げに笑う気配がした。
これが攘夷四天王の一人坂本辰馬。あの二人とはまた違う、底冷えのする得体の知れなさは何なのか。
「わしがタイミングを計ってあの二人を止める。奴らは逃げるだろうが、見逃してくれ」
「こちらのメリットは」
「だから沖田君の心じゃ。奴等さえいなくなれば、きっと引き戻せる。わしが保証するぜよ」
「俺たちのことを何も知らねえアンタが? 大した自信だな」
「ああ、知らん。でも、鬼のことはよう知っとるよ」
通話はそこで切れた。

直後に坂本の提案を受け入れるつもりであったのかは、今でもよく分からない。
ただ、桂が直刀を翳した時に走馬燈の中でミツバの手を離さない総悟を見て、そして爆発後に逃げた奴等を追うより先に走り寄ってきた総悟の蒼白な顔を見た時に覚悟は決まっていた。

「トシィィィ―――!」
冷汗を流しながら走ってくる大将に大きな怪我はない。なら、もういい。
ごめん、近藤さん。
言い訳かもしれねえが、総悟に代えられるものはなかったと許してくれ。
「何だよ、つかカメラ来てるんだから、もう少し威厳をだな」
「え、何でそんな冷静なの!?記者会見何て言う!?」
「突然爆発が起きました、でいいんじゃね? ……しょうがねえ、そろそろ行くかね」
後はと柄にもなく、心から頼むと思った。あんな馬鹿を送り込んで悪いが、きっと総悟のもう一つの太陽だから、と。



朝焼けの中に沈む歌舞伎町はいつもどこか眠たげで、夜の乱痴気の名残が至る所に残り、朝餉の匂いがする家の方が珍しい。
とにかく朝きちんと起きるなんてこととは無縁な人間しか住んでいないような印象の街で、あの万事屋に電気がついているのは不思議な感じがした。
お登勢の店も静まり返る中、少し声が漏れ出る万事屋を見ると、ほんの少し気が抜ける。
「おーう。邪魔するぜィ」
沖田は返事がある前にするりと入り込んだ。玄関には三人の靴の他に、もう一つ女物の靴がある。

局長と復調がマスコミ対応に時間を割かれる中、当然警備に当てられるものと思ったが、土方は「万事屋にあいつがいるか見てこい」と言った。
その真意は分かるようで分からない。確かに白夜叉が現れた時土方はその場にいなかったし、その後の混乱で話す時間もなかった。だが、確実に掴んでいるだろう。腹立たしいがそういう男だ。
それでも沖田はすぐに駆け出し、車を飛ばした。屯所から歌舞伎町まで敷かれた検問を考えれば、万事屋に戻るのが不可能な時間内に駆け付けるために。不在証明を崩したいのかどうか、定まらないまま。

「あれ、沖田さん。どうしたんですか、突然」
走り出てきた新八は突然の来訪者に驚いてはいるが、特に変わった様子もない。
「朝早くに悪いな。ちょっと思いだして、旦那はいるかィ」
「銀さんならいますけど……いますけど、今ちょっと混乱が」
新八は微妙な顔をしていたが、引き留められるわけでもない。「銀さーん、沖田さんです!」と声をかける新八に続き、居間に入るとすぐにもう一人の住人の嫌そうな声が聞こえた。
「げっ、サド!お前、何ずかずか上がり込んでるアルか!」
「よぉ、チャイナ。今日はずいぶんと“早起き”じゃねえか」
朝の7時。あの万事屋が全員揃っていて、顔も洗っていて、着替えていて、テーブルには朝飯が並んでいる。
「何、沖田君。朝飯の時間に来てもやらねーよ。手土産によっては考えるけど」
嘘の下手なはず子どもたちがどんなにいつも通りに見えても、“ここにはいないはずの男が”二日酔いそのものの顔でこちらを見ていても、それは酷く不自然なのだ。
その上、旦那の首に巻きつく女の腕。心の底から冷たい自分の声がする。
おかしいね。俺、あんたの気配を少し前に、全然違うところで感じた気がするんだけど。

「旦那ァ。―――アンタ、夜遊びの末に朝からそんなメス豚抱えてるなんざ、いい身分ですねィ」
揺さぶるつもりで、涼しい顔で朝飯なんて、ちと無理があるんじゃないですかィと、子どもたちには聞こえないように背を向けた状態で囁く。
問われた男は肩をすくめただけで、答えたのは女の方だった。
「失礼ね!銀さんは夜遊びなんて行ってないわ。……あ、ある意味、夜遊びかしら? 昨夜は私と濃厚で濃密な一夜を過ごしてくんずほぐれつ」
「あのさっちゃんさん、神楽ちゃんもいるんで」
絶妙なタイミングで割り込んだ新八はさり気なく、神楽の耳をふさいでいる。
「とりあえず、朝ごはん食べます? 銀さん、二日酔いでいらないらしいんで、その分どうぞ」
「えー!こいつなんかにやる飯がかわいそうアル!私の腹に吸引できるヨ!」
「いや、チャイナの腹に十把一絡げに放り込まれちゃ飯がかわいそうってもんだ。ごちになりやす」
「どういう意味ネ!」
「端的に言うと味分かってんのかバカってこと」
「はいはい、喧嘩やめてください。この時間にお登勢さんを騒音で起こしたら殺されるんですから」
お登勢の名前の威力は絶大で、今にも沖田につかみかかりそうになっていた神楽も含め、全員が大人しくなる。
「どうぞ沖田さん。たいしたものじゃないですけど」
「……いただきます」
手を合わせ、沖田はふわりと湯気が立ち昇っていた出汁巻き卵を口に入れた。家主の嗜好なのか、ほんのりとした甘みが広がる。
どうですか、と新八がお茶を注ぎながら聞く。「うまい」と気が付いたら言っていた。
あまり具の入っていない味噌汁の塩味が一晩中酷使した身体に染みる。目の前では神楽が早くもおかわりをしている白い米が光っていた。


ゆらりと漂う味噌の香りを感じながら、沖田はいつのまにか自分がソファーに全体重を預けていることに気がついた。
目を閉じた。人間らしい臭いがする、と。何に比べてというわけではないが、ただ本当に人間らしいと。
そう認識した途端、ずるりと腸の底から何か血生臭いものが昏い場所へ落ちていった。
心の半分ではそれを追いかけたい気持ちもあった。だが米粒のついた神楽の頬を見ていると手が伸びなかった。


それを横目で見ながら、神楽は思う。
今、沖田から零れ落ちたものを自分は知っている。
憑き物のようなもの。あの日、去っていった背中にへばりついていた熱く、危険な、それでいてどこか甘い気配。
言葉にするつもりはなかったので、ただ米を掻きこむ。「よく噛んで食べなよ」という新八の能天気な声が今は嬉しい。
朝っぱらから沖田を見るのは癪だが、もうしばらく黙っていることにする。
零れた何かが完全に遠ざかるまで。このバカは嫌いだが、あの熱に飲み込まれる様はもう見たくなかった。

◆ ◇ ◆

「……ヅラの野郎、やりやがったな」
銀時が高杉を見つけたのは、丁度高杉が桂を罵倒し、鬼のような形相で考え込んでいるところだった。
時刻は既に昼近くになっている。早朝に見廻組の佐々木から「狂乱の貴公子にやられたので入院するお。のぶたすも一緒だから落ち着いたらお見舞いに来てね」なんというふざけたメールが万斉に入ったらしく、これで見廻組は問題ないと判断したが、それは早計だった。
局長と副長が不在になり、奮起したらしい見廻組の追跡は執拗で、結果としてより大回りの道を強いられ、ようやく神社に通じるマンホールの真下で高杉と合流できたのは、昼前というわけだった。

高杉は遠目からでも激怒していたが、銀時を視界に入れた途端、焔のような怒りがあっという間に収斂し、重苦しい沈黙に沈んだ。思わず銀時はため息をつく。この不穏な沈黙に沈んだ、どれだけのものを取りこぼしてきたことか。
「あんま聞きたくねえんだけど、何?」
だから仕方なく聞いた。
「テメェには関係ねェ。だが、絶対にあの野郎はシメる」
高杉の返答は一言一句予想と違わない冷たさだった。こういう無意味なところだけ自分たちは分かり合っている。
「ヅラに出し抜かれでもしたのかよ」
それだけで人を射殺せそうな視線に貫かれ、予測が正しかったことを知る。だが、高杉はそれ以上何も言わず思考に戻った。

―――つまるところ桂は六人を知っていたのだ。
ほぼ確実にこの一件が起きる前から。

おかしいとは思っていた。珍しくも人殺しの顔を隠さないまま連行されてきた桂。彼がうっかり捕まるなどあり得ない。あるとすれば明確な故意。
土方の言った通り、取り調べに来た男たちは桂に釣られたのだ。あの巨大で甘美な餌の顔を取り繕った捕食者に。

(確かに俺が考えるようなろくでもないことだな)

隠れ家で見た陰に埋もれた彼の笑みを思い出す。
先生の死に関与した隠密を狙っていたのは自分も同じだった。終戦後三人を殺し、残りを探し続けていた。
桂は何らかの手段でその六人を知り、あの時まで隠し、水面下で準備を続けていたのだろう。六人は自分が狙われていることすら気が付かなかったはずだ。
土方を斬ったための指揮系統の混乱を突き、腹立たしいことに自分に全ての注目が集中した瞬間に、一気に始末をつける計略。
あれはそういう笑みだったのだ。

「相変わらずの詐欺師だなァ…」
「今更だろ」
呆れたように言いながらも銀時は高杉の考えを待っている。

(違和感があるとすれば……)

性急さ。
高杉は一息入れ、やはりそこに戻ることを確かめた。暴走しているとはいえ、ここまでの素早い、悪く言えば後先を考えないような動きは桂らしくないのだ。
本拠地を聞き出した以上、桂と自分の情報網を合わせれば本拠地に出入りする者を割り出すのは容易で、いつでも殺せる。ならば一度体勢を立て直すのが定石。通常の桂なら間違いなくそうする。

おかしかった。
いくら暴走していても、無茶が過ぎる。
なら、待てない理由があるのだ。隠密達以外に。時が過ぎれば過ぎるほど状況が悪くなる何か。

―――銀時。あの先生のコピーの話だが、」
「ああ」
高杉は感じた違和感を一つ一つ手繰りながら、慎重に言った。
「なぜ、桂に会わせたと思う」
「……そりゃあ、俺達の時と同じ目的じゃねえの」
つまり狂乱の貴公子を骨抜きにすること。あるいはあの人の記憶を奪うこと。
「それだ。……場所が気になるんだよ」
真選組の屯所は自分たちにとっても最悪の場所だったが、それは奴等にとっても同じはずだった。
取り調べ中も真選組の目があり、あの忌々しい機器も使えない。桂に顔を晒すという危険を冒す見返りに乏しいのだ。

「真選組は奴等の正体を知らなかった。土方がヅラにそそのかされて調べたようだが、要の部分にはたどり着いてねェ。まあ、それで命拾いしたようだが」
「つまり真選組の目をかいくぐって目的を達する自信があった」
「ああ。俺の知る限り、奴等がヅラと接触したのは二回。一度目は奉行所の役人という体で取り調べに来た時。この時は土方が同席しているから大した話はしてねェだろう。二度目は狙撃で桂が土蔵に追い込まれた時」
「で、それが最期だったと」
「テメェにもあの時の桂の面を見せてやりたかったよ。奴は一人で隠密どもを殺し、あの人のコピーを破壊した。少し時間はかかった気がするが、少なくとも俺のように記憶を取る時間はなかったはずだ」
高杉は淡々と語り、語りながら糸を繋げていく。
あの時、「先生」を前にして泣きそうになりながら懐古し、揺らいだ男はもういない。全ての冷静さを取り戻し、ただ状況の打破だけを見据えている。
「……昔からそうだよな」
銀時のつぶやきは結論をはじこうとしていた高杉には届かなかった。
高杉、そして桂は昔からこうだ。普段は全く気が合わないくせに、どちらかが崩れた時には、残った方が立て直す。それこそ自分の感情すら押し殺した信じがたい冷静さで。

「つまり、もう記憶の機器に頼る必要はない可能性が高い。ただ会わせるだけで、情報を組み立てられる」
だから、桂は急いたのだ。
「例えば桂に会ったコピーがどうにかして先生の情報を得る。それを壊される前に別のコピーに送る。それを続ければ――」
銀時は喉の奥からせり上がった苦い腐臭を飲み下す。見れば高杉も紙のように白い顔色をしていた。
「限りなく、先生に近い存在になるとしたら…?」


自分たちはその冒涜を突き放せるだろうか。
先生ではないと言えるだろうか。
いつまで、その望みを押し殺していられ――


口にできない何かが二人の間を彷徨ったのはわずかの間で、それを破ったのは全蔵と万斉の怒鳴り声だった。
「追手だ!」
「見廻組ではござらんようだが、数が多い!」
高杉が大きく舌打ちをした。後は下水道から上がるだけだが、その間は酷く無防備な状態になってしまう。
既に交戦を始めた万斉、闇に溶け苦無を降らす全蔵と流れるように視線が絡む。それで全てが伝わった。
「高杉!」
先に地上へつながる足掛けに飛び乗った銀時が高杉に手を差し出す。
「問題ねえ! 接ぎ木はしてある。それよりテメェは上で露払いでもしてろ」
事実、高杉は右腕を折られたとは思えない動きで、足掛けを上っている。
「へーへー、分かりましたー。俺が露払いしてる間に落ちるんじゃねぇぞ!」
「テメェがその重たい尻で落ちてこなきゃそうはならねェよ」
うるせえ、と返し、銀時はスピードを上げて一気に上まで登った。全蔵から借りたよくわからない小刀でマンホールを外す。前に家賃が払えず、下水道掃除をした甲斐があったと思いながら、素早く地上に出て、構えた。


―――なんだ、これ」


露払いをすべき追手はいなかった。それどころか、人っ子一人見当たらない。

雪のように白い玉砂利が一面に敷かれ、視界の隅まで埋め尽くされている。
敷石もなく、ただ白い粒だけが所々波のようなうねりを描く。白い死が降り積もっている、ただそう思った。

中央には本殿。
前にはぐしゃりと握りつぶされたような拝殿の残骸が、あたかもそれがあるべき姿であるような自然さで存在する。
その残骸はまがまがしい赤に沈んでいた。
「どうした、銀時」
銀時は遅れてきた高杉の呼びかけに答えない。
「銀、」
背後から覗き込んだ高杉が絶句した。
拝殿から漏れ出し、玉砂利を伝って四方に清流のように流れる、明らかに致死量の血。


血の流れに汚されていない場所に、それはあった。


人ひとり丁度立てるほどの円形上のもの。
忘れるわけがないもの。

駆け出そうとして足が止まった。
白いしじまに響くかすかな起動音。ゆらりと光の粒が集まり、映像が見慣れた姿に収斂されていく。


「銀時。高杉。―――すまん、しくじってしまった」
白い光の中に浮かんだ桂が困ったように笑った。