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夜を行くのはもう慣れた。 ただ、貴方と過ごした昼が遠のくのが、気が狂いそうになるほど、寂しい。 上 「吉田松陽を作りたい。いや、彼だけではない。失われた者達を作りたい」 初めて認識というものを持った時、目の前にいた男はそう語りかけてきた。 自分の元は“たった一つだけ見つかった”吉田松陽という人間の骨だったらしい。断片的な語りを聞くうち、ゆっくりとだが確実にそう理解した。 骨から知ったことは恐ろしく多い。体格、肌や目の色、髪質、声音、力、五感、そして「曖昧な」記憶。 それだけの情報で「私」は映像というものになって、存在することができた。 そして、様々な行動規範を教えられ(後に「入力」されたと言葉を知った)、幕府への服従、実験への協力などが輪郭を形造ったが、その男の中身は分からないままだった。 その後、空洞は「私」を作った隠密達によって少しずつ埋められた。あの男を知る者たちの記憶によって。 記憶の提供者は老若男女様々で、始めはあの男が根を張っていた場所に住む者達だった。集まった記憶には、どこでも柔らかく笑うあの男がいた。 「私」が全く同じ顔で笑えるようになっていく。目じりの下がり方、微笑む時と歯を見せて笑う時の違い、時折目を見開く様。 確実に「松陽」はそこにいた。だが、何故だか分かってしまった。 何かが決定的に欠けている、と。 これは松陽の一面に過ぎない、と。 ―――そして、高杉晋助がそれを教えてくれた。 あの時、抵抗する高杉から零れ落ちるように溢れた記憶。師としての松陽には、これまでの情報にはなかった顔があった。 一瞬だけ見えたあまりに暗い、冷え切った目。 不穏にして不敵。憂鬱にして豪胆。朗らかさと底のない孤独。松陽は恐ろしく昏く、得体のしれないものに満ちていた。 そしてそれを自分は再現できていない。 恐らくはそう悟った時に、事実と映像の積み重ねだった「彼」はおかしくなった。 それはあり得ないはずの自我に似たものであったのかもしれない。自分は「松陽」の紛い物に過ぎないという自覚とともに、猛烈な渇望が生まれたのだ。 足りない。松陽の陰を知る記憶がもっとほしい。そうすれば。 気が付いた時には、一度も入力されたことのない言葉が飛び出していた。 「松陽の弟子たちに会わせてください」 そうすれば、自分も松陽になれるかもしれない。 ◆ ◇ ◆ 末期の力で電源を入れられた無線から、隠密達は事の一切を聞いていた。 一撃で命を絶たぬよう慎重に筋肉が斬られる音。血潮がびちゃびちゃと床に散る音、長き時を共に生きた仲間の断末魔。 その合間には、殺戮を止めるように諭す「吉田松陽」の無力な声。 桂は師の声に一言たりとも答えず、仲間たちの声が潰えた後に、無線に囁いた。 「会いたかった。正直、こんなにも焦がれたことはないな」 その声には地獄の底から溢れているかのように無造作な死が詰めこまれている。 「もうすぐだ」 それを最後に無線が壊され、数分後「松陽」の破壊も確認されると、その部屋は恐怖と沈黙の底に沈んだ。 何故、彼は動じなかったのかは分からない。 ただ一つ明らかなのは、彼は必ずここに、自分たちを殺しに来るということ。 「……あの様子では『松陽』だけには頼れん。現実的に、ここにたどり着く前に仕留めるしかない」 真選組屯所から約数キロ。日が昇る前というのは不利だが、距離がある分、手数を増やせば対応できる。 頷きあっただけで、すぐに一人がメインディスプレイから幾度かダミー回線を通した後、目的の番号を入力する。 繋がる先は、天。 この一件では既に報道規制で協力を仰いでしまい、更なる借りを作ることになるが命あっての物種だ。迷いはない。 『どうかされましたか』 全員が一時顔を見合わせた。いつも出てくる男とは違う声だった。 だが、この専用回線の先にいるのは天導衆以外にはありえない。 端的に状況を説明し、見廻組を主力に江戸市内で彼らを捕えるように協力を求める。 『……いいでしょう。真選組は恐らく使えないでしょう。佐々木を使って“下水道を”片端から潰すのが得策でしょうね』 「下水道ですか?」 『古今東西、鼠は下水道に潜んでいるものですよ』 男は何がおかしいのか、少し笑っているようだった。声を出さずに、気配だけでそれが分かる。 『もちろん私は昔からよく働いていただいた皆さんに力を貸すことを惜しみません。―――ただ、』 低く、くぐもった声が、その時だけ澄んだように聞こえた。 その声がまさに自分たちが再現した声に似ていたことには、誰も気が付かない。 『あの子たちは手ごわいですよ。どうぞお達者で』 ◆ ◇ ◆ 下水道は地上で起こった爆発の影響で焦げ臭かった。それが元々の悪臭と混ざり合いたまらない臭いがする。 まとわりつく臭いを振り払うように、屯所を脱出した銀時と全蔵は走り続け、その間中、顔中煤だらけになった銀時は文句を言い続けている。 「あのよ、確かに手段は選ばねえから逃がしてくれって言ったけどよ、打ち合わせもなく足元爆発させるか?普通! しかも火力強すぎるし、俺の脚力と沖田くんの勘がなかったら絶対死人出てたよね。むしろあの位置取りだと俺の方が危なかったね。あのモジャ、実は俺のこと殺そうとしてんじゃねえの!?」 「類は友を呼ぶんだろ」 全蔵は冷たく言い返した。 「あんなの友達じゃねえし! 行き当たりばったりの無茶な作戦ばっか考えやがって!」 更に耳元の音量が上がったところで、運よく無線が鳴った。 「……お前だけには言われたくねえと思うが。それより河上からだ」 うまく脱出したらしい、と付け加えられ、銀時も頷く。これであやめからの連絡も合わせて全員が屯所を出たことになる。 「俺だけど。今、どこ?」 『銀時、俺だ。―――まず、すまねェ』 てっきり河上が出ると思っていたが、相手は高杉だった。 「え? 何、高杉。お前、そんな奴だっけ」 開口一番、高杉に恐ろしく素直に謝られ、声が裏返った。こういう場面で、素直に助けられたことへの謝罪を口にするなど、もはや高杉ではない。 寒気を我慢しつつ、急いで記憶を探る。嫌な予感にじわりと喉がざらついた。 忘れてしまいたい山のほどのろくでもない出来事が蘇る。 高杉が、自分に、恥も外聞もなく素直に謝ったのは……。 『屯所から引きずり出したはよかったんだが、……ヅラに逃げられた』 桂が暴走し、一人では収拾がつかなくなった時だ。 「どうなった?」 『……嫌な予感はしてたが、「先生」にはコピーがある。あの時、ヅラは一人で出くわしちまった』 言われなくても高杉が「入るな!」と怯えた声で叫んだ瞬間に、分かっていた。 それでも言葉として聞くと、背筋がざわつく。あの「先生」の顔、自分たちではない者を護ろうとする声、震える友の手。 『中のことは分からねェ。ただ、出てきた時には血まみれでズタボロになった機械を持っていた』 「ヅラは……呑まれなかったのか?」 彼ならありえるような気も、ありえない気もする。だが、どちらにしろ桂は一人で局面を打開した。 『違ェ。あいつは「先生」に会った瞬間に、箍が外れた。外れた時の奴は、いつも恐ろしく冷静だろう?』 高杉は固い声で続ける。 聞き終わる前に自分の中から声がした。知っている。虚しくなるほど。 『恐らくその場にいた屑どもがご丁寧に説明したんだろうが、奴はそれだけで事実を繋げやがった。俺が一度別の場所に連れて行かれた意味、のこのこもう一度尋問に来た監察方の役人ども、機械の番号、テメェが来たこと』 もしかしたら、「先生」を見て、弟子たちが揃っただけで十分だったのかもしれない。 桂は暗闇の中ではっきりと聞いたのだ。あの約束の言葉を。違えようもなく。 『銀時。ヅラは役人どもが籠っていた土蔵の抜け道の先を聞きだした。間違いなく、そこに向かっている』 「―――行くぞ」 『あァ』 高杉は早口で、江戸の高台を望む神社の名前を告げた。 現在地から数キロは離れており、地下道を知り尽くしている全蔵がいるとはいえ、地下からならば更に大回りになる。 「今、下水道にいるけど、どこから行く?」 『俺達も地下だ。地上はさすがに警察が張ってるだろう。このまま潜っていくしかねェな』 「……待てよ、辰馬の小型船って低空飛行できなかったっけ?」 坂本本人と陸奥達は地上の陽動をしているはずだが、物さえ見つかれば誰かしらは動かせるはずだ。 『さっき俺も聞いたんだが、墜落同然に地球に下りた時にオシャカになったそうだ』 『死ぬかと思ったでござる』と万斉。 「肝心要の時に船大事にしてないのはどいつだっつーの。……しゃあねえ、地下な。そっち誰がいる?」 『俺と万斉だけだ。また子は真選組がないとは思うが出てきた場合の抑え、坂本と陸奥は地上の陽動、あの忍の女はどこかに行った』 「ああ、猿飛は万事屋に行ってる。万が一人質にでも取られるといけねえからな」 横から全蔵が付け加え、現在地についていくつか質問をする。銀時たちにはそれほどなじみがなくとも、忍びにとって下水道は庭のようなものだ。 全蔵が頷いたのを見て、合流を決める。 「……かなり近いな。とりあえずその場にいてくれ。こっちが動く」 「待て。誰か来る」 一番初めに下水道に降り立つ足音を聞いた全蔵の声で、全員が黙る。 間を置かず、十数人の足音が空間に響いた。追手。それも今のは第一隊で増えていく気配がある。 『少し見えたが見廻組だな。とりあえず厄介そうなのは見えねえが……銀時!』 高杉が静かに移動しながら、突然、密やかに叫んだ。そして、銀時も全く同じ考えに行きついて、瞬時に血の気が引いた。 『俺達は囮になっちまってる』 「ああ、ヅラは地上からだ」 さすがに故意にしたとは思わないが、自分たちが地下を行くことを読んで逆に回ることは十分あり得る。というより、この局面なら彼は必ずそうする。 そうなれば、神社に真っ先にたどり着くのは、箍が外れたままの桂だ。 「……とにかく、かわしながら進むしかねえな」 交戦を可能な限り避けたい以上、相当な時間のロスは避けられまい。無線の奥で、高杉の舌打ちが聞こえた。 ◆ ◇ ◆ 「小太郎」 そう名を呼ばれて、ああ、外れたなと自覚した瞬間には、我を忘れるほどの怒りに身を任せていた。 正確には箍を引きちぎって笑い出した自分と、誰かを見送る時のように冷静にそれを見下ろす自分に分かれていたと言うべきか。 それは常に狂騒と静寂がない交ぜになっていて、その温度差が破壊的な力となって溢れるような怒りだった。だからこそ仲間たちの暴走を諫め、逃げを揶揄され、地道な戦をする桂に、真逆とも言える「狂乱」の名がついたのだ。 桂はだらりと腕を下し、驚愕と戸惑いの表情を作った。呼吸をするように自然に罠を張り、その呼吸は深いところで整い始める。戦の前のように密やかに。 男たちはその表情を見て満足そうに笑い、矢継ぎ早に話し出した。「松陽」のこと、自分たちに近づいてきた意味、従えば穏やかな生活が待っているという戯言を。 出来の悪いバックミュージックのように雑音めいた言葉のすべてを聞き終わった時、狂乱の奥底で今一度焔が瞬いた。 焔の中に煌めいた一筋の糸―――繋がった全ての因果。腸が燃え上がるような痛みが走り、猛烈な吐き気が襲った。 桂は瞬時にそのどす黒い何かを気合だけで飲み下す。腐った戦場の味としか言えない味がした。 (高杉) いつの間にか震えだした両手に力を籠めると、骨が軋む音が響いた 頑なに口を閉ざし、あろうことか一度は彼の手を離そうとした。言えなかったのだろう、と分かる。先生のことだったからこそ。許しがたい冒涜でありながら、あの笑みに過去を見てしまったからこそ。 だが、それでもなお、この身を焦がすやり切れなさは何か。 共犯と言いながら、知らせなかった。理由も、分かる。それくらいは同じ地獄を飲み下した。だが! (見くびるな。―――馬鹿者“ども”) ゴキ、ゴキと鈍い音で骨が鳴る。視界の隅で、正しく払われた刀が鈍い光と共に揺らめく。 いつのまにか男たちの不快な声は聞こえなくなっていると思ったら、それを自分の哄笑がかき消していただけだった。 そうして彼は夜の底を駆ける。 他の誰よりも速く、的確に。 見廻組や同心にかち合いそうになれば、不意に戸が開いた長屋に入ってやり過ごす。そうして、戸を開けたのとは別の家から涼しい顔で現れ、再び走った。 またある時は戸に挟まった小さな紙に素早く目を通し、進路を変える。紙には近隣の警察の配置。 今や彼を匿い、情報を渡し、支援する者の輪は、江戸中に広がっている。これは銀時や高杉も全容を知らない桂だけの武器だ。 狂乱と呼ばれた男はその武器を懐に抱え、息を殺して時を待った。何年も。追われ、血にまみれ、痛む傷に耐え、気が付くと深淵に沈みそうな己を抑えながら、その時が来るのを。 確実に、短期間で、奴等全員を葬れる時。 街の協力だけでは足りない。標的を知り、その周囲を味方に付ける。その上で、天導衆と警察勢力の関心と人員が全て他に向く必要があった。 果てしない道を、一歩一歩踏みしめてきた。 師を死に追いやった隠密がいると知ったのは、終戦の時で、その後の確信を得る情報を聞いた。 当初はそれでどうなるという気持ちもあったが、あの時、唯一無二の共犯者と戦いに戻った時に決めたのだ。 何年かかろうと、必ず殺す、と。そして、言葉には出さなかったが、目の前の男もそう決めたと分かっていた。 だが、身一つのまま、仲間を集め、日々警察との小競り合いをしている間に時は過ぎる。桂たちの焦燥を置き去りにして。 手がかりがあまりに少なすぎた。戦時中に目立った動きをしていた三人はすぐさま共犯者が殺したが、その後に繋がる情報がなかった。 不毛に過行く毎日で幾度となく夢を見た。もしや終戦を機に職を辞し、宇宙にでも旅立ってしまったのではないか。自分たちの手が届かなくなった場所で、先生の首を持った顔無しの者たちが祝杯を挙げる悪夢。 暗雲の先には爽やかな青空がある。まさに悪夢のさなかに起こったあの辻斬りは、そうとしか言えないような僥倖だった。 ある小役人の目立たない死。念のためという程度の関心で同心から情報を仕入れた時の驚き。涙が枯れていなければ、きっと泣けただろうという強烈な喜びが続いた。 “銀時だった”。 苦しませない急所への一撃は、その刃が振るわれた時が脳裏に浮かぶほど鮮烈で、あまりに懐かしく、清らかに美しかった。 万事屋になった彼が斬る、その理由は明白に過ぎて、桂は時を忘れてその男の家を、立ち寄り所を片端から探し、―――残り六人の名を知ったのだ。 これは自分の咎だ。 音もなく東雲の方へ走りながら、桂は己の声を聞く。そう、本当は高杉や銀時へ怒りを覚えること自体が筋違いだと分かっている。 あの時、桂は六人の名を秘匿した。 かき集めた証拠を持ち去り、厳重に隠した。最初の三人は高杉が、要の一人は銀時が、それならば残りは自分がやろう。その決定はあまりにも自然で、嘘は一片もなく、ただ桂は沈黙した。 だからこそ高杉ですら気が付かなかったのだが、その結果、あの所業をここまで許し、二人をあの「松陽」に会わせてしまった。 銀時と高杉を!あの、先生のためには、命を迷いなく投げ出してしまえる二人を!! 名を知ってから、彼らの動きは注視していたつもりだったが、今回のことは全く予想できなかった。その咎。 もしあの時高杉に話していたら、途中で気が付けたかもしれない。そうすれば、少なくとも銀時は巻き込まずに済んだはずだ。 「任せてくれ」 誰ともなく、許しを請うようなか細い声で桂は呟く。 奴等は必ず自分が仕留め、あの人を冒涜から解放する。もうお前らの傷を抉らせるようなことは、断じてさせない。 薄く凍った湖のようなぼんやりとした水色が水平線上に見え始めていた。その先に太陽を引き連れているとは思えない冷やかさだった。 そんな熱量が乏しい朝に真紅の鳥居はよく映えた。奥に向かって四基。一般的なものより小ぶりなはずの鳥居が、嫌に大きく見える。 禁域。彼岸への入口。種明かしをされてみれば本拠地にこれ以上の場所はないように思えた。 江戸を見下ろす高台の中腹にあるそこは、終戦直後には廃墟になっていた記憶がある。あの頃は至る所に廃寺や誰もいない神社があって、よく攘夷志士達が陣を敷いていた。 もとより参拝者も氏子もいなくなったための荒廃だ。終戦後、そのうちの一つが再建されようと気にする者はいなかったのだろう。 「朝を見せるつもりはなかったのだがな……」 数キロ程度なら屋根伝いに駆け抜ければ夜明け前には片が付くと思ったが、思いの他時間がかかったらしい。 地下よりも地上の方が早いと読んだのは当たった。住民の協力で見廻組に会うこともなかったが、時折篝火をかわしていると回り道を強いられ、何より高杉に殴られた腹が予想以上に痛んだからだ。あの混乱の中で的確に痛点を殴るあたり、幼なじみとは全くありがたくない。 言葉を吐き出すと、冷気が喉の奥に流れ込み、多少気分が落ち着いた。 朝が来てしまったのは仕方がない。 恐らく顔をさらせない銀時は地下から回り、妨害に出くわすだろうからもうしばらく時間はかかる。高杉もかなりの深手で、同様だろう。 すうっと、桂の頬に静かな笑みが浮かぶ。 これまで一度も遭遇しなかったのは、最後に特大の障害物が待っていたからか。 「なかなか乙な雰囲気じゃないですか。―――あの世への入口に、人殺し二人」 気配を隠す気もないのだろう。鳥居に寄り掛かった白い影の方から声をかけられた。 「これはこれは、三天の怪物殿。こんな早朝に願掛けか?」 その男、佐々木異三郎の眼鏡は一滴の朝露に濡れていた。 長い時間、誰よりも早くこの場で待っていたのだと判断した瞬間、気軽な仕草で笑いかけたまま、桂は斬りかかった。 「……全く、物騒ですね」 袈裟懸けに両断しかねない一刀を、佐々木は腰を入れた完璧な体勢で斬撃を受けた。 真上から斬りかかられた衝撃に、腕の筋肉が軋む。事前に聞いていたからこそ受けられたが、悠長に交渉をしようとしたら斬られていたかもしれない。さすがに、あの鬼が「今の桂に近寄るな」と警告するだけのことはある、いやだからこそ来た価値があると佐々木は思う。 「教えてもらおうか。何故、ターミナルに詰めていたはずの貴様が真っ先にここに来たのか。……中身を、知っているのか?」 聞きながらも桂の刃は徐々に近づき、能面のように凍り付いた双眸が佐々木を睨む。一片の嘘偽りすら許さぬ、という、紛れもない殺意。 「いいえ。―――夜半、見廻組に突然任務が下りました。任務内容は下水道を重点的にさらい、白夜叉・高杉晋助・桂小太郎を捕縛もしくは殺害すること。ご丁寧に配置ポイントまで指示があった」 「それで嗅ぎ分けたとでも?」 「推理したと言ってほしいですね。真選組の屯所から繋がる場所はいくつかありますが、配置命令と重ねれば、護ってほしい場所がここなのは明らかでした。中身は本当に関係ない、エリートなので余計な駆け引きで命を捨てたりはしませんよ」 「なるほど。余計でない駆け引きをしに来たということだな」 しばらく言葉を咀嚼するように間を置いた桂だが、不意に刀を戻し、佐々木もそれに倣う。 「私は今回の件で貴方達を捕まえる気はありません。部下にも不審に思われない程度の足止めを指示しました」 「それは命令違反と言うんだぞ」 「目的と手段を最適化しただけです。―――単刀直入にお願いしましょう」 佐々木が正面から桂の目を見た。体温を失った色をしながら、奥底に燻る何かで昏く濁った光が絡み合い、桂は苦い味を噛みしめる。 ああ、ここにも焔だけを支えに生きている人間がいる、と。 「貴方が殺した六人の家に引き入れて下さい」 「理由を聞こうか」 「隠し部屋にあるであろう資料を見るためです」 「……見廻組の局長殿なら取り調べくらい自由だろう?」 「逆ですよ。この“白い化けの皮”は目立つ。この動きは私個人のもの、余計な者達に悟られたくない。その点、桂さん、貴方なら家人と個人的なやり取りができる」 桂は軽く肩をすくめ、喉の奥だけで静かに沸き上がった笑いを飲み下す。 「違うとは言わせませんよ。――貴方は家人と結託したからこそ、あの短時間で警備を潜り、目的を成し遂げたのだから」 「……なるほど、鬼の副長より三天の怪物の方が性悪説を取るようだな」 そう。何年もかけて、家人と親しくなり、亀裂を増幅させ、不満が無関心に、無関心が憎悪に変わるのを待った。 後一押し、ほんの一押しで殺意に代わるタイミングまで待ち、―――もう一つの条件である敵の関心が高杉に集中した時に決行したのだ。 「まあ、俺は本質的には善人だが、こと譲れんものに対しては悪党でもよいと思っている。だから、分かるし、乗ってもいい」 佐々木は、この攘夷派のほぼ半分を束ねる男がまだ自分を善人などという幻想を抱いていることに驚いたが、なんとか飲み込む。 「だが、それでは俺に利益がないと思わないか?」 「ここを今すぐにでもどきますが」 「いや、本当のことを言うのは忍びないが、今勝負をしても負ける気がせん。貴様を斬ってからでも大した時間は要さない」 「失敬な。……まあ、そうおっしゃるような気はしていました」 そう言うと、佐々木は懐から取り出したものを投げ、すぐに桂の手に携帯が落ちた。 「今ならなんと、私とメル友になれます」 「……やはり斬って通るか」 「短気は損気ですよ。今、メールしました。貴方には必要な情報だと思いますが?」 メールに素早く目を通した後の桂は、全ての表情が消えていた。 「―――いや、何故知っているのか問うのは止めよう」 「それはどうも。今、私を殺そうか本気で迷ったでしょう?」 「俺はいつだって本気だ。正直、事前に貴様のことを聞いていなかったら間違いなく斬っていた」 「なるほど。なんと?」 「三天の怪物は信頼できる悪党だ、と。その上で、もう一つ聞こう。貴様とこの情報、信じるに足る根拠は何だ?」 佐々木は息を整えるために息を吐き、背中に噴き出した冷汗の不快さを受け流した。 この男。化け物だ。 高杉が唯一無二の共犯と呼び、穏健派の皮を被ったまま二大巨頭の一角を占め続けるだけのことはある。 ごまかしは通用しない。だからこそ、佐々木は言った。これまで誰にも言ったことのない本音を。 「私には私の復讐がある、と言ったら信じてもらえますか」 不思議なことに、桂はこれまでの不気味さが嘘のように、穏やかに微笑んだ。分かるよ、と微かに震えた声を出して。 ◆ ◇ ◆ 佐々木と別れ、四基の鳥居を潜り抜けるとすぐに急峻な階段と拝殿が見える。 「……奇妙だな」 桂は足を止め、開け放たれたままの拝殿を眺めた。 それは奇妙としか言いようのない造りだった。まず、拝殿が異様なほどに小さい。数人足を踏み入れたら身動きが取れなくなりそうだった。 何より“本殿”がなかった。拝殿から本殿につながるであろう廊下は途中でぐにゃりと曲がり、地中に突き刺さっていて、その先には敷き詰められた白い砂利だけがある。 本殿が地下にあるのか、それとも拝殿だけが地上に出されたのか。どちらにしろ、罠であることに間違いはなさそうだった。 桂は少し考えてから、入口に短刀を立てかけてから音もなく拝殿に滑り込む。 その直後。 戸が重い音を立てて閉まり、短刀を数秒で押しつぶす。 そして、金属が折れる嫌な音が響き、拝殿が半分になった。続いて四分の一に。 神社が折りたたまれているのだ。 小さく。更に小さく。八分の一。 ―――中の人間ごと。 時間にして瞬きをするよりは少し長い程度が経った頃、十二分の一まで小さくなった拝殿はついに倒壊した。 すぐに瓦礫の隙間から人ひとり分であろう血が染み出して、白い砂を汚した。 |