彼はずっと耐えてきた。
風雨に、血潮に、喪失に、慟哭に。

のた打ち回る罪の意識に蓋をし、それでも決して忘れることはなく、ただそこに在り続けた。傷だらけの心に新たな穴が開けば、手段は選ばず、回復を選んだ。それが共犯者との傷つけ合いであっても、優しい夜叉への追及であったとしても、常に自分が立ち続ける道を歩いた。
自分たちはもう死ねない。ならば、勝つまで戦い尽くすしかないと狂気を飲んだ。結果として、不安定な三者を繋ぐ強固な楔となり、修羅に頼られ、夜叉に縋られた。だが、爛熟した楔には無数の亀裂が入っている。

軋む音を聞いたか。





八  段 





その日、春の嵐が戦場を駆け巡っていたことを今でも覚えている。
少しでも出歩けば砂嵐に目をやられ、口の中が土の味で一杯になる日、否応なしに戦は延期。砂埃の奥で弱弱しく光る太陽が中天から地平線へと消えるまで、山寺の本堂にいたのは、銀時と高杉の二人だけだった。
怖いことに今日は一度も喧嘩をしていないどころか、ほとんど会話すらない。高杉が地図に新たな案を書くと、銀時が上書きをする。それを何時間も繰り返した結果、地図の上は墨が牢獄のように縦断していた。

気が急いていた。ほぼ全軍をあてた襲撃を二度行っておきながら落とせない天人の要塞がある。その上、偵察に向かえば裏切りで命からがら逃げかえる有様。
その要塞が背後にあっては江戸に向かえないため、裏切者がいたとしても失敗しないような策を丸一日考えているというわけだった。

「高杉!」
煮詰まりかけたその部屋に突然飛び込んできた小柄な影がある。松下村塾出身の山田だ。
「よォ、市ィ」
「久しぶりー」
胡坐の状態から姿勢を正そうと立ち上がりかけていた高杉だったが、顔を見た途端、元に戻る。銀時に至っては見向きもしない。

「件の裏切者を捕まえたぞ」
失礼な態度はいつものことなので、山田はすぐに用件を切り出す。

その効果は絶大だった。
高杉の目が、一瞬妖しく光る。すぐに過ぎ去ってしまったが、それだけで背筋が泡立つほど冷たい。

「それで、黒幕はどこだった? 今、俺たちの周囲にいる天人のどれかか?」
そう口を開く銀時はすでに刀を持っている。

「それがさっきまで尋問に当たったんだが、全く口を割らん。裏切者のくせに、無駄に根性があるんじゃ」
「……へェ、テメーの意地の悪い尋問をくぐり抜けるなんざ、確かに根性だけはあるな。それで」
「少し休憩するかと思って出たところに、桂と出くわして……」

高杉と銀時が、嫌そうに顔を見合わせる。

「事情を話すと、土蔵に入っていったんだが……。お前らと違って、桂はあの通り実直そのものの奴だろう? 同じ人間相手の尋問を任せてよかったのか、迷ってな」

そう言い終わった時、山田が見た二人の表情は、彼の長く記憶に居座り続けた。
心の底から馬鹿にしたようにも思えるし、ひどく眩しいものを見たようにも思える奇妙にかなしい表情だった。

「あー……じゃあ、明日は黒幕への襲撃だな。刀の手入れしとこ」
「その後は作戦の練り直しだ。寝るんじゃねーぞ」

だが、よく見ようとした時には表情は消え去っており、彼らの師と同じように、さっさと次の物事に移っていく。
高杉が笑いながら言う。


「俺たちの中で、ヅラの尋問のえげつなさは群を抜いてんだよ。―――夜には、すべて吐かせてるだろうぜ」


それはこれ以上ないくらいの信頼だった。
ゆえに、桂を蝕む夜の匂いを見て見ぬふりしてしまったのかもしれない。
その咎が、こんなところで現れるとは思いもしなかった。



◆ ◇ ◆



土方は思わず身を乗り出した。双眼鏡で正確な位置を確認しても、一気に有利になった事実に変わりはない。
一度はかわされた策が信じられない偶然で成り、首尾よく桂と高杉を分断した。それも機動力を残した桂の方を土蔵に追い込んだのだ。後は土蔵内部の罠を作動させるか、出てきたところを狙い撃ちにするか、どちらにしろ詰めだ。
(そういや、中に残っているんだったか)
土蔵の中にいるはずの役人たちを一瞬思い出したが、まあいい、とすぐに片づける。
何より、あの危険な二人を仕留めさえすれば、釣りが来るだろう。

「今から言う通りの配置につけ。どの角度からでも撃てるようにする。河上と高杉は一旦放っておけ、河上の動きは俺が見張る」

今までで最も有利だ。次の動きを考えても、第一撃、それが失敗した場合の策、更に予備まで浮かぶ。
なのに。

(……この嫌な感じは、何だ)

土方はこの感触を知っていた。あの夜、銀時に遭遇した時と全く同じざわつき。昂ぶったはずの心の奥底から、冷たい警鐘が鳴り響く。
その音を無視して静寂を踏み破れば、裂けた空洞からあの、正視に耐えない化け物が引きずり出され、取り返しのつかない何かが起こると声がする。


その時。
不吉な勘と逃せない機会の狭間でがんじがらめになりかけた、まさにその瞬間。―――携帯が鳴った。
「……土方だ」
見慣れない番号だったが、即座に通話を押す。このタイミングで無関係な電話などありえない。

「おー、土方君!出てくれて助かったき!!」
自分の顔が強張ったのが分かった。名乗られなくてもすぐに分かる。あの死神のようになった男を止めた者。
銀時、桂、高杉の三人をつなぐ、一般人のふりをした危険人物。坂本辰馬。

「単刀直入に言うぜよ。……一つ、取引をせんかの?」
「”無関係の一般人が”この局面で差し出せるものがあんのか?」

あえて、日頃は坂本が使う表現で返すと、相手の声が震えた。怒り、否、笑っているのだと気が付き、背筋がざわつく。

「あるぜよ。おんしが絶対に捨てられないものが。―――沖田くんの心、でどうじゃ」





「……入るなァ!桂!!」


無常にもするりと蔵の中へ消えていった背に叫びながら、高杉は心の底から己の選択を悔いた。
しくじった。上手を取られた。この最悪の局面で。
許しがたいのは幕府側が上策を出したわけではなく、自らの下策によってこの失態を招いたことだ。

桂はいつだって話を聞く姿勢だった。
話していればにわかには信じられなくても、優れた柔軟性を発揮して、対策を練り始めたはずだ。
その心を無視し、平静になれないままの下策を弄し、全てが裏目に出た。

胸の奥底が、じんわりと冷えていく。自分はこの感覚を知っている、敗戦後、闘志に紛らせて封じたこの絶望を。



そもそも、再び真選組に捕らわれた理由は二つあった。
一つは、銀時を諦め、平穏な場へ帰すため。夜空を見ながら、自分でもその選択ができたのが不思議なだが、迷いはなかった。「先生」を斬る―――その重みは、今度こそあの男を粉々にすり潰してしまう。せめて、回復できる場所に帰ってほしいと心から思ったのだ。
二つ目は、残党狩りのためだ。研究所の壊滅を受け、自分が手の届きそうな場所に捕らわれたとなれば、必ず何らかの探りを入れてくるはずと踏んだ。それも、研究所のように隔離された場所では駄目だった。不特定多数の目があればこそ、反撃につながるほころびがでる。そうなると最適なのは真選組の屯所だったのだ。

そして、破滅的な誤算も二つ。後悔は無駄なものだが、知っていたら絶対にこの策は打たなかった。
桂が捕らわれていたことは、高杉を動揺させた。あの程度の捕縛で捕まるはずのない桂が捕らわれたということは、彼は危険を冒して何かをしていた。そんなことは一つしか思いつかない。
牢獄の中で、本当は頭を抱えたかった。接触を望むのは変わらないが、桂には絶対に「先生」のことは知らせられない。彼まで揺らいでしまったら、自分たちは瓦解してしまう。

更に悪いことに、恐らく「先生」にはコピーがある。
研究所で「あの人」を斬った時から予感はあった。彼の映像が消えた後、残された映写機のような部品には、番号が付いていたからだ。番号は複数のものにしかつかない、つまり「先生」かは断定できないが他にも立体映像として甦えさせられた者がいるということだ。
そうしたら確かめずにはいられなかった。先生ではない、彼はあの人が行くべきところへ帰ったと言い聞かせながらも、心の底からわきあがる冷徹な声を無視できなかった。

白夜叉、狂乱の貴公子、そして鬼兵隊総督。この三人を一度に骨抜きにできる「あの人」を、そう簡単に諦めるだろうか、と。

予感が確信に変わったのは、自分を捕えた連中が桂を呼び出した時だ。あんな人を殺して回った直後の顔をした桂の前に、無防備に姿をさらしたのは、桂を無力化できる絶対の自信があったからだ。


「桂!!」
逃げ込んでいた繁みから駆け出そうとした高杉を慌てて万斉が止める。その動きに合わせ、容赦なく銃弾が降りかかる。
同じ動作を数回したところで、しびれを切らした万斉が叫んだ。
「土方は狙撃を諦めてはござらん。動けぬ身体で無茶をするな! 桂の方は拙者が行く」
「馬鹿か、テメェは!!今のヅラに近づいてみろ、一刀で斬られてもおかしくねェぞ」
高杉は倍の勢いで言い返した。
「いいか、万斉。詳しくは言えねえが、あの中には桂の理性を粉々に吹っ飛ばせるものがある。―――テメェは知らないが、ぶっ飛んだ時には、あの野郎が一番手が付けられねェ」

裏切りに溺れ、前夜の戦で銀時と自分に深手を負わせた中隊を、夜のうちに一人で皆殺しにしてくるような奴だ。それも何の奇策も弄せず、正面から特攻をかけて。
目が覚めた時、澄み切った美しい朝焼けの中、いつ死んでもおかしくないような重症を負いながら穏やかに笑っていたその姿は忘れられない。
「しっかり寝ろと言っただろう。ところで、あいつら殺してきたからな。別にお前らのためじゃないぞ、断じて暇だったからだからな」と。

「……とにかく、今の奴にテメェが判別できる保障はねェ」
「お主はあるのか」
「微妙だが、奴よりはあの中にあるものに“耐性”がある。議論は終ぇだ、援護しろ」
「晋助!!」

しかし、万斉が叫んだ瞬間には高杉は飛び出している。

「少しは人の話を聞け!!」
恨み言を怒鳴りながらも、身体は反射的に動いていた。
高杉の急な動きに虚をつかれ、一部の狙撃者が動き、隠れていた繁みを揺らした。それで十分だった。

万斉の指が三味線を撫で、弦が生き物のように狙撃者にまとわりつく。
「……五人か」
一人二人ならこのまま引きちぎることもできるが、五人ではさすがに厳しい。それでも動きを封じたことには変わりないので、三味線を捨て、抜刀する。
見れば高杉はまだ入り口にたどり着いておらず、狙撃を避けて一歩手前の繁みにいる。恐らくそこにも何人かはいたはずだが、どうしたのか片づけたらしい。


高杉が振り向き、二人の視線が絡んだ。
ぞくりとする。こういう時、彼の隻眼は、この世のものとは思えないほど艶めかしく、容赦なく人を誘う。
澄み切った泥濘の底まで、堕ちてこい、と。

今度は万斉が先に動き、次に高杉が走る軌道を直接狙える繁みに飛び込む。
一刀で数人の腕を銃ごと斬り捨てた時、背筋に強烈な怖気が走った。―――小さな、小さな撃鉄の音。


もう一人いる!


慌てて見ると、たった一人、入り口まで後数歩にまで迫った高杉の背に、完璧な体勢で狙いをつける男がいる。

「晋助、土方が!!」

不覚にもいつからいたのか全く分からない土方が、照準器を静かに睨んでいる。勝利を確信した笑みすらなく、無表情のまま。
足や胴ではなく、狙いは正確に頭だ。


声に反応した高杉が振り向きかける、もしかしたらその一瞬、土方と目があったかもしれない。―――だが、遅い。
撃鉄にかけられた指が容赦なく引かれる。万斉は自分の喉から絶望があふれ出る叫び声を聞く。
高杉すら目を見開いた。


だが、その場にいた誰もが高杉の頭にのめり込むと思った銃弾は、次の瞬間、地に落ちた。
耳障りな金属音と、一つの銃弾と共に。

「……チッ!」
間違いなく信じられなかったはずだが、土方はすぐさま近くの木の影に隠れた。
“銃弾を打ち落とすような”狙撃者と勝負することを一瞬の判断で回避したのだ。

その隙に高杉は入り口にたどり着き―――扉に手をかけることなく横に大きく飛んだ。




残像は雪が降り積もるように音もなく、緩慢に流れていった。
高杉が飛び退いた刹那、閉ざされた扉の隙間から、にゅうと銀色に輝く刀が生える。
それは十字型に中空を引き裂き、その後には無残に破壊された重厚な扉が残り、狭間からむせ返るような血臭と汚濁があふれ出る。


そして、そのおぞましい臭気を纏った男は、美しい仕草で刀の血を払いながら光の中に現れた。
一振りでびしゃびしゃと音が聞こえるほどの血が飛び散る。
彼の昏い光の両目が無感動にそれを眺め、口元はかろうじて凶刃をかわした仲間に柔らかく、冷酷に笑いかける。


―――高杉。貴様、この俺にあの人のことを黙っているとは、どういう了見か聞かせてもらおうか」


左手以外の全てを返り血に染め、唯一綺麗な状態で残った左手で何かを酷く大切そうに抱える男。
白夜叉と鬼兵隊総督が「鬼」になった者だとしたら、彼の二つ名は「狂乱」―――これは、人でありながら狂いに身を投じた者。
彼が覗く深淵は、おそらくいまだかつて遭遇したことがないほど、深く、冷たい。

桂は微笑む。 更に柔らかく。
殺し合いの場にふさわしからぬ、どこかの教室で子供たちに語りかける教師のような慈愛溢れる笑みで。


「そして、真選組の諸君。こんな屑どもを匿った以上、覚悟はいいな」


戦いの場では信じられないことだが、高杉が一瞬だけ目を閉じた。酷く、疲れたように肩を落として。





その時、牢を爆破されても全く動きが乱れなかった白夜叉が大きく飛び退いて天を仰いだ。
ありえないほど大きな隙に沖田は迷いなく飛び込んだ、いや飛び込もうとした。

(……なんでえ、これ。足が、動かねェ)

戦闘で高揚していたはずの心が一気に冷めていく。今、手を出したら死ぬ。そう本能が言っている。
刀を握る手に急激に汗が湧き上がった。思わず、隊服で手を拭く。その隙に沖田自身も肝を冷やしたが、白夜叉は難しい顔のまま固まっている。

沖田は静かに息を吐き、細部までその見えにくい表情を読もうとした。
殺気は全く消えていない。むしろ研ぎ澄まされ、凝縮され、巨大な蛇のようにとぐろを巻いている。
……だが、殺気は動かない。先ほどまでは互角だった戦いを一気に片づけ、この場にいる者すべてを皆殺しに出来るほどの殺気を彼は吐き出さない。

(動揺してる?)

「まさか。……いや、」
一度自らで否定して打ち消した。
沖田は何よりも自分の勘を信じている。時として近藤や土方と意見を違えた時ですら。

―――ゾクゾクすらァ」

この勘が自分を裏切る時は、天命が尽きる時だ。
白夜叉は動揺し、今のなお回復していない。殺気は同時に彼の絶望だ。服に仕込んだ通信機から、彼は聞いたのだろう。牢獄を爆破されるよりも遥かに恐れていた何かが起こったことを。

ゆっくりと、鬼になろうと足掻く男と過ごした馬鹿らしく賑やかな日々を惜しむ時間を乗せて、正眼に構え直す。
今しか殺せる時はない、そう分かってしまったから。


「さよなら、旦那」


俺は、アンタの危うさが嫌いじゃなかった。

本能をねじ伏せ、沖田は正面から鬼に突っ込んだ。技は三段突きの一突き目、狙いは最も当たりやすく、致命傷になる心臓。
「……っ!」
案の上、白夜叉の反応は、ほんのわずかだが先ほどより遅い。身体を捻って突きをかわしたが、無駄が多く、姿勢が崩れている。
(いける)
二突き目で体を倒させ、最後に首を突き刺す。イメージが“走馬灯のように”鬼を殺すその時までの映像を流す。



―――走馬灯?



何故。自分は、殺す側なのに?



沖田はその答えが分からなかった。
分からなかったが、気が付いた時には、絶好のタイミングを捨てて後ろに飛んでいた。


「……へェ、さすが一番隊隊長。惚れ惚れする勘だ。忍に向いてるぜ」


獲物にだけ聞こえるささやかな音で、死神のような無機質な声が笑う。
意味を捉えるより早く、先ほど沖田が立っていた場所に火柱が上がる。一つの爆発が次の爆発を呼び、あっという間に一直線の火の川が燃え盛る。直撃を受けていたら火傷では済まなかっただろう。
そして、その先に白夜叉はいない。

「待ちやがれィ!」

沖田は一瞬で距離を測り、最も飛び越えやすい場所へ向かって駆け出そうとした。実際にその時駆け出せば、丁度爆炎の向こう側で屯所の壁を越えていた白夜叉に追いつけたかもしれない。
だが、先に聞こえた無線からの土方の声は、到底無視できないもので、否応なしに沖田の足を止めた。


『総員、引け!!―――桂とはやり合うな!!!』


生粋の喧嘩師が「やり合うな」と断ずる怯えた声など、一度も聞いたことがなかったから。



◆ ◇ ◆



「退け!!」
揃うはずのない相手と声が揃い、土方は我が耳を疑った。思わず見返した先では、大怪我をしているとは思えない素早い動きで高杉が桂から距離を取り、ほぼ同時に背後にあった河上の気配も消えた。

「オイ!撃つな、さっさとこの場から離れろ!」
更に高杉が怒鳴ると、狙撃手の気配も戸惑いを残しつつ離れていった。

土方が散らばった隊員達に引かせると、その場に残されたのは、たったの三人。
土方、高杉、そして無感動に撤退を眺めていた桂。
むしろ桂は間をおいて邪魔者達がいなくなるのを待っているようだった。

「土方ァ。運のないテメーを恨むんだな」
そう言うが早いか、高杉はほとんど飛び込むようにして、手近の繁みに駆け込んだ。
「はぁ!?」
あの不敵な嘲笑をもって沖田と斉藤を誘惑した男とは思えない慌てた仕草に思わず声が出る。
明らかに高杉は、桂を押し付けたのだった。蔵の中で何を見たのかは知らないが、月光の下、「狂っているのはあれだ」と嗤った狂気の欠片を、前面に押し出してきた桂を。
言い換えれば、今の桂は、高杉ですら相手にできないということ。

「貴様こそ逃げ足の速い」
吐き捨てながら桂がつまらなそうに鼻を鳴らす。だが、高杉を追う素振りは見せず、眼光は正面から微動だにしない。


「さて、土方。答え合わせの時間だ。俺が出したヒントをもとに、お得意の鼻で嗅ぎまわった事実を話してもらおうか」


言葉が終わった、と思った時には、目の前にその顔があった。
咄嗟に払った刀が三日月の弧を描いて吹き飛ばされる。次の瞬間には、喉元に刃先が触れていた。

「心配するな。俺はこれでも貴様を買っている。俺の欲しい情報を得、数分は長生きできる力があるとな」
四方から聞こえる仲間たちの悲鳴が、端整な顔が近づくにつれて消えていく。
こいつらは、音を塗りつぶす。人が死に行く刹那のような、圧倒的な静謐。
答えを急かすことなく、夜の湖のような静けさでこちらを覗き込む桂を見ていると、ここが屯所ではなく、既に全員が死に絶えた後の地獄の底なのではないかと思えてくる。

「……確かにテメェに言われて、俺は周囲を調査した。対象は血の池に沈んだだろうあの役人達、その上役」
「それだけか?」
桂が小さな失望を含ませて首をかしげる。背筋が一気に泡立ち、否応なしに悟る。この失望の先には、死しかない。
「それに、奴らと『吉田松陽』のつながり」
「ほう」
表面上、桂の表情は微塵も動かなかった。だが、その能面のように白い顔と闇の底を映した双眸こそが答えだった。
「予想に反して、あの三人は全く関係がないことしか分からねえ。逆に前にテメーが殺した連中は、ごくわずかだが、監察で見張ったことがあったり、牢で会話をしたり、つながりがあった」
「なかなかの出来だ。それで?」
「関係がない。だが、ここに来た。すなわち、―――あの三人が、お前の本当の獲物じゃねえのか」

高杉の、かもしれねえが。
土方はそう慎重に付け加える。

「少なくとも、桂、テメーにとっては前の六人の殺しは見せしめでもあったんだろう。本当は、あの後逃げ切り、幕府内で極端に怯えた行動をする輩から狩るつもりだっただろうが、俺達が来て計算が狂った」
「全くだ。迷惑なことだぞ」
桂は真顔で頷く。
「だが、囲まれた瞬間、テメーは一つ思いついた。“このまま捕縛され、力が失われた状態になれば、奴等が先手を打って自分を殺しに来るかもしれない”」
「素晴らしい、全くその通りだ。暗殺者ではなく、抜け抜けと顔を晒して尋問に来たときは少々驚いたが、高杉もいたからな。もう勝ったと油断してもおかしくはないと思った」


「だが、それがこんな土産を持ってこようとはな」


不意に、底知れぬ水に似た双眸に、凍り付いた炎が燃えた。
桂はことさら丁寧に、見せつけるように、蔵の中から持ち出して抱えていたものを眼前に突き出した。

―――それは?」
これまで一度も見たことがないものだった。
人一人が丁度立てそうなほどの大きさ円盤状で中央部にはガラスで覆われた小さなフィルムが収められた部品が取り付けられている。もっとも、その部分だけが執拗に壊されていたが。
破片の隙間から見えるのは、何かの番号だろうか。

「冥途の土産なら教えてやるが」
その反応では、貴様は知らないな。
桂が興味を失ったかのように呟くのを聞いてぞっとする。こいつは、俺の表情次第では、今すぐに殺すつもりだった。
「止めとくよ。古今東西、知りすぎることは不幸を呼ぶからな」
「本当に貴様は賢いな。……あの屑どもも、その十分の一でも知性があれば、もう少し楽に死ねただろうに」
「楽にでも死にたくはねえけどな。俺が話せるのは本当にここまでだ。それ以上は、テメェに監察方をやられたからな」
ここにはいない山崎は、心底運がよかった。万が一奴が桂に斬られずにいたら、恐らくは真実にたどり着き、首を落とされていただろうから。

「そうか……。まあ、予想より聞けたからよしとするか」

桂がゆっくりと刀を握り直す。
いよいよまずいと、近藤の位置取りだけ確認しようと気配を探る。充満する隊士たちの殺気。


獲物を狙う蛇のように渦巻く殺気の中に隠された視線と目が合った。
それでいい。本気のお前は殺気がないことが一番恐ろしい。

一筋の光明にすがるタイミングを逃さぬよう、一息だけため息を吐く。観念したように見えるか、と祈りながら。


そして、桂は言った。
眩い光を踏み潰す、さわやかな笑顔で。


「では、質問を変えよう。―――あの隠し通路の先はどこにある」


背筋を氷のように冷たい何かが這い回る感触と共に、自分の血の気がすべて引いたことが分かった。
桂はますます笑みを深める。それだけで、既に己の既知を悟られ、……最悪なことに真実が読めてしまった。


何故、役人どもはあの蔵にこだわったか。
そんなことは、本拠地につながる抜け穴があるからに決まっている。


土方は目の前の男をじっと見る。
澄み渡った青空のような、同時に底の見えない泥濘のような、ありえない二つのものを飲み込んだ反逆者。
人は限界まで絶望をため込むと、優しげな微笑みとともに壊れていくのかもしれない。……あいつと同じように。

この笑みには、静寂には、絶望には、そして凍り付いた怒りには逆らえない。
そんな無駄死にはごめんだ。


土方は慎重に、なるべくゆっくりとその場所の名前を答えた。
迷惑極まりないことに、この化け物どもの我を吹き飛ばすほどの所業をしでかした連中を呪いながら。


「そうか。助かったぞ、土方。―――ありがとう」


子どもの時と同じように、誠実そのものの顔で微笑んだ桂が刀をかざす。
……待っていたのはその一瞬。目的を達したと桂が安堵し、自分を殺すために使う刹那の隙。



沖田には十分すぎる時間だ。



「桂!!」
横にいた高杉が気が付いて叫ぶが、遅い。
既に、背後に殺気をなくして潜んでいた沖田の手から菊一文字は離れ、真っ直ぐに桂の背に迫っている。正面を向いている以上、絶対に躱せない間合いだ。



再びの死に似た静寂。



「……しまった。俺はなんて優しいことをしてしまったんだ」

言葉を発したのは、桂。他に口が開ける者はいない。

「このまま横に飛んでいれば、土方、貴様に当たったのにな」

真剣そのものの双眸は相変わらずこちらを見降ろしている。少しだけ捻られた身体の先には、化け物を見たと言いたげな沖田が固まっている。
お前がまだそんな顔を出来てよかったよ。俺も全く同じ思いだが。


桂左手には、始めからそこが居場所であったかのような自然さで菊一文字がある。
彼は完全な死角から迫る刃を身体を捻り、左手だけで掴んだのだ。それも正確に柄に手を添えて、使い慣れた刀を払った直後のような美しい姿勢で。


「……見えた、のか。あれが………?」
茫然と呟くのは、どうにも自分の声らしい。
「いいや、全く。強いて言えば、」

頭上にかざされた刀が、つややかな銀色に光る。後光に見えた。


「勘だな。死神の気配には敏感なんだ」


東雲のように柔らかく煌めいた光。これまでだ、と思った。遠くで、沖田が叫ぶ声がした。
そして。



首を飛ばそうと足を踏み込んだ死神の足元が爆発した。



「何だ!?」
咄嗟に身体が動き、後ろに飛ぶ。桂の凶刃は追ってこない。
その代わりに、灰色の爆風が視界を覆い隠す。思ったよりも少ない炎、煙幕のように広がる灰。

陽動だ、と叫ぼうとしたが、喉を焼かれたのか声が出ない。
口元を抑え、姿勢を落としたところで、一筋の風が流れ、土方は確かにそれを見た。



流れるように飛び出した高杉が、爆発を避け体勢を崩した桂の腹を殴り、引きずっていく様を。



待て。待て。待て。
逃がすか、逃がせない、絶対に殺す、そうでなければ、あの人は、時代は、俺達は……!

浮かんでは消えていく叫べない言葉。ぼたり、と椿の落ちる音がした。
その最後の言葉を紡いだとき、土方は悟っていた。次に目を開ける時があれば、既に奴らはここにいない。
そうして、あの優しい場所から遠く離れた地獄を歩いているだろう。

土方は憐れみ、悲しみ、吐き捨てた。

さっさと出て行ってくれ。お前らが死神に成り果ててしまった未来など、これ以上見たくない、と。