昔から最も嫌いな風がある。
それは決まって、喧噪の中に穿たれた一瞬の静寂に乗って吹きつけ、どれほど暑い日であっても芯に背筋が凍る冷気を持っていた。この話を打ち明けた時、狂乱の男はその冷気に見出されたものが死体になる気を付けろと真剣な顔で諭し、修羅の男は俺はその風が好きだ、勝利を呼ぶ風と思えとふんぞり返り、自分は更なる凄惨な戦ばかり連れてくるではないかと反論して物別れになった。
ただ一つ確かなことは、その風は悪い戦いを連れてくるという事実だ。


「吹いてるじゃねーか」


銀時は、薄紅の残照に照らされた雲の流れを飲み込むように見る。
始まる。始まってしまう。
この身が風圧で擦り切れた方がましだと考えるくらいは憂鬱だ。




八  段 





真相は幾重にも重なった霧の中に埋もれ、倦まず弛まず、その容量を増していくはずだった。
例えるならば主君からも認識されない隠密が、国を揺るがす情報を売りさばくように、江戸の外れにある忘れ去られた神社が、その地下に最先端の「未来」を作る特殊な「場」を抱えてきた。

緻密で根気のいる計画だった。
始まりは攘夷戦争よりも前、天人襲来の頃。それから半世紀以上をかけ、世から隠れ、それを推し進めてきた。

「……ほころびが出てきている」
一人の影が言い、「狗が嗅ぎまわっている」と続ける。

彼らは隠密だった。連綿と時の権力者の影にあり、江戸幕府では監察の地位を得た。影のように存在感を消し、乱世で主君が変わろうとも粛清されない地位を保ち、そのうちに太平の世となり忘れ去られた。
生きていくことは易かった。細々と幕府の事務処理をし、時折、監察として脱税やら非合法遊郭やらの摘発に関わった。そうして、平穏な中、静かに倦んだ。

「……何故。もう半数が殺られたぞ」
こんなことになるはずだったのか、と呟く。

消えない倦みを抱えながら、世代交代は進む。その後、何百年かが経ち、ついに彼らを見つける者が現れた。
―――天導衆。太平の世を壊し、乱世を呼び覚ました天人。
一族は合議を開き、選ばれた20名で天導衆から下されたその「仕事」を引き受けると決断した。


仕事自体は驚くほどうまくいった。
墓荒らしで骨を奪い、縁のある者から記憶を奪う。残念ながら攘夷戦争の頃は数回しか使う機会に恵まれなかったが、それでも天人の技術によって完成した「傀儡」とそれに呑まれる人の有様には驚き、その力にのめり込んだ。

おかしくなったのは、誰もが口に出さないが、吉田松陽に手を出してからだ。
刑死した松陽の骨を、混乱にまぎれて回収した。焦る仕事ではない。本業で駆けずり回った戦争が終わり、記憶を集めようとしたときに、それは起きた。


吉田松陽に死を与える情報を幕府へ流した三人が殺された。下手人は高杉晋助。大きな損失だが、焦って高杉に近づけば犠牲が増えるばかりだと判断した彼らは、あらゆる吉田松陽に関わる所業を隠蔽して地に潜った。
しかし、その数年後。攘夷派の二大巨頭となった高杉と桂を追い詰めるべく監察の仕事にまい進していた最中、また一人が辻斬りにあって死んだ。

「今から思えば、あそこからおかしくなったのかもしれん」

何人かがゆるゆると頷く。
彼らは下手人を割り出せなかった。更に殺された男は監察ではあったが、幕府内での肩書を持たず、市井にまぎれて暮らしていた。―――その上、高杉と桂には“不在証明”があった。
一体誰が、どのようにして市民の中から、彼を見つけて殺したのか。調べても手がかりは皆無で、それどころか、犠牲者の家から出た資料で更なる悲劇が起こった。

本計画―――正式名称はないが、その性質より、関係者は「追憶」と呼ぶ―――に関わり、吉田松陽を「材料」とした残りの6人の名前が記されていた、資料。

壮絶な恐怖が蔓延した。手を打たなければ、間違いなく殺される、と。
ゆえに、桂が土方を斬ったのは、千載一遇の機会に他ならなかった。これを逃せば、先はない。
すぐに天導衆に話を通し、報道規制を敷いた上で、警察の総力を合わせて捕縛を図る。無論、要注意人物である白夜叉や坂本辰馬、鬼兵隊の動きを封じた上で。
しかしながら、高杉の確保には成功したものの、桂は取り逃がした。


まさか、その桂が、6人全員を殺し尽くすとは。


高杉を捕縛したことで油断はあったかもしれない。桂は穏健派に成り下がり、過激派の高杉だけが暗殺をして回っていると思い込んでいた。
その上、目の前で捕まった高杉を見捨て、暗殺を優先させるとは予想できなかったのだ。

残りの10人は更に恐怖した。表舞台には一度も出ていない。資料もない。
しかし、次は自分たちだ、と。


「……だ、だが、吉田松陽は“完成”している!“破壊”は問題にならない」


対抗するには、なんとしても彼らの師である吉田松陽を完成させ、骨抜きにするしかない。結論は即座にまとまった。
すぐさま手足として活用していた研究機関に、高杉を送り込み、拷問にかけた。吉田松陽の根幹に関わるような記憶を引き出すために。その後、貝のように口を割らない高杉を持て余し、危険を承知で坂田銀時を送り込んだ。
それが徒になった。

「もう後戻りはできない」

研究所は、坂田銀時の手によって壊滅した。しかし、手元には最大の武器が残った。


「……だが、桂に接触するのは早計だったのでは?何も、狗の屯所に“持っていく”ことはなかろうに」
「確かに、お陰で土方がこちらを探っている。大した鼻だ」
「放っておいてよいのでは?真選組の監察は、桂に壊滅させられたのだろう?」

三々五々意見は出るが、皆難しい顔だった。確かに真選組の「目」は、大幅に機能を失っている。その状況であれば、土方がいくら調べたとしてもたいした情報には行きつけないと考えるのが妥当だ。
それでも、不吉な胸騒ぎが消えない。夏の夜に、どこからか漂う腐臭のように、不吉な予感がまとわりつく。

「ともあれ、あの三人がうかつなことをしていなければいいが……」

その言葉が終わる前、無線がけたたましく鳴り響いた。

真選組屯所に、白夜叉が出た、と。




◆ ◇ ◆





外に通じる門の両側をはじめ、緻密な計算のもとに並べられたライトが照らす真選組屯所は、真昼のように明るい。最も薄暗い牢獄ですら、薄汚れた壁の傷一つ一つまで見えるほど、全ての建物が光の中で輝いていた。
屯所の中央、執務室やら隊士の住処がある建物の屋根には、土方がいる。ひっきりなしに入る無線に指示を出し、目当ての情報がないことに息を吐く。

桂に言われたからと断じて認めたくはないが、土方は尋問に来た幕府の監察を始め、関係のありそうな人間を洗っていた。 だが、全く情報がない。むしろ、尋問官たちは”誰一人として吉田松陽に関わっていない”という事実が分かっただけだ。

(だが、必ず、何かある)

勘でも何でもなく、確信だった。
そうでなければ尋問を終えてもなお、襲撃の危険性が高い屯所に、彼らが残るはずもない。
間違いなく、桂か高杉から聞き出したいことがあるのだ。

土方は双眼鏡で、三人の監察が隠れる土蔵を見る。拷問用の土蔵に異常はない。もう少しましなところをと提案しても頑として譲らなかった。
幕臣の義務として、脱出用の地下通路だけは教えたが、別段の警備は求められなかったので誰も配置していない。

奴らなど心底どうでもいいのだ。狙いは、あの白い鬼と、二人の狂人だけだ。

「光の中、鬼の副長一匹なんざ粋ですねェ」

噛みしめながら小さく頷いた土方の背に無遠慮な声がかかった。音も立てずに近寄っていた沖田だ。
一番隊の配置は、近藤と同じく、中庭のはずである。
「戯言をぬかす暇があんなら、持ち場につけ」
「俺はここでいいんでさァ。どこにでも最短で行けますからねえ」
土方の小言が癖のようなものと分かっている沖田は気にした様子もない。
「テメーがそんなに仕事熱心だとは。嬉しくて涙が出るぜ」
げんなりと言い返すと、朗らかな笑い声が返ってきた。土方は口の中に苦々しさを感じる。
―――昂ぶっている。沖田は、悪い戦の前にはよく笑うのだ。




蔑まれて生きてきた。その機敏な、合理的な、気まぐれな、孤独な生き方により、歴史上常に裏切り者と言われてきた。 主君を持たず、より高く技を買ってくれる者に、それ以上に生き残れる方についてきた、汚い猫。

しかしながら、殺す価値もない生き物として生きるのは、結構悪くないものだ。

全蔵は細い息を腹に入れる。本当は大声で笑いたいが、もちろん許されない。
「侍同士の大喧嘩の始まりだ」
かわりにそう言えば、隣にいた猿飛あやめがふわりと笑い、闇に消えた。彼女の機嫌もよい。そうだろう。その本性を、最大限に発揮する仕事だ。

そう、自分たちは望む時間を演出し、引っ掻き回すだけかき回す不届き者。
こんなに愉しく、腕がなることもそうはない。
全蔵の腕が、ゆっくりと降りる。光が闇に呑まれる一瞬、その口元が、にい、と笑んだ。





その時、近藤や斉藤を始めとする中心部隊は屯所の正門前にいた。敵の目当ては牢獄ではあるが、そこはどの塀からも離れている。更にもっとも近い屋根にいるのは土方と沖田だ。彼らが足止めをする時間さえあれば、屯所の全てに通じる正面の広間から駆けつけ、一網打尽に出来る。

始まりは、遠くで蝉が飛ぶ時のジジジという羽音に似た音だった。
何人かが蚊かと疑い季節が違うと首を傾げた時、その音が正体を現す。―――すべての電源につながる配線が焼き切れる音に。


「何だ!?」


ブチブチブチ、と筋肉を引きちぎるような音が連続する。
張り巡らされた数多の光源が途切れる。屯所全体が、一瞬で、夜に閉ざされた。

「篝火!!非常灯もつけろ!!」

屯所中に近藤の大音声が響き渡る。周囲の隊士がバタバタと火入れを始め、そのたびに、灯った火が掻き消える。
否、一つだけ、斉藤終が暗闇から飛来する何かを避けてつけた非常灯だけが、その一点を照らした。


一人が気が付き、息を飲む。
繰り返されて、得も知れぬざわめきが広がり、最大限に恐れが膨れ上がった時、それは言った。



「よォ。無念の戦場から戻ったぜ」



死に装束の白。
顔は兜に隠れて見えにくいが、その口元は血のように赤く、愉悦に歪んでいる。頬は紙のように白い。
少なくない人間が無意識に後ろに下がる。本能が、それが人間であると認識することを拒むのだ。
流れる仕草で抜刀すれば凄絶な不穏が立ち上る。無残な死体の山から這い上がった夜叉。
風のように柔らかく、更なる屍を積み上げるだろうと思わせる。


「幕臣殺しも大詰めだ。―――近藤局長、アンタの首、この白夜叉が貰い受ける」


見ていた側からは、白夜叉はゆっくりと言葉をかみ砕き、言い切ったように思えた。
しかし、言葉が終わった時には、近藤の前に鬼はいた。

「なんで、こんなところにいるんだ……!!」

叫びながらも近藤はすでに抜刀している。
だが、目の前の鬼が誰か分かってしまった逡巡で、踏込みがわずかに浅い。
踏込みが甘ければ、その分力が落ちる。上段からの斬撃を受け流せず、刀を飛ばされれば終わりだ。それほど彼の殺気は本物だった。

近藤が覚悟を決めて、腰を落とした時、白夜叉が不意に大きく右へ飛び退いた。その空間を埋める斬撃は、影しか捕えられない。

「斉藤!!」

「局長、すみません。ここは俺に!―――“この人には借りがあるんで”」

泳がされた屈辱が。
斉藤は、夜叉に向かって口だけで言う。相手の顔色に静かな失望が浮かんだのを見た瞬間、斉藤は上段から振り下ろされた斬撃をかいくぐり、懐に飛び込む。そのタイミングでは、沖田もかわしたことがない渾身の、外すはずのない間合いだった。
―――化け物かよ!」
「ご名答」
それなのに夜叉はふっと力を抜き“後ろ”に倒れ、その必殺の突きをかわした。そのまま腹筋を使って足を跳ね上げ、斉藤の顎を狙い、右手は遠心力に従って弧を描き、胴を狙う。
ぞっとした。避けられたのは、桂の技を見ていたからに他ならない。そして、白夜叉は桂より速い。
「俺は、なーんにも護れなくて、天人も人間も片端から死体にしまくった化け物だよ」
至近距離で刀を合わせているのに、決定的な顔は見えない。見せないように、制御されていると気が付いた瞬間、斉藤は戦略を変えた。
「しかし、アンタそんな潰した刀で、俺たちに勝てると思ってるのか?」
見えないとでも思ったか。斉藤終をなめてもらっては困る。

ほんのわずかだが、気配に動揺が混じった。
木刀並みの切れ味に抑えた刀を持つ白い夜叉。お笑い草にもほどがある。

「アンタ、意外とハンパ者だね。あいつらは取り戻したい、でも俺たちを殺すのは寝覚めが悪い。白夜叉は偽善がお好みで?」

正確に計算した挑発だった。ペースを乱したところに、飛び込むつもりで、その隙も確かに生まれた。

「すこーしおしゃべりが過ぎるなァ」

誤算は、挑発が正確すぎることだった。
追い詰められた鬼は、それを受け流せるほどの余裕がないことも、斉藤は知らなかった。
見えたのは手首の返しだけで、胴を打たれたと認識できたのは、激痛で血を吐いた時。ミシッと体が軋み、はっきりと肋骨が折れたことが分かる。

よろめきながらも体勢を立て直した時には、白夜叉は上段に構えている。
(こんな技があるのか)
今まで見たどんなものよりも速く、生涯かけても届かないのではないかと思わせる鋭さで、刀が振り下ろされる。

(学んでみたかったなあ)
……目を閉じた。
しかし、いつまでも、美しいであろう痛みは襲ってこない。


「総悟!!」


近藤の声で、目の前に割り込んだ人物を知った。反射的に斉藤は後退する。
完璧な体勢で上段を受け止めた沖田は、先ほどの夜叉とまったく同じように手首を返した。狙うのは胴ではなく、首。それも三段突きだ。
決まれば、一瞬で首を串刺しにされる攻撃に、さすがの鬼も離れた。

沖田はすぐに追撃をかけようとしたが、何を思ったか、不意に止まる。ゆえに斉藤は見てしまった。

―――その横顔。
うっそりと笑っている。凪のように、柔らかく。

「待ってやしたぜ、白夜叉殿」

彼は歓迎するように両手を広げ、満面の笑みになる。
アンタに会いたくてたまらなかった、と湿った声で囁く声。斉藤は、冗談抜きに心臓が止まったと思った。


おかしくなる。
沖田の声に被さって、あの男の声がする。
―――ごちゃごちゃとしたモンを全部取っ払ってイカれてみろ。お前にならできる。
彼を縛るもの。
近藤。土方。近藤が護りたい真選組、それを支配する幕府。



「沖田!!そっちはダメだ!!」
斉藤は渾身の力で叫んだが、沖田は視線を戻さない。


「ねえ、正直、俺、三段突きした時、アンタの顔見えたんでさァ」


何かが完全に壊れていた。
うっとりと、熱にうかされたように、欠けていく。そこにあるべき哀しみは見えない。

「見知った顔だが、近藤さんに刀を向けた以上、分かりやすね?」

見せつけるように懐から出した手には、小さなスイッチが握られていた。
一目瞭然。それは、奴らの独房を爆破するもの。
近藤が叫んだ。制止を越えて、「総悟!!」と、願うように名前を叫んだ。

今度は沖田も振り向き、双方に言い聞かせるようにして、更に深く笑った。


「俺もぶっ飛ぶことにしたんでさァ。アンタが地獄から迎えに来た奴らは、これで終わりだ」


初めて、白夜叉の顔色が変わった。
だが、鬼が間合いを詰めるよりもはるかに早く、沖田は迷いなくそれを押す。
一瞬の間をおいて、爆音が響き渡った。




◆ ◇ ◆




身の凍るようなその音は離れにも届いた。
目を閉じて休息をしていた陸奥とまた子は反射的に立ち上がり、顔を見合わせる。

「い、今の……爆発、」

また子は蒼白になった顔で、窓にかけよる。
大きい爆発だった。銃器を扱う彼女の耳が告げている。あの爆発で、確実に何かの建物が吹き飛んだ。
天井裏の気配はまだある。彼の名前を呼ぶわけにはいかない。
だが、既に全身は震え、窓の桟に寄りかからなければ崩れ落ちそうだった。

「陸奥、さん……!」

どうにか耐えて、同志の名を呼んだ。
呼ばずにはいられなかった。―――直感は、爆発は牢で起こったと告げていたから。

「……落ち着くんじゃ。“怖くない”」
陸奥はあえて低い声で言った。自分たちは一般人でなければならない。駆け出してしまっては終わりだ。
静かで、緻密な計算が、彼女の鍛え抜かれた脳を駆け巡る。共にあるのは剃刀副官の名にふさわしく、熱を異常なまでに落とした冷静だ。
その狭間に。


「そう、怖くないの。何にもね」


花に蝶が止まるように、彼女は音もなく下りてきた。
全身を覆う黒い忍び装束、口元も隠されているが、薄紫色の髪は薄闇の中でもよく目立つ。

「え、?」
陸奥の喉から思わず声が漏れた。さすがに目の前で起きた出来事が信じられなかった。
声に聞き覚えはない。会うのも初めてだが、百鬼夜行のような世界に生きてきて、その顔を知らぬはずもない。


「天井裏にいた未熟者はオシオキしておいたわ」


だから、ここからは私たちの時間。

そう片目をつぶった女の、なんという不敵さよ。

「……御庭番の、猿飛あやめ」
自分のものとは思えない掠れた声で、ようやく陸奥は彼女の名を呼んだ。





数多の囚人の命を飲み込んできた牢は、一階奥部分をえぐり取られた無残な姿となって、そこにあった。崩れてはいない。いつ崩れてもおかしくない半壊状態だが、原型は留めている。
ここに沖田総悟がいれば、首をかしげただろう。彼らが仕掛けた爆弾は、牢全体を炎上させる破壊力があったはずだから。

一階の最奥。それは同時に、最も執拗に破壊された場所でもある。
人の頭ほどある石が散乱し、建物全体の腐臭を凝縮した瓦礫が積もっている。まさしく、死の掃き溜めと呼ぶにふさわしい惨状だった。
その中で、死神にも嫌われた囚人がうごめいた。

「……間違いなく、沖田だろうな」
爆破の衝撃で鉄格子に磔状態になっていた桂がうんざりと言う。どこか着物を挟んだのか、なかなか下りられない。
「俺が言うのもなんだが、あいつの末路はロクなもんじゃねえよ」
そうため息をつく高杉も、悪臭の塊である瓦礫をもろにかぶり、顔中を石灰で汚している。

「というか、テメーら一言くらい礼とかないのかよ。俺達が爆弾の大半を解除して、火が出ねえように細工して、この岩をたたき斬ってなきゃ今頃綺麗にあの世行だぜ」
「全くでござる」

二人の前に立ち、満身創痍となった全蔵と万斉が憮然とした面持ちで言う。
身動きをしようともがく高杉と桂は、当然のように固く縛られたままで、現状は芋虫程度の動きがせいぜいだ。
いくら爆発の威力が抑えられていたとしても、二人だけでは何かしらの岩に頭を潰されて死んでいただろう。

しかし、世界に刃向う反乱分子たる人間には、自分の危機に肝を冷やす神経は残っていない。

「あァ?むしろ万斉、テメー、遅ェんだよ。どこほっつき歩いてやがった」
ミシ、と万斉の手が鳴った。絶対に船へ戻ったらシメる、返り討ちにあっても構わないと決意を新たにしながら、縄をほどいていく。
「こら高杉。貴様の好き勝手に振り回される部下の気持ちを思いやらなければならん」
そこに、桂が更に油を注ぐ。
「そもそも、テメェが俺の隠れ家に飛び込んできたのが事の発端だろうが」
「始まる時は、物事は一気に始まるものだ。俺だけのせいではあるまい。ところで、服部全蔵殿、」
「……なんだよ」
「これも何かの縁だ。素晴らしい腕だった。俺と攘夷を成し遂げないか?」
全蔵と万斉のため息が、再び埃を震わせた。



「なるほど、白夜叉を囮にするとは考えたな。―――予想が外れたな、高杉」
暗闇が続く間に牢を脱出し、付近の繁みに身を隠す間に事のいきさつを把握した桂が薄笑いを浮かべて言う。
「……うるせェ、」
問われた方は目を合わさない。その瞳にゆっくりと底が見えないほど深く、それでいて澄んだ湖のような得体のしれない色が浮かんでいく。

(こいつら、本当にロクなもんじゃねえな……)
それを見た全蔵は心の底から思った。確かに侍であるのに、一切の清廉さがない。
説明を終えたのは「坂田銀時に頼まれて助けに来た」という一点だけだ。桂はすぐに怒声と乱闘の気配が続く正門の方角に目をやり、そう言ったのだ。
白夜叉の姿が見えたはずもない。同時に、白夜叉であるとすれば、その苦悩も察したはずであるのに、すぐに次の策を練り始めている。まさしく戦いに慣れきっている人間の姿だ。

「今は御庭番の猿飛殿に、陸奥殿と来島を迎えに行ってもらっている。ひとまず、手薄になっている裏口で合流するのが肝要かと」
「不思議な組み合わせだな。して、その後は?」
桂が続ける。万斉は苦々しい顔になる。
「……坂本殿がその後は任せろ、と」
「うむ。不安極まりない」
あいつはこちらが考えもつかない無茶ばかりすると、自分のことを全て棚上げにして話し出した桂を無視して、全蔵は立ち上がった。

「俺はこれから、正門の援護に回るからよ。先に行くぜ」

いや、立ち上がりかけようとしたが、壮絶な殺気に縫いとめられて中腰のまま固まった。
「待てよ」
これまで無言を貫いていた高杉だ。
一切の感情が読めない深淵が、じっとこちらを見ている。値踏みするというよりは、真意を咀嚼し、毒が含まれていたら即座に喉を掻き切るといった風情だった。
「解せねえなァ。テメーら御庭番から見れば、俺達は厄介な敵のはずだろう」
発せられるのは、刀を持つどころか走るのもやっとの有様でありながら、魔王さながらの威圧感。
全蔵は自分でも驚くほど高揚を覚えた。―――これが、高杉晋助。
あの敗戦を越え、白夜叉と対等に傷つけ合える者。

(面白え)

「忍が金銭によって主を変えるのは有名だが、あの馬鹿は無縁だろう。何が目的だ?……俺ァ、忍は信頼しねェことにしてるんだ」
確かに、鬼兵隊壊滅に一役買ったのは、忍だったと全蔵は思い出す。他人事のように。

自分は猫だ。侍が最も嫌悪する生き様だけが、その矜持。
それでも、多少は大事なものがあるんだよ。

「さっき話にでた猿飛っていう女がいるだろ?あいつが坂田と取引したんだよ」
「なるほど」
いつのまにか相槌を打つ相手が桂に変わった。その眼は、内容を言えと語っている。
「断じて、断じて、俺じゃねえからな。……礼として、あの野郎に、性的に虐められたいそうだ」

全てをひっくり返してもこの理由しかないとは、自分もやきが回った。全蔵は顔に出さず、静かに疲労を味わう。

予想に反して高杉は笑わなかった。より一層の真顔になり、「テメェは」と続ける。
「……あのバカには、昔から弱いんだよ」

その言葉を聞いた時の二人をどのように言えばいいのか、分からない。
不意に、これまでの不穏が嘘のように、酷く優しい顔になる。慈しむような、懐かしいものを眺めるような、それを含めて憐れむような。

「あァ、分かったよ」

春風のように、柔らかい声。

「物好きは、信用できるからなァ」
同じ道をゆく、かわいそうな奴だから、と囁くように言われて眩暈がした。
だが、その幻惑のような時は消えるのも早い。



「晋助!!!!」



急を告げる声と同時に、鍛え抜かれた身体の方が反応した。
動けない高杉を抱えた万斉を先頭に、牢とは反対の繁みに飛び込む。
背後では、葉が無残に打ち抜かれ、乾いた音を立てた。全蔵を除く三人は瞬間的に視線を絡め、頷いた。

狙撃。
今の狙撃手は、去り際に全蔵が放った苦無で能力を失ったが、次がいないはずはない。

案の定、すぐさま隊士がかけてくる気配と、銃弾が襲ってきた。
「下手な鉄砲とは、始末の悪い……っ!」
万斉が舌打ちをする。
刀では敵わない。ならばと、こちらが手負いの高杉を決して捨てられないのを見越した上で、傷を負わせる確率を選ぶとは。
しかも、確実にこちらの位置を掴める位置にいる誰かが指令を出している。白夜叉が近藤を狙ったとなれば、沖田や土方という主力はすべて釣れると思ったが、沖田に任せて、先にこちらの始末に回ったのだ。
「鬼の副長、嫌な奴でござる……!」
「落ち着け、万斉。裏を返せば、こっちに来ている連中に手練れはいねェし、土方が指示を出すまでに動きを読むことも出来ねェだろう。動いてかく乱するぜ。―――ヅラ」
「桂だ。殿は俺が行く。恐らく、細かい移動を繰り返せば、奴に目的を読まれる。直線コース、土蔵を抜けた先の繁みまで抜くぞ」
「万斉!」

指示が飛ぶ前に、万斉は走り出していた。
癪だが、流れる水のように留まることなく進む彼らの指揮に従え、と本能が告げている。
影のように桂が続く。飛び出した繁みからも外れたところに着弾したのを感じ、完全に虚を突いたことを悟る。



そう。客観的に、追い詰めていた土方から見てもなお、その作戦は正しかった。
土方の指示を聞き違えた別働隊が、進路を直接狙える位置に立っているという偶然がなければ。



繁みに飛び込んだ高杉が見た光景は、偶然の名前を借りた、絶望だった。
桂が丁度あの蔵の前を横切ろうと―――何も知らぬまま横切ろうと!―――したまさにその時に、混乱を極めた別働隊が放った流れ弾が降り注ぐなど。

「事態が悪くなるのは、いつもだた一つの偶然からだ」
そう言ったのは、桂だったか、久坂だったか。顔も思い出せなくなりつつある仲間かもしれない。
高杉がその追憶とも呼べないような惑いに気を取られたのは、本当にわずかの間だった。


だがその間に、狙撃され、次弾の気配を感じた桂は、修羅場をくぐり抜けた侍としては当然の決断を下す。
周囲に身を隠すものはない。恐らく繁みに飛び込むまでには、下手な鉄砲と言えどすべてはかわしきれない。
ならば。


そして。
“先ほどは確かに閉じられていた”土蔵の入り口はわずかに開いていた。
呼び水のように。



「……入るなァ!桂!!」



それを見た高杉は絶叫した。全ての糸が、一気につながった。
全身の血が沸騰したように、目の前が暗くなった。声を限りに叫んだが、既に桂の背は、蔵の中に消えている。


「桂……!!」


入ってはいけない。
そこには、「先生」がいる!