師の少し強引な手が好きだった。
尻ごみする自分の右手を包み込んだ温かで、鍛えられた手が、本当に全てだったから。



七  段 




猿飛あやめもまた強引だった。
忍びとしてはありえない無謀さで間合いに躊躇なく入りこみ、無理やりに手をとって歩き出した。手の持ち主の長髪は、淡い紫という色合いなのに、どこか思い出のそれに似ている。その強引さが懐かしくてなんとなく抵抗できなかった銀時は、されるがままに歩きながら、ぼんやりと屯所の攻略法に思考を移すが、それすら思考のうわべを撫でるもので、奥底ではただ一つのことを見つめているのだった。

自分は何を求め、何を失うことを覚悟したのだろう。考えるほど、こんな時なのに不思議に笑えてくる。
―――報復、真撰組、そして高杉。この繋がらない関係に、覚悟なぞ存在していたのだろうか、と。

自嘲的な答えが導かれる時間はなかった。子どもが遊ぶような軽快な音で、何かの金属が外され、見慣れた引き戸を乱暴に開かれたと思うと、間髪を入れずに引き戸の奥の闇に突き飛ばされる。
「外で待ってるわ」とあやめが言った。




不意に喉の渇きを覚え、目を覚ましたのは全くの偶然だった。
目覚めてしまったお登勢は寝床の中で小さな葛藤をした。台所まで行き冷たい水を飲みたいが、このまま眠ってしまえるのならば眠りに身を委ねたい。

ああ面倒だ。そう思いながら嫌々台所に目を向ける。
―――その対角線上。何層にも分かれた薄闇が折り重なる狭間。見開かれた紅の瞳と目が合った。


「銀時……かい?」
咄嗟には身体が動かず、お登勢は言葉だけを返す。そして、ぽかんと夜に浮かんだ双眸の微かな揺らめきを見た。
(いつか見た、嫌な目じゃないかい)
それは何かを永遠に諦める寸前の目だった。最後の助けに手を伸ばそうか迷っている目でもあった。

お登勢は身体を起こし、寝床の上で姿勢を正す。
「おいで。銀時」
柔らかく己の膝上を叩くと、一瞬の長い静寂の後、飛び込む勢いで腕が腰にすがりついてくる。
膝に埋もれた銀髪は暗闇の中でもはっきりと分かるほど、小刻みに震えていた。

天邪鬼な性格を写し取ったように聞き分けのない髪に、ゆっくりと手を差し入れる。わしゃわしゃとかき混ぜてやると、わずかに身じろぎが返ってきたが、顔は見えない。
「なんだい。嫌な夢でも見たのかい」
「………夢じゃねえ」
今にも消え入りそうな掠れ声で、銀時は呟いた。
「じゃあ幽霊にでも」
その言葉を終わる前に、縋りつく身体が静電気に遭った時のようにびくりと震え、腰に回されていた手に一層の力が篭る。気遣いが消え、痛いほどの力がだったが、お登勢は黙って髪を撫でる。
ようやく銀時は苦い声を吐き出すまで、長い逡巡があった。
「ババァ。……聞いてもいいか?」
「いいよ。何だい?」
「………聞いたら傷つける。アンタを」
自分がお登勢にとって残酷なことを聞いてしまうと自覚していた。
しかし、どうしても顔を埋めた温かい身体から離れられない。
「馬鹿だねぇ。アンタみたいな若造が私を傷つけるなんざ、10年早いよ。ほら、吐き出しちまいな」
「………もしも、だぜ。もしも………旦那が戻って来てよ、一緒にいてぇって言われたら、どうする」

暗闇で、泣きそうに歪んだ顔と、穏やかな苦笑がぶつかった。

「困っちまうねぇ。案外、呆然と見てて『馬鹿になったか』なんて言われちまうかもしれないよ」
「……嬉しくねぇの?」
話せば話すほど、自分は恩人を傷つけている。いくらお登勢が平気な顔でいても、必ず。
「嬉しいに決まってるさ。……もう一度、辰五郎に会いたいと何度思ったか知れない。幽霊だろうがなんだろうが、私は一緒にいるよ。でもね、アイツも私も天邪鬼だからさ、素直に信じられない部分も出てくるのさ。私はね、銀時、辰五郎は未練を残さずに逝ったと思ってるんだよ」
「何でだよ!旦那には、アンタとの時間があったじゃねぇか……!!」
「きっと残念には思ってくれてると思うよ。もっと私とどうでもいいような日々を過ごしたかった、ってね。私もそうさ。だけどね、未練ってのは、ああすればよかったとかいう死んだ時の後悔だろう? 次郎長には絶対言うんじゃないよ、辰五郎は戦場で大事なモンを護った、アイツはその選択を後悔なんざしない。参ったとは思っただろうけどね、アイツは人生をやり遂げたんだ。私はそう思ってる」
銀時は言葉が継げない。
―――だから、戻ってきたらどうしたのかって思っちまう部分もあるんだよ。アイツは、私や次郎長を待ちながら、今も十手と煙管片手にどこかをぶらついてる気がするからねェ」


師はどうだっただろうか。あの誰に対しても優しいまま、己の死を受け入れた男は。
怖かっただろう、悔しかっただろう、独りこの世から追われる虚しさを抱え、生きる術を考えただろう。
「…………ああ、」
嘆息と共に、銀時は固く目を閉じる。この世の全てから目を背けるように。
「……知ってたんだよ」
未練を残しているのは、自分達だと。何よりも彼の幸福を望んでいながら、未練なき死だけは受け入れられなかった、愚かな生徒達。
短すぎる人生を生き抜いた清廉な背中が哀しくて、師の弱さを含めて抱え込めるほど成長していなかった己が不甲斐なくて、―――彼の意志に反してでも帰ってきてほしかった。
「………アイツは、帰ってなんて来ねえってことくらいよォっ……!!」
飲み込んだ負の情念が全て湧き出た声を発し、銀時は体を丸めて震える。
慌ててお登勢がその顔を覗き込んでも、黄昏のような暗い色に揺れている双眸と目が合うだけだ。
「銀時!!いいから泣いちまいな!」
「無理だ。もう残ってねえ」
そこだけ妙にはっきりと言う声の硬さが、お登勢を焦らせる。このままにしてはいけない。今の状態で出て行ったならば、恐らくこの男は永遠に帰って来ない。
「大丈夫だよ。大丈夫。……いいかい、銀時。まず深呼吸をするんだ」
惰性的に銀髪が揺れ、背中が数回上下したのを確かめてから、お登勢は続ける。
「次はね。失ったものじゃなくて、もらったもんを思い浮かべるんだよ。例えばね―――
銀時は半分ほど空いた口を閉じもせず、食い入るようにお登勢の語りに聞き入った。


初めて聞く娘のように柔らかく朗らかな声の中、自然と目を閉じたまぶたの裏に一人の男が浮かび上がる。約束の男。辰五郎。銀時は語り手と共にその夢に触れる。

男の後姿が突然振り返り、心臓が跳ね上がる。思いを告げられた時の甘い動揺と熱。幾度も言い合いをした味噌汁の味を、手をつないで走り回った夜の冷たさを感じた。抱きしめられた力強ささえ、共有してしまった気がした。

その瞬間、銀時は理解した。嵐のように、雷電のように、強烈に。



―――失われたものと与えられたものは、全く同じものなのだ。



「……全部だ」
考えるより先に言葉が出てきた。
「生きる意味、家、感情、故郷、自然の見方、刀の使い方、馬鹿な遊び、料理の味、字、学、楽器、行事、全て、くれた」
惜しみなく、なんでもないことのように。見ていると独りが馬鹿馬鹿しくなるような笑顔とともに。

彼は、居場所をくれた。その場所に生きるルール、楽しさを教えてくれた。
そして―――

「周りは人で溢れてた。こんな俺でも受け入れてくれる変わり者の馬鹿ばかり溢れて、眩しくて、」
「そうかい。素敵じゃないか」
お登勢はゆるゆると銀時の背をさする。
それに応えるように顔を上げた銀時は、今日始めてニヤりと見飽きた笑いを浮かべた。
「素敵なモンかよ。ヅラの説教癖、電波っぷりなんざ昔からだし、高杉の野郎はいちいち突っかかってくる意地悪なガキだったし、どいつもこいつも好き勝手やってる馬鹿ばっかりだった」
「それも縁って奴さ」
「……今でも何考えてんのか分からねえし、ろくでもない連中だと思ってる。―――でも、大事だ」


(置いていけ。ここで見つかればどうなるかくれぇ分かるだろう)

あの時、次第に狭まる包囲網の中、高杉は自分を睨んでそう言った。「見捨てるわけねえだろ」と返したが、心の底では日常に戻れなくなることが嫌でたまらなかった。
聡明な高杉は分かっていたのだ。俺が自分を助けようとするのは、独りで報復の旅路に戻れない鬼のなりそこないが、道連れを手放したくないだけだと。だから、拒絶したのだ。かつて、白夜叉が戦場を去った時のように容赦なく、冷淡に。

高杉の隻眼はこんな時だけ美しく澄み切って、友と己を秤にかけた惰弱者を無言で蔑んだ。

(迷いのあるテメェなんざ足手まといなんだよ。―――じゃあな。銀時)

知っている。
あの清涼で澄み切った瞳は、見下げ果てた者の情報を削除している途中にしか現れないことも。突き飛ばした手にこめられた力は、これ以上ない本気であったことも。


それでも。何度裏切り、見捨て、蔑まれ、永久に許されなかったとしても。


「大事だ。失くせない」

自分を受け入れ、護り護られることを最初に教えてくれた、一生の恩がある。

報復の計算は止まず、怨嗟も消えない。いつだって戦場は恐ろしく、今を何より愛している。心はバラバラだ。だが、それらをつなぎ合わせる思いがある。自分は、彼らが大切なのだ。


「それでこそ銀時じゃ」

割り込んできた声に弾かれたように振り向くと、いつのまにか坂本が襖に寄りかかって笑っている。相変わらず無駄なところで気配を消すのがうまい野郎だ、と銀時は顔を歪めた。
慌ててお登勢から離れたものの、みっともない姿を見られてしまった事実は消えようがない。
「さ、坂本君……君はいつからここに?」
「別に最初からいたわけじゃないぜよー。丁度、おんしがヅラと晋助に熱烈な告白をしちゅう辺りに」
「してねェェェ!!!ろくでもないことを再確認してただけだからね!大事だとか場の空気読んだだけだからね!」
「わかっちょるわかっちょる。素直にお登勢さんに甘えるおんしも可愛いのー。安心したぜよ」
「ばっ……!!」
「そこのモジャ2。もめるのはいいけど一体いつまで女の寝室で馬鹿騒ぎする気だい?」
銀時が声を荒げる前に、お登勢の冷静な声が割り込んだ。
今度は坂本も居住まいを正し、丁寧に頭を下げる。

「いや夜分にお邪魔しちょります。この馬鹿を止めてもろーてありがとうございました」
ここに来るまで人生で一番冷や冷やしちょりました。
そう言った坂本は、白い天然パーマの中心に拳を落としてから声を低めた。
「ただのー、すぐ二者択一で考えるのはおんしの悪い癖じゃ。いろんな場所でちくっとずつ妥協して、今の生活と馬鹿どもの救出を両立できるように、ココを使うんじゃ」
トントンと己の眉間を叩き、ニヤりと笑う。それが昔、苦戦する戦線に出陣する前に見せたものにやたらと似ていて、こんな場合だというのに銀時は奇妙な安心感を覚えた。

「それでですのー、お登勢さんにちくっと作ってもらいたいもんがあるんじゃが」
お登勢は既に立ち上がり、鏡台に立てかけていた藍染の羽織に袖を通している。
「いいさ。もう目が冴えちまったからね。なんでも作ってやるよ」



◆ ◇ ◆



防弾ガラスに囲まれた一畳ばかりの小部屋だった。中央の真新しいパイプ椅子の正面には、防弾ガラスを挟んで尋問者が三人、これまた新品の長いすにくつろいでいる。
男の一人は湯気の立つ濃いコーヒーを啜り、右隣の男も時たま欠伸をかみ殺す仕草を見せる。日頃は夜中に活動などしない者の仕草に、いい気なものだと土方は苦い気分を飲み下す。

土方は椅子に拘束された囚人の隣に抜刀した状態で立っていた。部下は全て向こうの部屋の護衛と外の警備だ。身動きできない者に刀を突きつけるのはいい気分ではなかったが、甘い警備体制の穴を埋めるためには仕方がない。

高杉と桂の手前顔には出さなかったが、真撰組に余剰な人員は残されていない。桂に負傷させられた者の多くは入院中であり、幕臣の護衛に駆り出されていた者たちの休息も必要だ。
その状態を知ってか知らずか、真夜中に突如取り調べの命令を出すなど、喧嘩を売っているとしか思えず、そしてその命令も解せない。松平の上官、幕府の監察方から直々の命など前例がない。

しかし当の囚人は、男達を無感動に眺めて溜息をついた。
「まさか再び貴様らと"交渉"の場に在ろうとはな。人生は分からんものだ」
それはわだかまるような暗い声で、横顔には、鬱屈とした笑みの切れ端が浮かんでいる。
「己の立場を弁えたまえ。君には何一つ有益な武器はない。尋問され、情報を吐き出すのみだ」
中央の酷く肥えた役人が言った。松平の上役に相当するなんとか調査役という名誉職の男だ。
(何故、こいつなんだ……?)
土方は不審を表情には乗せず、囚人を盗み見たが、特段の変化はない。
逆に目が合ってしまい、その仄暗い双眸に吸い込まれそうになって慌てて目をそらす羽目になる。
「いいだろう。試してみればいい。俺は二度と貴様らになど従わないがな」
その桂が面白くもなさそうに付け加え、尋問が始まった。


「まず、―――以上の六名の殺害に関与しているな」
「関与している」
「関与の度合いは。殺害、幇助、情報提供で答えよ」
「フン、そんなことも調べられていないのか?」
「土方」
揶揄に苛立った役人に指示され、土方は囚人の太腿を浅く斬った。桂が少し顔を歪めた。

「正確に答えろ。言葉遊びをする暇はない」
「情報収集は簡単だった。貴様らの同僚に聞いたからな」
左右の役人に動揺が走るが、調査役が留める。この程度の揺さぶりで綻ぶとは、と土方が蔑んでいる間に桂は言った。
「情報を集め、必要のない者を片付けた、というところだな」
「何故?殺した者の共通点はなんだ」
桂の目がほんの少し見開かれ、すぐに薄く歪んだ。それが嘲りであると全員が分かり、土方は桂の頬を斬らされたが口舌は止まない。
「貴様らの方こそ言葉遊びが過ぎるな。本当は知っているだろう?」
切れ長の目を細め、相手を睨め付ける。一息で止めを刺そうと狙いを定める正確さで。
「知り合いの男が言っていた。『隠密なんざ、人間の屑だ』と。俺もそう思い、屑の代表格を片付けてみたのさ」
「何故、奴らが代表格なのだ?」
左の男が、不思議そうに零した。桂の目が光り、土方は呆れた表情を作らないように苦心する羽目になる。明らかに殺害した者達の損失の程度を測っているのに、無知をさらけ出すとは。

「……そうか」
だが、土方の予想に反して動揺したのは桂の方だった。初めて声が震え、肩から力が抜ける。
「そういうものか」
その肩にへばりつく途方もない地獄が、強烈に土方の脳髄を揺さぶる。土方は一瞬同情しかけた自分を自覚し、慌てて手のひらに爪を立てた。

この男は危険だ。普通の人間ならばとうの昔に潰されている苦悩を飼いならし、放出している。

だがそれは、すぐにとは言えないが緩慢に過ぎ去り、ゆるゆるとあの深淵に取って代わった。
そして紺碧の闇だけが瞳に残り、桂の表情から他の全ての感情が消える。
「ならば俺は教えない。だが、調べればすぐに理由が分かる。例えば、貴様らの部署には知らされていない命令があるかもしれんぞ」
その能面の裏で、桂の心は泣いた。
恐らく目の前の男達は、永遠に事件の真相を知ることはない。男達にとって師を初めとする侍の犠牲はどうでもいいことであり、多大な労力を払って調べるには値しないだろうから。

(―――だが、俺達は命を賭けた)
大切に抱えたものは、戦火に溶けて消え去った。

桂は眼球に力を篭め、乾いた下唇を強く噛む。痛みを通じ、仲間の血と骨を、夢に見るほど聞いた友の断末魔を思い出す。この程度で焔は消えない。
「俺からも一つ聞こう」
武器ならある。高杉という危険で、脆い武器が。

男達の目的はすぐに分かった。狙われる対象と自分が誰かに指示を出していないか調べることで間違いない。問題は多くの幕吏が怯えている中で、こいつらだけが探りを入れに来たのかということだ。殺されたくないだけならば、自分に印象を残す利点はない。つまり、他にも目的がある。
全てはここに繋がっている。確証は一つもないが、嗅覚が告げている。だからこそ賭ける。

桂は不遜に嗤う。瞳に悲しみの残骸を浮かべたまま、血に飢える物の怪のような顔で。




「いきなり斬りつけろはないな。俺の友人でも最低基準の奴と同程度の気の短さだ」
「うるせぇよ。テメェが挑発したからだろうが。……ったく、なんで俺がこんな目に」

数分後、土方は太腿から血を流す桂を引き摺りながら溜息をついていた。無論、その傷は自分が斬ったものである。
効果は劇的だった。「高杉を連れて行ったのは貴様らだろう?」。三人が綺麗にぎょっとした顔をそろえ、桂ではなく土方に目を向けたのだ。
「そう言うな。貴様にとっても、なかなかいい情報だったと思うが」
涼しい顔で笑う桂を、土方は複雑な心境で見ている。
あの反応から推測するに、自分達に知られたくない情報だったと思う。それは、ここ最近の不明瞭な命令の数々を解きほぐす鍵となるだろう。だが自分達が道化のような不快感は拭えない。
「調べろ、と言いてぇのか」
「察しがいいな。無論、教えてもらおうなどとは思っていない。ただ、貴様らが振り回されている根本くらいは分かるかもしれんぞ?」
桂は少し楽しそうだった。そして、忘れていたことを付け足すさりげなさで、追い討ちをかける。
「不思議だと思っているだろう。あの屑どもに囚われた高杉は厳重に拘束され、恐らく拷問されたはずだ。なのに奴は逃げ出した。ここまでならば、協力者がいたと仮定すれば辻褄は通るが、何故、再び貴様らに囚われたのか。分かるか?」
「………分からねぇ」

考え込んだ土方を横目に、桂は頭の中だけで答えを呟いた。
奴は己の意思で戻ってきたのだ。処刑台に等しいこの場所へ、弱り衰えた足を引き摺って。

理由を問うても、無駄に頑固な高杉が口を割るとは思えない。
土方が動けば、恐らく後ろ暗いことをしている役人どもは慌てて動きを早めるだろう。
そこが勝負だ。

「フッ」
「何だよ」
桂の苦笑に土方が問う。
「いや、切るに切られぬと思っただけさ」

昔から彼が勝機を見出せぬ時、それを掘り起こすのは自分の役目だった。
そんなことを懐かしく思い出したのが妙におかしかった。



◆ ◇ ◆



電波は遮断されたら終わり、デジタルも壊れたら終わり、最後に役立つのは自分の手で書きとめられるメモだというのが、陸奥の持論だった。以前酒の席で聞いた気がする持論が本領を発揮する様を、また子は半分呆然として見ている。

二人の筆談は半刻以上続いていた。器用な陸奥は口では、翌日の業務内容やらセミナーのスケジュールやらを話し、それを確認させる仕草で危険な言葉を書き連ねていく。
よくもここまで大嘘を貫き通せるものだとまた子は密かに感心し、晋助様と気が合うわけだと一番危険な感想を持った。

『恐らく高杉も桂も、この屯所に捕まった』
陸奥のスケジュール帳の余白に書かれた文字に、五臓六腑を貫かれた気がする。
屯所の状況から覚悟はしていたものの、また子は唇を噛み、下を向いてなんとか悲鳴を堪えた。そうしなければ、全ての努力が無駄になる上、彼の足手まといなりかねない。

二人の立場はまさに薄氷一枚に乗って真冬の海に立っているような、不安定極まりない立場だ。
ターミナルで沖田と会い、ナンパという猿芝居に乗って艦内の洗い出しは逃れたが、結果として敵の懐に飛び込む羽目になった。そして周囲から孤立させ、かつ屯所内部に攻撃はしかけにくい離れに通した段階で土方も沖田の意図と通じたと思って間違いない。その上で声が聞こえる範囲に見張りを二人もつけている。

『次の手は』
また子も震える手を叱咤して、簡潔にペンを動かした。
今すぐにでも牢に殴りこみたいが、そんなことをしても自分も捕まるだけで、更に自分の正体が割れれば快援隊も無事ではすまない。陸奥は数分前にそれが沖田の狙いだ、と憎憎しげに書いた。
『とにかくこちらの脱出を優先。今夜は沖田も来ない。明日の朝には、学生には次の予定がある、インターン先が邪魔をするのは契約違反だとでも言って出る』
陸奥は天井裏から紙が読み取れないように慎重に灯りを直す。
『晋助様は』
『頭の運転で無事なら、万斉も地球に来ているはず。恐らく、頭は坂田に会いに行った。打つ手はある』
『坂田銀時が、晋助様を助けるために?』
『正直未知数だが、わしは動くと思う。勘だがの。動かずとも桂もいるのだから騒ぎぐらいは起こすだろう。高杉はその間におまんが助けてしまえばいい』
危険な計算の数々を疲労しながら、陸奥は目尻を下げて小さくウィンクを寄越した。
また子もまた薄っすらと笑みを浮かべる。焦りや絶望が消えて、自分の身がゆっくりと冷やされていくのが分かった。


夜中に二度、屯所は騒ぎになった。一度は「何だろう」と何気なさを装って見たところ、引き立てられる桂の背中を見た。二度目の直前には沖田がやってきて夜食と酒を置き、大事な仕事で飲めなくなったと白々しく手を合わせたので、同様の規模感の二度目の騒ぎは立ち上がらなかったが、桂と同等の警戒規模を必要とする者など高杉しかありえない。
また子は拳を握る。確かに状況は最悪だと思う。彼が捕まったということは、動けないほどの傷を負った以外には考えられない。その上、自分にとってはどうでもいいが同じタイミングで桂も捕まったとなると、真撰組だけでなく幕府も―――最悪天導衆すら、取調べ・警備に関わってくるだろう。考えたくはないが、攘夷派の2大派閥のトップが揃って生きながらえる理由はない。対する鬼兵隊も快援隊も、恐らく桂の手勢も見事に分断されていて、連絡すらまともに取れない。

―――だが、この程度で諦めるために、彼についてきたわけじゃない。

自分は怪我もなく、銃も隠し持っている。頭脳戦は無理だが、優しい友が手伝ってくれると言っている。万斉も頭はおかしいが、腕は立つ。
これだけの条件が揃っていて、勝てない自分達であってはならないのだ。

『問題は、二人が無事な期間じゃ。わしならば、詳しく取り調べるまで殺しはしないから、時間はあると思う。変な挑発をしていないといいが』
『晋助様も、桂も慎重だから大丈夫だとは思うけど』

そこまで書いた時、襖から一通の手紙が差し込まれた。陸奥とまた子は同時に動きを止める。
だが、誰も入ってくる気配はない。また子が自分でも情けないほど恐る恐る開くと、男の典型的な悪筆が並んでいた。

『夜中なんで手紙で失礼します。俺から誘ったのに、宴会できずにすみません。明日は予定もあるでしょうから、朝食後にお送りします。七時に朝食もって伺います。おやすみなさい。 沖田』

覗き込んでいた陸奥は、手紙を破り捨てたい衝動と戦い、やっとのことで筆談に続きを書いた。

『向こうも茶番は限界と踏んで、わしらを泳がすつもりじゃ。どちらにしろ決戦は明日じゃな』





眠っているかと思いきや、桂が牢に戻され、土方がいなくなると、いつのまにか高杉が桂に視線を注いでいた。表情はよくぞここまで無表情に徹したと思うほど能面のようだったが、見開いた隻眼は、対象のわずかな心の動きも見逃すまいと慎重に距離を窺っている。
(貴様を連れて行った連中だったぞ)
桂は先手を打って、唇の動きだけで要点を伝えた。
「……っ」
その効果も劇的で、高杉の表情が見事に崩れ、何か恐ろしいものを見たかのように歪んだ。高杉の中で目まぐるしく計算が動き出す。全て殺したはずだったが、まだ生きていたのか。否、上役は山ほど残っているのかもしれない。そして桂はどこまで知ったのか。
(……何を言われた)
高杉も声を出さずに会話に乗る。
(そのことについては何も。むしろ土方に聞かれたことを気にしていた)
高杉は桂の言葉に安堵の溜息を漏らした。表情にも不自然な部分はなく、そもそもあの所業の一端でも聞いていれば、冷静ではいられないと判断したからだ。

高杉は、桂の激情を恐れていた。自分達の手で師の残滓を葬ってしまった今、会えない者の可能性を知る残酷さを味わわせたくないという思いもあるが、根底の部分では桂のタガまで外れた時の未来が恐ろしいのだ。
―――あの時。高杉と銀時は、敗者としては恐ろしく冷静だった。虚しいほど冷静に、違和感を手繰り寄せ、知りたくもなかった結論を導いた。そして冷静に抑圧された狂騒をぶつけ、二人で研究所を殲滅し、高杉は煙管を、銀時は青い着流しを師の残滓と共に燃やした。

自分達が抱えた怨念は今回の一件で限界を超えている。これ以上行けば、己を失う。その結果の破滅だけならばいいが、あの所業を犯した者達を野放しにして死ねない。―――銀時が彼の優しい世界に帰ったのならばなおさら。だからこそ、桂には揺るがぬ冷徹な杭でいてもらわねばならないのだ。

(まだ話す気にならんか。……状況はかなり悪いぞ)
(どうなった)
高杉は状況把握のために話に乗った。囚われた時は行き当たりばったりだったが、桂という半身に出会ったことで、生き残る算段を始める力だけは取り戻していた。
(真撰組の上役、幕府の監察が出てきた。土方も不審そうな顔をしていたから、状況が読めていないのだろう。その上で、あの報道規制だ。俺達二人の首を取るためにどこまで出てきたか分かるだろう)
(テメーがどんな騒ぎを起こしたかは知らねェが、取調べに来たのは他の目的があるってことか)
十中八九、あの所業を継続するために、こちらの様子を測りにきたのだ。最終的には桂も取り込み、自分達全てを骨抜きにするために、師を冒涜し続ける。脳裏に閃いた解答に、高杉の臓腑は怒りで煮えたぎり、自然と目に憎しみが宿る。

高杉は一度息を吐き、牢内の冷えた空気を取り込み、状況を頭に思い浮かべる。
桂の土方斬りから報道の規制がかかっていたことは知っている。そうでなければテレビのチャンネルを三回まわして、ニュースに行き当たらない理由がない。幕府では報道規制はできない。つまり天導衆の力が入っているのだ。
しかしこれまで出てきた者は、桂、銀時、真撰組、情報屋に接触した真撰組の監察、幕府の研究員に監察方、だけだ。となると、幕府側があの所業を行っており、真撰組を使ってこちらの動きを分断した。その過程に桂がやらかした事件が混ざっていて、天導衆は幕府に恩を売っただけと考えるのが妥当かもしれない。

(貴様の鬼兵隊も宇宙。この分ではターミナルも閉鎖されていよう。俺もエリザベスと連絡を取る前に捕まってしまったのでな。あまりに手が足りない)
(ペンギンオバケに知られたくねぇことをやってたの間違いだろ。だがヅラ、テメーは見たところたいした怪我はねェ。逃げの小太郎の名に偽りがなければ、状況次第で逃げられるだろうよ)
(だが貴様はどうする?)
当たり前のように聞いてくる桂の気遣いが昔から好きではなかった、と高杉は思う。遠く離れながらも、当然のような顔で情けをかける甘さに、どれだけ調子を狂わされてきたか。
(別に俺はどうでもいいだろ。その怪我では走れまい)
そして自分でも情けないが、こういう時にわざと皮肉を言ってしまうのも昔のままだ。続く桂の返答も。
桂は言う。獰猛で残忍な牙を、生真面目な優しさで巧妙に隠して、なんの気負いもなく笑うのだ。
(最後は助けるさ。貴様が死ねば、俺も危ないからな)
―――そういうところが嫌いだ)
(性分だ、諦めろ。で、それを踏まえて、俺達が共にこの茶番から脱出するには武器が必要だ。見たところ貴様には勝算がないようだが、アテはあるのか? まさか奴か?)
奴が誰か分からぬ高杉ではない。ゆっくりとかぶりをふる。
(いいや。あいつは、もうこちらには戻ってくるまいよ。……捨ててやったから、な)

二人の視線が不思議な粘り気を含んで絡まった。
桂には、あれほど執着していた銀時を諦めたのか意味が分かるはずもない。だが、高杉と銀時が何らかの形で接触し、深く絶望する何かがあり、その何かには幕府が関わっていることは分かった。
ならば自分がすべきことは何か。この男が似合わない優しい諦観と、坂本を見送った時に似た穏やかな別れの表情を浮かべている理由も気になるが、この絶望に飲み込まれてはならない。

(分かった、奴はアテにしない。だからこそ情報を教えろ。言いたくないところは言わないでいい)
(……長いぜ。話しながら整理したい)
(かまわん。どうせ敵も動くのは朝だ。俺達二人の策謀を合わせて、この局面引っくり返してやろう)

ようやく頷いた高杉を見ながら、桂は思った。何があったかしらないが、銀時は来るだろう、と。
話を選択しながら、高杉は思った。桂と騒ぎを起こし、その間に奴らの首を噛み切るしかない、と。



◆ ◇ ◆



四肢が布団の中に溶け入り、悪夢すらはね退けるほど強い眠りから銀時が揺り起こされた時、既に暁天は過ぎ去り、店のカウンターには新聞が置かれていた。
「金時、言われた時間が経ったぜよ」
揺り起こしたのは坂本である。
普段は寝汚い銀時だがすぐに目を覚まし、立ち上がる。泥のように眠ったおかげで、疲れと共に余分な感情も消えたようで、どこか清清しかった。
「これ、お登勢さんからじゃ」
「おう」
坂本から差し出された袋の中身を見て、「随分似てるな」と銀時は笑う。しかしすぐには着替えず、頭をかきながら店のカウンターに座る者達の方に足を向けた。

お登勢の店には、坂本、あやめ、全蔵、万斉の全員が揃っていた。一様に固い顔をしている。
夜中にお登勢の厚意によって店を貸し出された時は害が及ぶことを考え固辞したが、真撰組の見張りがいなくなっていたこと及び忍の技術を使えば万斉も目立たず入ってこれると踏み、ありがたく借りたためだ。
正直なところ一度集まって細部を詰めなければならない局面にあり、願ったり叶ったりだった。

銀時はまず、万斉の前に行き、頭を下げた。
「高杉が捕まったのは俺のせいだ。俺は一回あいつを見捨てた。たたっ斬りたい気持ちは分かるけど、今はあいつを助けるために協力してくれ」
万斉の瞳にどのような心がよぎったのかは、サングラスが邪魔をして分からなかったが、その場にいた全員が一刹那洩れ出た殺気に身を固くした。
もっともそれはすぐに過ぎ去り、万斉は固い声で言った。
「貴様を斬れば晋助の危険が増す。協力しよう」

次は元御庭番の二人の番だった。
「最初に約束した報酬じゃ足りねェくらい働かせてるのも、幕府相手じゃ迷惑なのも分かってる。それを曲げて頼む。―――俺は、屯所に捕まった馬鹿が大事だ。追加の報酬とお前らの関与がバレないようにするのを約束するから、手を貸してくれ」
あやめが全蔵を押しのけ、晴れやかな笑顔で言った。
「私は銀さんのためなら何でもやるの。あ、でも追加で、その、デデデデートをごふっ」
お返しとばかりに全蔵が、あやめの顔に肘鉄を食らわせて言った。
「猫は時に危険な場所を歩きたくなるもんさ。あ、でも追加で、俺好みの廃墟みたいな女子10人紹介イデッ」

「で、辰馬は……まぁいいか」
「えええええ!!?」
足を踏む踏まれるの攻防を始めた御庭番二人を放置し、最後に坂本と目を合わせた銀時はにべもなく言い放つ。
「昨日は迷惑かけたけど、よく考えたら昔っから頭カラのテメーの世話してきたなと思ってよ。手伝え」
だが、身もふたもないことを言いながらにやりと目配せをするのは、彼の信頼の証だと知っている。
「おまんのおごりで、飲み放題宴会で付き合うぜよ」
「社長が何言ってんだ」

ごつんと無骨な拳が合わさったのを見計らって、万斉が新聞を銀時に突きつける。

「話がまとまったところで、和やかな時間も終わりでござろう。―――今朝の朝刊でござる」
受取った銀時が一面に目を通した瞬間、その顔が凍りつき、瞳から再び体温が消える。



紙面には喜び勇むかのような字体で、『攘夷浪士高杉・桂捕縛。処刑へ』と書かれていた。