あの日、本当に生き残りたかったのか時々分からなくなる。死にたくないとは思っていた。ああ、もったいない。もっと他のことをしてみたかった、と。その一方で、数え切れないほどの仲間が耐えた末路であるのなら耐えてみせるとも思っていた。どうでもよかったのかもしれない。そして少し安堵していた。もう、彼らが死ぬところを見る可能性がないことに。俺は、目の前であいつらが死ぬくらいだったら、自分が死にたいと思っていたし、別離の予感を得た時も、手が届かないなら今ほど恐ろしくはないと思っていたのだ。そして俺達は生き残り、あっさりと別離した。誰も魂を捨てず、妥協できなかった。それでも縁が切れないことを、認めたくはないが喜んでいた。いくら責められても、同時に許された気もして。―――だが、こんな形で、見捨てる未来を知っていたら、目を潰してでも二度と彼らなど見なかった。 中 一心不乱に殴り書きをする時のように、くだらない言い訳が次から次へと溢れてくる。 それらを白紙に書き付ける筆跡は全て異なり、筆が動く一瞬しか判別できない。先生の流麗な字が死にたくないと書いた。その上に十歳頃の歪な高杉の字が、もっと他のことをしてみたかった、と書き、更に続けて桂の生真面目な字が生死と大きく書いた。 一文字追加されるごとに脳細胞の一塊を食いちぎられるような感覚に襲われ、銀時は腕に爪を食い込ませた。文字は止まない。ろくにひらがなもかけなかった自分の字がどうでもよかった、と墨を血痕のようにたらしながら書き、今現在の字が見捨てたと書く。 見捨てた。見捨てた。見捨てた。見捨てた。見捨てた。 五回以上は数えられない。とても数えられなかった。銀時の喉から声にならない呻きがせり上がり、人形が壊れるかのように肩がずり下がった。 坂本はその隙を見逃さない。素早く銀時の前に出、容赦なく鳩尾に拳を叩き込む。予想もしない至近距離からの一撃に、銀時は呆気なく意識を失った。 「なんとか潰れてくれたようじゃのー」 坂本は、てきぱきと銀時の腕を肩に乗せ、身体を引き上げる。そして土方に向き直り、頭を下げた。 「すまんかったのう、土方君。いや、このバカにはワシがちゃーんと説教ばして、後で頭下げさせるき。ここは勘弁してもらえんかの?」 土方は無遠慮に坂本を眺めた後、軽く肩をすくめて刀を下ろす。 「……おうよ、思う存分頭を下げてもらうぜ。大体、こんな物騒な酔っ払い放置するとか、アンタ何考えてやがったんだ?」 下手な三文芝居並みの演技と分かっているが、土方はこれ以上追及するつもりはない。恐らくここは双方引くしかないからだ。 こちらは、戦力が山崎しかいない上に、一度狙撃の用意を済ませた山崎の発砲を止めた奴がいる。それは坂本に付くだろう。そして自分も、現在の状態で坂本の拳銃とやり合って勝てるとは到底思えない。 同時に坂本も、銀時を問答無用で気絶させた辺り、不測の事態だったのだろう。探れば腹は痛いはずだ。 「ほんにすまん!ついつい、女子がかわゆーて話こんじょったら、金時が一升瓶を空にしていなくなっちょったき」 「ズボラなのは、手続きだけじゃねーんだな」 「土方君」 血まみれの銀時を抱え直し、土方に背を向けながら坂本が言った。 「―――バカどもが、すまん」 顔は見えなかったが、土方はその声音だけで、坂本が何かを懸命に押し殺していることを感じた。 「バカ"ども"って、バカはその白髪だけだろ?」 「ワシもいれてじゃ」 坂本の背中から立ち昇るものは、怯え、憎悪、怒り、安堵、そのどれでもあって、どれでもない。 土方は少し考え、メモに走り書きをした。そのまま、気を失ったままの銀時に近づき、羽織の隙間に紙をねじ込む。 「土方君……?」 「請求書だよ。隊服も俺もボロボロなんでね。万事屋が起きたら見るように言ってくれや」 坂本が視界から消えたのを確認した瞬間、土方はその場に倒れこんだ。肩で息をすると、生ぬるい空気が喉に痛い。 (……生きてる) 桂に斬られた時も恐ろしかった。だが、それは同じ人間に対しての感情だった。 土方の手は震えている。止めようと思っても、あの怖気に凍り付いた神経が言うことを聞かない。剣筋は確かに坂田銀時のものなのに、使い手は人間とは思えなかった。鬼のように強いどころではない。本物の鬼が人間を乗っ取ったとしか言いようがなかった。 「……副長、加勢出来ずにすみません」 闇の中から山崎が駆け寄ってくる。その手にある拳銃の銃口には、苦無が刺さっていた。 「気にするな。―――それに、撃てたとしても意味はなかっただろうよ」 その弾丸が当たろうが、避けようが、あの男は自分を殺しただろう。 「あれは、本当に旦那ですか……?」 ありえない、と山崎は掠れた声を絞り出した。 「あの人、死んでもいいと思ってた……」 「は?」 てっきり化け物じみた刀捌きを言うのかと思っていた土方は、思わず聞き返す。山崎の方が驚いた。 「え、そう思わなかったですか?」 「死なんぞ程遠い刀さばきだったと思うが」 山崎は「見解の相違って奴ですかね」と前置きして言う。 「遠くから見てるとよく分かったんですが、あの時の旦那は異常に視野が狭かったんです」 「視野?」 「正確には周囲に全く気を払ってなかった。普通、戦闘中は目の前の敵だけでなく、前後左右、遠方からの攻撃にも反応するはずですよね」 それは戦う者の本能と言ってもいい。生き残るための最低条件だ。 「あの時の旦那にはそれがなかった。いや、目の前の土方さんすら見ていたのか分からない。あの人は、斬っても自分が死んでもどちらでもよかったんだと思います。実際、旦那は俺に気がついていなかった。こんなことがありえますか?」 土方は眉を寄せて考え込む。視野には気がつかなかったが、確かにあの剣捌きは相手がいるものではなく、舞のように一人で完結する種類のものに思える。 何よりそれが最も奇妙だ。血まみれであったことより、あの坂田銀時が目的なく剣を振るうなどありえない。少なくとも、今まではそうだった。 「……万事屋、何があった……?」 無論、山崎からの返答はない。 土方はそのまま会話を打ち切り、パトカーに足を向ける。迷ったが、山崎には言わなかった。 (あいつは、泣いていた……) 銀時の目じりに涙が浮かび、そして号泣した後のような涙の筋があったことは。 ◆ ◇ ◆ 香に情欲、煙草に酒と、部屋に染み付いた猥雑な匂いの数々が、容赦なく消されていく。おおよそこの世に存在する臭いの中で、血臭と死臭に敵うものはないのだと坂本は思う。意識のない銀時を風呂に放り込み、部屋の隅にあった香炉でむせるほどに香を焚き染めているのに湧き上がるような鉄の臭いが消えないのだ。 多少値段は張るが、脛に傷を持つ者でも受け入れる連れ込みの一室だった。 経験と直感で銀時の状態を把握し、隙を突いて気絶させたが、まさか万事屋に戻すわけにはいかない。それでいて血みどろの状態のまま人目についてもまずい。残された選択肢はないに等しかった。 (どうしたもんかのう……) 連絡がつかないことで嫌な予感はしていたが、まさかここまで取り乱しているとは思わなかった。途中で合流したあやめが、雑踏の中から戦闘音を偶然拾わなければどうなっていたか、神経の太い坂本でもぞっとする。 「びびったか、辰馬ぁ」 「銀時!」 心の声をそのまま言い当てられ、さすがの坂本も肩を反射的に揺らした。いつのまにか銀時が目を開け、無感動にこちらを眺めている。 「起きちょったか……」 「今さっきな。オメーの馬鹿力食らったら、いくら俺でも時間かかんだよ」 「そうさせたのはおんしじゃぞ」 坂本は笑う気になれず、真剣な眼差しで言った。本来の銀時は話の分かる男で、問答無用で気絶させる必要はないのだ。 「……ん、悪かったな」 対して、銀時は素直に頷き、苦笑いを浮かべた。―――正確には、苦笑いに似せた表情を、だが。 よっこらしょ、と起き上がり布団の上に胡坐を組む。肩の力は抜いていても背筋は一本通っている銀時らしい座り方だ。 「正直助かった」 香炉の中でちろちろと燃える炎を見つめながら、銀時は言う。 「オメーが来なかったら、殺してたかもしんねェ……」 「……ワシがいなくてもおんしは殺さんぜよ」 坂本は反射的に言った。銀時は首を振った。お前の嘘は知ってるよ、と目が言っている。 「いや、間違いなく殺してた。そんで今頃はな」 疲労した頬の筋肉が緩み、果てしなく自嘲的な笑みに変わる。ゆっくりと銀時が坂本を覗き込む。 「めでたく鬼の仲間入りさ」 坂本は最後まで聞かず、銀時の頭を引っつかんで枕に押し付けた。 「むごっ!?何しやがんだ!」 文句が聞こえるが、気にしてはいけない。こういう時、銀時に演説を許してはいけない。この馬鹿は、語りながら、己を傷つけていくのだ。あの厄介な三人組全員に共通するがゆえに、坂本は嫌と言うほど学習していた。 「………おんしは斬らんかったぜよ。一旦、眠りや」 手のひらに力をこめて、銀時の視界を塞ぐ。 銀時はしばらくもがいていたが、やがて諦めたのか大人しくなった。 「……俺ぁ、迷いもせず、土方に斬りかかったんだぞ…」 乾いた口元が震えていた。自信なく呟く声は、今まで聞いた中でも最も弱弱しいかもしれない。 「おんしゃが本気なら真剣じゃき」 坂本は低い声で言った。 「……あいつは関係ねぇってのによ……八つ当たりだぞ……」 「わしが謝っといたき。土方君も頭下げれば許してくれるぜよ。―――眠り」 まだ何か言おうとする先を制し、少しだけ手の力を緩めた。 願わくば、手のひらに映る闇に一筋の光が差すように。 徐々に銀時から気力が抜けていくのが分かった。そして次第に呼吸が落ち着いていく。 「今のうちに、眠りや。銀時」 「坂本さん、いいかい?」 銀時が完全に眠ったのを見計らい、襖の外から押し殺した声がした。空気を全く震わせない忍の声だった。 坂本は気配を殺して立ち上がり、外へ出る。すると奥の廊下を越えた右の部屋からひらひらと手が振られている。 先に待っていたのは、全蔵である。一度同僚と共に坂本・万斉と合流し、集合場所を決めてから単独行動に移っていたのだ。 あやめと坂本は銀時を探す役、万斉は鬼兵隊本船との連絡役、そして全蔵は再び例の施設に戻った。万斉は自分も同行すると主張したが、さすがに名に聞こえた人斬りとはいえ、忍に関しては素人を連れてあの警備を突破できる自信はなく遠慮してもらったのだった。 だが――― 「さすがに俺も判断ミスを悔いたね。あの光景は一人では見たかなかったぜ」 警備どころか、建物全体が燃え盛り、一目で生存者はいないと分かる光景は。 「一応言っておくが、中も見たんだぜ。あの施設の役人どものグロい死体まで見たが、あの二人はいなかった」 坂本は考え込んだ。 状況から考えて銀時と高杉が下手人であることは間違いがないと思う。 だが、現在の生活を何より愛する彼をそこまで駆り立てたものは何なのか。そして何故高杉はいないのか。 「それにしても、奴らは度を超えてやがんな。あの短時間で制圧した挙句、誰にも刀を抜かせなかった。しかもアレが……」 そこで全蔵は言葉を切った。その先を話していいのか、迷った。 あの時の二人の反応は尋常ではなかった。恐らくあの人が「師匠」であろうと全蔵は直感している。それならば勝手にその事実を坂本に告げるのは、銀時の魂を土足で踏みにじることになりはしないか。しかし、黙っていても状況は悪くなるばかりなのだ。 「……坂本さん、アンタ、坂田の野郎と仲いいか?」 我ながら単純な問いかけだと思ったが、全蔵は真剣だった。 その全てを見透かそうとする視線を正面から受け止め、坂本は断言する。 「わしは、銀時とも高杉とも、仲間じゃき」 瞬時、二人は睨み合う。 全蔵は再び己の直感を信じた。―――自分の手には負えない。この男が知らなければ。 「……頼むから落ち着いて聞いてくれ」 全てを聞いた坂本は文字通り絶句した。 口の中が全て乾いた。ありえないどころではない。 「………銀時っ!!!」 坂本は座布団を蹴り上げて立ち上がった。そのまま銀時の部屋に踊りこむ。 銀時は取り乱していたのではなかった。既に、失っていたのだ。それを驚異的な精神力で抑えても尚、ああだったのだ。 「おらん……」 嫌な予感は当たり、布団はもぬけの殻だった。開け放された窓から入り込んだ風が、坂本の髪を揺らす。 普段の着流しは置いてあったが、ブーツと刀は消えていた。 坂本は刀を隠さなかった己を悔いた。 あの二人がそのような冒涜を許すはずがない。ならば、高杉だけいなかった理由も分かった。 奴らはどちらかが欠けたとしても、最も高潔な魂を侮辱した者に報復するつもりなのだ。 「坂本殿!!」 その時、万斉が息せき切って駆け込んできた。その顔は厳しく引き締まっている。 「晋助と……桂が真撰組に捕縛されている!しかも、何故かうちの来島と陸奥殿が屯所内にいるでござる!!」 三人は顔を見合わせた。 全てが不利に働いていることを嫌でも悟らざるを得なかった。 ◆ ◇ ◆ 牢獄の中で再会した時の二人の反応は対照的だった。きちんと正座していた桂は、高杉を見て露骨に嫌な顔をして言った。「考え事をしている。話しかけるな」 対して、傷に触らぬよう慎重に腰を下ろした高杉は一瞬だけ表情を崩した。よく見ていなければ分からない変化で、引き立ててきた隊士も気がつかなかったが、横目で見ていた沖田は目に留めている。そして、おそらく安堵の表情だと感じ取っていた。 (こいつは珍しい) さすがに美女二人と飲み会というわけにもいかず出てきたのだが、来てよかったと沖田は思った。 先が気になるが、一度外に出て、夜の空気を吸う。ぞくぞくと疼く胸の奥を沈めるためだった。 その目線の先に、柱に寄りかかって煙草を燻らす斉藤がいる。斉藤が煙草を吸う姿は始めて見た。平素は、女受けが悪いの一点張りで手を出さない男なのだ。 「斉藤さん。どうしたんです? 牢の警備中に煙草なんて、土方さんにバレたら大目玉ですよ」 「なんとなく手が出ちまってね。落ち着かない。それに君も散歩しているじゃないか」 「なんでェ、毒でも喰らったんですかィ。顔面蒼白、ニコチンで平静を保つなんざらしくない」 斉藤はすかさず言い返したが、どこか力がない。一瞬煙草を口から離したがすぐに戻し、大きく煙を吸い込んだ。 「ああ。万事屋さんに尾行がバレて叱られるわ、桂は四面楚歌の中で俺を斬り殺しかけた上に、勧誘までしてきやがった。正直ちょいと休ませてほしいね」 その言葉を聞き、沖田の目が刃のように光る。ろくなことが起こらない前兆だ。 「もう少し待ちやせん? 俺ァ、今から高杉と桂の野郎と話しに行きますけど、一緒に行きましょうよ」 斉藤はそれこそ目じりを歪めて嫌な顔をした。 「俺の話聞いてた?」 「聞いてましたよ。心配しなくても椅子は譲りまさァ」 「それで、わざわざもう一度毒を食め、と」 高杉には直接会ったことはないが、危険性は疑いがない。 「毒を食らえば皿までって言うでしょ。それに、さっきは高杉と桂はそしらぬ振りでしたがねェ、本当のところは分からないもんだ。幕府の目をかいくぐって仲良くされたら、結構やばいんじゃないですかィ?」 それを探ろうと持ちかけているのだ。そして恐らく沖田の真意は、何か問題が起こった時の迎撃要員として自分をカウントしている。自分の考えを確かめようと斉藤は最後の反論を試みた。 「しかし隊長二人が牢屋で話しこんでていいもんかね。襲撃があったら?」 沖田は、待ってましたというように、にっこりと笑った。 「俺と斉藤さんなら、襲撃した野郎が来る前に高杉と桂二人の首くらい叩き斬れまさァ」 沖田が牢に戻った時も、高杉と桂の様子に変化はなかった。相変わらず桂は空を睨みつけ、高杉は不自由な身体を捻ったり壁にぶつけたりしながら怪我の具合を測っていた。二人がようやく口を開いたのは、沖田が監房の前に立ってからだ。 「おい、沖田。この部屋割りは何なんだ。同居人が気に入らんから部屋を変えろ」 しばらくの沈黙の後、桂が口火を切って文句を言った。沖田が答えるより先に、舌打ちがそれに答える。 「テメーが言えた義理か。俺の方こそ、腑抜けと同部屋は遠慮したいぜ」 「破壊衝動だけの貴様には、俺の活動は分かるまいよ」 そう桂が冷笑と共に言い返すと、二人は沖田を無視してにらみ合いを始めてしまった。 その様子を見て、さっさと隅の椅子に退避していた斉藤は床に沈みこみたい気分になった。沖田はやたらと楽しそうに眺めているが、正直全く理解出来ない。 桂一人でも骨の髄に染みる不気味さがあったが、高杉が加わると鬼気迫るものすら感じられる。罵り合ってはいるが、何か仄暗くわだかまる、恐らくは狂気を共有しているような、粘ついた空間。息苦しい。その気になればこの二人の首はあっさり落とせるというのに、自分達のほうが蜘蛛の糸に囚われた獲物になった気がする。 一刻も早くこの場を去りたいが、沖田を一人残すのも恐ろしい。その一心で耐える斉藤だが、沖田は斟酌しない。 「ほらほら、喧嘩しねぇで下せェよ。今はこの部屋しか、あんたらみたいな大物に入ってもらえる部屋はないんでさァ」 そう白々しく言い放ち、鉄格子の前に胡坐をかいて座り込んでしまう。 「……なるほど、屯所が襲撃にあった時には真っ先に爆発する仕掛けでもしたってことだなァ?」 高杉の低く、どこか愉悦を含んだ声には、微塵も動揺はない。 「野蛮な貴様ららしい発想だが、俺達が木っ端微塵になったらご主人様に叱られるぞ」 「へェ? お二人が捕まって殺されない理由があるとでも?」 沖田は桂の言葉尻を素早く捕まえて言った。 「世の中には貴様の知らないことがたくさんあるさ、若造。なァ、高杉?」 初めて桂が高杉に水を向ける。桂に目は向けなかったが、高杉も薄っすらと笑ったようだった。 「そうだなァ。知りたいか、沖田君?」 「もちろん。俺ァ、好き勝手やってる人間なんで、難しいことは分からねェ。教えて下せェ、高杉先生?」 その一瞬、高杉の隻眼が異様な炎を宿した。斉藤は腰を浮かし、沖田もほぼ無意識のうちに刀に手を掛ける。それほどの危険を孕んだ殺気が燃えている。 しかし、高杉は全員が注目した時にはすでに平静に戻り、沖田と目を合わせている。 「いいか。お前さんは、一番隊隊長沖田総悟。隊長だが、特に外部との交渉もなく、その義務もない。ある意味では一兵卒に近い。その上には、局長の近藤。近藤は幕府にも職を持つ。ゆえにその上、お前らを統括する松平に逆らえない。その松平は、当然ながら自分より位の高い幕僚の命には絶対服従。では、ここで問題だ。その上には誰がいる?」 「天導衆」 「その通り。沖田、テメーは優秀だ」 高杉が鼻で笑い、桂が気のない拍手をした。ぽんぽんぽんと空気が震える。 「それでな、おかしなことに天導衆は俺達が好きらしいんだ」 高杉はのっそりと身体を動かし、鉄格子から腕を出して沖田の頬に触れた。斉藤は反射的に駆け寄ろうとしたが、桂と目が合ってしまい、覚えず足が止まった。 血で汚れ、切り傷だらけでありながら、造りは端整な高杉の手が上下に動く。男にしては細いそれが、壊れ物を扱うように肌に触れる仕草は、まるで気に入りの楽器を演奏しているような軽やかさだ。 「困ったモンだよなァ。大量に死体を作っておきながら、俺達は生きたまま手に入れたい」 「………下衆ですねィ」 なるべく平坦な声で答え、沖田は頬に触れる手を払った。このまま触られていたら心が読まれそうな気がしたのだ。 「殺すさ。いつかは分からねェが、確実にな」 高杉は穏やかな声音で言う。 「―――それまでアンタが生きていたら、だろう」 三人分の視線が初めて会話に加わった斉藤に集まる。口を挟むつもりはなかった斉藤は、一瞬口ごもった。 「俺の話を聞いてたかァ?斉藤終君」 「聞いてたさ。殺されはしなくても、慰み物になったら、アンタも桂も舌を噛み切ると思うがね」 自分なら、否、侍なら誰もがそうするだろうという確信があった。 「誰が切るかよ」 「切らん」 しかし、高杉と桂―――狂気に等しい熱望と死に近い静謐のみを武器に戦う革命家は、否定の言葉をそろえたのだ。斉藤も、さすがの沖田も驚いたようで、言葉が告げない。 一方声を揃えた二人は、それぞれ不快感を表し、その後うっそりと笑った。 その動作が、恐ろしく似ている。 「沖田ァ」 「……っ!」 高杉が沖田の顎を掴む。沖田は反射的に逃れようとしたが、動けない。 どこにそのような力が残っていたのか分からない、顎をも砕けそうな力だった。 「美しく死ぬ機会はとうの昔に捨てた」 高杉の目は血走っていた。しかし、瞳の奥底は安らかささえ漂う静謐がある。沖田は自身が感じた恐怖を認めた。どれほどの死に塗れれば、戦場の中に静けさを感じられるのだろう。 「死んじまったら終いだ。矜持なんざ負け犬の言い訳だ。なあ、そうだろう。逃げの小太郎さんよ?」 桂が重々しく頷く。 「そうだ。俺はどんな手段を使っても生き残る。そして抗う」 返答に満足したのか、高杉の目元がこの上なく蟲惑的に細められた。 それは血潮漂う禍々しさを発していたが、奥底の一点に抗いがたい魅力がある。それを自覚した斉藤は、なんとか高杉と触れ合っている沖田を引き戻そうとして一歩前に出た。 がしり、と間髪を入れずにその手が掴まれる。掴んだ相手は桂だ。いつのまにか牢と自分の距離は埋まっていた。 「……っ!離せ」 「振り払えばいい」 どこ吹く風というように受け流す桂を叩き斬りたいが、動けない。恐ろしいことに、斉藤は話の続きを欲している。 「桂ァ。野暮言うもんじゃねェぜ。そいつぁ、自分の意思で捕らわれたいのさ」 斉藤の痛いところを突いた高杉は、沖田に顔を寄せ囁く。お前さんもだろう? 沖田は抵抗しなかった。その事実が斉藤に新たな恐怖をもたらす。沖田が圧倒され、瞳には異様な熱が帯び始めている。 「そうだな。斉藤殿、俺達が、いや戦場の香りが魅力的だろう?」 斉藤の目によぎったかすかな絶望を見抜いたのか、少し優しく桂が言う。 「沖田ァ。疼くだろォ?武士道も矜持も越えた先にある、持てる全てを賭けて戦う場所を思うと」 「そのように辛い目をすることはない。貴殿ほどの腕前を持つ武士ならば当たり前のことだ。ああ、貴様らの大好きな幕府への裏切りにはなるかもしれないがな」 柔らかい慰めの言葉の後、桂は言葉を切り、にたりと笑った。 「せいぜい迷え。俺はな、貴様らが大嫌いなんだ。貴様らの幸福な愚直は美しい。だが、それだけで奴を魅了するなど許さない」 嗤う桂の濁った双眸が、鈍い光を放つ。 「……奴ってのは、誰ですかィ」 沖田は息を搾り出して、無視できない単語を捕まえた。先ほどまでは自覚できなかったが、今の桂の怒りは、面白そうに話役を譲った高杉にも伝染しているように見える。会話をしていても何処かでかみ合っていなかった両者が、静かに繋がっているのだ。「奴」を介して。 「教えない」 桂はしれっと言った。貴様らにあいつの価値は死んでも教えない、と憎らしく付け加えて。 さすがに気色ばんだ沖田が立ち上がろうとすると、先を制する形で高杉が割り込む。 「まァ、いいじゃねェか。話の筋がズレていやがる。テメェらも本当は桂の言う美しき愚直を捨てたいと思ってる、という話をすればよい」 「……アンタお得意の誑しこみかい」 斉藤は、この男に誑しこまれて消えた男を思い出しながら、唸った。高杉は喉の奥でくく、と嗤う。 「冗談じゃねェ。俺は仲間にはうるさいんだ。テメェらみたいなクズなんざ嫌いだよ」 「斉藤殿、俺は違うぞ。本気で勧誘してる。嫌いだが、俺を選べば文句は言わん。転職の自由だ」 桂が真顔で付け加えたが、他の三人は誰も聞いていない。 「要するにそのお綺麗な体裁を取っ払って、おかしくなっちまえって言いたいのさ」 「おかしくなる」 沖田が鸚鵡返しに呟く。高杉は大きく頷いた。 「そう。ごちゃごちゃしたモン取っ払って、感じるままに戦い、イカれてみろ。沖田、お前になら出来る」 「アンタのように?」 「いや、俺も案外面倒なモンを抱えてる大人でな。いざテメェが本気でイカれたら、俺よりはるかにぶっ飛べるだろうぜ」 それは正直恐ろしいと斉藤と桂は同時に思ったが、口にはしなかった。 高杉は黙っていれば良家の子息にも見える上品な微笑を浮かべて言う。 「そうしたら、俺が綺麗に殺してやるよ。二度と忘れられないほど、美しくな」 高杉の顔をまじまじと見た桂が、肩をすくめて更に続ける。 「それが嫌なら俺のところに来ればいい。歓迎しよう―――貴様もだぞ、土方」 桂がにやりと笑い、沖田と斉藤が慌てて振り向く。 戸口には、いつのまにか、苦虫を噛み潰したような顔で煙草を吹かす土方が立っていた。 「冗談じゃねえ。……残念ながら、うちの駄目隊員との休憩時間は終いだよ」 「テメェ桂ごときにぶった斬られて死んだんじゃなかったのかァ?」 妙に色気のある仕草で高杉が首をかしげる。 馬鹿にされた土方は、即刻叩き斬りたい衝動と戦い、なんとか己の職務を優先した。 「俺はしぶといんだよ。それより、楽しい尋問の時間なんだと」 「ほう?お前さんがか?」 土方は舌打ちで否定を返す。叶うものならば、この手で尋問したいと思う。 「違ぇよ。同席はするがな。どうにも奉行所が直々に聞きたいことがあんだと。人気者は大変だな」 キラリと、高杉と桂の目が光る。 「で、どっちをご指名なんだィ」 土方はゆっくりと二人と顔を凝視してから、そっぽを向いて言った。 「……桂。テメーだとよ」 桂は、これから尋問される人間とは思えない至極満足げな笑みを漏らした。 準備のため土方たちが出て行き、寸時の間、囚人たちだけが残された。すると先ほどまでの饒舌は影を潜め、しん、と沈黙が下りる。しかもその沈黙は、旧知の間柄の人間が自然に共有するような穏やかなものではなく、距離を稼ぐような隔絶を孕んで横たわっている。 隔たりを維持しようと目をそらしているのは、高杉の方だ。視線こそ逸らさぬものの、むっつりと黙り込み口を開かない。それは、言えないことを秘匿する際の高杉の癖だった。 (何があった?) 視線で問いても、高杉は醒めた目で見つめ返してくるだけだ。それが、桂には不気味でならない。 そもそも今日の高杉の様子は尋常ではなかった。桂には分かる。嫌と言うほど分かる。 第一に口数が多すぎる。この男は肝心なことは口にせず、相手に悟らせて悦に入るところがある。それをせず、懇切に話をするのは、己の中でも整理できていない事柄についてのみなのだ。何より、敵相手に本心など漏らすはずがない。 高杉は一度捕縛され、どこかに連れ出されたのだという。行き先は馴染みの情報屋たちですら誰も知らなかった。そして再びこの牢獄に戻された時には、高杉は無残にも消耗していた。 (高杉) もう一度、次は唇だけを動かして桂は問う。無駄を分かっていても、問わずにはいられない。高杉は絶対的に絶望している。己すら見失い、虚しさまで覚えるほど。 桂は思う。昔もこのようなことがあった、と。 この戦いの似合う男が、虚ろに凍りつく時は、ただ一人の人物を傷つけられた時だけだ。 ただ、あの時の高杉はそれでも泣いたのだ。かろうじて残された涙を、自分達と共に。 (今の高杉は戦えない) ならば、自分が行く。 桂は静かに目を閉じる。 ―――その閉じられた双眸を、拒むように、またどこか縋るようにちらちらと高杉が見ている。 ◆ ◇ ◆ 銀時はゆっくりと月に手を翳す。坂本のおかげで血潮は流れ落ちている。だが、すぐに元通りだ。 (……せっかく落ちたと思ったんだけどなぁ) あらゆる物を斬った血みどろの腕が、せめて人間の手だと思えてきた頃だった。 臆病にだが、自分の家族を引き寄せても、暖かさを感じられる手になったはずだった。 (新八。神楽) 次の角を右に曲がれば、真撰組屯所だ。きっと厳戒態勢の門には4人程度の番がいるだろう。 へらりと笑って「万事屋」の顔で手を挙げる。次の瞬間に横薙ぎで二人、返す刀で一人、もう一人の腹で完結だ。 屯所への侵入も、そして万事屋としての日々も。 (嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ) 一筋、目じりに残されていたのかもしれない涙が流れ、ぽたりと地に落ちる。それが合図だった。 夜闇を高速の凶器が走ったのは、丁度その時だ。それが一歩を踏み出した銀時の足元数センチの場所に突き刺さる。 「どこに行くのかしら、銀さん」 薄紫の髪をなびかせ、苦無を玩びながらあやめが立っている。 「……さっちゃん。辰馬の方に行けって言わなかったっけ?」 あやめは表情を変えずに言った。 「私は忍。自分の判断に命を賭ける者。銀さんのために己の技を駆使するの」 だから、とあやめはにっこりと笑い、ゆっくりと構えた。 「貴方が本当に覚悟を決めているのなら、囮にでも盾にでもなる。―――でも、覚悟も出来ない銀さんに、ここは通せないわ」 |