共に幸せになる道は捨てた。
そう言ってしまってから、途方もなく悲しくなった。




  七  段 
  




丑三つ時過ぎ、真撰組屯所は殺気立っていた。あちらこちらで赤々と篝火が燃え滾り、それでも足りないとばかりに次々とライトが点灯し、闇の死骸の上を隊員達が走り回る。 その少なくない人数の視線は、一人に注がれていた。暴力的なまでに激しい光の中、引き立てられていく桂に、それだけで射殺せそうなほどの視線が集まっているのだ。
桂は後ろ手に手錠を掛けられ、その上から更に縄を打たれている。目隠しで瞳は見えない。猿轡の狭間から血が回らず青白くなった舌が覗くというのに、苦しみなどまるで感じさせず、時折微笑のような表情を浮かべる。そのたびに、前後左右で首に刀を当てる隊士の手元が震え、薄っすらと血が滲む。


土方が自室にたどり着いたのは、桂の収容を見届け、警備を二度確認してからだった。 さすがに部屋に入るやいなや、畳に転がり、溜息をつく。
全く、今日はなんて夜だろう。目を覚ました数時間後には、慌しく吉田松陽について調べ、桂の捕り物で息をつく暇さえなかった。

(何を考えてやがる。桂……)

だが、真撰組としては大物を捕らえたというのに、充足感を味わうどころか全く心が晴れない。
今回の桂は、得体が知れない。途中下車をして遊んでいるかのような一貫性のない行動。追い詰められても意に返さない態度。
奴が見ているものは何だ?

土方はごろりと寝返りを打ち、座布団に顔を埋める。
もう一度、考えるのだ。必ず意図はある。

何が足りない。人か、凶器か、時間か、動機か。

攘夷戦争後に限れば、類似の事件は九件。うち三件は戦後の混乱期に集中しており、標的以外にも被害者が多い惨たらしい現場だったという。この下手人と桂の性質は重ならない。 では、何故事件は三件で止まったのか。 更に言えば、桂も何故すぐに追随しなかったのか。ターミナルを見上げる凍るような目を見てしまえば、その理由が躊躇とは思えない。

では単純に、分からなかったのか。"次に誰を斬るべきなのか"。
ならば雑多な江戸で一粒の砂を探すように追い続け、敵を見つけたことになる。どのようにして?

―――ここ、だな」

言葉にしてみると、意外なほどしっくりときた。糸は間違いなくここで捩れている。
だが……と土方は資料の山をもう一度探り、考え込む。この膨大な監察資料の中にすら存在しない人間をどうして洗い出せたのか。最初の三人は、反攘夷派で有名であったから、それを足がかりにして見つけたのかもしれない。だが、残りは足跡を残さず、顔も覚えられないような、ある意味で監察らしい監察だった。そもそも桂の捕り物も、山崎が個人的な記憶から数人の候補者を割り出し、他の全てが殺されていたから最後の一人に行っただけなのだ。

影の存在である監察に気がつき、確証を得る。ほぼ不可能に近い。町人の噂などのルートを使うにしろ、攘夷浪士では慎重にならざるを得ないだろう。

土方は動きを止めた。何か、自分の奥底から無視できない声が聞こえた気がしたのだ。
それは、明確な形を伴わず、まとまりそうでまとまらず、繋がりそうで離れていく。土方は、冷めてしまった茶を口に含み、目を閉じた。
自分はこの第六感と呼べる感覚を知っている。その付き合い方もだ。慌てて追いかけないこと。


街の情報網。
息を吐き出し、眠りに着くような静けさで、探る。
自由。桂と高杉。
深い紺色の中で。あらゆる戦いと同じ慎重さを駆使して。

「先生」
そして―――殺していた刀。



奴、なのか?



自分の結論に追い立てられ、土方は跳ね起きた。もう一度、調べなければ。確実に。一刻でも早く。

「トシィィ―――!」
「……っわ!近藤さん!?」

だが山崎を呼びつけようと怒鳴る寸前に近藤が部屋に飛び込んできた。そして、その顔色が尋常ではない。

「トシ、テロだ!幕府の実験施設で火災かつ研究員全員と連絡がつかない!」
「……何?」
言われてみれば、開け放たれた襖の先では隊士達が物々しく装備を整えている。土方は、いくら集中していたとはいえ、この騒ぎに気がつかなかった自分を恥じた。
近藤は既に指示を出し終えた後のようで、早口に話を続けた。
「施設一つを壊滅させた下手人がいるなら火消しは回せない。付近の見回り中だった五番隊、六番隊がもう向かっている。すぐ俺と山南さんで増援に向かうから、トシは屯所に残ってくれ」
「分かった」
土方はすぐに頷いた。
「よかった。反対されるかと思った」
素直な反応に近藤も少しだけ表情を崩す。
「本当は俺も同行したいところだが、今の状態じゃお荷物になる。俺ぁ、アンタの足手まといになるのだけはごめんだよ」
「……あのなぁ、トシ。俺は怪我をした奴が足手まといだから置いていくんじゃない。せっかく拾った命を大事にしてほしいから残すんだ。分かってるよな?」
予想以上に真剣な目で見つめられ、土方は手を挙げて降参した。
そして自分がガキに感じられて仕方がない、と内心溜息をつきつつ、話を仕事に戻す。
「総悟はもう戻るんだよな?」
「ああ。一番隊も戦闘詰めで疲れているだろうから屯所に回す。これで警備の人数は今と変わらん」
「分かった」
「桂には気をつけろよ。今回の一件、関連があってもおかしくない」

近藤の出陣を見送り、土方はすぐに自分の仕事に取り掛かる。屯所内の警備を見直すことだ。桂一派には、研究所一つを潰せる手駒がいるとも思えないが、万が一高杉と組んでいたとしたら鬼兵隊が桂の救出に来てもおかしくはない。今の屯所を叩かれれば、桂どころか真撰組の危機だ。
(総悟の野郎、早く帰って来い……)
そもそも一番隊隊長をターミナルの入管審査に使うのもありえないが、抗議も出来ない。

その時、丁度携帯が震えた。自分の名前が発信者に出るのを見て、土方は薄っすらと笑った。
使い慣れない予備の電話の通話ボタンを可能な限りの速さで押すと予想通りの声が聞こえてくる。
「もしもーし。なんだ、綺麗に死んでくれなくて残念ですねェ。アンタ、これから碌なことないでしょうに」
「総悟ォォォ!!」
「一応、ターミナルから解放されたんで屯所に戻ります。で、女の子ナンパしたんで、ケーキ買っといて下せェ」
「……は?」
自分は疲れすぎだろうか。非常事態にはあり得ない軟弱な言葉が聞こえた。
「だから、ターミナルで意気投合した女の子2人と屯所で酒でもってことになったんでさァ」
「馬鹿か、てめえはァァァ!!!」
土方は、額に血管が浮き出るのを感じながら叫んだ。
その反応を予測していた沖田は、もちろん携帯を耳から外しており、囁くように言った。既に車に乗り込んだ相手にだけ聞こえない程度の秘めやかな音量で。

「興味ないんですかィ?―――快援隊を牛耳る女傑さんと、真っ赤な弾丸娘のそっくりさんですぜ」
息を呑む。何も考えていないようで、こういうことをするから沖田は怖い。
(動いてきやがった……!)
それも、不在なはずの二者が、繋がっていないはずの組み合わせで。
途方もなく大きな何かが動き出した実感から自分を落ち着けようと、土方は低い声で言った。

「ケーキは無理だが、酒は出しとく。絶対に逃がすな」
「了解」
「……それと、むさい男世帯のど真ん中で宴会もねェ。離れを使え」
楽しそうに笑う沖田の声を最後に電話が切れる。
その瞬間を見計らって、次の声がかかった。

「副長……」

土方は振り向かない。
あたりの空気を一切震わせず語り、気配なく背後に在れるのは山崎だけだ。
「高杉が出ました」
「何、」
二人はさりげなく見廻りの隊士から聞こえない位置まで移動する。
「野郎は幕府が連れて行ったんじゃねえのか」
「そのはずでしたが、例の研究所の付近で目撃情報が。偶然遭遇した五番隊と交戦中。近藤さんには通信傍受を避けるため、伝令を出しました」
土方の目が大きく見開かれた。何故、そんなところにいるのかというより、高杉は―――
「沖田さんにやられた傷では、戦闘どころか走るのすら相当厳しいはずです」
山崎が先を読む形で言った。
「単刀直入に言います。この情報は幕府の隠密からで、向こうさんはどうしても手放したくないらしく、真撰組には伝えるなと言ったそうです。もう無理ですけどね。高杉は交戦中ですが逃げるばかりで、五番隊も顔を合わせてはいない。高杉と共にいるのは一人、奴を担ぎながら逃げているようですが、こちらも戦闘はしません」
「何故、その隠密は教える」
土方は慎重に言う。隠密はつかめない影だ。真実も虚言も闇のように消えてしまう。
「あの人は攘夷浪士も幕府も天人も消え失せればいいと思っているクチです。騒ぎを大きくする選択肢ばかり選ぶ」
「たいした隠密だ」
「むしろ向いてるんですよ。隠密なんて世の中が嫌いじゃないと勤まりませんって。それより、高杉を連れている仲間の特徴が問題です。すぐに路地裏に消える上、羽織を被っていて誰も顔は見ていない。ただ、その羽織の隙間から、一瞬だけ覗いた髪の色が」

山崎は土方から目を離し、所在無さげに青白い光を落とす月に向かって、はっきりと言った。


「月光のような、銀色だそうです」



◆ ◇ ◆



部屋には酒臭い息を吐く大人が転がっていた。なんとなく皆で飲もうという話になり、昔話に花を咲かせていたら、男も女も誰一人帰らず、どこから聞きつけたのかその親まで参加してくる始末。民宿の二階は夕食の時間から深夜まで絶え間なく喧しい。

「そういやよォ、この前うちのガキがあれやったんだよ」
杯の縁を舐め、団子屋の女の膝に頭を無遠慮に乗せようとしながら漁師の男が言った。
「あれじゃ分からないわね」
女は容赦なく男の頭を畳に落として笑った。
「あれっつったら、あれだよ。舟幽霊さ。俺ぁ、ガキの手を船の縁で見つけた瞬間嬉しくてなァ」
女だけでなく周囲から、「へぇ」だの「ほう」だの言いながら興味を持った者達が集まってくる。
「最近のガキは悪戯なんざできねえと思ってたが、ついにきやがったな」
年配の漁師が野太い声で笑い、徳利を掲げる。その場に集まっていた全員の杯に酒を注ぐ。
「あのクソ野郎ども以来の悪童に乾杯!!」
乱暴に杯を合わせるので、酒が零れる。酔っ払いは倒れる。だが、各々楽な姿勢になっただけで寝る者はない。
最初の漁師が懐かしそうに目を細めて言う。
「桂と高杉なぁ……。あいつら、ぼっちゃんのくせに俺より水練上手くて、俺ぁ親父に叱られたもんさ」
それぞれが、奇術のように水を掻き分け、舟を引っくり返しては憎らしく笑って去っていく悪童の後姿を思い起こした。
「特に桂はすごかったね。私達、河童の生まれ変わりって影で呼んでたもの」
煙管を吹かした民宿の若女将が賛同する。違いないと方々から女たちが言った。
「そういや高杉と桂といえば、でけえ喧嘩やらかしたらしいな。銀時の野郎まで混ざってさ」
男達の中で唯一着物をしっかりと着こなした剣術師範が、乱雑な口調で言った。
「へぇ。年がら年中喧嘩してるガキだったが、でけえっていうと?」
「なんでも戦艦で大砲ぶっ放して斬った張ったの大騒ぎ。仕舞いには、高杉の野郎が桂と銀時をはめたかなんだかで、絶交らしいぜ」
絶交!と全員が声をそろえて笑った。
「バカじゃねえの!寺子屋のガキみたいなこと言いやがる!」
「絶交も何も、あいつら人生で何回絶交すれば気が済むのかしら!」
「それ誰から聞いたの?」
「いや、それぞれから。この前、雁首そろえて来やがっただろ、あの時」
そもそも絶交した相手と旅行に来て、相手がいるところで絶交を言う辺りがすごい。
「まあ、あいつらは同じとこにはいねえから喧嘩もすんだろ。バカだから」
「だよなあ。昔からどいつもこいつも好き勝手、ぶつかってなんぼみたいなとこあるしな」

しん、と全員の声が故なく途切れた。
しばらく酒を啜る音と着物が畳を擦る音だけが混ざり合い、深夜に解けていく。喧騒が途切れてしまえば、どう笑っていいのか分からないのだ。

それまで黙っていた蕎麦屋の嫁がぽつりと呟いた。
「刀なんて持っていなければいいのに」
「そうかもしれない」
真っ先に反対しなければならない剣術師範が重々しく同意する。
「言葉ですら伝えられないバカのくせに、刀の扱いだけは天下一品」
「ガキの喧嘩が、簡単に殺し合いになっちまう」
「殺しても死ななそうだが……」
「人間は簡単に死んじまう」
各々が死者の名を口に出したので、一つ一つの名は聞き取れなかった。
悼むには失った者が多すぎる。長くなり続けるばかりの鬼籍のリストには、師の名があった。幼馴染の名が、息子の名が、道場仲間の名が、客の名が、所狭しと並んでいる。昔は、正しい行いをする者が、自分の身内が、自分より強き者が無残に死んでいくことなど想像もしなかったというのに。

「……昔よォ、松陽先生が亡くなって、皆戦に出ただろ。あの時、俺は残ったんだよな」
漁師の息子が言った。
「俺も残った。俺には店があった」
民宿の旦那が言った。
「俺は、今でも残ると言った時の高杉やら久坂やらの目が忘れられねえ。初めて見る目だった。虫けらを見るような、もう二度と会わない下種の情報を削除しているかのような、冷たい目だった」
剣術師範が目を伏せて続けた。
彼らは皆、松下村塾で学び、攘夷戦争ではない道を選んだ者達だった。
「でも、高杉達は戻ってきてくれたじゃない」
「そうだ。俺達に再び笑いかけた。だが、奴らは既に何かを違えていた」
彼らは、疲れたように笑って「負けた」と一言言った。意見が一致しない三人が、バラバラに訪れたにも関わらず、一言一句違わないのが恐ろしく不気味だった。
「桂は、うちの蕎麦を食べても回復しない青い顔で、俺はまだ戦うと言ったわ」
「高杉は、似合わない煙管を吹かしながら、許さないと笑ったわね。あの仏頂面が慈悲すら感じさせる笑いをよ」
「銀時は、もう戦は出来ないと項垂れたわ。私、じゃあ桂も高杉も説得して戻ってきてって言ったのよ」
「奴は何と?」
「そうしてえ。だけど、あいつらがあいつらである限り、頷かない」
「ああ、面倒な」
「なんて意地っ張り」
「だけど、それでこそあの三人組」

皆分かっている。気持ちよく酒も入っているというのに、不吉な溜息をついてしまうほど。
あの三人には、独自の世界がある。想像もできないほど強固で、夢にすら見たくないほど惨たらしく、それでいて恐ろしく清廉な世界が。それを共有する魂を抱えた人生に飛び込む勇気はないが、時々思う。せめて救いの真似事くらい許してほしい、と。

「……あいつらは、何なんだろうな。高杉の方が銀時と桂を裏切ったとか言ってるし」
「でも、桂も桂で、銀時を脅したことがある」
「だが、銀時の負い目が一番深い」
鍛えられた魂など持ちたくもない自分達は心底思う。少し生き方に妥協をすれば、これほど恵まれた組み合わせはどこにも存在しないのに。得たものも失ったものも全て引っさげて、松陽先生と暮らしたこの地に帰ってくればいいのに、と。
「それも、意味の分からない信頼が根っこにあるから始末に悪い」
あいつなら大丈夫。そんな陳腐な言葉で傷つけ合うくせに、下手な強さでしのいでしまう。そしてエンドレス。
「裏切っても見捨てはしない」
「傷つけても離れもしない」
「それで、止まらない」

全員が、杯に残った憐憫の酒を一気に飲み干す。

「あいつらがあいつらである限り」



◆ ◇ ◆



それは、夜のしじまに溶け込んでいる。異様なほどだ。
近くの大木の葉が揺れている。きっと、ばさばさと人の不安を煽るような音を出しているはずだ。そして歌舞伎町は眠らない。二つも通りを行けば、根性のある客引きの声がかまびすしいだろう。

だが、考えうる全ての雑音が、奴に食われてしまったかのように音がない。
奴以外の物は、一片の動きも許されないような不気味な静謐。

足は、一見では無いように見える。いつもの着流しが彼の足を保障していたのかもしれない。
闇を貼り付けた下半身の上に、不自然なまでに鮮やかな羽織が被さる。暗闇でも、羽織に金糸と銀糸で縫い篭められた蝶は、今にも飛び出してきそうなほどに精緻だと分かる。

ずる、と足が動く。血の通わない荷物を引き摺るように、重たげに。
それは生き物の気配とは程遠い。生きて、地を踏む力が感じられない。


ずる、
ずる、


足を引く最中、腰に差した二本刀がぶつかり合う。ぽたぽた、と水滴に似た赤い液体が落ちる。
その赤は美しい。極上の着物が出来るのではないかと思うほど。

しかし、銀色に散りばめられた赤は、それすら凌ぐ。

「待てよ。万事屋」

自分の声は届くのかと思ったが、意外なほどに響く。その響きは、場に馴染まぬ者へ向けられる排除に似ている。 今にも椿が落ちてきそうだ。

銀時は足を止めない。変わらぬペースで自分の身体を持て余しながら前に進んでいく。
無視ではない。気がついていないのだ、と気がつき、土方は刀に触れる。

その瞬間に銀時が立ち止まった。


「何」
背を向けたままの返答には、普段のからかいすらない。
全ての感情をそぎ落とした後の残りかすのような平坦さだった。
「テメェ、誰を斬った」
土方は距離を取りながら言った。
「俺は善良な市民だぜ。なんで飲みに行って人斬りに間違われなきゃいけねえの」
「……その血は」
「喧嘩の仲裁」
「激しい喧嘩だな。場所はどこだ?」
「なんでそんなこと聞く」
「テメェほどの奴が、腕震え、足引き摺りになるような派手な喧嘩は放置できねーよ」
「とっくに解決した。今頃はどこぞで飲んだくれてるだろうよ」
「いつもの着流しはどうした」
「俺だってたまには服装くらい変える」
銀時の声は、芝居の脚本を読むかのごとく棒読みで、まるで真実味がない。これほどまでに嘘だと分かる嘘は、逆に気味が悪い。常日頃は、口から先に生まれてきたと思えるほどの口回しの男だからこそ尚更。
土方がしばし考えていると、もう話すことはないとばかりに銀時の背が遠ざかろうとする。
急いでいるようにも見えないが、赤く染まった木刀に触れたままの銀時の右手は、震え続けている。

土方は覚悟を決めて、声を張り上げて言う。
「桂を逮捕した」
銀時が足を止め、深い溜息をついた。
「何故、俺に言う?」
「それだけじゃねェ。今さっき、高杉も確保した」
「……」
はったりではなく、本当だった。銀時を見つける寸前に連絡があったばかりだ。
「負傷した高杉はうちの隊士から逃げ回っていたが、突然動きが鈍くなったらしい。何故だと思う?」

しばしの沈黙を経て、銀時が突然振り向いた。

「まどろっこしいから、さっさと言いたいこと言ってもらえる?」

土方は、その顔を見て凍り付く。
銀髪に散った返り血どころではない。顔の右半分は、全て血まみれだった。拭われもしなかったそれは、まばらに凝固し始めており、暗紅色に変わった部分と鮮やかな赤色が混在している。そしてこの世で最もおぞましいグラデーションに埋もれる紅の双眸。
冗談抜きにこの世のものではないと土方は思った。

「それとも、俺を斬る?」

銀時の震える右手に指差され、土方は刀を完全に払っていたことを知った。

「なあ、どうなの?」
徐々に酷薄な引き攣りを銀時の頬が描く。この世のものを無理に真似した死霊の笑みのようで、 その口から出る声は、少しずつトーンが上がり、早口になっていく。

(………やべえ)

これ以上はまずい。本能が狂ったように警鐘を鳴らしている。

土方は早口に言った。
「高杉の野郎を連れている仲間がいた。そいつの顔を見た奴はいないが、頭を隠す羽織の隙間から見えた髪は銀色だった」
「……なるほどね。それが、俺だと?」
「いや、正直迷ってる」
「意外だね。普段は俺にこそこそ密偵なんぞ貼り付けているくせに、そこは疑わないのか」
呟きに近い銀時の声が、嫌に大きく響く。
土方は無表情に凍り付いた表情全体だけではなく、口元、目元、汗、瞳の奥まで眺めたが、銀時の真意は全く読めない。
故意に隠されたのではなく、嘘が現実を乗っ取った後の闇しかそこにはない。

土方は慎重に言葉を探して言った。
「テメーらしくねェ」
「どこが?」
間髪を入れずに銀時が問い返した。
「裏切りに思える。もしテメーだとしたら、高杉を途中で放置したことになる。その上、指名手配犯を助けたとしたら、」
そこまで語った土方は言葉を止めた。止めざるを得なかったのだ。銀時が一瞬憎悪すら浮かべたものだから。

銀時はすぐに表情を戻して、平坦な声で言った。
―――へぇ。お前が、俺に、裏切りを語るの」

襲い掛かった凶刃は、まさしく殺すための刀だった。

土方は反射的に腰に力を篭め、力任せに振り下ろされた一撃を耐えた。
腕に激痛が走り、脂汗が噴出す。速い。先に刀を払っていなければ確実に斬られていた。

「……万事屋っ!テメー……!」
なんとか体勢を戻そうと歯を食いしばる土方を銀時は無感動に見下す。
そして、自分自身を宥めるように冗談めかせて言った。
「あー、やっちゃったなー。うっとおし過ぎてついやっちゃったなー」
しかし、止められるとは思わなかったと嘆じる呟きはとても冗談には聞こえない。

「土方ァ。裏切りってなあ、二つあんだよ」
知らないだろう?
そう優しげに笑う銀時を土方は見たことがなかった。
「信念があるやつと、ないやつ。……お前、"なんとなく"裏切られたことある?」
すぐには答えられない土方に、憐憫にも似た視線を送り、冷たい月光を背に受けて銀時は言った。


「試してみようか」


その瞬間、空間の時は、鈍さを増した。銀時が構えるのが、スローモーションのように見える。
土方が呆然と見ていられたのはそれまでだった。


木刀の先が動いたように見えた瞬間、目の前に銀髪が散った。
銀時が刀を引いたと思えば、間髪を入れずに突きが繰り出される。喉から、飲み込み損ねた息がひゅうと鳴る。息すら出来ない。一撃で肺腑を抉られた気すらする。

正確に喉を狙ったそれをしゃがむことでなんとか防いだ土方は、上に突き上げる形で銀時の喉を狙った。手加減などしなかった。 躊躇すれば殺される。この美しい軌跡で、確実に。

だが、銀時はその渾身の一撃を土方の肩を掴んで上に跳ね上がることでかわす。
反射的に背後を振り向いた土方は、それを見た。白銀の髪が生き物のようにざわつき、紅の視線が虚ろに自分を見下ろすのを。


「………お前、」
その目元に信じられないものを見た気がした。
だが、よく目を凝らしても、そこにいるのは自分を殺す鬼だけだ。


「俺もさ、」
銀時が刀を垂直に翳した。


「お前らみたいに生きてみてえよ。時々な」


声音に彼の本気を悟らずにはいられない。土方の全身が凍る。
間違いない。この馬鹿は、自分を殺すことで、別の何処かに消えようとしている。

殺されてなるものか、と思った。
こんな、逃げるためだけの殺意で死ねない。


少し遠くで、撃鉄の音が響いた。
響いただけですぐに消えた。


「アッハッハッ、金時ー。見つけたぜよ!」
恋しい撃鉄の代わりに響いたのは、この場にそぐわない能天気な声だった。
暗闇の中から突如として現れた男は、銀時の木刀を掴み、あっという間に羽交い絞めにしている。
状況が飲めない土方を無視して、男は朗らかに笑った。
「飲み屋に置いてくとか酷いぜよ!しかも、酔っ払って喧嘩なんかしちょる。おんしゃのは洒落にならんき、この辺で止めとうせ」

体勢を立て直した土方が向き直る。
銀時は、今だ何が起こったのか分からぬ様子で、男を呆然と見ていた。

「いやー、すまんのー。金時は、限界まで飲むと暴れるき。気をつけとったんじゃが」
真撰組の副長さんでよかった。間一髪セーフじゃ、と男は嫌に明るい声で言う。ご丁寧に謝る仕草を片手でして。


「……辰馬」


ようやく友の名を呼んだ銀時の手から刀が滑り落ちた。