下 乱痴気騒ぎの騒音を背後に感じつつ連れ込み宿から出ると、昨日より少し冷たい夜風が頬に当たった。店主の見送りはない。彼は桂の正体を知らないし、知っていても拷問に耐えられるとは思えない。行きずりの放蕩息子を演じるのが誰にとっても都合がいいのだ。 桂はちらりと空に目をやり、黒い雲が月を隠していることを確かめる。青白い月光は嫌いではないが、昔のように穏やかな気持ちでは楽しめない。 (……俺は、先生のようにはなれなかったな) 憂鬱そうな自嘲が零れた。背こそ記憶の中の彼に追いつき、髪も同じように伸ばしているが、「綺麗ですねえ」と目を細めて月を眺める後姿には程遠い。それどころか、月を邪魔者にして外道を働くのだ。 息を細く吸い込み、ゆっくりと喉を夜の冷気で冷やす。一息ついた後、桂は塀に刀を立てかけ、その足場を迷うことなく踏んで塀の上に登った。 柄に結んだ糸を引いて刀を引き上げ、塀の上に張り付くように姿勢を低くする。周囲に散らばる気配から推測して、屋敷の警備は事前情報から変更はないようだと判断し、桂は音もなく塀から飛び降りた。 桂が通り過ぎたすぐ後を、警備の侍が欠伸をかみ殺しながら歩いていった。 静寂を乱さぬように細心の注意を払いながら、一枚、また一枚と襖を開けていく。三枚に一枚ほどの間隔で桂は左右に曲がり、また別の部屋を足早に通り過ぎる。まるで自分の家を歩いているように迷いはない。 最後の一人だった。十人のうち、三人は随分前に高杉が殺した。鬼兵隊もまだ全員が揃わぬほどの時で、意地っ張りの馬鹿はごまかしてはいたが、相当危なかったようだった。だが、残りの七人の行方は杳としてしれず、組織の再建や銀時の探索などに時間を費やす中で、時間だけが過ぎた。 桂はその当時を思い出して、緊張を解かぬまま少し笑った。 ある日、一人の小役人が辻斬りに遭って死んだ。その下手人は杜撰な捜査の目をくぐって捕まらなかったが、桂たちにとっては家宅捜索の際に死んだ男の家から発見された資料こそが重要だった。 その中に捜し求めた六人の名を見つけた時に、心の底から歪んだ歓喜が湧きあがった熱を今でもよく覚えている。 後、一枚。 桂は更に深く笑う。―――時間はかかったが、もう生かしはしない。 滑り込んだ先では、部屋の両端に置かれた卑猥な紅と冷たい青の灯りが、閨を二つに分けて染め上げていた。 「なかなかいい趣味だな」 独り言よりも更に小さく、息の振えだけで揶揄すると、ぱちりと見開かれた一対の目と目が合った。桂はゆらりとうごめく化け物じみた色彩の影を作りながら、目のところまで移動する。 (侍、顔負けの勘のよさか) 布団の縁から未発達な肩を露出する稚児の少女が、暗闇の中瞬きもせずに桂を見つめていた。桂は年長者の慈愛のこもった微笑を浮かべ、少女は口元を布団に埋めたまま目じりだけを下げてそれに応えた。子どものものとは思えない寂しげな笑みは、どこか寂しがりやの幼馴染のそれに似ていた。 桂は返礼のようにもう一度笑うと少女の瞳を左手で塞ぎ、そのまま右手に握った脇差を器用に回して、眠り続ける男の喉を突いた。死体が発見されるまで血の悪臭と冷たさに耐え、寝たふりをしなければならない少女への同情のみを感じながら、無感動に、怨敵を殺した。 特段の感慨はなかった。この男が、師と平和な日々の略奪に関与したのは疑いがないが、背後には更なる闇がある。桂も当の昔にそんなことは―――自分達の戦いは闇の暇つぶしに過ぎなかったのだということも―――嫌と言うほど理解している。 (哀れな男だ) 影となる人生を強いられ、任務のためには家族の親族すら幕府や天人に売り払った男。結果、本意であったかなかったか、家族を守るためだったのか出世欲のためだったのか顧みられることもなく、屋敷に味方は一人もいなくなった孤独な男。 だが、自分は彼を殺さなければならない。そうでなければ納得できないし、走り続けられない。 (―――必ず、引きずり出す) 桂は少女を部屋に残し、渡り廊下に出る。このまま庭園を突き進んで塀を越えれば逃走できる。 だが、邪魔にならぬよう剣を抱え直し、庭に降り立った桂の足は前へと進まなかった。 「……む」 桂は自分の足を見下ろし、考える間もなく刀に手を掛けた。なぜなら、今足を止めたのは自分の意思ではなかったからだ。数限りない戦場を経験した体が無意識のうちに危険を告げる、戦を生き抜いた者なら蔑ろには出来ない勘が危険を叫んでいる。 周囲を見渡し、その正体を暴こうと目をこらした桂だったが、その必要はなかった。 「今だ!囲め!!」 「……ッ!」 暴力的なまでのライトが闇を容赦なく踏みにじって降り注ぐ。あまりの眩しさに桂が視力を奪われた一瞬に、バタバタと物騒な気配が四方に集まってきた。 桂は聞く。統制された動きである者は刀を、ある者は銃器を構える音を。 そして、眼前にかざした手の隙間からこちらに歩いてくる足が砂利を踏む音を。 「よォ、桂。来ると思ったぜ」 白を少しずつ侵食し、影が人間の形をとる。桂が目を見開いた。 いつもの隊服ではなく、暗い色の着流しだけを羽織り、胸元に巻かれた包帯が痛々しい。 「……貴様、土方」 神経の図太い桂も、驚愕の眼差しで自分が斬った男を見つめる。致命傷ではなかったかもしれない。だが、回復しても歩くのもやっとであろうし、そもそも今夜ここを狙うことが何故分かったのか。 「ご名答」 土方の不敵な笑みには明確な殺意が篭められていた。その殺気に反応した桂は反射的に爆弾に手をやり、途中で刀に手を戻す。教科書どおりの流麗な仕草で鞘を払い、土方へ切っ先を向ける。だが、土方は刀に手をやらず、代わりに一人の男が二人の間に割り込んだ。 「アンタの相手は俺だよ、桂さん」 無論、桂はその男が誰だか一目で分かった。直接戦ったことはなくとも斉藤終といえば、真撰組でも有数の使い手だ。 「それは残念だ」 桂は芝居がかった仕草で肩をすくめた。 「ここには善良な市民のような死ぬべきでない人間は一人もいない。どうせ暴れてもよいのなら、副長殿にご教授願いたいものだが?」 「テメェ!!」 自分でその副長に深手を負わせておきながら、いけしゃあしゃあと言い放つ桂の態度に少なくない数の隊士の頭に血が上った。一気に殺気が沸騰し、今にも踊りかかりそうな暴力性を孕んだ雑音と罵倒が湧き上がる。全うな人間ならば怯えずにはいられない地獄の釜に似た光景だが、桂は無感動な視線を一瞬向けただけで冷笑を崩さない。 しかし、殺気は弾けなかった。 「手ェ出すな。ここは斉藤に花持たせてやれ」 桂の方は暴発こそ好期と考えていたのだが、絶妙のタイミングで土方が隊士を抑えてしまった。怒鳴っているわけでもないのに、不思議に通り、一切の反論を封じ込めてしまうような見事な声だった。 土方は言った。冷静に、そして心底残念そうに。 「悪いな、桂。俺もリベンジしたいところなんだが、いかんせん容赦なく斬っていただいたおかげで身体が上手く動かないんでね。遠慮するわ」 引き継ぐ形で斉藤が言う。既にいつでも飛び出せるように後ろ足を引き、構えていた。 「俺じゃあ役不足かもしれないが、お相手願う。―――三番隊も可愛がってもらったらしいからなッ!」 その構えの通り、言葉が終わった瞬間に斉藤は桂の懐に飛び込む。しかし次の瞬間には完璧な体勢で懐に入った斉藤の方が、刀を翳す直前で急に軌道を変えた。 「嘘だろ!?」 誰かが叫び、斉藤自身も内心同じことを叫んでいた。 懐に入られた桂は斉藤が刀を突き立てる前に、右に"倒れた"。文字通り、子どもが前触れもなく転ぶ時のように、こてん、と効果音がつきそうなほどあっさりと倒れた。 そして、地面に倒れる直前で、刀を上に向け斉藤の喉を狙った突きに引っ張られる形で体勢を立て直したのだ。斉藤の顔に冷や汗が滲。反射的に右に刀を構えたから防げたが、そうでなければ斬られていた。 「……アンタ、すごい腕だな」 渾身の力を振り絞り、桂の正面にまで刀を戻し、斉藤は賞賛を篭めた声でそう言った。 「今のは技というよりは悪戯の発想だが、貴様もなかなか見所はある。俺は昔この方法でこてんぱんにやられたからな」 桂は、やはり人まねはよくない、一刀で喉をつけるかと思ったのにと酷く残念そうに笑った。 また意味の分からぬ攻撃を仕掛けられるより前に、斉藤は激しい突きを連続で繰り出す。生け捕りにしろとは言われているが、相手には普段の桂らしくないことだが明確な殺意があるのだ。手加減をすれば殺されることが目に見えている。 斉藤の剣は、土方のような力技タイプとは異なり、細かな技巧を凝らした舞に似ている。その実、ふわりと撫でるように刀が肌に触れたと思ったら、腕が落とされている。そんな剣捌きだ。 だが、桂はその力では受け流せない技巧も全てかわした。緩やかな太刀筋には、それ以上の緩やかな剣筋で流れを自分の方に引きずり込み、激しい突きにはそれ以上の突きで応戦する。 二人が正面で刀を合わせた瞬間に桂はにたりと笑い、言う。 「斉藤殿。見所はあると言ったが、訂正しよう。素晴らしい!」 「そりゃどうも」 「名は、終と言ったな。真撰組なんか辞めて時代を終わらせてはみないか」 斉藤は全く表情を変えなかったが、内心薄気味悪さに震えた。ふざけているのならよかったのだが、桂の顔は真剣そのものだ。真撰組は無茶の代名詞の集まりだが、少なくとも全方位を敵に囲まれた上での斬りあいの最中に、相手を勧誘するような奴はいない。 「アンタ、武闘派だったっけね? 今回の一件でも高杉と協力したようだし」 高杉派と桂派の合流の有無は最優先で確認すべき事項だ。 果たして、桂は心底不愉快だという風に顔をしかめた。 「失礼な。あんな破壊衝動しかない馬鹿と一緒にされては困る。高杉はただ壊すだけだ。俺は、時代を終わらすと言った。―――なあ、斉藤殿。一つの時代が終われば、次の時代が始まる。見たいとは思わないか?」 「俺は高杉の方が夢想家だと思っていたが、アンタも相当だな」 「答えをはぐらかさないでもらおう。諾か否か、それだけ言えばいいのだ」 「否だよ。アンタの言う新しい世界に真撰組は必要ない。それなら俺も必要ないのと同義だ」 「組織の中に埋没する個を選ぶのか? 全ての個人は組織の前にあるのに」 「もう一つある。何故、俺達がここが分かったと思う? アンタが吉田松陽の刑死に関わった幕府の監察を殺しているとわかったからさ」 桂の目が狂気じみた色にぎらりと光った。 「俺も全ての報告は見てないんだがね、不思議だよ。吉田松陽に関わった者達が攘夷戦争の前から今に至るまで、少しずつ歯が抜けていくように不審な死を遂げていく。鬼兵隊の粛清の関係者同様だ。……桂、アンタは穏健な仮面を被った復讐の化け物だよ。アンタらは一人の人間のために世界を崩そうとする。いや、それはいい。そこに志はないだろう? 怨嗟と復讐の上の世界は遠慮したいね」 桂はしばらくの間、無言で考え込んだ。その表情は石像よりも固く、満月よりも不穏なまま凍りついていた。 斉藤は激昂を警戒して刀に力を篭めたが、その瞬間桂は、本人以外の全員の予想を裏切る表情を浮かべ―――刀を捨てた。 破顔、したのだ。 桂は降参だと手を挙げながら笑った。 何かの堰が切れたように息を吐き出して大声で笑った。 「参った、……フフッ、まあ、この人数では逃げられまい。捕まってやろう」 狂ってやがる、と誰かが言った。 それを聞き分けた桂は、誰とも目を合わせず笑いの中で反駁した。 「俺は狂ってなどいないさ。狂ってるのは、―――あれ、だよ。真撰組の諸君」 「取り押さえろ!!」 隊士の半分は桂が指差した方向を思わず向き、青く光るターミナルを視界に入れた。 幸運にもそれより一瞬早く正気に戻った土方の命令を先に脳が処理した隊士は、桂の方へ駆けた。 ◆ ◇ ◆ 「銀時、起きてるか?」 「ああ。寝てねえよ」 「そうか」 目を閉じてどのくらい経っただろうか。想像の中で、懐かしい城下町を通り過ぎるまではうまくいくのに、松下村塾へ向かう最中にどうしても迷ってしまう。そのもどかしさに埋もれていた銀時は、高杉の呼びかけで顔を上げた。 「で、どうしたよ?」 特に何も考えず続きを促したにも関わらず、なぜか労わるような優しい声が出て驚いた。高杉は「らしくないな」とこれまた似合わぬ穏やかな微笑を浮かべ、自由に動かない右手を宙にかざした。 「嫌なことにヅラが笑っている気がしてなァ」 「どれ」 銀時は骨折に障らぬよう気をつけながら、かざされた手を両手で包んだ。それには奇妙な熱があった。苛烈な戦いの果てに生み出された剣だこでごつごつした細指は、死人のそれと思えるほど冷たいが、ゆっくり肌を合わせていると肌の底からじんわりと熱が上がってくる。熱がなければ刀は握れない。今の自分達が最低限の熱すら奪われたとしたら、この熱は誰のものか。 「そうだな。刀が吸い付いてる感じがするわ」 「だろう?……あんの野郎、いやそれでこそヅラか」 言葉の意味は分からない。しかし銀時は言及しなかった。どうせろくでもない計画を立てて、二人で茨の道に飛び込み続けているに違いないのだ。 「何も聞かねぇよ。俺ぁ、ずるいからな」と独り言のふりをして言えば、ぎこちなく高杉の頬が苦笑の形をとる。銀時もこわばった肩の筋肉の一筋がほぐれるように、張り詰めた緊張から解放される。 嗚呼、本当に何もかもがおかしい。自分達が、これほどいたわり合うなど。 油断していると意識を丸ごと飲み込んでしまいそうな吸引力を持つ思考から意識を引き剥がし、銀時は荒んだという表現すら生ぬるい腐臭を放つ独房をじっと眺める。正面には、数々の囚人が助けを求めて引っかいた傷跡が残る出口。二畳ほどのスペースしかない独房の三方の壁には、一つずつ拷問用の鎖が揺れている。二人を繋ぐ鎖は壁に固定されてはいないが、拷問用のそれよりも更に重量があるように思えた。 そして、目を離そうとしてもいつの間にか見てしまう無機質な台座が扉の前に構えている。配線コードもなく、ただぽつんと置き捨てられたその機械は、師のホログラムを映し出す映写機だった。 「酷ェ臭いだろ」 考えていることを読んだかのように高杉が言った。彼もまた、映写機を見ないようにしていた。 「肉と脂と血の臭いは戦場となんら変わらねェ。囚人を陵辱し、尊厳を奪い、精液溜めとして人生の幕を引かせることも特別じゃねえ。俺達はそういう世界に生きている。そうだろ、銀時? 死に方なんぞ選べるような生き方をせず、他人はおろか昨日背中を合わせた奴が、部下が、どこかでのた打ち回り、犯され、焦げていく悲鳴と臭いを何度も聞きながら、ここまで生きてきた。これからも、そうやって生きていく。だから戦場は膿んではいない、それは自然だ。だが、ここは遥かに腐っている。腐っていなければならない」 高杉は空間を睨みながら、恐ろしく流暢に、芝居の決め台詞を思わせる口調のまま、だが無表情で語る。その言葉は、銀時や過去に語られたというよりは、自らに語りかけるもので、彼の語りとしては珍しいものだった。 「銀時……」 水分をなくし掠れた唇を舐めながら、高杉は言葉を繋ぐのをためらうような逡巡を経て銀時と目を合わせた。 「もう、いけねェよな。どんなに向こうに行きたくても、」 「高杉!」 続きを聞く前に、不自由な体勢を無理やり変えて銀時は友を抱きしめた。否、抱いたというよりは、頭を掴み、顔を無理やり胸に押し付けて言葉を封じたというのが正しい。 高杉も無理には話さず、虚ろな視線だけを寄越す。細く息を吐きながら、銀時の言葉を待っているのだ。 だが、銀時も内面にせめぎあう混乱から語るべき言葉を見つけられずにいた。 昔、死人から物を奪って生きていた頃、人間はこんなにも無様で苦しそうに死ぬのかと考えたことがある。昨日、自分をコソ泥といい唾を吐いて下衆な笑いを浮かべた顔が、原型を留めないほど切り刻まれて死んでいる。自分が着物を剥いでも祟れもしない無力な骸。 あの人に拾われ、初めて松下村塾に足を踏み入れた時、こんなに眩しい場所があっていいのかと思った。何とか自分も桂や高杉達の仲間になりたくて、置いて行かれるのが怖かった。 先生を失い、思考が止まって、何かしていないと不安で刀を握った。きっと誰か一人が嫌だと言えば、きっと何かが変わって、俺達はこの世にいなかったかもしれないが、少なくとも笑っていたと思う。 無様で苦しそうな死体を毎日生産した後、ようやく立ち止まって思った。どこで間違ったのか分からない、と。 自分は無理にその道を捻じ曲げて戻そうとしたのだった。今考えると、なんて傲慢だったのだろうと思う。戦場から真っ先に逃げておきながら、心の底では自分が抜ければ奴らも追いかけてきてくれるかもしれないと思っていた。ガキの頃は、俺が率先して悪巧みをしてたから。 彼らは、反対方向に綱を引いた。俺達は手が切れるのも気にせず、綱引きをしていた。縄はいつでも真っ直ぐに張り詰めていた。 無性に悔しく、悲しかった。 どんなに「戻って来い」と言いたかったか。攘夷も刀も怨嗟も全て捨てて、先生の生徒として、幼馴染としてだけ生きていこうと。 何故、こうなるのだろう。あれほど受け入れられなかった平穏な日々へ、高杉の心は傾きかけているというのに! もう言えない。 ―――魂を裏切ることになってしまった今となっては。 銀時と高杉は、ぼろぼろと泣きながら、涙だけで口に出すには酷すぎる会話をした。 そして目をごしごしと拭い、涙を剥ぎ取ってから姿勢を正す。 そのタイミングを待っていたかのように、扉が開き三人の役人が入ってきた。一応武装はしたようだが、二人が抵抗するはずもないと分かっているのでぶらりと暇つぶしに現れたような風情だった。 高杉は役人を無視し、同時に目の前に現れた師のホログラムに言う。 「お待ちしていました。先生」 腐敗した牢獄とは、間違っても結びつかない恐ろしく明るい笑顔が零れた。 口火を切ったのは高杉だった。 「先生……もし、もしも、もう一度俺達が共に暮らせるとしたらどんな生活になるでしょうか」 「そうですねぇ」と松陽の映像が顎に手をやる。それは考え事をする時の師の癖だった。 銀時もまた、薄ら寒い思いを堪えながらやり取りに参加する。 「俺、あん時はろくに勉強なんざしなかったけど、今になって思えばしといてもよかったかなーとか思ってるよ」 「それは嬉しいですね。もう私の生徒達は、君達と小太郎しか残っていませんが……もう一度議論したいですねぇ」 松陽は哀しみを封じ込めるように目を閉じた。その穏やかな嘆きは、どう足掻いても懐かしく、高杉の口元に銀時だけが分かる暗い微笑が浮かぶ。不意に不安に襲われた銀時がこずくと、高杉は心配するなと口だけで返してくる。 「なあ、先生。俺達の話、聞いてくれるか?」と銀時。 「その話は非道で、外道で、誠意もなく、志も歪んだ話です。それでも聞いてほしい」と高杉。 高杉の手は、情けなく震えていた。銀時は自分の体温が下がり続けるのを感じた。それでも奥歯を噛みながら必死に笑う。 目の前の松陽からは背後の壁が透けて見える。手を汚した生徒、澱みの中でしか実体を持ち得ない師であっても、両者を引き結ぶ笑みは、あの時のように澄み切っていなければならない。笑顔でなければならない。人生をくれた師との時間には、一片の歪みもあってはならない。 松陽が頷くのを見てから真摯に話を続ける高杉は思った。自分達は馬鹿だ、と。 歪みを最後の寄る辺としていた。武器として使っているだけだ、時代に飲み込まれたりはしないと念じていた。 それが、この様はなんだ。歪みの正し方すら明言できないだけではないか。 「先生。俺達の下には、骸が積み上がっています。様々な死体です。全部俺達が叩き斬った骸です」 「萩の山中で斬った。江戸に向かう時に立ち塞がった奴も斬った。天人も向こうについた忍も顔も見ずに斬った」 銀時も続ける。自分が一秒先に話す言葉も分からない、ましてや相手の言葉など分かるはずもないのに、カチリカチリと襤褸切れのような言葉の欠片が合わさっていく。 「攘夷戦争に加わってすぐの頃はまだ耐えられました。斬るのは異形の天人達ばかり。時には勝ち戦もあり、自分達が戦っている成果も少しは感じられ、死に行く仲間も苦しみ、もがき、泣き、でもある程度納得して逝きました」 高杉の暗い笑みには、隠しても隠し切れない自嘲があった。銀時は見ないふりをして言った。 「でもなあ、先生、次第に人間の血の方が多くなるんだ。その頃は知らなかったが、幕府は終盤には攘夷志士を切り捨てて和睦するつもりだったんだろうな……次第に、毎日少しずつ、人死が増えた」 言葉としての事実ならば「増えた」だが、実際はそんな生易しいものではなかった。 密偵の影に怯え、戦争を抜けた仲間がわずかの金と引き換えに陣中の情報を売った。絶え間ない天人の襲撃の狭間に物陰から毒矢が飛び、仲間が背後に守った人間に斬られることも日常になった。 「誰を信じていいのかも分からねぇ。……先生、俺はアンタの教えに背いたよ。裏切り者も幕府の密偵も、一言の話も聞かずに叩き斬った。泣こうが喚こうが、嫁さんの名前を呼ぼうが、いつか野郎のガキが俺みたいな捨て子になるかもしれないと分かって、斬った。話し合いなんざ、考えもしなかった」 血の塊に絡め取られた言葉を無理やり喉から引っ張り出したような、その懺悔はまさしく絶望だった。 「俺ァ、もっと酷い。俺はそいつらすら利用した。見せしめに、二重スパイに、囮に、捨て駒にすらしました。……先生、俺は貴方のよき生徒にはなれなかった……」 松陽は自分の心を容赦なく抉りながら息もせず話す生徒達を黙って見ていたが、銀時と高杉が吐き出し疲れて項垂れた時にようやく口を開いた。 「それでも、君達は護り抜いたでしょう」 静かに、疑問符を付けず松陽は言う。 「人は全ての者を救いたいと思うことはあります。その心自体は気高いものですが、全ての者を救うことは出来ません。何かを得ようとすれば、必然的に何かを失う。たとえ喪失に気がつかなかったとしても、得る前の自分を失っていることを考えれば、確実に失うと言っていい」 包容力に溢れ、深く膿んだ傷に優しく染み込むような微笑が浮かぶ。それは、この優しくはない世の中で一番優しかった人のそれをそのまま写し取ったような笑みだった。 「私は知っています、いや信じていると言ってもいい。君達は護った。その両手に、心に抱え込めるだけの人々を、確かに、だからもう」 「でも先生!俺ァ、最後の最後で捨てたんだ!護る者を!高杉も桂も久坂も入江も……本当に、皆だ!!」 松陽が最後まで言い切る前に、銀時の叫びが刺々しく割り込んだ。 そのあまりの荒々しさ、悲痛さに何か言いかけていた高杉も圧倒され、口が半開きのまま黙った。 「……護りたくて、俺を仲間にしてくれたこいつらだけは死なせたくなかったはずだったのに……俺は耐え切れなくなった。……人が敵に回り始めた頃から、死体の顔がなぁ、『何故』って歪んできたんだよ。不意打ちで、信じた仲間や庇った人間に殺されて、俺は何故死ぬんだって顔の骸がごろごろしてた。毎日毎日毎日腐るほど見て、もう耐え切れなかった。ああ、こいつらは、こんなにも世界を憂いて、先生を愛したこいつらが、俺とは全く違う真っ直ぐな魂のこいつらが、生きる意味も分からずこんな顔で死ぬのかと思ったら、もう駄目だった……俺ァ、最後の最後で逃げ出したんだ。剣も友もアンタの教えも全部捨てて……」 だからこそ銀時は、高杉や桂のようにかつての教科書を肌身離さずは持てないのだった。自分には持つ資格はなく、それでも捨てられない。中途半端に家の収納にいれ、毎日眺めるしか出来ない。 「あんなに望んでいたのに……俺は、抱え込めなかったんだ」 言葉尻は、叫びでも嗚咽でもなく、弱弱しく立ち消えた。涙は出ない。ただ情けないだけだ。 それでも、現在の生活も愛していて捨てられないとは言えなかった。 そこまで聞いて高杉が銀時の前に回りこみ、幼馴染の頬をゆっくりと両手で包んだ。しばらくそのまま触れていると、銀時のこわばった頬から少しずつ力が抜けた。 松陽に背を向ける体勢になった高杉は頬から手を離さず言った。 「俺もさ、銀時。……いや、皆、捨て合ったのさ」 銀時からは松陽の表情は見えない。全ての表情が消えた幼馴染の顔が見えるだけだ。 「先生……、皆、手前の魂一つ維持できずに捨て合ったよ」 敬語をつけなくなった高杉の声は、疲労に満ちていた。それしか残されていないにほとんど等しかった。 「俺ァね、鬼兵隊っていう部隊を創った。―――昔、俺が質問に行った時に、……ああ確かヅラと議論になったんだった……話しましたね。武士だけではない、階級ではなく志を持つ者で部隊を結成してはどうかと。俺ァ、部下達にこう言った。『俺について来い。死なねェなんて保証はしねェ。しかし、俺が俺である以上、鬼兵隊は生きる意味を持ち続ける。無駄死にはさせねェ、それぞれの護るものを護る力が腕に残る』と」 言葉を紡ぐ口だけが別の生き物のように独立して動き、顔の他の筋肉は微動だにしない。 「結果は悲惨だった。皆、無駄死にをした。幕府に売られたというのもあるが、その動きを察知できなかった俺の所為で奴らは全員死んだ。……一人残った俺は、仇を狙う。自分が納得するために、奴らの最後の願いすら捨て去って」 高杉はそこで言葉を切り、一瞬だけ目を閉じた。何か大切なものを置いていく直前の顔だった。 「鬼兵隊は無駄死にをし、俺は憂国の志を捨てた」 銀時も高杉によって隠された松陽に向けて続けた。 「俺は、何があっても護ると決めた友達を捨てて戦から抜けた。一人で逃げて、一人で居場所を探した。高杉や桂の生死も確認しなかった。奴らと同時に俺も死んだつもりで、捨てた」 「かろうじて生き残った俺と桂は、銀時を追った。こいつがどれだけ暖かい家族と平穏な日々に焦がれているか、一番知っていたはずなのに、それを無視した」 「先生。俺達は捨てたんだよ。優しい人間になって、一緒に幸せになる道を」 松陽が聞き分けの悪い生徒に対する慈愛を篭めて言った。 「まだ道は繋がっています。貴方達はよく戦った。もう幸せになってもいいんですよ。―――確かに私は、立体映像に過ぎません。しかし、魂は貴方達と過ごした頃と変わらぬ吉田松陽のものです。私は形はどうあれ"生き返った"。だからこそ、失われてしまった時間を一緒に取り戻したいのです」 「……そうなりてェよ。本当にそうなりたい」 銀時が、最後に残された思い出の欠片を吐き出すように言った。 高杉と再び視線が交わる。決断力と英知に溢れた友の目はまだ戸惑いに揺れていた。否、それは高杉の隻眼に写る自分の姿だ。 結論も結末もこれ以外はありえない。言わなければならないし、終わらせなければならない。 そう思っているのに、言葉が続かなかった。喉が声帯という機能を拒絶しているように強ばり、師が望むはずの言葉を紡げない。 吉田松陽は銀時にとって、人生をくれた人だった。親よりもなお深く、師よりもなお暖かく、「生きてていいよ」と認めてくれた人だった。だからこそ、分かってしまったことが苦しいと言ったら、きっと彼は自分達を厳しく叱るのだろう。 意を決して銀時が顔を上げようとすると、それより先に高杉の手が銀時の肩に置かれた。ぽん、と小鳥が止まるようにささやかなそれは、長い腐れ縁の中でも始めての感触だった。 「先生」 ふらつきながら立ち上がる高杉を銀時は反射的に支え、気がついた。肩にかけられた友の手が小さく本当に小さく震えていることを。そして、その震えの中に一つのメッセージがあることを。 高杉は松陽を正面から見つめ、ゆっくりと頭を下げた。 そして言う。いつも凄艶に笑う彼とは思えないほど、泣き笑いと怒りを混ぜた不器用な顔のまま。 「行けねェよ。―――アンタは、先生じゃねェからな」 誰もがその言葉を理解する前に、銀時は動いた。高杉が寄越した合図の通りに右足から走り出す。 「"危ない!!"」 松陽の叫びと、恐ろしく冷たい鉛が腹に落ちる音を聞きながら、一瞬で距離を詰めた銀時は一番左の役人の鳩尾を容赦なく殴った。その隙を突き、高杉が真ん中の男が構えようとした拳銃をむしりとる。ごきりと指が折れる音と甲高い悲鳴、銃声が時をおかずに牢内に反響した。 両腕でなんとか役人の眉間を打ち抜いた高杉は、水が滝から落ちるような自然さで横へと避ける。次の瞬間、空いた空間を銀色の光が切り裂き、最後の男が首から刀を生やして倒れた。 「……アンタやっぱり自由になれなかったんだな………」 新たな刀を拾い上げた銀時の顔は沈痛に歪んでいる。 本当は彼ではない要素を一つ見つけても、面影の要素で打ち消していたかった。 何度も何度も、かつて彼が否定した事柄があり得るかもしれないと思おうとした。 ―――だが、"松陽"は役人の方に危機を告げた。 「あのな、きっとあの野郎なら、『始めたのなら続けなさい。もしも止めるのなら、止めて有り余るほどの理由を刀に誓って示しなさい。幸せとはその中にある』とか言うんだよ。……厳しくて、馬鹿な野郎だから」 一筋だけ、涙が頬を伝って落ちた。 「なァ、アンタの遺言を覚えているか?」 両手で拳銃を松陽に向かって構えたまま高杉が続ける。 松陽は即座に答えた。 「幸せになりなさい。優しい人になりなさい。"きっとまた会えるでしょう。吉田松陽と生徒として"」 「―――違うんだよ、先生。あいつは、こう言ったんだ。"私は死にます。死は絶対的なものです。生き返ることも、私達がこの魂の形で再開することももはやあり得ません。さようなら。今まで、ありがとう"……って書いて寄越したんだよ!」 彼は、自分の死を認め、否応なしに突きつけた。あまりに厳しい最期の優しさだった。 銀時は刀を翳し、高杉も弾丸を確認して台座へと突きつけた。 「アンタは、俺から奪った記憶―――おそらく脳波の波長とかそういう奴だろう、包帯の下につけられた機械―――と、そこに転がってる役人どもが掘り起こした先生の遺骨をベースにして生まれた。実際そっくりだ。声も仕草も。だがな、よく聞け」 高杉と銀時は初めて声を合わせた。 抱え込めないほど大きい荷物を必死で持ち合おうとする、切実で絶望的な熱がそこにはあった。 「アンタが今言った言葉はな、愚かな生徒達が、聞きたかったと思っている言葉だったんだよ」 |