貴方は、生き方を教えてくれた。
貴方は、居場所を作ってくれた。
貴方は、いつでも愛してくれた。

貴方は、俺達の全てでした。だから―――




  六  段 
  





 「あのー、副長、もう少し休まれた方が」
 「うるせえ!!」
 とてもつい先ほどまで意識不明の重態だったとは思えない患者に怒鳴られ、山崎は肩をすくめた。そして、彼の回復を待ち望んでいたとはいえ、たまたま同室であった自分の不運を呪った。

 土方が、まるで悪夢から醒める時のように、唐突に目を見開いてから半刻も経っていない。目覚める直前にがくりと手が寝台から落ちたため、もしや死んだのではと不安になって覗き込んでいた山崎は、彼が目を開ける瞬間を見てしまっていた。ぎょっとするほど、恐ろしく思いつめた顔だった。
 「山崎ィ!次!」
 「はいっ!」
 その後、土方はナースコールを押す代わりに、あっという間に山崎が睨めっこしていた資料をもぎ取り恐ろしいスピードで目を通している。
 時間を見つけては、見舞いがてら報告やら会議やらに病室を使っていた近藤も沖田も今はいない。見舞いの花もなく、ただ少し日焼けしたクリーム色のカーテンが時折揺れる病室には、土方が紙をめくる音だけがする。そして、一枚、また一枚と読み終わった報告書が増えていくにつれ、土方の表情がどんどん固く、殺気を帯びていく。
 正直、今すぐ逃げ出したいが、それも許されないのは監察の悲しさか、否自分のなのだろうか。

 山崎は黙っている。理由の一つは、考え事をしている土方に何か言うと容赦なく怒鳴られること。もう一つは、最初の報告書を見た瞬間、何故かは分からないが切るような哀しみに歪んだ顔が気になったからだ。
 「おい、山崎。この斬られた連中、家庭は上手くいってたのか?」
 「そうですね、あまり上手くは行ってなかったと思いますよ。まあ珍しくはないことですが、家も空けることが多かったみたいですし」
 「いや、そういうことじゃねェ。……誰か、身内に恨みがある奴がいねえか、ってことだ」
 意外だった。あの刀傷を見れば、確実に攘夷浪士に容疑者を絞り込むと思っていた。
 「副長は身内の怨恨とみますか?」
 「両方。攘夷浪士にも、身内にも恨まれていたとしたらどうだ?どんなに警備しても避けようがない」
 「でも、そこまで大物じゃないですよ。贔屓目に見ても、出世街道から外れて日陰の地味な仕事をしているような―――

 閃いた。

 「それだ!!」
 思わず上半身を起こし、山崎は叫んだ。
 人の記憶に残らず、何をしているのか悟らせず、ひたすら地味に、しかしながら警戒を怠らず。よくよく考えてみれば、そんな職は一つしかなかった。灯台下暗しとはよく言ったものだ。

 「監察です。被害者は全員幕府お抱えの監察なんです。……ようやく思い出しました。知り合いの隠密を何年か前に紹介されたことがある。監察の中でも派手な動きのない連中でした」
 「……なるほど、な。すぐにこいつらが手がけた事件、人を当たらせろ」
 「はい!」
 既に、山崎は病室で携帯電話を開きかけている。
 逸る山崎を手で制し、土方は一瞬の間深い思索に入った。ほんの一瞬。その時間で、土方は決めている。

 「それから、吉田松陽の処刑に関わった人物を洗い出せ」

 迷いはなかった。
 優しく、素晴らしい場所だった。心に封じ込めた故郷を、無理やりではなく川の流れのように自然に思い出させられた。もっと会話を交わしたいと思ったし、彼らがあのまま育てばいいのにと真剣に思った。
 全てが現実ではないが、夢でもない。陰鬱な狂気を纏うテロリストは、間違いなくあの優しい空間に生きていた。
 恐らく最初に何かを違えたのは彼らではないだろう。そして、彼らが現在に流れ着くまで、数え切れない傷を負い、その膿に塗れてきたことだろう。

 それでも。
 土方の群青の双眸が、薄い氷のような鋭さで光る。


 食うか食われるか。
 それだけが、唯一確かな現実なのだ。



◆ ◇ ◆



 その夜は泥つき、粘り気を含んでいたのをよく覚えている。毎日苦戦続きだったが、それでも時折は勝利を収めることが出来、刀を振るうことで少しずつでも敵を排除しているという実感があった頃。陣営の炎に揺らめく夜は、かすかな希望と毎日のように溢れる死への恐怖と、それらを拭い去ろうとする狂気が混在し、粘々とした腐臭を孕んでいる。
 坂田銀時は、陣地としている空寺の本堂を通り抜け、10メートルほど離れた場所にぽつんと佇む土蔵に滑り込んだ。傷の手当はしたいが、皆がいる本堂で、攘夷の志だの誰の手柄だのという話に付き合う気もなかったからだ。あいにく、無駄話ができそうな友人達も戻っていない。

 かわしきれたと思ったのに、左の二の腕に大きな傷を見つけ、銀時は顔をしかめた。また、小うるさい仲間にぐちぐち言われることは間違いない。
 一度認知してしまえば、薄汚れた戦装束に滲んだ血の量は相当なもので、死人の手が纏わりついているように感じられるほど重い。上着を脱ぎ、手当てのために部屋に一つしかない灯りの近くに移動する。歪な蝋燭が削られていくかすかな音がした。

 「………うわっ、結構スプラッタじゃね」
 薄明かりで若干視覚的インパクトは軽減されてはいるが、20センチほどの傷は深く、赤い筋肉の影には考えたくない白がチラつく。これは、縫わなければ無理だ。動かしようのない結論に達し、銀時は深く溜息を漏らした。
 「しゃーねぇ、ヅラが帰ってくる前に縫っちまおう。左だし。……針、糸、何処だっけ」
 ごそごそと周囲に手をやる銀時だが、目当てのものに触れる前に、一番聞きたくなかった声が降り注いできた。
 「探し物はここだ」
 「げ」
 「げ、とは何だ」
 銀時は嫌々ながら、不機嫌な声の幼馴染が立つ背後を振り返った。
 「よォ、ヅラ帰ってたの。……何があった」
 どうせ説教だろうと軽口を叩こうとした銀時は、桂の姿を見た瞬間、凍りついた。無茶をするなと仲間をいさめる役割である桂の方が、銀時よりもずっと無残な姿に成り果てていたからだ。

 桂は腕どころか、ぱっと見ただけで太腿を大きく斬られ、胸元にも返り血ではない血がこびり付き、その他無数の傷を合わせれば、本当に体中が傷ついていた。
 彼は、銀時のために治療具を持って来たわけではなく、必要に迫られて持ってきたのだ。
 「ホント、どうした。テメェ立つのもやっとだろうが」
 銀時が肩の下から手をいれて身体を支えてやると、桂はすぐに力を抜き体重を預けてくる。自分達の中では最も軽いはずの身体は、ずしりと重く、銀時の心に青黒い恐怖と不安が渦巻いた。
 ここは、陣地の中でも最奥に位置し、重傷の身で、それも一人でたどり着くには相当厳しい。治療もせず救急所を抜けてきたのにはそれなりの、恐らくよろしくない類の理由があるはずだった。

 「なあ、銀時」
 傷に触らぬようゆっくりと桂を座らせ、自分も横に座ろうとすると、桂の深い紺色を湛えた双眸に見つめられていた。
 「……おい、ヅラ?」
 その紺色はどこか虚ろで、元々よくない顔色と相乗効果もあるのだろうが、不健康な静けさのまま固まっている。
 銀時は無意識に息を詰め、背中を冷や汗が一筋流れていくのを感じた。
 桂の口元だけが血のように赤い。その唇が、凍りつくような嗤いの形に引き攣った。

 「俺は、どうやら猛烈に怒っているらしい」

 見れば分かると半分冷静に思いながら、銀時は内心悲鳴を上げた。誰だ、こんな面倒な奴を怒らせたのは。
 なまじ外見だけは華奢で見目麗しく、誠実そうに見えるが、桂は仲間内では最も怒るとたちが悪い。 滅多に怒らないが、荒くれ者の中ではひ弱に見える分、嫌がらせの類はしょっちゅうだし、それ以上のことを強要する馬鹿も時々出る。そして銀時は、彼を怒らせた者たちの悲惨な末路を見てきた。半分は協力し、面白がってもいたが、正直に言えばびびった。
 淡々と、静かに、決して容赦しない。日頃は嫌と言うほど誇りだの卑劣な手段は嫌だなのほざくくせに、報復の手段も選ばなくなる。桂の怒りは、そういう怒りだ。

 「ヅラァ。―――テメーが怒るなんて珍しいじゃねェか」
 その時、音もなく扉が開き、新たな声が乱入してきた。白夜叉が休息する場所に割り込む人間はそうはいない。 少ない選択肢の中で、最悪の人間が訪れてしまったのを察し、銀時は再び溜息をつく。対照的に桂は嬉しそうだ。

 「高杉、丁度いいところに来たな。貴様が戻ったら話をしようと思っていた」
 「奇遇だな。俺もテメーらに話がある」
 そう言う高杉の顔は、暗闇の中でも分かるほど青ざめていた。そして、不敵な笑顔を作る下唇がかすかに震えているのを、銀時も桂も見逃さない。桂が凄愴な怒りを滾らせているとしたら、高杉は珍しくも怯えの表情―――恐ろしいものからようやく逃れ、平静を取り戻した様子だった。どちらにしろ、不吉だ。
 桂と高杉は、アイコンタクトだけでどちらが先に話すかを決め、桂が先となった。その間、銀時は土蔵の周囲に張った糸に鈴をつけ、立ち聞きを防ぐ。確実に、ろくな話は出てこない状況で、盗み聞きはありがたくない。

 桂は銀時の傷を、銀時は高杉の傷を、高杉は桂の傷を手当しながら、三人は一つの炎の中で顔を見合わせる。闇に閉じられた気がした。
 風のように素早く消えてしまう音量で、桂が話し出す。

 「今日俺の隊が参加した作戦内容は知っているな?」
 話を振られた二人は無言で頷いた。戦争に参加した当初は同じ隊で戦っていた三人だが、最近は別行動を取ることも増えてきた。それが当たり前に思えてきたし、相手の行動を確認した上で送り出す毎日にも慣れた。最初は猛烈に反対していた銀時ですら。
 今日は三人とも別行動の日で、高杉は武器の補給のために江戸へ赴き、銀時と桂はある天人の砦攻略に参戦した。その中で、銀時の隊と桂の隊は、指揮官によって左右からの遊撃の役割を与えられていた。
 「実は、知らないうちに囮にされてしまってな」
 桂はいたってさらりと言った。口調だけでは、まるでなんでもないことのように。
 「……何だと」
 銀時は自分の声の低さに驚いたが、どうやら同時に響いた高杉の声と共鳴したからだと分かる。
 「おかげで俺の隊は、俺を残して全滅だ。―――九人、死んだ。本堂では、指揮官が自慢げに彼らを英雄に仕立て上げ、自らの作戦の素晴らしさを鼓舞し、一人事実とともに生き残った俺を卑怯で惰弱とのたまっているさ。虫唾が走る」
 「解せねェな。テメーが怒っている本当の理由としては、弱いんじゃねぇか?」
 無駄な勇気がある高杉が口を挟む。激怒している桂を爆発させることなく、口を挟めるのは高杉だけだ。このタイミングを計る技だけは見事だと銀時も認めざるを得ない。
 現に桂は、薄っすらと笑っただけで続ける。
 「貴様は嫌な奴だな、高杉。こういうところに性格の悪さが透けるのだ」
 「今のテメーに何を言われても説得力ねェよ。それで?」
 「ああ、砦攻略のためにどうしてもという囮なら俺も受諾しただろう。それが侍というものだし、俺は国を守るためなら死を覚悟すると誓った」
 今度は銀時の気配が、剣呑さを帯び始めたが、高杉も桂もそれを故意に無視した。
 「だがな、聞いてしまったんだ。……俺の隊を囮にしたのは、指揮官が自ら大将の首を取るための一本道を作るためだったと。そして、最近幅を利かせている松下村塾閥の一角を崩すことに本当の理由があったと」
 壁に耳あり、障子に目ありとは本当だな。まさか祝勝会の裏で、酒の肴にしているとは思わなかった。桂の顔にもはや笑みはなく、無表情のまま、ゆらめく蝋燭を見つめていた。

 酒宴の喧騒が、夜の風を振るわせる。生き残った者達が、戦場で狂いかけた精神を人のそれへと戻し、死者を悼む儀式。死ぬかもしれない明日を忘却し、死者の残滓ごと昨日を封印してしまう、どこにも行き場のない宴は、たけなわの頃合だ。そして、土蔵の中には、その生々しい現実逃避すらなく、戦場の狂乱がそのまま息づいている。

 「……どいつだ、ヅラァ」
 溶岩が噴出す寸前のような押し殺した声で銀時が言った。
 「教えてもいいが、銀時、斬ってはいかんぞ」
 「なんでだよ!そういうのは俺の役目だ」
 「俺が同じ目にあわせてから殺すからさ」
 気負いも憎しみも滲まず、あっさりとした口調で桂は言う。
 「だろうな」
 さも当然という風に頷く高杉を銀時の壮絶な目線が貫くが、高杉は真っ直ぐに受け止めてひるまない。
 逆に、喚こうとした銀時の前に手を翳し、言葉を止める。
 「対象は、今日の作戦の指揮官、副指揮官。―――高杉、協力してくれるな?」
 「いいぜ。俺もあいつらは始末しておきたいと思っていた。無駄な身分制度を引き摺り、犠牲だけを増やしやがる。……戦で役に立たないばかりか、味方を殺す奴は死ぬ以外にねェ」
 「高杉!!そこまでやらなくても、俺が暗殺してくりゃあいいだろうが!」
 一応声は殺しながらも、我慢が出来なくなった銀時が二人に噛み付く。
 「それでは俺の気がすまん。それに、今、不審死をされてみろ。間違いなく疑いは俺か、銀時貴様に向く」
 「俺がそんなヘマするわけねぇだろ」
 「そうかもしれないな。だが、駄目なんだよ、銀時。同じ目にあわせて始末しなければ、また別の誰かが手柄ほしさに仲間を危険に晒す。―――見せしめが必要だ。お前も分かっているだろう?」

 分かる。本当は、骨身に染みて知っている。
 桂の言うことは、凶暴ではあるが正論でもある。裏切り者を処断し、軍規を正す―――それは、兵法の定石であり、戦場で戦う以上義務とも言える。桂も高杉も、今まで教わってきた物事に忠実なだけなのだ。
 「……でも、俺ぁ、納得できねえ。あいつごときのために、テメェらが薄汚れるなんてよ……」
 それでも、白夜叉と、鬼と恐れられる男は哀願していた。自分が汚れて、友が綺麗な魂を覚えていればいい。何故、自分に斬らせてくれないのか、と。何故、武士道や兵法なんぞというお仕着せの法則のために、修羅の道に入ろうとするのか、と。

 「銀時……」
 さすがに桂も戸惑いの表情を浮かべた。対照的に高杉の顔からは表情が消えている。
 銀時の苦悩が分かっていた。そして、彼一人に修羅を押し付けていることこそが、高杉と桂の苦悩だった。なんとも救われない。

 労りと苛立ちが混ざった沈黙が降り、互いの心を探りあうような目線が闇の中を錯綜する。
 いつのまにか宴の声が消えうせていた。加えて、激しい戦の日には必ずと言っていいほどある情交による衣擦れや喘ぎ声、誰かが声を殺して一人泣く気配すらない。
 気味の悪いほどに無音だった。そのくらい、追い詰められた空間だった。

 「銀時よォ、テメー勘違いをしてるだろう」
 その沈黙を、高杉の冷淡な声が破った。無表情のまま、その言葉は冷たい。
 「俺もヅラも、テメーに護られるためにここに来たんじゃねェ。侍として、先生の遺志を継ぐために来た」
 「……高杉」
 真っ直ぐに見つめられた銀時は、呪いにも似た音程で高杉を呼ぶ。だが、瞬時に立ち昇る圧倒的な怒りに曝されても、高杉の表情は全く動かない。
 「何故、怒る? 俺達は、あの日、戦争に出ると決めた。先生の無念を晴らす、と」
 「忘れるわけねェよ……そうだ、そうなんだけど……」
 何かがおかしくて、このまま流されてはいけない気がする、と銀時は思う。だが、決して先生を殺した幕府も天人も許す気持ちはなく、殲滅したいと思っている。戦争に出るという決断も、親が反対していると知りながら高杉を誘ったのも、皆の剣を実践型に仕立てたのも、紛れもなく自分の決断だ。
 では、この身を切るような不安は何なのだろう。戦場に蔓延する死への恐怖とはまた別の、脳の血管が波打ち、思い出しては一生後悔する選択を踏みとどまろうとする切実さを孕んだその痛みを、俺は知らない。

 先生。助けて、俺達はもっともっと間違った道に行ってしまうよ。
 でも、どうすれば幸せになれるのか分からないんだ。

 「―――分かった」
 がくりと肩が落ち、ようやく搾り出した自分の声は、情けないほどに掠れているかと思いきや、低く湿った声だった。
 「分かったから、死ぬなよ。頼むから……」
 銀時の腕が、高杉と桂の肩を力任せに抱き抱える。二人は反動で互いの頭をぶつけたが、銀時は気にすることなく、触れ合った二人の肩の狭間に顔を押し付ける。言わずにはいられないが、絶対に顔は見られなくない。
 「侍とか、武士道とか、作戦とか、そんなもののために死ぬなんて言うな。絶対死ぬな……!」
 「銀時……」
 高杉と桂、二人の目線がしばしの逡巡を経て、するりと合わさった。人が、帰るべき家にたどり着いたときのような、当然の帰結に似ていた。
 「顔を上げろ、銀時」
 先ほどの冷えなど忘れたかのように、優しく穏やかな桂の声に、銀時は思わず顔を見上げる。
 昔は、自分が宥め、戦場の厳しさを説いたはずの幼馴染は、既に侍の顔をしていた。
 桂は言う。怯える子どもに言い聞かせ、安心させるように。
 「涙を覚えている俺達はまだ大丈夫だ」
 そして、高杉が一つ呼吸を置いてから、覚悟を決めて付け足した。
 「だからな、もう一つ話をさせてくれ」
 いつのまにか、高杉の声には抑えきれない怯えと悲しみが戻ってきていた。

 本当は大丈夫でなどなかったのだ。この頃から、俺達の涙は人として流すものではなく、人であるために流すものに変わっていたのだから。誰もそのことに、目を向けようとすらしなかったのだから。
 そして、今から思えば、あの話を聞いた時、また未来を削り取られていく予感だけはあった気がするのだ。



◆ ◇ ◆



 こつこつ、と嫌に大きく足音が反響している。数人分の耳障りな音が、くすんだ天井に上り、はね返る。頭上からは、闇を蹂躙するかのように白く輝く蛍光灯の光が降り注ぎ、脳天を焼いた。
 不健康で汚れた光を浴び続けているからか、さっきから白昼夢が酷い。壊れたラジオのように、ブツブツと途切れながら、戦場の記憶が再生される。基本的に雑音と肉を絶つ音。その間隙に、この世の終わりのような昏い目をした俺達の愚かな会話が挟まる。何も知らなかったくせに、まだそこは地獄の門前ですらなかったというのに!

 次の角を曲がれば、高杉が繋がれている部屋のある通路に出る。特に抵抗もなく高杉を犯し、金を受け取って帰る銀時を見て、付き添いの役人二人は油断しているらしい。最初は銀時を前後で挟む形で移動していたが、ほんの少し身体を動かし、最後尾に回っても何も言わない。それどころか、少し前を歩きながら談笑している。

 (ナメてくれるぜ……)
 恐らく、白夜叉の正体を知った上で呼び出しておきながら、自分の前をたった二丁の拳銃だけで歩く。目隠しも手錠もない。奴らのその安堵感は、権力に支えられているかと思うだけで胃が焼きつくようだ。今すぐ、この澱んだ空気のせいで体内に蓄積された澱を吐き出したい衝動に駆られる。
 そんな連中に、自分の、そして友の人生をこれ以上左右されるなど我慢がならない。

 荒れ狂う心を抑え、じりじりしながら銀時は待つ。
 二人の役人が、角に消え、自分が曲がるまでのわずかな一瞬。それが、勝負だった。


 音もなく空気が震えた。
 深い澱みを真っ直ぐに切り裂かれる。
 銀時は先ほどと変わらぬ速度で歩きながら、無造作に両手を伸ばし、その切断面を掴む。

 次の瞬間、右手には木刀、左手には真剣が握られていた。

 流し目だけで、相手を労うと天井からほんのわずかな動揺が降りてくる。
 (眼鏡さえかけてれば、こういうことも出来るんだよなぁ……)
 心の半分で感心しながら、だがもう半分では、忍の力でもこの施設の目的が分からなかったことに嫌な予感を感じる。もし目的が分かれば、鞘に巻いた紙で知らせてくれるように頼んでいたのだ。

 「そういえば」
 「何です?」
 両刀を器用に足の影に隠しながら、銀時は二人の役人に歩み寄る。足を前に出すタイミングと、手首を動かすタイミングが絶妙にかみ合い、刀は全く見えない。死んだ魚のような目で、だらりと力を抜いていて、全く警戒心を呼び覚まさない。
 「ここの施設? 職員の人って、全員長げー間働いてるんでしょ?よく、嫌にならねえなー、と思って」
 「は?」
 「毎日毎日この薄暗さでしょ。多少立て替えたらいいのに。新任の人とか文句言わねえんすか?」
 問われた役人は、二人揃って苦笑と慢心が入り混じったような笑みを浮かべた。
 「さあ、ここ十年ほど新任は入りませんので。最初から選び抜かれたメンバーなんですよ」

 「―――へぇ?」

 怨敵へ引導を渡すかのような、低く押し殺した声が、銀時の薄い唇から洩れた。
 その音が、相手に伝わるか伝わらないか。銀時の木刀が、容赦なく襲い掛かった。


 どさどさ、と人が地に伏す鈍い音が、嫌に甘美な音を発して廊下を駆け巡る。
 一瞬の早業で二人を倒した銀時の口元には、感情のこもらぬ酷薄な笑み。


 「よかったよ。さすがに昨日今日に異動してきた人までは、アレだな、と思ったたけど全員でさ。遠慮なくブチのめせる」


 最後は、どこか甘さすら漂う声音。
 間を置かずブレーカーが落ち、辺りに漆黒の闇が降りる。非常電源が入るまで、調査によれば約十秒。その時間が過ぎてしまえば、鍵は通常通り二人分の指紋認証、それも異常がないか脈拍測定を入れた上での電子鍵に変わってしまう。

 足元すら見えない闇の中、銀時はすらりと真剣を抜き、目を閉じる。この鍵の内部構造は最優先で調べてもらった。内部には複数のパーツが組み込まれていて、認証が完了すると、パズルのように組み合わされて開く構造。一つのパーツで出来ていない分、単純に破れないが、刀で斬れば可能性は高い。扉の隙間は無論見えない。しかし、銀時は先ほどまでひたすらその隙間を注視し、彼らを倒した時から一歩も動いていない。記憶の通りに刀を振るえばいい。

 数ミリの空間を刃先だけで切り裂き、鍵を外すと、銀時は体当たりする勢いで部屋に飛び込んだ。



◆ ◇ ◆



 死の謡いが聞こえる。周囲を震わせ、魂を凍らせるような音が、無表情の幼馴染から発せられる。
 桂の話が終わり、雑然とした夜は戻ってきていた。酔っ払いどもの笑い声に涙と情欲が容赦なく混ざりこみ、陣内のごちゃごちゃとした空気が流れてくる。相反する感情とその場限りの慰め合いの連鎖反応で、酷く五月蝿く汚らわしい生命力が渦巻く。猥雑で、病んだ夜に閉じ込められながら、高杉は名前も知らない誰かを呪っていた。

 「武器の調達は早い段階で終わった。さァ、帰ろうって時に、俺ァ、道を間違えたと思った。あの河原を通った」
 高杉を怯えさせる河原などこの世で一つしかない。あの人を永遠に連れ去った場所以外には。
 「戦が終わるまで行かねェつもりだったのに、見てしまえば消せなかった。情けねえことに、いろんなことが渦巻いて、倒れそうになった」
 砂利の上には、雲ひとつない青空が輝いていて、光の粒が見えるほど澄んだ太陽の光が河原の全てを照らしていた。それは、許されないほどに、美しい光景だった。
 「先生がまだいるような、温かくて澄み切った場所だった。もう、俺達の手は血まみれだというのに!」
 あの場所は、陰惨でなければならなかった。桂が子供をあやすように、高杉の背をさする。
 高杉はその手を振り払うでもなく、呼吸を整えてから続ける。
 「居てもたってもいられなかった。指揮官に断って、こっそり先生の墓を見に行った」

 刑死した師の墓は、江戸にある。せめて萩に戻したかったが、幕府から埋葬許可が下りなかった。
本来、刑死した者は野晒しにされた挙句、打ち捨てられるのが常だ。塾生達は、役人を斬り捨ててでも遺骨を取り戻す気でいたのだが、若者達の暴発の気配を感じた長州藩が動き、なんとか江戸の隅に非公式に埋葬する運びとなっていた。
 高杉は、足を向けられなかったその場所に足を向けてしまった。

 新緑と季節の花に溢れた萩とは比べ物にならない、うらびれた場所。乾ききった砂と粗末な墓石、色彩を失ったひなびた花の風景が寒々しく広がっていた。
 彼の人の熱がこのような場所に流れ着いた哀切が胸に迫り、同時に自分達の果てを思わずにはいられなかった。どんなに手を汚し、理想を叫んだとしても、自分達が世界に受け入れられることはないのかもしれない、と。

 「そこには、五人の先客がいた。知らねェ顔だったが、誰かの親類が偲んで墓参りに来たのだろうとしか思わなかった」
 だが、無意識に高杉は足音を殺していた。何故、そうしたのかは分からない。
 足音と気配を押し殺し、次第に見知らぬ者達の後姿が大きくなっていく。彼らは裃姿で、二人はだらりと背を丸めて葉巻を咥え、一人は墓石に腕を置き、笑っている。間違っても、墓参りの姿ではない。
そして、残りの二人は―――ふざけあいながら、その墓を掘り起こしていた。


 吉田松陽の墓を。
 かけがえのない師の遺骨が納められた場所を。
 人を見る目ではなく、物を見る目で。嘲りの表情すら浮かべて。


 高杉が気配を殺せていたのは、そこまでだった。
 誰何すらせず、間近にいた一人の首を刎ねた。葉巻が落ち、白い煙が揺らめく。その間隙を縫い、刀が走る。

 「気がついた時には、首なし死体が五つ、辺りは血の海だった」
 本当なら誰何の上、一人は生け捕りにするべきだった。そんな基本すら思い出せなかったほど、高杉は混乱していた。
 「天人じゃねェ、人だった……武士だった…」
 何故、人なのか。先生が最期まで信じた人が、何故彼の墓を不遜にも踏み荒らすのか。
何かが大きな音を立てて崩壊していく音を聞きながら、死体を川に捨て、刀の血を拭う。そして、力任せに墓の周りの砂を掘り、新たな砂利と変えた。爪が破れ、血と泥が交じり合った砂が皮膚に食い込む。だが、汚れた血を先生の墓に触れさせないことが最優先だった。

 銀時と桂はようやく高杉の指が砂によって切られ、乾いた血に塗れていることに気がつく。怪我が日常になりすぎて、こうして鈍くなっていくことが恐ろしい。

 「……どれくらいかかったか分からねェ。とにもかくにも、作業を終えた時、ようやく思った」
 嗚呼、無音だと。誰も何も語らない、と。
 優しい人になりなさい。人を大切にしなさい。そして幸せになりなさい。先生は、そう言った。俺達が喧嘩をしたり、遊び半分で叩き斬ってやると叫んだり、落ち込んだ顔をすると、そう言って諌めるような慰めるような笑みをくれた。
 彼が眠る場所では、諌める声も、慰める声も、嘆く声すら聞こえなかった。

  「俺は、……俺はっ、先生の前で、人を斬ったんだ……!」
 血を吐くように高杉は叫ぶ。
 戦争に出る時、覚悟はしていた。斬るということ、幸せな日々を捨てるということ、そして死ぬことを、恐ろしい喪失感の中で。先生の無念を晴らすためなら、何でもしてやると思った。その選択を悔いたことはない。
 高杉の腕が彷徨い、一番近くにいた銀時の肩を乱暴に掴む。
 「先生の教えを裏切った……それなのに、何もねェ…!なあ、銀時、教えてくれ!先生は俺をどう思ったのか!」
 糾弾も、嫌悪も、怒りも何もなかった。
 その瞬間、電撃に貫かれるように、高杉は気がついてしまった。
 「………先生の声が、聞こえねぇんだ………っ!!」
 戦場で日々が痛んでいくように、先生の面影が薄らいでいく。かつては何処にいても思い描けた声が消えうせ、彼の気配が世界に溶ける。

 すがりつかれた二人に、幼馴染の変貌を気遣う余裕はなかった。自分達も、ただ必死に記憶を探り、優しい面影を掴もうとする。その行為は、果てない絶望だった。傷ついた足では早く走れず、温かい影は汚れた両手を避けるようにして逃げていく。

 「ははっ、俺達、何してるんだ……」
 誰のものかもわからない自嘲が傷ついた闇に寄り添う。もはや互いの顔が見えにくい。
 この調子で忘れていくのか。肉を絶つ感触だけを胸に、先生と過ごした日々も、幼馴染の温かさも。
 「なあ、少し前にもこんな話をしたな」
 そう呟く桂の端正な顔は、赤く濡れる口元しか見えない。
 「そうだったなァ……。萩の話をした」
 高杉の疲れきった声が応じる。
 正確に言えば少し前という言い方は正しくない。戦闘があった夜には、その時々で面子は変わるものの、何らかの思い出話に耽ってきた。段々と語ることが少なくなっていく、そんな中で。戦場の濃霧に消えていく思い出と自らの志を繋ぎとめるために。
 薄らいでいく面影に気がつかない振りをしていた。―――いつか、耐え切れなくなった誰かが言うと分かっていた。
 「先生の無念を晴らそうとしたな。だが、……先生は帰らない。俺達は最初の約束をなんとか守るため、何かを守ろうとした。覚えているか」
 張り詰めた諦観の中、桂が言った。
 「守ろうとした。譲れない何かだった。ああ、それなのにどうして思い出せねェ……」
 高杉が嘆く。本当に守りたかったものは失った。その中でも、まだ何かを守ろうと誓い合ったはずだった。触れる友の熱も、怪我の痛みも、薄らぐ過去の中では全て腐った水のようにどろりとしている。まるで蜘蛛の糸のように絡みつき、俺達を萩とは程遠い戦場に閉じ込めようとする。
 「忘れちまう!先生の面影を!先生に誓った何かを!俺達が飽きるほど他のものを失いながら守ろうとしたものがなんなのかを!!」
 銀時が喚き、誰かの涙が誰かの頬を濡らす。

 こうして自分の絶望を無理やり共有しあうことで、俺達は堕ちていく。堕落は、思い出を喰らう。
だが、同時にその堕落こそが何とか先生が愛してくれた人である俺達を守る最後の手段でもある。

 耐えられないと思った。
 絶望的な己の果ての想像には耐えられる。慢性的な仲間の死も、心を殺して耐えてみせる。
 だが、先生と友と過ごした記憶が奪われるのは―――自分を形作る根幹からあの人が消えるのだけは耐えられない。


 具体的にどのようにしてあの約束を決めたのかは、よく思い出せない。恐らく、先生の面影が薄らいでいくように、自分達が一緒にいられなくなるかもしれない予感はあったのだと思う。そうでなければ、説明できない。
 暁天も近くなった頃、三人は鞘を払い、刀身を合わせた。

 「誓おう。たとえ、この後俺達の道が別たれて、」
 「どんな境遇になったとしても、たとえ憎しみすら生まれたとしても、」
 「先生を汚す者が現れた時は、必ず集う」

 それぞれが刃先に親指を突きつけると、すぐに血が滲み、刀身を伝って床に流れる。
 一滴、二滴、三滴。誓いの血が混じる。後に自分達の首を絞めることになる因果の糸に編みこまれる、紅。

 「先生を汚す者が現れた時、最初に気づいた一人はこう言う」
 「神も仏もあるものか」
 「それを聞いた者は、生きている限り、何を置いてでも真偽を確かめ戦うか返答する義務を負う」
 「自らの魂にかけて」
 「俺達の故郷にかけて」
 「先生への感謝をこめて」

天人の脂を使った蝋燭が切れ、炎が消えた。



◆ ◇ ◆



 「高杉!!」
 部屋に一人で駆け込んできた銀時を、高杉の隻眼が見据える。救いの到着にも全く表情を崩さず、動こうともしない。返答を聞くまでは、口をきくつもりがないのだ。
 高杉という男は昔からそうだった。真摯で厳しく、時に驚くほど誠実な男。それを知っているからこそ、言うべき言葉は一つだ。

 「行くぜ、高杉ィ」

 気だるい声を発する男の死んだ魚のような目が獰猛に光った。
 高杉の主張の真偽はまだ分かっていない。だが、銀時の腹は決まっていた。紅桜の時は酷い目に合わされ、容赦なく追い回されているとしても、高杉が自分を謀っているなどとは微塵も思わなかった。あの張り詰めた目と隻眼に篭められた先生への思慕だけで、信頼に値する。

 彼に「行くぞ」と声をかけるのは、一体いつぶりだろう。時間もないのに、高杉の元にたどり着く数秒の間に自問する。
 嗚呼、わざと気だるげな声を出しながら、緊張と殺気を纏った彼が、鬼兵隊壊滅の地へ出陣する時以来だったろうか。

 「……来るのが、遅ェんだよ…」
 憎まれ口を叩き、にたりと高杉は笑うが、明らかにほっとした表情がよぎる。沖田に左肩も右腕もやられ、度重なる拷問で体力も限界にきており、声も掠れて聞き取りづらい。
 「うるせーっての。こっちだっていろいろ準備があんだよ」
 「そりゃ、ご苦労さん」
 「ああ、おかげで俺はカタを付けたら納豆プレイかSMプレイを強要される羽目になったぜ」
 軽口を叩きながら、銀時は刀を一閃させ、高杉の手枷と足枷を外す。
 「……っ、」
 「おっと、テメェふらふらじゃねえか」
 途端に足の力が抜け、崩れ落ちそうになった高杉を銀時が支える。凄絶な傷跡に、ぞっとした。
本来ならば、高杉は世界に憎まれる人生など生きる必要はなかった。唄か詩でも謡って生きていっただろうに。
 「―――行くぞ、とりあえず俺の肩からずり落ちるなよ」
 銀時はその感傷を振り払い、高杉の動かない右腕を引き摺り上げ、肩に乗せようとした。

 「待て、銀時」
 はっきりとした口調で、高杉がそれを押し留める。そして、忌々しそうに自分の包帯を―――残った右目のすぐ上の部分を指す。
 「ここを斬れ」
 「はぁ!?」
 「ここに忌々しい機械が固定されてるんだよ。幸い、埋め込まれてはいねェから、斬れば何とかなる」
 さあ、早く。そう言って高杉は目を閉じ、動かない。
 一歩間違えば、右目どころか脳を斬られて命はないというのに、危機感も恐れもない。銀時に斬れなければ、誰に斬れる――そう言っていた。

 こうなったら高杉は梃子でも動かない。議論するだけ時間と体力の無駄だ。

 銀時も口を開かず、紅の双眸を一瞬細めた。
 間を置かず生み出されたのは、無理のない動きに支えられた優美ともいえる刀捌き。目を閉じていた高杉も、そのあまりに美しい軌跡を感じた。

 カラン、と間抜けな音を立て、鈍い銀色をした細長い機材が床に落ちる。
 機材の残骸を素早く回収し、今度こそ高杉は銀時の肩に寄りかかろうとした。無論、銀時もそのつもりだった。



「銀時。晋助」



声が、その声さえ、かからなければ。

身体全体を眩暈がするほどの衝撃が駆け抜け、凍りつく。自分の身体が軋む音すら、する。
二人は、全く同じ表情で固まったまま、一歩も動けない。


「二人とも、大丈夫ですか?」


かつて、くだらない悪戯の結果、ぼろぼろになった自分達に、苦笑と慈愛を織り交ぜた声で先生は言った。「大丈夫ですか」と。その後、事情を聞いて拳骨になる場合も多かったが、とにかく最初は自分達の無事を聞いてくれた。

思い出せないと嘆いた日々が嘘のようだった。
間違えようのない声。

誰よりも愛しかった人の。


振り向けない。
数十の行動と、幾万の言葉が身体の中で渦巻いているのが分かるのに、何一つ選べなかった。


「大きくなりましたね」

「……先生…………」


必死に声を振り絞ったら、水分という水分を吸い取られた後の、乾いた呼吸のような声が出た。
がくん、と高杉の身体から力が抜け、それに引き摺られる形で銀時も膝を突いた。