五 段 下 高杉は焦っていた。 不安と焦燥が交互に浮かび、胃が焼け爛れているのではないかと思うほど腹が痛い。何度かその痛みを取り除こうとして、高杉は吐いた。喉が酸に痛み、もはや吐く物すらなくなった空洞の腹も焼け爛れたようなひきつりがある。高杉が牢の中でもがき、吐しゃ物にまみれている姿を何人もの役人が面白そうに眺めていく。 だが、そんなものを気にしている余裕は何処にもない。後、半刻もしないうちに銀時が連れてこられてしまう。 (ヅラは、おそらく掴んでねェ……) 自分も情けないことだが、此処に来て始めて知ったのだ。桂も知らない。そうでなければ、別の計画を練り上げるはずがない。 何を置いてでもここにいる人間を全て始末しなければならないのに、別の"糸"が動き始めてしまう。いや、桂のことだ、既に動かし始めているだろう。その上、自分も桂も互いの"糸"を理解していないという余計なオマケ付きだ。 今、打てる手は全て打ったが、致命的に高杉には力が足りなかった。鬼兵隊の母艦は宇宙にあり、戻ってきてほしいが、戦力としては換算できない。 考えなければならない。だが、深く"考えてはならない"。 包帯の下に埋め込まれたあの忌々しい脳波計がどの程度思考を読めるのかは分からないが、下手なことを考えれば―――その先は、高杉にとって死よりも耐え難い。 (銀時……) 偶然か必然か、こんな世界とは無縁になりたかった男が来た。日頃は帰還を臨んで止まない銀時は、今の自分には致命傷だ。彼は封じなければならない記憶を呼び覚ましてしまい、そして自分は耐え切ることが出来ないだろう。 だが、裏を返せば何の力も持たない状態で刃となる可能性があるのは銀時だけだ。その手は打った。それも正しすぎる方法で。 銀時の考えは読めないが、答えは分かっている。彼は、俺達の全員を捨ててもあの人だけは捨てられない。だが、思考に沈殿した不安は消えない。何故だろう。 かつて戦場に在る時、銀時はいつでも力強い存在だった。決して言いたくはないが、どんなに負け戦でも、彼の銀髪が戦場を舞うだけで力が湧く気がしたものだ。だからこそ、その力強い光が見えないことに焦燥する。 高杉は思う。そして、そう思ってしまう自分に焦る。銀時でも勝てないかもしれない。また守れないかもしれない。本来、それは決して思ってはならない不安だ。 その中で、祈る。 助けてくれ、銀時、と。 もう忘れたはずの祈りの中。焦りの底には、更なる怯えがある。 心の最奥にあるあまりに冒涜的な願望。それを自分が押し殺せている間に、早く。 二度と会えないあの人が目の前に現れたとしたら―――それが、どんなに彼を汚す行為の結果であったとしても、自分は、否自分達は想像もつかないほどの歓喜に身を寄せてしまうのではないか。 怖いと思った。嘲りも怒りも出てこないほど、純粋に恐ろしかった。 ◆ ◇ ◆ 青灰色のタイルが空一面に敷き詰められている。今にも剥がれ落ちて、降り注いできそうだと全蔵は思った。 「やってられるかっつーの」 コキコキと肩の関節を鳴らしながら、げんなりと彼は呟く。突然呼び出されたかと思えば、胡坐もかけない座敷に通され、挙句の果てに肥えた顔に恐怖を醜く貼り付けた幕府の高官たちに「護衛」を頼まれたのだ。ついていないも極まりない。 その背後にある事件の概要は知っているが、正直どうでもいい。関心があるのは、気が乗らないがこの依頼を受けなければ、家賃が払えず家を追い出されるという厳然たる事実だけだ。 何をするにも金金金。金を生み出し、痔の特効薬を生み出せない世界なんぞ壊れればいい。そう現実逃避と破壊癖の間を取ったようなことを思った時、視界にいいものが映った。 イラつく時は友人に愚痴るに限る。そう決めて歩き始めた全蔵は、その友人が更に面倒事に巻き込まれていることに気がつかなかった。 「全蔵のくせに何苛々してるのよ? アンタにそんな人権があったとは知らなかったけど」 「テメェ、挨拶もなしに暴言たぁ、いい度胸だな!」 その友人―――猿飛あやめは、全蔵が店に足を踏み入れると同時に振り向きもせず言った。しかも、言うだけ言って次の瞬間には持っていた本に目を落としている。 彼女は、なじみの古本屋で、山のように本を積み上げ熱心に立ち読みしていた。全蔵も店主に会釈し、あやめの方に近づくと、違和感に眉をひそめた。この幼馴染が本を読まないとは言わない。だが、読む本といえばSMの本か恋愛本(この組み合わせを何とかしない限り、永遠に用途は果たせないと思うが)と相場が決まっている。今、彼女が積み上げている本はどうみても古く色あせた教科書やら思想書やら、自分達には縁のない世界のものだった。 「お前、いつからそんな読書家になったんだよ?」 「昨日と今日の間くらいからかしら」 全蔵が来たことでそろそろ潮時と思ったのか、あやめは本を閉じ、積み上げた全ての購入を宣言する。そして、くるりと振り向く。薄紫の髪が、埃と紙と紙魚の臭いがこもった空気をなぎ払った。 「全蔵、昼はまだ?」 ちょうどそのつもりで声をかけたと頷きながら、全蔵は店主がレジに持っていく本の一番上だけを盗み見た。 分厚い思想書、著者名は「吉田松陽」。 誰にも話を聞かれないところがいいと意見が一致したので、コンビニで弁当を調達し、全蔵の家に移動した。今更気にする仲でもなし、どちらの家でもいいのだが、あやめの家に大量に散乱したグロテスクな大人の玩具の中で話をしたくなかった全蔵は自分の家を提供することにしたのだ。 「ビール飲むか?」 俺は飲む、飲まずにやってられるかと全蔵は言う。 「私はいいわ。仕事だから。アンタもじゃないの?」 「今、その仕事をどうやって断ろうか考えてるからいいんだよ」 「ふーん、じゃあこの家に入れるのも今日で最後ね」 「それを言うなァァァ―――!!」 目まぐるしい会話の中で、薄紫色の髪の幼馴染はものすごい勢いで弁当を片付けている。そろそろ一人前を平らげ、予備に行きそうだ。 (禁酒、この食欲……よっぽどハードワークだってことじゃねぇか) 長い付き合いのせいで、様子を見れば仕事の規模が大方分かる自分が本当に嫌だ。 「全蔵の仕事って、例の鬼に殺されそうな幕臣の警護でしょう?」 一人文を平らげたところで、あやめが悪戯っぽく笑った。ろくなことを考えていない時の笑い方だ。 「なんで知ってるんですかコノヤロー」 「最初に私のところに依頼が来て、断る口実として全蔵を紹介したからだったりしたら怒る?」 正直そんなところだろうとは思っていたが、彼女の気まぐれによって、朝早くから汚い老人に呼び出されたかと思えば腹も立つ。金もないとは言え、仕事を選びたい駄目な自分の性分が憎い。 「おかげでえらい目に遭ったわァァ―――!!汚いおっさんたちが、24時間警護しろとかほざくんだぞ!大体、あの鬼の狙いなんざ少し考えれば分かるだろうが!テメェらなんかそもそも歯牙にもかけられてねーよ!」 「と、言いたいけど言えなかったわけね。まぁまぁ、ビールを飲みなさいよ」 「社会人だからな。おう、ありがとうと言いたいところだが、これは俺の家のビールだ」 ぐい、と最後の一口を飲み干した瞬間、あやめの目がきらりと光った。 それは、自分の目との反射かもしれない。 空気が変わる。張り詰めたとか、命のやり取りの前の清涼さとか、そんな美しいもんじゃない。起きたくないが、寝ぼけながら布団から這いずり出るときのような。バイトの面接のために作り笑いをするときのような。少し面倒なライフワークに戻っていく、そのための生ぬるい空気だ。結局、どこに行こうとも、誰に惚れようとも俺達はここに戻ってくる。 「おい、お前が依頼を俺に押し付けたのは、行くだけ無駄だからか?」 一応聞いたが、なんとなく彼女も「鬼」の行動を読んでいると全蔵には分かっていた。 「そうよ。だって、一日目の3人を見れば分かるでしょ。それなら、愛しい銀さんにラブアタックするべきだわ!」 「んなことだろうと思ったよ……」 半ば以上諦めきった全蔵が溜息をつくと、でもね、と甘い声音で否定が入る。 「断って頂戴。それで、私の仕事を手伝って」 聞いた瞬間、最初から自分は巧妙な罠に嵌められたと全蔵はようやく自覚した。 はっきり言わなくても、この幼馴染を本気にさせるような事件に巻き込まれたくない。 「いや、無理。汚いおっさんはごめんだが、金が入らないと家を追い出される」 先ほどまで断る気だったにもかかわらず、全蔵はしれっと言い放つ。自分と同じく大して金回りのよくない幼馴染はこれで引き下がるか、いや引き下がってくださいお願いしますと祈るが、そもそも空気を読んでくれる幼馴染など存在しない。 あやめは、自信に満ち溢れた笑顔で、断言した。報酬なら素晴らしいものがあると。 「一応、聞くけど」 「銀さんと好きなプレイが堪能できるのよ!!蝋燭でも鞭でも言葉責めでもなんでもよ!!こんな千載一遇のチャンスは二度とないわ!!私の銀さんなら、全蔵にも同じ報酬を与え、十分に満足させてくれるはずよ!!」 「アホかァァァァ!!」 そう叫んだものの、多分逃げられないだろうなと諦観だけが染み渡り、ビールが苦くなっていった。 ◆ ◇ ◆ 青い月光が部屋に降り注ぎ、畳の緑と溶け合っていた。灯りはなく、月の光だけで浮かび上がる教室の全貌は、どことなく物寂しい。聞けば、月明かりの夜に灯りをつけないのは吉田松陽の方針で、戦時に備えてのことだ。 畳には、銀時と高杉が仰向けに倒れていた。月光の反射のせいだけでなく、顔色が悪い。 「うぇ……気持ち悪ィ」 「テメェのせいだぞ……銀時…」 「無茶言うな、アレ、修復不可能な兵器だぞ……」 そこまで言って、話しているほうが気分が悪いと声を揃え二人同時に黙った。変なところで似た者同士らしい。 「……っ、」 何か言おうとしたが、土方の口から洩れたのはかすかな息だけだで二人には届かない。何を言っても許されない気がして、この月光が不吉の確かな予兆であるように思えて、喉が焼け爛れた気がする。 最初ここに来た時、自分は銀時や高杉、そして桂の変わり様に愕然とした。銀時についてはその身に巣食う荒涼に驚いたが、高杉と桂は現在の姿にどうしても結びつかずまともに対応できなかった。 だが、今わかった。彼らの真実は、ここだ。自分達にとっての真実が、近藤の町道場から変わらないように、その地位は絶対的なものなのだ。 戦に備えて灯りを置かないというが、彼らは戦に全てを蹂躙される未来を少しでも予感していたのだろうか。そう考えると、恐らくこの感情はエゴイズムだろうが、堪らない気持ちになる。 攘夷戦争のことは、この時代に生きていれば誰だって知識としては知っている。吉田松陽を始めとする思想家の無残な最期も、侍達の負け戦も、その中で、人が死んでいくにつれてちらほらと名が聞こえ出した、白夜叉や高杉、桂、坂本らの一派も。 そして、どことなく似通った英雄達が、決別するまでにどれだけの血の涙を流したのか。高杉と桂の目を苛烈な陰鬱が埋め尽くすまでに、彼らはどれだけ裏切られ続けたのか。そしていつでも誰かを守ろうとする銀時が、彼らの手を離す瞬間、彼は何を思ったのだろう。 ―――すぐに逃げろ。先生と一緒に、武士の地位など、憂国の云々など捨てちまって逃げろ。 その時、目を伏せた土方の背後の襖が開き、腕まくりをした桂が入ってきた。 「片付け終わったぞ。なんだ、銀時、高杉。人に片付けを押し付けておいて寝転がっているとはだらしない」 どうやら、片付けもせずごろごろしている(ように見える)同輩二人が不満らしいが、その口調には半ば諦めが混ざっている。大人が持つ諦めとは違う、馬鹿ばかりやっている友人にたいする優しい苦情だ。 「すまねぇな。食わせてもらっておいて、何か手伝えばよかった」 反射的に立ち上がり詫びながら、この程度の嘘をつけるほどにはこの世界に慣れたことを知る。 「いえ、土方さんに言ったんじゃありません。お客様ですから。俺は、そこに転がっているごくつぶしに言ったので」 名指しされた二人は、互いの足を蹴りながら次の言葉を押し付け合い、結局銀時が口を開く。 「………ヅラ君、ただ寝転がってるんじゃないの……強烈な兵器を摂取したから動けないの」 「……ヅラァ、いつか、俺達を殺す気だろ……あれ、兵器だよ」 さすがに言いすぎだろうと土方は口を挟もうとしたが、桂の方が早かった。 「ヅラじゃない桂だ!といつも言っているだろうがァァァ―――!!客人の前で人を愚弄するとは!」 「ぐえっ」 叫び、小さな拳を握り締めたかと思うと、信じられないスピードでアッパーカットをお見舞いしたのだ。両腕同時に繰り出されたパンチは見事に高杉と銀時の顎を捕らえ、二人はどすんと尻から畳に落ちた。 「………ちょ、ヅラ……人が酸っぱいものを耐えてるのに……」 「………俺、厠……やばい、」 「ちょ、高杉、待て、俺もいく」 先ほどまでならすぐに応戦しただろうが、いかんせん夕食が胃で反乱していては力が出せない。異物を排除しようとする生理現象と戦っていたところに、この一撃を食らった二人は仕返しなど考えもせず、青い顔で厠へ消えた。 「おーい、高杉。厠から戻ったらそろそろ帰るぞ」 そして、一瞬前のことを忘れた桂の能天気な声が彼らを見送った。 桂が高杉を引き摺るようにして連れ帰った後、土方は銀時に誘われ散歩に出た。銀時は松下村塾を出て右手の坂を小さな灯りだけを頼りにぐんぐん上っていく。歩きなれている上に夜目も効くのだろう。 坂は緩やかにカーブを描いている。弱い月明かりが、ほんのわずかな闇色の濃淡を描くことで道の形状を語る。整備された道ではないが、大きな石があまり足に当たらないことを考えると日頃からよく使われている道であろう。 桂と高杉は反対側に帰っていったから、この道は城下町とは逆方向ということになる。もしかしたら、堅苦しい街から離れて思い切り遊べる場所であったり、修行場であるのかもしれない。 「この先にある高台には、先生とよく行くんだ。夕飯後の散歩で」 考えていることを読んだかのように、銀時が言った。先ほどはその「先生」の密偵扱いされたので、土方は慎重に答える。 「俺も夜の散歩は好きだぜ」 「ふーん、夜這いとかすんの?」 「このマセガキ。まぁ、時々はしなくもねェけど、大半は喧嘩だ」 「へぇ、いいね」 言葉が途切れ、二人の間に夜の風が流れ込んだ。心地よい冷ややかさの中に、時折切るような鋭い寒さの粒が混ざる風。春の匂いと、何かが失われそうな予感に溢れている。その時、土方は確信した。失われていたパーツがはめられた時のように、強い納得を伴って。 子どもの銀時と自分がこうして歩くのは、二度とない。彼らは日常を失う。どれほど戦おうとも間違いなく。エゴイズムだろうがなんだろうが、切ないと思う。だが、その果てでは刀を合わせる。 味のしなかった食事を思い出す。多分、彼らの幸せに溢れたこの世界に居続ければ、いつか全ての感覚を失い、現実の俺も死ぬ。近藤さんを、総悟を、真撰組を残して。それだけはできない。 帰らなければならないのだ。そして、自分を歓待してくれた彼らの未来を殺さなければ、殺される。 そういう世界に生きている。生きると、大将を守ると決めた。 土方は初めてゆったりとした笑みを浮かべて銀時を見下ろす。 「なあ、お前は俺が未来から来たといったら信じるか?」 驚くかと思ったが、銀時の表情は全く変わらなかった。くるりと振り向く彼の背は、土方の半分もない。そして死んだ魚のような目ではなく、硝子の様に澄んだ瞳が真っ直ぐに向けられる。 土方は目を逸らさない。別れの言葉に代えて、ただ必死に大人になろうとする小さな子供を見つめる。 紅が、ゆらりと所在無げに揺れ、銀時の目が一瞬月のように丸く見開かれた。 その次の瞬間、行き場を失った水が、堰を切るように銀時は叫んだ。 「俺達を憐れむな!!」 怯えと怒りと不安の結晶がほとばしる。夜など全て傷つけばいいとばかりに。 「未来だとかなんだとか、どうでもいい。テメェの目が気にいらねえんだよ!!此処に来た時から、テメェはずっと"何も知らないで可哀想に"って目で俺達を見やがる!!俺と高杉に会った時はなんでこいつらが一緒にいるって顔になった!俺に斬られかけた時は、こいつはこんな小さい頃から斬っていたのかって憐れんだ!ヅラを見たときは幽霊を見たような顔、塾にいる時はここがいつか無くなって俺達が泣くことを想像しただろう!!」 見開けた双眸から、涙が散った。土方は銀時の激情に言葉を失う。 「やめろよ!!今すぐそんな目はえぐっちまえ!テメェの目を見てると本当に俺達が不幸になっちまう気がする!!そんなことはさせねえ……!絶対、俺がさせねぇ!!!高杉と悪巧みして、ヅラとあほらしいやり取りして、塾の皆で、先生と、生きていくんだ!!先生と俺達が生きることは、俺の一等大事なモンだ!!」 銀時の手が乱暴に着物の袷にかかる。子どもの背では届かないはずと驚いた瞬間には、涙に濡れた赤い瞳が目の前にあった。子どもの坂田銀時は消え、白い戦装束に身を包んだ侍が立っている。 「お前……白夜、」 彼は聞いていなかった。がくがくとものすごい力で土方を揺さぶる。 「なあ、誰を斬ればいい!?あいつらが綺麗なままでいて、先生を守るには誰を斬ればいいんだ!誰だって、何人だって斬る……!!人斬りになるのは俺一人で十分だ、全部斬って背負ってやる!!」 叫び、見開いた目から涙を、口からは怯えを、全身から熱気を立ち昇らせるこの男を自分は知らない。 だが、土方には万事屋の銀時より、今目の前にいる銀時の心情の方が分かる気がした。 ……失いたくない、斬らせたくない。 自分達のような生き方においては叶うことのない夢想を追い求めるエゴイスト。 自分もそうだ。過去形には出来ない。生意気な、そして彼女が一番大切にしていたガキに斬らせたくなどなかった。 だから、現状に諦めを感じながらも夢を見る駄目な大人の代表として土方は言う。 「テメェ一人で背負えると思うその傲慢さを捨てろ。全員で血みどろになって背負え」と、残酷でずるい返答を。 言うと同時に刀を抜き、横合いから腹に迫った刀を防ぐ。 胴を真っ二つに払うはずの抜き打ちを防がれ、銀時は軽く舌打ちをするがすぐには仕掛けない。 低く、呟いた。 「……土方、テメェは敵だ」 「そうだな。ただし、今じゃねえ。未来の敵だ」 友を斬られたくなかったら、テメェが見ない振りをし続けているこの過去を直視して、戦いに来い。 そう言おうとしたところで、地が割れた。がくり、と全ての重力が奪い去られ、自分の身体が人形か何かのように落ちていく。慌てて、言葉を紡いだが、届いたかは分からない。 その奈落は、椿色に染められた腐臭ではなく、懐かしい泥臭さと血臭に溢れていて――― 十数年後の大江戸病院の白いベット。 その上に横たわる真撰組副長土方十四郎の手が、 がくり、と落ちた。 ◆ ◇ ◆ 長い間、黄昏を眺める沖田はよく出来た人形のようだった。視線の先を追うと、追いついた側から別の場所に焦点が移る。その移動が短い瞬間の中で為されるものだから、結果として沖田の目は何も見ておらず、鏡のような平面に見える。 彼は思考にどっぷりと手足を浸けている。刀を震えるだけの反射神経を残し、手首、肘、肩の力を抜く。脳以外の部位に余計なエネルギーを回さないほどに考え込む、そんなことは姉を残して江戸に旅立つことを決めたあの日以来かもしれない。 真っ白に染められた思考空間の真ん中には、桂の首が浮かんでいる。その横には高杉の首。残念ながら死に顔が想像できず、二人の顔はのっぺらぼうだ。 かつん、と白い闇の中に足音が響いた。ぬうっと足首が浮かび、すぐに膝、腰が現れる。それらの部位は全て死に装束のような白い戦装束に包まれ、白から影のように浮かんできた上半身は鎧で固められている。 口の中が干からび、額にじっとりと冷や汗が滲んだ。侍の手には、血の滴る刀がある。 「沖田君」 彼は、美しい型に則って血を拭い、刀を鞘に納める。 いつのまにか顔立ちがはっきりと浮き上がる。 困惑と狡知と諦めを優しさで包んだ笑みで、坂田銀時が笑い――― 「沖田君!!」 「っわ、山南さん!?」 沖田は息がかかるほど間近で聞こえた声に飛び上がった。警備をサボる姿を目撃されるのはいつものことだが、この至近距離まで全く気配に気がつかなかったことは痛恨の不覚だ。彼が敵であったら死んでいた。 「しっかりしてくれよ。菊一文字が泣いてるよ」 「はあ、すいやせん。で、何があったんですか?」 別の屋敷の警備にまわされている山南がわざわざやって来るということは、何か悪いことが起きた証拠だ。 山南もそれ以上無駄口は叩かず、真顔で囁いた。 「ここの警備は中止だ。やられたよ」 その言葉が示すのは、ただ一つの事実だ。沖田の顔がこわばる。 「警備の要請がなかった場所二件。あ、これ資料ね」 沖田は資料をひったくるようにして受け取ると素早く被害者に目を通す。やはりと何故の一瞬の交錯。 「またえらい地味そうな奴を殺りましたねェ。顔も分からねェ。しかも白昼ですかィ」 「ああ。今回は一件目は午前10時から昼までの間。家人が昼飯を用意して呼びに行ったら物言わぬ死体が転がってたそうだ。二件目は午後2時から3時の間。出かけようと駕籠を呼んで、中に入ったところグサリらしい。ちなみに駕籠は行方不明」 「で、松平公は今日の殺しは終わったと見ている、近藤さんも私もだ」 「俺もそう思いまさァ」 「一番隊は半分の人数を副隊長に預け、この場に配置。各隊長は屯所に一度戻れとの命令なんだが……沖田君は違う」 真面目な顔で言う山南も、その命令の意図は読めていないらしい。怪訝そうに眉をひそめている。 「半数の一番隊を連れて、ターミナルに向かえとのことだ。詳細は、追って沙汰がある」 沖田はちらりと目をターミナルに向ける。江戸の何処に立っていても、視線が集約される場所。そこが世界の中心であると恐るべき傲慢さで語りながら、地球と宇宙を繋ぐ唯一の扉。人の世界を壊した、鉄鋼とエネルギーと欲の複合体。 「確か見廻組を全部動員して固めてるはずじゃなかったですかィ?」 「見廻組が固めているのは主にターミナルの外側と国内便の発着ゲートなんだよ。ここからは私の予想に過ぎないんだけど、恐らく一番隊が回されるのは、宇宙便の発着ゲートだと思う。……つまり、」 山南は一度言葉を切り、これ以上ないほど低い声で言った。 「恐らく、ターミナルは今日明日中にも封鎖されるってことさ」 山南と別れ、一番隊を半分に分けた沖田は、ふと思い立って土方の携帯電話を手に取った。不吉な予感を考えたくなくて、なるべく触れないようにしてきたが不思議と今は平気だ。むしろ、この電話は土方の携帯が相応しいとすら思う。 薄っすらと笑みを浮かべ、電話帳から目当ての番号を検索しダイヤルする。12コール待ったが話し中だった。 (あの人のところに、そんなに依頼が来るかねェ) 諦めきれず、間をおかずにもう一度かける。―――すると、次は2コールで繋がった。 「もしもし、万事屋銀ちゃんです」 家主の声ではなく、至極常識的な新八の声が応対した。前の電話を取りそびれて焦るような様子もなく、落ち着いた声だ。 「あ、もしもしメガネかィ。沖田だけどもね」 「僕は志村新八です!!」 「分かってる、分かってるよメガネ君。ところで、旦那はいるかィ?」 なるべく声の調子が変わらないよう気をつけ、いつも通りの気だるさが出て安堵した。 「銀さんは、珍しく仕事で朝から出てますよ。多分、遅くても夕方には帰ってくると思いますよ」 (不在証明は、なし) 自分でも驚くほど冷徹な声が頭の中に響く。 「へぇ、そりゃあ珍しいこともあるもんだ」 「一応生活かかってますから。食費とか食費とか食費とか」 「そういや、ついさっき電話したら話し中だったから、他にも依頼があるんだろ?」 「え?別に誰とも電話してないですよ、掛け間違えたんじゃないですか?」 「あー、そうかも。とにかく旦那はいねえんだな?」 「伝言とか伝えましょうか?」 「いや、別にいいや。野暮用でね。じゃーな」 一方的に電話を切り、考え込む。 あれ以上聞けば不自然になる。すぐに斉藤に連絡を取り、昨日の夜に彼がどうしていたか、仕事はなんなのか聞く必要がある。 自分があの白昼夢に引き摺られている自覚はあった。だが、その夢を無視することはどうしても出来ない。それは確信だ。 難しい顔のまま、沖田は今度は公衆電話から万事屋に電話をかける。 何コール待っても、話し中。 どこにも、つながらなかった。 |