上 午後七時 真撰組屯所 地図を握る近藤の手は汗ばんでいた。ここを離れたくないという気持ちと、一刻も早く現場に飛んで行きたい気持ちが相克する。その矛盾が更に体を強張らせ、汗となって滲んでくるのだ。 彼は今、屯所、それも土方の私室にいる。桂と遭遇し――既に下手人だと確定している――斬られた土方の傷は深かった。だが、不幸中の幸いと言うべきか、本当にぎりぎりで急所は外れており、発見が早かったため失血死も免れたのだ。 救急病院での手術は夕方には終わり、先ほど土方は意識の戻らぬまま屯所に戻ってきた。 命に別状なし、直に意識が戻るだろうとの言葉を自分は生涯忘れないだろう。 確かに自分達の命などは常に白刃に晒されている。それは確かな事実であり、納得づくでなければ刀など握れないが、近藤は――いや、沖田も誰もが、恐怖に震えた。「真撰組」の、自分達のかけがえのない居場所の根幹となる男の喪失を。それも共に戦う場ではなく、通りすがりになど。桂に対する怒りなどより圧倒的な戦慄が彼らを襲った。 それは塗りつぶされるという表現が相応しい。べったりと、夜よりも尚深い闇が何もかもを塗りつぶしていく。自分達がまるで何処にも立っていないかのような、言葉では到底表せない虚無とでも言うのか。 当然、総大将である近藤はその心境を顔に出すことなど許されない。砕け散った理性の破片をなんとか繋ぎ合わせて、幕府との連絡と総指揮を執っていたが、どこかで神経が揺らいでいた。 (トシに怒られるな、こりゃ……) そう呟けるようになったことが今何よりも嬉しい。そして――もう集中できる。 「……隊を4つに分けるしかないか………さすがに、攻めにくい所にしてやがる」 近藤が厳しい表情で凝視する地図は、つい先ほど松平が持ってきた高杉潜伏地周辺図だ。二階建ての長屋で、高杉はその一階の一室と階段で繋がれた二階を借りている。両隣は空き部屋で、長屋のすぐ裏は遊郭という立地だ。 過激さと共に用心深さにも定評のある高杉のことだ。空部屋に逃走用の細工をしている可能性は否定できない。否、間違いなくしているだろう。かといって背後の遊郭に逃げ込まれては、厄介だ。一種の治外法権が許された遊郭に立ち入るには、相応の許可が要る。 「近藤さん、駄目ですよ。現場の隊は分けて3つでさァ」 「総悟!」 いつのまにか沖田が薄笑いを浮かべて襖に寄りかかっていた。その背後には山崎もいる。 「さっき山崎と一緒に現場を遠目から観察したんですがね。固めるのは左右と正面、背後は見廻組にまかせりゃいい」 山崎は静かに頷き、調査報告を話し始める。メモなどはない。数人の情報屋の話、幕府の動き、見廻組の配置は全て頭に入っている。 「桂が高杉潜伏宅に転がり込んだのは、副長が斬られてから一刻後の四時頃と推測されます。幕府がその動きに感づいたのは、ほとんど偶然で任務途中の密偵が偶然目撃したようです」 「高杉は桂をあっさり受け入れたのか?とっつあんから幕府もその上も、その線を崩さないと言われたんだが、俺はどうも合点がいかん。桂一派と鬼兵隊の対立は深い。そのトップ二人がつるんでるとなったら、奴ら自身の身も危ないんじゃないか」 「会話はよく聞こえなかったらしいんですが、どうにもしばらく殴り合いをしているような……俺は、そんなことで清算できる関係とは思えませんが……音が聞こえたらしいです。で、その後桂は出てこない。今は二人体勢で見張りをつけているそうですが、どうにも酒盛りを始めたようです」 「はぁ?」 「まぁ、どうでもいいことでさァ。両方引っ捕まえりゃいいんだろィ。で、山崎」 「はい。情報屋によると、鬼兵隊本船は河上万斉が率いて物資補給のため宇宙にある。またどうもキナくさいといわれる快援隊も宇宙です。前者の場所は不明ですが、後者は金星だそうです。この地点で高杉の支援はない。一方桂の方ですが、あの変なペンギンオバケとも接触してないし、桂一派の傍流組織に接触しましたが、呑気なものでした。それを踏まえ幕府は報道規制の実施、場合によってはターミナル封鎖も辞さない考えです。それを踏まえて、俺が知りたいのは"見廻組にどこまでの情報が流れているか"です」 近藤はつい先ほどまで松平と共に、見廻組局長とも会談をしている。ほぼ松平が話し、近藤の方は気もそぞろだったので発言もなかったが、会話は無論覚えている。 「桂と高杉が合流したこと、その場所は知ってる。恐らく共同作戦になり得ること、報道規制、ターミナルのくだりまでは知ってたな。鬼兵隊本船の情報は恐らく知らないだろう」 なるほどね、と沖田が呟いた。幕府の意地の悪さも折り紙付だ。 「つまりうちと見廻組では求められてるものが、違うということですねェ。うちには高杉、桂両名の捕縛とその先。見廻組には」 「ターミナル」 三人の声が揃った。 「それで、遊郭側はまかせていい理由は何だ?高杉も桂も、なかなかの伊達男だ。入れ込んでいる妓がいても不思議じゃない」 地図に視線を戻した近藤が言う。 「あ、俺が答えます。あの遊郭は、幕府の重鎮――それも家老クラスと各国公使レベルの客しか取らないんです。表向きは上手くカモフラージュされてますが」 「なるほど、お偉いさんにとって攘夷浪士は天敵。警備も厳重を極めるっつーことだな」 「芸妓の方も攘夷派と内通でもしようものなら、生命も危うい。あそこの人たちは、京女みたいに"好いても惚れぬ"で有名です」 「灯台下暗しとはよく言ったもんですねェ。あ、近藤さん。俺の隊、正面からでいいですかィ?」 高杉の大胆さか、それとも遊郭の間抜けさか、恐らくその両方に苦笑した沖田だが、不意にその瞳に危険な色がよぎった。 「お前はそう言うと思ったよ」 少し困ったように笑って、近藤は人差し指でとんとんと地図を叩いた。沖田がにたりと笑う。既に正面には、一番隊の文字が書き込まれていたのだ。 「そうだな……五番隊・六番隊を屯所守備。正面を一番隊・三番隊。三番隊の指揮もいけるな?」 「勿論」 「二番隊・四番隊が右。八番隊・九番隊が左。七番隊・十番隊が遊撃、俺はここに入る。とっつあんからバスーカや何やらが届くのが八時、決行は九時―――どうだ?」 近藤の双眸が二人の視線とひたりと絡んだ。我が意を得る安堵感が流れる。 「なんだか正面過激ですが、いいと思います。なにより近藤さんが遊撃に入ってくれれば、格段に情報が伝わりやすい」 「俺も異論ないですぜ。で、具体的に提案がありまして―――」 負けるわけにはいかなかった。「負けると思って戦をすれば負ける」と言った男のためにも、決して。心象風景に鋭い刃の音が響く。三人の不敵な笑みは、紛れもない喧嘩師のそれだった。 午後七時半 万事屋 猪口に並々と注がれた酒、その水面がピンと張り詰めた。どうしてだろうか。相当酒も進んでいるはずなのに、猪口を持つ指は震え一つなく、石像のように凍り付いている。 動かない手を無視して、銀時は唇を酒で濡らした。冴え冴えとした冷気が唇の上に膜を張り、すぐに乾いては引き攣りへと変わる。ああ、なんて美味い酒だろう。そして、なんて嫌な夜だ。 ぐっと一気に猪口を空けても、ほんのりと頬に熱が発生するだけで、体内に酔いは沈殿しない。 「寒くて酔えねぇ、暇には酔える」 自分の口からもれ出た言葉を聞いて、銀時は声を上げて笑った。眠らぬ街、欲望渦巻く歌舞伎町の夜に相応しい乾いた笑いだった。不吉だ。よりによって、この世で一番憎いであろう友の言葉を無意識に呟いてしまうとは。 単に暇なだけだ、それだけだ、と再び呟く。依頼人から高級な酒をもらったのも偶然だし、神楽が妙と映画に出掛けたついでに泊まりに行ったのも偶然だし、新八がファンクラブの面々と会議に出掛けたのも、珍しく長谷川が仕事をしているのも全てが偶然だ。暇な偶然と酒が合わさったから誰かと飲みたいとふと思っただけで、普段はうざいほど関わってくるあいつらも肝心な時にはいないと文句の一つでも言いたいだけだ。 手酌で酒を注ぐ。ゆらりと桃色の水面が輝いて、映った瞳がどろりと溶けた。 左手の猪口で絶えず唇を濡らしながら、デスクに右手をかける。これが難しい。机自体を越えるのは簡単だが、その先の椅子を越えるのが難儀だ。銀時は数回右手の位置をずらしたり戻したりし、「よし」と一言漏らして足を振り上げた。 真横に振り上げた足が夜を引き裂く小さな音が響く。夜が潰される悲鳴に関係なく、銀時の身体はふわりと軽やかに浮き、次の瞬間には見事椅子まで飛び越えて着地していた。「成功。さすが俺」。猪口の酒は全く減っていない。結構なことだ、と綺麗にそれを空けてしまう。 「外は明るい、それは篝火、一点黒染、それは鬼さん斬りゃあよい」 窓に映った自分の口が歪んでそれを詠った。三味線でも奏でたくなってきたが、家には置いていない。仕方がなので、ぼんやりと外に煌く卑猥な色合いのネオンたちを眺めていると、唄通りの風景が見えた。 (黒染……) 戦時下、見張りの者達で謡い合った唄でもない唄。そういえば、どこぞの包帯がしきりと出来が悪いと文句を言っていた気がする。 出来の悪いフィルムの断片が、ちかちかと点滅しては消えていく。訳が分からない。意識の奥底に埋葬したはずの記憶がやたらと甦ってくる。しかもいつものように抉り出される不快感もなく、ただ水面に泡が浮かんでくるような、自然発生的にだ。 「……酒が足んねえな」 そう呟きながらも、銀時は全く別のことを考えていた。―――刀を研ごう、と。 こんな落ち着かないまま飲んでしまっては、せっかくの酒が勿体無い。落ち着くには、刀を研ぐのが一番だ。 刀は女と同じ。二度と付き合う気はなくても、気遣いを忘れて怒らせたら酷い目に遭う。 うんうん、俺モテる男だ、と満足げに微笑んで窓を閉める銀時の視界から、黒い影は既に消えていた。 午後八時 高杉潜伏宅 完全に夜の帳に支配された部屋の中央には、一本の蝋燭だけが儚げに燃えていた。炎は不安定に揺れていたが、蝋を溶かす根本は寒色を絶やさない。 高杉と桂の恐ろしく真剣な顔を青い炎が照らす。先ほど乾杯を交わしたが、二人の目には酔いの欠片もない。ただ玲瓏に研ぎ澄まされた気配だけがあり、次第に呼吸が深く静かになっていく。 戦前の呼吸だ。 隠し戸と隠し階段、その他の罠の説明を受けた桂が口を開いた。 「高杉。………覚えていたな」 何をとも、どうとも言わない。それでも高杉は、その諦観を凝縮したかのような問いかけに応えた。 「覚えているだろうさ。なァ、ヅラよ。俺達はそれぞれ多くの部下を持つようになった。あの頃は刀を抜かない日など想像すら出来なかったが、今となっては刀なしの戦を覚えた」 桂は何も言わない。目線だけで続きを促した。 「例えば、密偵を泳がせて親玉ごと駆逐する。例えば、敵同士潰し合うよう工作を仕掛ける」 桂が続けて言った。 「例えば、仲間内にも情報を漏らさず自ら幕吏を欺く。例えば、戦を一つの駒に仕立てる」 「ああ、先生にも誰にも顔向け出来ねェ戦いを覚えた。銀時は俺達を軽蔑し、許すことすらないだろう。だが、それはこちらも同じだ。確かに昔の姿を忘れそうになるほど、汚れ堕落したが、覚えている。銀時を許すことはなく、そして忘れてなどいねェ」 そう日頃、愚昧で最低な俺達は世界を嘲笑うことでようやく存在価値を得ているような畜生だが、それでも魂を貫く矜持だけは覚えている。 すぐそこに無残な死が横たわる戦場を生き抜くための呼吸を。存亡を賭けて戦う真摯さも、どれほど血と屈辱と汚濁に塗れようとも、踏み越えてきた屍の山からは決して下りないことも。 志を忘れても、友を歪めても、侍として刀を抜くことだけは覚えている。 「高杉。俺達は確かに袂を分かった。もう同じ志を持つことは叶わず、目指す先は異なり、今後の転び方次第で裏切り裏切られることもあるだろう。―――だが、末路は同じだ。そうだろう?」 「心強いこった。どうする?末路を同じくする者同士、今生の別れでもしておくかァ?」 「何を戯けたことを」 「ふざけてなんかねェよ。昔、どこぞの馬鹿な侍が、人生の全てをかけたほどの悪運で生き残った。その時、爛れた心を何故か慰めあってしまったから、その前の別れは無効になってる」 どちらともなく皮肉気な笑みが零れ落ちた。そうだった。始めて"肌を合わせてしまった日"に、新たな盟約が交わされ、以前厳かに交わされた今生の別れはお笑い種に成り下がったのだった。 吸い収めかもなァ、と高杉がキセルを取り出す。その隻眼は爛々と――もはや生き生きと輝いている。 桂は少し考えて、ゆっくりと高杉に近寄った。 「……おい、俺は煙草を吸いたいんだがね」 右手を押さえられ、桂に顎を掴まれた高杉が不平を言う。その吐息が前髪を揺らすほど、桂の顔は近くにあった。 「今生の別れリターンズとかいう奴だ」 「……そんなもんしねェでいいから、空気が読めるようになってくれ」 至極最もな高杉の意見だったが、桂は五月蝿いと一蹴した。 その長い指がしなやかに動いて、高杉の顎を引き寄せる。すぐに生々しい人間の体温が唇に触れた。 二人とも目は閉じない。恐ろしく病んでいるくせに、真摯な覚悟を湛えた視線をぶつけ合う。 触れるだけの接吻を交わして、身を離した桂は少し悪戯っぽく笑う。 「高杉。この世で最後に接吻した者が俺になりたくなくば、せいぜい生き残ることだな」 「そりゃあ、是非がでも生き残らねェとな。ご先祖様に申し訳が立たねェ」 「そこまで言うか」 午後 八時五十七分 再び高杉潜伏宅 『総悟、こちらは全て配置完了だ。どうだ?』 無線から押し殺した近藤の声が聞こえてくる。そのわずかな音声に沖田はびくりと肩を震わせ、一拍空けてから返答を返す。極限値まで低められた呼吸を、言葉を発するレベルまで回復させるのに時間がかかったからだ。 「全て完了。武器装備も問題なし。いつでもいけまさァ」 既に、二・四番隊と八・九番隊は先鋒が長屋の左端と右端から距離を詰めている。どの部屋の住民も堅気ではないのだろう。端の家に商人の妾がいただけで、他は全て外出中、住民が騒ぐこともなかった。中には埃まみれで、住んでいる形跡のない部屋すらある。すぐ正面の通りは旅籠や着物を売る店などが立ち並び、すぐ背後は江戸最高級の遊郭。華やかさの間に埋もれたくすみのような一角は、確かに隠れ家としては憎いほど最適だ。 春宵。 本来はしっとりと人を包み込むはずの大気は凄愴なまでに先鋭さを増し、輪郭のぼやけた白い月はある種のスポットライトのように光を落として闇に身を潜める人間を嗤う。 もしも月の高さまで浮遊することができるなら、そしてこの光景を見下ろせるとしたら、これほど滑稽なものはない。それは成長の間に新しい場所に行った時の可笑しさに似ている。江戸に出た時、武州は世界の果てになった。日本を知った時、江戸はあたかもプラネタリウムのような閉塞空間に変わった。始めて宇宙を見た時、日本は小さな星の小さな塵へと落ちた。世界にまつわる全ての事象が小さい。嗚呼、小さすぎる江戸の一つの路地の一つの家を固める黒い塵は自分たちだ。 『両端もそれぞれ配置完了だ。総悟』 無線という声を記号化し、無機質に届けるだけの機械を通してすら近藤の声は温かく真摯だ。 「はい」 応答する沖田の声も澄み渡っていた。自分という男は、いつでもこうなのだ。自分の魂すら預け得る大将の言葉を聞き、出陣前の―――これから生命を賭して戦う場に赴く厳かな心になるのは真実。だが、同時に、闇の中で獰猛に歪んだ口元もまた沖田の真実なのだ。 『戻って来い。死なねぇのは勿論、持っていかれるなよ』 少し驚いた。良くも悪くも単純明快な近藤が自分の葛藤に気がついているとは。 「―――俺は近藤さん一筋ですよ。じゃ、ちょっくら行ってきます」 口に出した言葉は、乾いた大地に水が染み込むように、安心感となって胸に戻ってきた。同じ戦場に帰る場所が、揺らがない近藤という柱があるから、いくらでも血潮を浴びれる。 今から倒す相手の深い混沌に共鳴する部分を感じ取ってしまっても、自分にはここしかない。 無線を切る。もう一度あの人の声を聞く唯一の方法は、敵を殲滅することだ。 「沖田さん」 すっと影のように傍に来ていた山崎に一瞥で答える。彼は一時的に沖田の管轄下に入ることになっていた。本来監察方としては遊撃隊に付き、戦況や新たな情報の注進役になるのが基本だ。だが、今回は突入先が突入先のため、仕事柄仕掛け罠の類に最も長けている山崎を沖田が望んだのだ。 「派手にいきましょう」 悪戯っぽい口調だったが、既に山崎は沖田を見てはおらず、眼前の木戸を睨んでいた。 「おう。慎重派のお前がそこまでいうんなら、いくらでも暴れられらァ。―――いくぜ」 深呼吸をして立ち上がる。今だ、という間はない。いつもの通りの夜が、少し血生臭くなるだけだ。そこにはタイミングはおろか、意味すらない。 沖田の右手がゆっくりと上がった。命令の復唱はなく、付き従う隊士達が大筒を構える。町人の長屋を吹き飛ばすには、十分すぎる数だった。 途方もない高揚感が右手を動かした。引き千切られた夜は肉のような感触をしている。 「撃て」 沖田が身を引いた瞬間、十字砲火が長屋を襲った。 火力を落とし、重量級の砲弾を使っている。その上、山崎の計算に基づいて壁の中心点だけを狙っている。3発目でようやく穴が開く。町人の長屋がそれほど丈夫なはずはない。中から鉄張りがされているのだ。 それを見た沖田は瞬時に、左右の隊士に合図をする。間をおかず、穴の左右に砲弾が命中し、鉄をひん曲げた。 「続け!!」 バスーカを肩に抱えた沖田が、真っ先に飛び込む。山崎が続き、予め決められていた隊士だけが更に続いた。 鬨の声一つ上がらない。砲弾の疾走音だけが響き、戦の始まりを告げた。 ◆ ◇ ◆ 「……ん?」 突然奇妙な感覚を味わい、土方は思わず背後を振り返った。 「どうしたの」 早足で前を歩いていた銀時が振り返りもせずに言う。子どもらしからぬ気だるい声だが、もう殺気はない。 「……いや」 振り返った先には、あの椿群生林が鬱蒼と茂っているだけで、その感覚が指すものは何もない。正確に言えば、土方自身も明確に分かったわけではなかった。 ただ何かに呼ばれ、腹の底に響く重い音と、埋め火が燃え上がったような――それともまだ何かが燻っているような――焼け焦げた匂いを感じた気がしただけだ。無論、山道には何の変化もなく、ましてや火の手などどこにも見えない。 「どうでもいいけど、ちょっと急いでくれる?そろそろ時間がやばいんだ」 「大部分、お前が落とし穴に落としてくれたせいだけどな……」 土方の呟きはもはや愚痴の域に達している。それもそのはずで、あやうく林に埋められかけた土方は全身泥まみれで、首筋には新しい一筋の傷跡。そっと手を触れる。子どもがつけたものとは思えぬほど、それには死の残滓が漂っている。 「必要なことなんだよ」 銀時の赤目が射るように降り注いでいた。その色は、土方が覚えている色より格段に澄み渡っていたが、格段に冷ややかだった。 「必要なんだ。ここを守るためには、斬ることが必要なんだよ。なぁ、土方さん。アンタは俺の質問に対して言ったよな」 「ああ。"俺はお前の友達を殺すかもしれない。同時に彼らに殺されるかもしれない。お互い様だ"」 それはほとんど考えて言った答えではなかった。この場に来る原因となった桂のことも、自分達を嘲笑いながら助けた坂田銀時のことも、斬り続けた攘夷浪士の屍も、そして喪ってきた仲間達も思考の中心にはない。 それらは須らく周辺部にあり、その中央を探ったら言葉が飛び出してきた。それだけのことだ。 「信用したわけじゃない。ただ俺とアンタが戦うべき時は今じゃない」 何かを言わなければならない気がしたのに、土方は無言で頷くしか出来なかった。銀時は変わっていない。いつでも自分が傷つくことを顧みず何かを守ろうとしている。 彼は知らない。嗚呼、本当は言おうとしたのだ。世界の条理に反して。銀時が守ると言った者達と戦い続ける未来を。この場所の崩壊と、彼が守りたかったもの達の狂気を。 泣くかもしれないし、信じないかもしれないし、今度こそ斬られるかもしれない。それでも突きつけてやりたいと思ったのは、嗜虐か庇護欲か分からない。その言葉を殺した空気――世界に逆らうことはなんて難しいのだろう。 「ついたよ………って!!」 銀時は土方の目を見ていなかった。見ていたとしても、その不条理な葛藤を読み解くことは不可能だろう。彼が目を丸くして見ていたのは、ようやく現れた平屋の家。その玄関先で手を振る、黒髪の子どもだ。 「お、お前、なんで戻ってきてるの……?そしてまさかとは思いますが、料理的なものを……」 「遠路はるばる帰ってきてみたら、誰も迎えてくれん。まぁいい。今日の俺は機嫌がいいからな。帰郷祝いに江戸で増やしてきた料理を振舞おうと思っているわけだ。楽しみにしていろ」 銀時が天を仰いだ。奇遇だ。俺も天を仰ぎたい気分だ。 銀時、高杉を結ぶ中継地点。その名をずっと前から知っている。 艶やかな黒髪、人の話を聞かない姿、誠実そうに見えてどこかずれている言動。 「ヅラァァァ!!た、頼むから座っててくれ!!疲れてるだろ、むしろ疲れてるから休ませろと言ってくれ!」 「武士たるもの疲れている時こそ、自分を律して生きるべきだ。まぁ自堕落な貴様には関係ないかもしれないが。それから」 あの憂鬱で、底なし沼のような目。 何もかもを嘲笑いながら、破滅へと誘う目。 未来とは似ても似つかない誠実で明るい光を宿した目。それでも、そうだ。 「ヅラじゃない。桂だ」 俺をなおざりに斬り捨てた男。 沈鬱で冷淡な激情を持って、世界に刃向かう男。 ―――桂。 |