三  段



閨の姿を赤い蝋燭が灯す。ぼうっと暗闇に浮かぶ明かりは、相手の顔を真摯に眺めるには暗く、しかしながら肢体を眺め合うには十分な明るさを湛える。部屋の中央に置かれた布団には、毒々しい紅と絹の白が相補うように寄り添い、その調和が秘密めいた淫らさを演出していた。


出会い茶屋の奥部屋、その乱れた布団の上に一人彼は寝転んでいた。身に纏うのは長襦袢一枚。だらしなく帯でまとめられた合わせからは、熱でほてった体が覗く。
山崎は疲労した身体を布団に沈め、先ほどの言葉を反芻した。

「最後の武士……か」

つい先ほどまで熱を分かち合った女はそう言った。「そうですか、お上が――。ああ、最後の武士も逝ってしまうのですね」と。山崎は彼女に問う。貴女の夫は鬼兵隊に志願し、帰らなかった。何故、鬼兵隊の総督に情を持つ、と。女は答えた。



男の方は皆そう。もちろんあの人もね。皆「救国」だの「攘夷」だの「忠義」だのを唱えて逝ってしまうのですよ。うちはただの田舎百姓でねえ、そりゃ私も嫁いだ時はきらびやかな生活に憧れもしましたよ、でも人間には分があると女は分かっているの。

不思議そうな顔をなさってる。じゃあはっきり言いましょう。百姓が武士になどなれないんですよ。あァ、怖い顔になりましたね。私は――いえ同じような幾多の妻は、貴方方を愚弄しているわけではありません。ただ憐れみ、ただ詰ってやりたい要求を抱えているだけでございます。

貴方とは長いお付き合いになりましたが、このお話はまだでしょう。夫はこう言って戦に出たんですよ。「国のために戦えば、百姓でも武士になれる。俺は鬼兵隊に入る。この国を決して天人などに渡しはしない。奴らの蛮行からお前を守る」って。笑わせるじゃありませんか。そう志して帰らない。首は憧れの江戸に晒し首。畑は荒れて、私の力では義母を支えられず、義母と末子は病で死んだ。天人の横行?奴隷にされる?志をたがえてはならない?まぁご立派なこと。でも私は、たとえ天人に村を焼け払われて慰み者になった末殺されるにしても、夫と共に殺されたかった。あの実りはそこそこだけど、温かい故郷で。

山崎さんは私を奴隷根性と嗤うでしょうね。私もそう思っていますもの。でも、これが世界の本音です。安穏でいたい。これ以上辛酸を舐めたくない。戦争など勝手にやっててくれ、ですよ。もう一度言います。百姓は武士になどなれない、なってはいけない。だって百姓にはまず第一に「家族を守る」という天から与えられた使命があるのですから。

さて、ここまで言うと貴方は腑に落ちない顔をする。ああ、質問など分かっていますよ。私が遊女となり情報屋となったまでは分かる。なぜ攘夷派の情報を売りながら、あの方を惜しむのか、でしょう?
なぜと言われましてもねぇ、ただの八つ当たりといえば八つ当たりでございますので。貴方がこれから追い詰める高杉晋助――私の夫の総督。知ってますか、この人は、自分の部下の首を見に行ったんですよ。驚くでしょう、他の誰よりも高い懸賞金がかかった首を引っさげて、橋の欄干で泣き叫んだそうです。私はその光景には立ち会わなかったけれど、夫はいい人の下で慣れない刀を振るったのだと思いました。
でもねえ、山崎さん。女という生き物は欲張りで矛盾だらけで我侭なものなのですよ。夫は命を懸けて彼を守ったことを誇って死んだかもしれませんが、私は彼を見捨ててでも帰ってきて欲しかった。そう、恐るべき情熱を持って私の気弱で朴訥な夫を戦塵へと連れ去った方々が私は憎いのです。

情報を売る。警察が追う。聡明な山崎さんのこと理解しておいででしょう。男達がどんなに咆哮して、どんなに女を泣かせても、それはある一つの大舞台の一幕に過ぎない。そう、今この瞬間も。ただの端役会合ですね。
どうして私が高杉晋助を「武士」と怨嗟と敬愛をこめて呼ぶのかお教えしましょう。出生が武士だから武士ではないのです。私は女の勘で理解しましてね、あの伝え聞く咆哮で、彼は自分を騙すことに決めたのだと。自分の志に殉じていたら、あの方は既に首になっている。魂を捻じ曲げ、それでも戦う。曲げるだけでも、戦うだけでもいけない。両方、本来あるべきでないものを抱え込む。それが武士であると私は考えます。


ああ、世の中馬鹿なお人たちばかり。荒んだ私は、彼の情報を売る。その結果彼が斃れようが、返り討ちにあって貴方が斃れようが、次の日には違う方の胸板で忘れます。
私をお嗤いなさい。唾を吐きかけなさい。夫の心も分からぬ女郎めと罵りなさい。そのうちに少しでも虚しくなったなら、せめて親孝行くらいなさいませ。山崎さん、そんな哀れみの顔をなさらないで。私ごときの声で絶望なさるようでは、武士はやっていけませんよ。

さあ、もうこんな話はやめましょう。男女にはもっと楽しい会話の仕方があるでしょう。自分の卑しさを自覚させられた私の長い夜を減らすため、お付き合いいただきますよ。



彼らを「武士」と呼ぶ声は本当によく聞く。その声は同時に自分達の悪口であることが多いのだが、本来山崎を悩ませる事柄ではない。正直それはどうでもいいことであって、反論する気もあまりない。自分達は武士ではないのかもしれず、刀など好きでもなんでもないが、真撰組に意味があるから刀を握るのだ。彼がいるから戦うのだ。それでいい。

「首を取る……必ず」

歴史の意味など知らない。奴らが行う世界への報復が革命なのか否かなど心底どうでもいい。
確実なのは、彼らを生かすことによってかけがえのない者が死ぬかもしれないという事実。

「おや、相も変わらず物騒ですね」
山崎の呟きに、天井から答えが返った。低く無機質で、誰にでも聞きやすく誰にも似ていない声だ。
その薄気味悪い声の持ち主を知っている。相手に悟られぬよう、山崎は薄く笑い、下に降りるよう合図した。そう待っていた。標的は桂であるのに鬼兵隊のことを調べた回り道を、最短ルートに昇華してくれる――幕府の密偵の言葉を。
「どうも。貴方こそ物騒だ。何かありましたね?」
目の前に降り立った影は珍しくも喉の奥で笑ったようだった。隠密同士の会話に無駄はない。すぐに言った。

「貴方方がお探しの桂は、高杉の潜伏先に転がり込みましたよ」
敵の敵は味方。―――ビンゴ。

影が話す潜伏先の住所を記憶しながら、以後の行動パターンを猛スピードで考える。状況はかなりいい。幕府の隠密が接触してきたということは、松平の言うとおり幕府はこの一件にけりをつける気でいる。足並みは揃った。
その上で、桂と高杉が結託によって幕府は武器面で相当の援助をせざるを得ないだろう。桂自身はあえて犬猿の仲の高杉を潜伏場所に選んだが、それは彼らしくない甘い策だ。桂が別の場所に潜伏した場合は、鬼兵隊への交渉も辞さないつもりだったが、その手間も省けている。更に、女の情報によれば鬼兵隊は物資供給のため本船が宇宙にある。

―――情報封鎖が鍵だ。幕府の手が高杉と桂に回っていることが鬼兵隊や支援者へ伝わらないうちに、捕縛しなければならない。その方策の一つとして報道規制もありうるが、幕府の権限だけでは民間の放送はあの手この手で無視するだろう。いまや幕府は資金と武器だけは持ちながら、機動力を著しく欠いたお飾りに過ぎないのだ。

「山崎さん。もう一つ、情報があります」
そう言って、相手が続けた一言に山崎は硬直した。聞き流すことの出来ない言葉だった。
「………報道規制がかかった?」
「それだけではありません。恐らく、状況によってはターミナル封鎖も、かなりの確率でありえます」
驚きを隠しきれず、山崎は息を呑んだ。江戸の象徴をも封鎖す権限を持ち合わせているのはただ一つの組織だけだ。

これが、世界を獲った天導衆の攘夷派の二大巨頭に対する憎悪か。なんと深い。

取り返しのつかない何かは、既に始まっていた。




◆ ◇ ◆




高杉が長電話をしている。「……そうか、もう来たか。ああ、お前さんの答えは分かるようで分からねェが、好きにしていいぜ」 話をしながら真顔で考え込んでいたのは最初の数分で、それ以後40分は最近読んだ本の話だの、呉服屋の織物の話だの、どうでもいいことつまり雑談をしている。
手持ち無沙汰の桂は、先ほどの喧嘩で生産された傷に消毒液をかけている。隠れ家に救急箱がきちんと備え付けられているようなところは、昔と変わらない。家主の方は話が弾んでいるようで、時々電話越しに女の声が聞こえる。そうか、女性か。後で聞いて人妻だったら殴ろうと理不尽なことを考えながら、桂はテレビのリモコンに手を伸ばした。

チャンネルを回すのはこれで三度目だ。全てのチャンネルを数分眺めては、目当てのものがないことを確認してまた回す。本当に退屈極まりない。
だが、そう嘆く一方でこの退屈さがただの前座であることも分かっている。暇だ退屈だという思考の間隙に少しずつ少しずつ新たな策謀が埋まっていく。既に桂の中で、停滞は動乱へと変わった。


―――ヅラァ、何考えてやがる」


リモコンを置いた瞬間、いつのまに電話を切ったのか、高杉が声をかけてきた。その口元には楽しげな笑み。

「さぁ、お前が考えるようなろくでもないことさ。それから、桂だ」

桂が答えをはぐらかすと、高杉はますます嬉しそうな表情になった。先ほど桂が殴った傷は生々しいのに、機嫌が良すぎて気味が悪い。そんな彼を見つめる桂の目は相変わらず沈鬱な色だったが、口元は高杉のそれと全く同じように歪んで見える。

「高杉、お前は?」
「ああ、桂先生なら気狂いじみてると思うことを考えてるぜ」

笑みを含んだ瞳を合わせたのは、全くの同時。高杉が手を打って立ち上がり、台所へと消えた。


黄昏が障子を通して、室内に浸透する。昏いが、決して暗くはない。上空から注がれる小さな太陽の死はぼんやりと明るく、その光には夕餉の香りや帰宅する人々の声が一筋一筋の線として溶け込んでいる。懐かしさと慕わしさ。それから、その根底にこびりついた厭わしさと忌まわしさ。

「ほらよ」
斜陽であればいい残光の忌まわしさを体現する男が戻ってきた。桂に杯を投げて寄越す。そのまま一升瓶を置き、桂の背後に座った。
「うむ。お前と飲むのは久しぶりだな」
「そうだろうよ、誰が好き好んでテメーみたいな酒癖の悪ィ男と飲みたいものか」
そう言っておきながらも、高杉は身体をよじり桂の杯を酒で満たした。二人で酌み交わすというのに、自然と背中合わせの体勢になり、双方自らの正面には不健康な色合いの部屋しかない。

「高杉」
「なんだ。どうせ俺を巻き込むつもりだろうが」

―――何度でも思える。二人揃えば駄目になる。
背中から感じる熱はあの頃と何も変わらず、わだかまる互いの気配も慣れきったものだ。だが、何かがごそりと違う。欠落の茫漠とした闇が圧し掛かってくるようで、しかし振り向けばもたれ合う魂がある。きっと見ている世界は反転とも呼べるほど違ってしまったはずで、二度と思考は交わらないはずだった。

「いい加減紅桜の借りを返せ馬鹿者。それより、殺されるかもしれないな」

それでも分かる。根が絡み合っているのだから仕方がない。縛り合う、閉め合う、逃れる気もない。
相手と自分の一貫性のない思考が最終地点で交差する未来が分かってしまう。たとえそこがどんな陰惨な色であっても、そこが世界の終末であっても、ここで病んでいるよりはマシなはずだ。

「悪くはねェが、どちらかは残りたいもんだな」
焦がれるような。いとおしみ、惜しむかのような。
「そうだな。白だけでは色彩が寂しいしな」

踏み越えてはならないとかつて定義した境界線を越えることにももう慣れた。そうしなければならないほど、自分達の世界は停滞している。
凍らせて眠るなど、許されない。

「おい、ヅラァ。テメーもたれかかりすぎだ、重い」
「お前の方が重い。そんなに俺の背が好きか」
「死ね、ハゲろ」
「死ね、縮め」

阿呆らしい掛け合いの中で、自分達は一体何度あの日々を殺せば気が済むのだろうと思った。




◆ ◇ ◆




陸奥がそれに気がついてしまったのは、本当に偶然だった。そもそも通信傍受という危険な業を習得してしまったのは、宇宙にいる間地球で放送される連続ドラマを見るためであったし、その行為自体はどの宇宙船でも行われていることだ。その上更に、何故かそういう暇な所業に対しては労力を惜しまない坂本が――当人は、アダルトビデオのタダ見に使用している――電波傍受機の使い方を陸奥に教えた。そうしたら、次第に見えてしまったのだ。
受信した電波は、通信回路で暗号を解かれ、船内のメインシステムに届く。勿論その膨大な量をいちいち見るわけもなく、必要な情報の電波をあらかじめ記憶しておくことによって、自動的に取捨選択がなされ限定的な電波が残る。それをメディア機器で通信すると映像になって見えるわけである。

陸奥が見つけてしまったのは、膨大な電波の中に細かく紛れた波だった。暗号化される前の電波が映し出される画面――様々な色合いの波が濃淡、長短入り混じるそれはある意味で絵画に似ている――を坂本が仕事を遅らせて暇になってしまった時にぼんやり見ていたら、その白波が目に飛び込んできた。
正確にはそれは波ではなかったのかもしれない。わずかの揺れもなく、ほんの数秒浮かんで消えていく。ただその白の残光が目に痛いだけの波だった。

(ああ、その白なら俺も知ってる)

その時はただの余波と思い、坂本にも言わなかったが後日その謎は不幸にも氷解した。白に魂を奪われた男に、どうしてか話してしまったのだ。そうしたら、彼は気味の悪いほど優しく笑って、俺も知っていると言った。
ああ、やっぱりうちの馬鹿と他所の馬鹿のせいだった。そして興味本位で他所の馬鹿に続きを促してしまった自分は愚かだ。

(それァな、俺達を生かす波で、陸奥、お前さんを不幸にする波だよ)

彼は陸奥の耳元で囁いた。―――あの波は現在の通信回路では見れない。回路を2年前のG54に変えた上で"2回"暗号解読を掛けろ。そうすれば読める。その映像を見る際は、"現在の回路に戻せ、そのまま使うな"。そうすれば、相手には傍受されない。

悪魔の囁きだった。そんな危険を冒す必要も、最悪の男の言うことを鵜呑みにする必要もない。だがそう冷静に思う一方で、陸奥は坂本にそのことを話した。何か行動を誘発させる起爆剤のような、ある種麻薬のような匂いがあの男にはある。
当初坂本は難色を示した。高杉の情報は信用するにしろ、商売上幕府に嫌疑を掛けられるようなことは慎みたいのは当然だろう。しかし、試験的に傍受をした情報によってとある陰謀からカンパニーが守られたこともあり、セキュリティーが強化された上で実用に移されたのだった。

(わしは、幕府もその上も許したわけじゃないき。ただ、商売は許す許さないの次元にないだけじゃ。うん、人を動かす商売をするなら、その行為を維持するべきじゃ)
その言葉を聴いてようやく陸奥は高杉の思惑に気がついた。彼は自分と会話していたのではない。坂本に「世界を鵜呑みにするな」と楔を打ち込んだのだ。
幾度考えても、自分はただの道化。それを諦めてきた最近、もしかしたら、奴らの影響で自分も白に魅せられ始めているのかもしれない。


そして、試験的な一度の後、その波に再び出会ったのは今日。
暇つぶしに画面を眺めていたらひっかかったのだ。
脳の深くで高杉の声が反芻された。まるで憑かれたよう。当然のように、それを解読して―――


「坂本!!」


陸奥は坂本の私室に駆け込む羽目になった。自分でも顔面から血が引いているのが分かる。
右手に握った携帯を猛スピードで叩きながら、左手で驚いた表情の坂本に有無を言わせず、傍受文を突きつけた。



メディア規制通達書
―日、桂小太郎、真撰組副長土方十四朗ヲ斬ル。後、桂逃走シ、高杉晋助ノ元二潜伏ス。ソノ経緯甚ダ奇ナルモ、此事ハ秩序及ビ民草ノ安息ヲ脅カス攘夷派殲滅ノ千載一遇ノ好機デアル。コレハ上意デアル。
征夷大将軍徳川茂茂ノ名ヲモツテ命ズル。ソノ媒体ニ因ラズ全メディアハ、再ビ幕府ヨリ通達アルマデ、コノ一件全テノ報道ハコレを禁ズ。コレハ、桂・高杉両派及ビ支援者ニ情報ヲ封鎖シ、捕縛ノ妨ゲトナル要素ヲ排除スルモノデアル。
捕縛ニハ真撰組、見廻組ヲ動員ス。



「こりゃあ、幕府だけの命令じゃないぜよ……」

坂本にしては長い動揺を経て、ようやく口に上った声は掠れていた。その彼らしくない渇きは恐れだ。陸奥は思う。嗚呼、不幸にもまた始まってしまう。それも酷く病みきった物語が。
食い入るように紙を見つめ、坂本は誰へともなしに呟く。

「………何しちょる……しかも、ヅラじゃき。何があったんじゃ、銀時は知っちょうのか、いやヅラが鬼兵隊に匿われるのは無茶じゃ……」

嗚呼、嫌だ嫌だ嫌だ!
坂本が混乱している。顔は紙のように白くて、聞いても答えなど返らない問いを繰り返す。
嫌だ嫌だ嫌だ。らしくない坂本など放置しておけばいいのに、そもそもこんな傍受文など気がつかなかったことにして記録を消せばいいのに、―――自分は坂本を引っ叩いてしまう。


嫌だ!!そう一層強く心中で叫ぶと、陸奥の細腕がうなった。
パンと、風が硝子に叩きつけられたような音。

「バカ本!!落ち着かんか!馬鹿二人のどちらからも連絡がない以上、ここで騒いでても分かるのはこれだけじゃ!」
一瞬、目を見開き呆然となった坂本の相貌がすぐに細められた。なんと冷静になるのが早い男だ。
「……この情報、他には」
「多分誰も知らん。わしも偶然拾ったんじゃ。で、独断で鬼兵隊に連絡した」
「ん?いや、それ自体はいいんじゃが、え、晋助とメル友?」
「阿呆。誰があんな男とメールしたいもんか。ついでに友達じゃなか。また子殿だ。私的な友人じゃ」
「あー、あの晋助一筋で露出度の高い!……何を話しとるんじゃ?」
陸奥とまた子を結びつける要素が分からないのももっともと言えばもっともだが、
「議題は上司の愚痴じゃ」
と一蹴された。「上司のろくでもなさはいい勝負じゃきの」

坂本は「おお、恐ろしか」と肩をすくめ、横目で予定表に目を通した。陸奥はその瞳の奥によぎった底冷えのする光を見逃さない。それは、坂本に似合わぬ静けさを孕んでいた。


「さぁて、ビンタで男前が上がってしもうたき。おりょうちゃんでも口説きに行くかのー」
陸奥は応える。それ以外に選択肢などない。
「進路変更。目標到達座標、地球、ターミナル」


更にその声に応えるかのように、恐れを吹き飛ばすかのように、船内無線が鳴り響いた。




◆ ◇ ◆




どこからか散った花弁が流れてくる。椿であろうか。大き目の赤い花弁が風に乗って空に昇ると、世界が薄ぼんやりと赤くなった気さえする。どこか異常な美しさだった。

「こりゃあ、椿か?見事なもんだ」
「食えもしないけどね。この先の椿群生林が近道なんだよ」

銀時は徐々に勾配がきつくなっていく細道をざくざくと踏み分けていく。会話が途切れた。というより、それ以上の会話を銀時の背は拒んでいた。
土方は内心溜息をつく。自分もお世辞にも話術が巧みとはいえないのに、ようやく搾り出した会話を両断されてはどうしようもない。徐々に日が傾きだし、橙色の光が降り注いでくる。城下町を出てから一刻は経っただろうか。この気まずい二人道中が続いていた。

先ほど銀時と高杉に遭遇した場所は城下町の外れだったらしい。土方が夕飯を作ることを勝手に決めた二人はしばらく相談し、高杉は一旦家に戻ると言って走っていった。
横で銀時が、高杉は大事な一人息子だから夕飯は家で食べないといけない、と解説した。危なっかしい足取りで遠ざかる高杉の小さな背を見ているとじくりと胸が痛んだ。あの背は、いつ親を捨て去ってしまうのだろう、と。
もちろん銀時はそんな心中に気がつくはずもなく、村塾に案内すると言ってさっさと歩き出した。
そして現在に至る。

「ここ抜けたら、すぐだよ」
「……あ、ああ」

突然振り返った銀時の言葉に驚き顔を上げると、更なる驚愕が土方の身を包んだ。


そこは、まさに椿の世界だった。地上に落ちた椿の絨毯と、頭上にひしめくまた椿。それは圧倒的な美を纏った閉塞。椿という色を持たない者を徹底的に排除するような、悪魔的な牢獄。
不思議なことに"銀時は馴染んでいた"。花の拒絶も彼の背には効かない。

銀髪がくすんで、輪郭が溶ける。
彼は振り返って、笑った。
高杉と別れてから始めて見せた、可愛らしい笑みを浮かべたまま、土方を手招きする。
行ってはいけない、なんてことは絶対にない。
風が吹いて花が散る。その風に誘われて、土方は一歩を踏み出した。



そして、がくんと世界は沈む。



「え!?」
ほんの一瞬で体が落ち、顔の目の前に赤い地表が広がった。埋没する。

「引っかかった。ソレ、俺が半日かけて掘った落とし穴」
うん、なかなかいい落ちっぷりだったと満足げに頷く銀時に土方は文句を言おうとした。
だが、出来なかった。―――首筋に当てられた硬質な冷たさによって。


丁度土方の首の高さに、落とし穴の縁はある。地表を舐めるようにして、銀時は刀を当てていた。
恐ろしいほどの真顔だった。


「なあ、アンタ、幕府の狗?」


首筋を這う刃は正確に頚動脈を捉えている。土方は息を呑む。この刃には、人を斬った経験がある。
銀時は薄っすらと笑みに似た表情を浮かべて続ける。
「いるんだよ、本当に時々だけど。偶然を装って先生を調べる密偵がさ」
冷ややかな声だった。ああ、そうかと何故か冷静に思う。
銀時が風景に馴染んでいるのは、彼がこの椿に"何か"を還元しているからだ。
この落とし穴は、そのまま―――

「俺がその密偵だと思うのか?」
ようやく口に上った声は思いのほか落ち着いていて、ほんの少し安堵した。嘘ではないが嘘だ。
銀時の赤目がすっと細められる。椿の色が反射。それは冷静と殺気の混合物。

「正直わかんない。俺、結構鼻が効いて、大抵の嘘吐きは分かるんだよね。アンタは違うと思う」
「そうだな。俺は密偵じゃねぇ。そうする意味を持たない」
「信じるよ。……でも、面が気に食わない。アンタは、いずれ俺達の敵になって、俺の友達を殺すような気がする」


ざぁ、と林が唸った。
椿がぼたぼたと地に落ちる。暗示的に。
ここは、自分のいるべきところではない。銀時の世界だ。


銀時が言った。
「答えろ。俺はそれを確かめたい」
首から上を椿の匂いが、下を地中の有機物の匂いが全てを占拠する。


「答えによっては、斬る。そこが、アンタの、墓になる」