十  段 



もう一度、笑った顔が見たかった。
もう一度、拳骨を落とされたかった。
もう一度。何度でも。
何でもないことを語らって、稽古をして、団子を食べに行って、城下町までの新緑を歩いて、皆で三味線を弾いて、夏蜜柑を取って、バカ騒ぎをして、喧嘩をして、拳固されてもまだ喧嘩をして、ただ笑う。
望んだのはそれだけだった。


◆ ◇ ◆
 

この三人が揃ってこれほど長い間沈黙が続いたのはいつぶりだろう。
なぜか、頭に浮かんだ最初の思いはそれだった。

隣の高杉を見ようにも凍り付いたように首が動かず、正面の「桂」の苦笑から目が逸らせない。
(覚えている)
そう、あの時以来だった。

不意に陽がさして、白い場所に広がるどす黒い血の一点が透明な赤になって輝いた。あの時も赤はあったのだろうか。ひび割れた戦場の土と、役割を終えた刀の突き刺さった墓と、あの人の首だけがあったあの場所に。
桂と高杉の表情は思い出せない。泣いていたのか、憎んでいたのか、呆然としていたのか。
俺は、いや俺達は、あの時互いの顔を見れなかったのだ。

―――ヅラァ」
「ヅラじゃない桂だ」

ああ、こいつらは、こんな時でもいつものやり取りをする。
高杉の恐ろしく静かな声、返す桂の声は聞きなれすぎた声音。
背筋が一気に焼け爛れた気がした。
静謐な声。人気のない雪の夜のような。
首が動いた。


笑っている。


高杉は笑っていた。
悪い笑みでも、嘲笑でも、戦の先陣を切る時の熱の籠った笑みでもない。
「高杉!」
「何だ、銀時。随分具合が悪そうじゃねえか」
思わず掴んだ左腕をそっと離される。その間も高杉の顔には無邪気で、柔らかく、信じられないほど凪いだ笑みが張り付いている。
一度も見たことのないその微笑。
焔としか言いようのないもの。
ああ、こいつは、

「ところで、桂。あれはお前の血か?」
淡々と高杉は言う。
「ああ。そこの拝殿が折りたたまれたんだ。逃げる間もなかった」
「天下の逃げの小太郎が聞いてあきれるな」
「うるさい。貴様という奴はもう少し労わりの言葉くらい言えんのか」
桂が頬を膨らませ、ふくれっ面をしても高杉の表情は揺らがない。信じられなかった。
今、桂が見せた表情は、戦に負ける前までよくしていた顔で、自分たちはよくそれをからかい、そして失われたはずの顔だった。
ありえない、とまさかが瞬時に交錯し、反射的に一歩踏み出そうとして、高杉がいかにも邪魔そうに振るった左手にさえぎられる。
―――見廻組の佐々木には会ったか? 話は?」
「ご丁寧に待ち構えていたからな。少し話もした」
へェ、と高杉は言葉を切って少し考える仕草をした。
「佐々木は副官ともども病院送りになったそうだが、やったのはテメェだな」
そこで、なぜか桂は一瞬だけ戸惑った。だんだんと薄もやがかかってきた頭で、ここ十年近く動揺した顔も見ていなかったと思い出す。
「……邪魔なものはどかすしかないだろう?」
「そうだなァ」
高杉がもう一度深く笑う。
「なァ、桂。隠密どもの始末のついでに、テメェの仇も討ってやる。情報を寄越しな」
「頼む。お前のことは嫌いだが、こういう話の分かるところは嫌いじゃないぞ」
「俺は全部嫌いだよ。―――拝殿は潰れた。あの本殿はお前が来た時にもあったか」
「いや、拝殿だけが出ていて地中に埋まっていた」
「十中八九罠だな。ここから見る限り、回廊は二股に分かれているが、どちらに行けばいい? どこぞの悪党に聞いただろう?」
「右だ。高杉、貴様の言う通りの悪党だったぞ」
「そうかィ、そりゃあよかった」

高杉の右手がゆっくりと刀に触れる。桂は何も言わない。
桂と高杉には昔からこういう時があって、二人だけで交わされている言葉が俺には分からない。
「銀時、そこの馬鹿を頼む」
不意に目が合った。澄み渡り、真っ直ぐな光と、桂が最期の言葉に選ぶだろう言葉。
「誰が馬鹿だ」
高杉が刀を振りかぶる。波紋が信じがたいほど煌めていたと思った瞬間、高杉の顔が耳元にあった。
そして、桂には聞こえない微かな声で、酷く疲れたように言った。

「銀時。テメェは奴の良いところを俺より知っている。どうしようもねぇところは俺の方が知っている。そういうことだ」


◆ ◇ ◆


「桂」の機器が破壊され、二人が迷わず本殿の左の回廊へ向かう映像を「松陽」は桂の高笑いを聞きながら見ていた。
「だから言っただろう、記憶から人を再現しようなどと無意味だと。本人の記憶を使っても、結果はこれだ」
歌うように楽し気で、同時に骨の髄まで凍り付くような声に空気が震える。
本来相容れないものがぐしゃりと混じる、にいと笑う顔。
「松陽」は先ほど見たばかりの記憶を思い出す。

吉田松陽を殺した男の思い出は、私塾の前で集合写真を撮ったところから始まっていた。
彼らはずっと笑顔で、塾は毎日が騒がしかった。
不思議なことに虚は憎悪を語ったが、思い出には温もりしかなかった。
その中にいた桂は笑っている。面影を残したままの顔を酷く引き攣らせて。

 
全身を血糊に染めた桂が天井裏から現れたのは、虚が消え、隠密達が「桂」を作るために「松陽」に指示を送ったすぐ後だった。
「そんなような気はしていましたが、やはり生きていましたか」
「松陽」は微笑む。虚の記憶を取り込む間に、それは確信に変わっていた。
「獅子身中の虫のおかげだな。あの抜け道を佐々木に聞いていなければ危うかった」
桂は忌々しそうに血糊で重くなった羽織を投げ捨てる。その時に背後のディスプレイに映ったその指示に目を止め、しばしの逡巡を経て、静かに言った。松陽に似たあの深く陰鬱な声で。
「俺の記憶を提供しようか」
「……なぜですか? あなたは彼らを憎んでいるでしょう」
「ああ、誰一人逃がさない。だが、正直それだけでは腹の虫が収まらん」

奴等は、先生を冒涜した。
銀時と高杉の触れてはならない傷を抉った。
俺達の何よりも大切な記憶を踏みにじった。

「ただ殺しはしない。自分たちのしたことが無意味で、無益で、無駄だったことを思い知らせてやる」
「……とても昔の君からは想像できないですね」
聡明な子どもだった彼は、曇りのない朗らかな笑みで松陽と共にいたのに。
「地獄を歩けば人は変わる。……乗るか、乗らないか決めてもらおうか」
桂は無表情のまま言った。


そして「松陽」は迷いなく選択し、隠密達には知らせずに桂が提供した記憶を繋ぎ合わせた。既に消された幕府への忠誠は何の抑えにもならず、赴くままに。
ただ知りたいという一心で。
本人の記憶という最も揺らぎようのない情報でどこまで再現できるのか。あの二人はどうするのか。ひいては吉田松陽本人の記憶を得られない自分が、限りなく本人である虚や、弟子たちの記憶を繋ぎ合わせて松陽になれるのか、という問いの答えが知りたくて。

記憶を移し終えた時、桂は言った。底の見えない倦怠とかすかな哀れみのようなため息とともに。
「無意味だ。失われた者は戻らない。……あの人は俺達のせいで死んだんだ」


そして「桂」は一刀両断され、部屋中に高らかな哄笑が響いた。
「彼は全く迷わなかった。これが君たちの絆ですか」
桂は嫌そうに顔を歪めた。
「単なる腐れ縁だ。そんなに綺麗なものではないし、あれは単なる推理さ」
「推理?」
「俺は佐々木に会い、取引をしてこの場所の見取り図を手に入れた。だが、奴を病院送りにはしていない。どうせ白い化けの皮を被り続けるための方便だろう」
高杉と佐々木の関係は深い。彼らは痛みと弱さを見せあって繋がっている。
恐らく高杉は「入院した」という情報と、あの取引の情報の両方を佐々木から知らされていて、咄嗟に会話に織り交ぜたのだ。
入力された記憶と異なる情報に対して、話を合わせてくるかを見極めるために。
「奴等が作る人格、そのベースには、幕府や奴等への忠誠があるだろう。現に、前の……あなたは、俺に攘夷志士をやめるように説得していた。だから、引っかかったのさ。俺の偽物を利用しようという奴等の意向を組み、情報になかった事実を認めてしまった」
「それで気が付いたのですね。いやもしかしたら、」
言葉をさえぎって、要の部屋の扉が乱暴に開かれたのはその時だった。


―――松陽、お前、何をやっている」
「おや、バレちゃいましたか」
駆け込んできた隠密の三人が呆然と「松陽」と桂の二人を見比べている。その、まさにあり得ないはずの光景を。
死んだはずの桂。床に転がる脳波機。悪戯がばれた時のような、少し困った顔の「松陽」。
一目で、何が起こったのか理解した。
全員の目線が桂を避け、「松陽」に注がれた。

「松陽、いつからだ! いつから我らの“支配”を抜けた!」
これは違う。目の前にいる男は既に「追憶」で作られた「松陽」ではない。
「内緒です。でも私の思いは変わっていませんよ。ただ吉田松陽になりたいだけです」
「……何を、馬鹿な。貴様はあくまで幕府の―――


―――それは一筋の線が喉に触れたように見えた。隠密達はもちろん「松陽」にすらそう見えた。


「もう少し戯言でも聞いて、情報を仕入れようと思ったがもういい」
全ての記憶の中で最も速い速度で桂の刀が動き、次の瞬間には全員の喉から血が噴き出した。
「その名を呼ぶな」
桂は流れるように美しい仕草で刀を払い、天を仰ぐ。

「先生の名を呼ぶな。貴様らごときに支配できるものか、あの人を支配しようなどと、この神気取りが。どれだけ奪えば気が済む。どの口が帰れるなどと言う。奴等の叫びが聞こえないのか。あれ以上の苦しみがあるか。もう二度と会えない。追いかけることもできない。もう、」

血を吐くように喚く桂の言葉の続きを、不幸にもその瞬間「松陽」は分かってしまった。


吉田松陽になりたい。
その思いだけが、ただ一つの自己だった。
彼になって何がしたかったのか。弟子たちと稽古をするのはおもしろそうだった。
彼らと一緒についた餅はどんな味がしたのだろう。
拳骨を落とすのはどんな感覚で、彼らの寝息を聞きながら眠るのはどんなものだったのだか。


首を反らし、天井を睨み続けた男が諦めたように正面を向く。

底の見えない昏い双眸から涙が流れた。


桂が直刀を翳す。涙より澄んだ波紋が揺れて。
「……あなたは、先生に近すぎる」


刀は重力に逆らわず、静かに落ちていく。
だが、「松陽」に届く寸前で、静寂が破られた。
「ギャァアア!」
複数の爆発音。それを聞き、脳が認識する前に桂が飛びのく。

冷たい色をした天井が一秒にも満たぬ間で垂れ下がり、中央に亀裂が入り、弾ける。その狭間から吸い出されるように落ちてくる複数の死体と―――見飽きた二つの顔。
「あ、」
最も大きい人の頭ほどの破片が真っ直ぐに「松陽」の機械へ向かう。
桂と「松陽」の視線が、合ったのかも分からないほど短く、だが生涯忘れられないほど重い時間、重なった。
「……っ!」


瞬きの間だった。


「……なぜ、」
弾き飛ばされた「松陽」は呟く。
目の前には、一番驚いた顔をした桂。
「松陽」を押しつぶすはずだった破片は桂の左足の上にある。

「ヅラ! ……お前、どうして」
銀時が駆け寄り、力任せに破片をどかすと、その下にある左足はあり得ない方向に捻じれていた。骨折は確実、下手をすれば腱が切れている可能性もあるほどの深手だ。
「……言うな。折れただけだ。それより、上には何人いた」
だが、桂は銀時の肩に力を籠めた反動で立ち上がり、すぐに聞く。喉を食い破る寸前の張り詰めた気配で。

最下層のこの部屋には「松陽」以外は誰もいなかった。
隠密達が集まる場所は別にあり、先ほどの三人は地上でのやり取りを受けて、様子を見に来たのだろう。
天井に空いた大穴からは瓦礫に埋もれた上層階が見える。そして落ちてきた死体と返り血に塗れた二人。意味するところは一つだった。
「六人だ。斬って、予備の機器は全て爆破した」
答えたのは高杉で、銀時が付け加える。
「こいつがいきなり四方八方に爆弾を放り投げやがったんだよ」
「いちいち壊すより簡単でいいだろうが」
「貴様らしい乱暴な手だな。―――それで、全員か」
「分からねえ、その場にいた奴は全員斬ったが……」


―――まだ、ですよ。彼らは十人いたはず。後一人足りません」


ぎょっとした表情で、銀時と高杉が目を逸らしていた「松陽」の方を見た。
「先、……何で」
思わず駆け寄ろうとした銀時を桂が反射的に留める。
「どういうことだよ!」
銀時が叫んだ。 あの時、一縷の望みをかようともした愚かな弟子たちを咎めるように、「彼」は役人に危機を告げた。それは「彼」の自由が封じ込められ、魂が冒涜された証拠だった。

たった一つの確かな証拠。
自分たちの直感以外の。

決して言えないが「彼」があの時、自分たちの方に危機を告げたなら斬れなかったかもしれない、と銀時は思う。
「彼」は全てが先生にそっくりで、致命的に違っていた。だが、何が違うと断ずるのは難しかった。
あの人との日々はあまりに遠く、幸せな記憶は血風と喪失で少しずつ削り取られた。

自信がなかったのだ。あんなに一緒にいたのに。あんなにも大切だったのに。
目の前の人が、先生なのか、偽物なのか分からなくなるほど懐かしかった。

「あの時は、……奴等に従わされてたじゃねえか…」
掠れた声で銀時が呟くと、桂は能面のような無表情で高杉を振り返る。蒼白な顔で高杉も頷いた。

「……最初の私は…彼等に作られたもので、目的は君たちを無力化することだけでした。それはよく覚えている」
追憶と名づけた計画を幕府中枢で認めさせるため、誰の目から見ても明らかな実績が必要なのだと彼らは言っていた。
彼らが目を付けたのは、高杉と桂だった。警察の全勢力をもっても止められない攘夷派の二大巨頭。
終戦直後は一介の攘夷浪士と気にする者はいなかったが、次第に無視できなくなり、幕府中枢でも危機感が共有され始めた。

あの二人はいつか国の首に手をかけるかもしれない、と。

そして坂田銀時の名が浮上する。市井にまぎれ、攘夷活動は行っていない。それにもかかわらず、幕府や天を揺るがしかねない事件には必ず絡んでいる。
武闘派の高杉と穏健派の桂。水と油と言われ、決裂した彼らを、同窓の坂田銀時が繋いでしまったとしたら。
国どころか天の首にすら手を届かせるかもしれない。

「彼らは“追憶”で、ありとあらゆる人間の記憶と遺骸の一部を集めていました。そして、その中から吉田松陽を選んだ。君たち三人をまとめて無力化できる存在として」
がり、と誰かが唇を噛む音が響いて消える。
「まず骨から基本的なデータを取る。彼らは骨や血からほとんどすべてを再現できると言っていました。姿形、簡単な仕草、声、笑い方。それから私は幕府への恭順と共にいくつかの記憶を入力されました」
「……俺以外にも無理やり記憶を盗られた奴がいるってことか。―――桂、離せ。終わったことだ」
淡々と高杉が言い、いつのまにか高杉の隣にいた桂が恐ろしい力で右手を掴む。
桂は離さず、体温のない目でぼんやりと高杉を見ている。
「……君には本当に申し訳ないことをした。……他の人たちは、よく分かりません。松下村塾に通っていた人、彼の好きだった店の店主、ほぼ全てが萩の人たちでしたが、その記憶は無理やりはぎとられた苦悶や鮮烈さはなかった。私は夢を見れませんが、夢でふと表層に上った記憶の断片、そんな感じでした」
―――病院。隠密どもはこの国のあらゆる場所に根を張ってやがる。指名手配の俺達は一般の病院には行かないが、病院を脅すか騙すかして医療行為の一部としてやったとしたら」
高杉が少し考えて言った。桂も頷く。
「大いにありえるな。銀時、お前も担ぎ込まれた時以外は闇医者だろう」
「……まあな。あいつらには言ってねえけど」
「そうかもしれません。最初の私になった時、彼の要の記憶、君たちの記憶はなかった」
「利用されたということか。俺達も、真選組も、何もかも」
桂が苦々しく言う。

自分が土方を斬り、高杉の隠れ家に転がり込んだところまでは偶然だろう。
奴らが出てきたのはその後の報道規制からだ。
幕府単体ではできないはずの報道規制を天に掛け合ったのが、幕府なのか隠密なのかは分からないが、少なくとも報道規制で、坂本や鬼兵隊らを舞台から排除したようとした。その上で、真選組の全勢力をもって捕縛に動いた。
桂がその混乱に乗じて隠密を狙ったように、奴等も真選組を使って(沖田の攻撃は完全に殺すつもりだったが)捕縛した上で、記憶を引き出そうと狙っていたのだ。

「どこぞの阿呆の巻き添えで真選組に捕まった後、俺はあの研究所に引き渡され、…銀時と共に、あんたに会った」
「ええ、覚えていますよ。私が言った偽物の言葉は、愚かな弟子たちが聞きたかったと思っている言葉だったと。私があの人になりたいと思ったのはその時です」
「松陽」は語る。
寂しげに、遠くを見ているように。三人が覚えている吉田松陽の陰のある笑みで。
「私はこの機器に接続した状態でしか存在しえない。けれど既に彼らはこの機器を複製し、ほぼ瞬間的にコピーデータを送れる技術を持っていた。私は決めました。何人の私を経たとしても、必ずあの人になると。そして新たな記憶を求めて、小太郎、君に会いに行った」
「……はい、」
「その時の私は君と話し、データを送った。まだ幕府に恭順を示したまま」
「じゃあ、あんたはいつ…?」
銀時が言う。ただ自由になったのか、とは聞けなかった。
「その頃にはほとんど私の記憶領域は一杯になりつつあった。そして君たちはここに向かっている。だから私は自分で不要なデータを消した。そこに幕府への恭順が含まれていたということでしょう」
一つだけ約束した事実を抜かし、「松陽」は寂しげに笑った。

「私は自由なのかもしれません。でも、分かってしまいました。……私は、あの人の偽物にしかなれない」 


彼らにとっての吉田松陽はあの人ただ一人。
彼らを心から笑わせることができるのも。
自分がどれほど記憶をかき集めて近づいたとしても、彼らに笑いかけられることは永遠にない。


「松陽」は、三者三様に泣き出しそうな幼い表情をした弟子たちを見る。
もしも自分にも心というものがあったとしたら、そこにずっと刻まれるように。


「こんなことを言っていいのか分からないですが、助けてくれたこと、戸惑ってくれたこと、……私は嬉しかった」

いつか人間として生まれる時が来たら。
君たちの先生になりたいとは言わない。
君たちの弟子になって、君たちと―――




「松陽」の意識はそこで途切れた。
バチン、と破滅的な重みを持つ音と共に。




「松陽」の姿が一瞬でかき消え、次の瞬間ドミノ倒しのように部屋中のディスプレイが暗転する。
最後の一つが消えると同時に、壁に埋め込まれたコンピューターの全てが焼け付き、炎が溢れた。
―――自由なものか。こうしてリセットしてしまえば、無に帰す貴様が」
足元に転がる死骸を避けながら、頭領と呼ばれた男が部屋に足を踏み入れる。
その手には決して押してはいけないとされた最後の装置があった。何重ものロックを解除しなければ押すこともできないもの。

リセット。
それは彼等も終わる時のものだった。


「テメェ……!」
咆哮した銀時の手から離れた木刀が、真っ直ぐに肌を破り、男の心臓を貫き、床に縫い付ける。


「夢は終わりだ…。我らの夢も、……貴様らの、夢も、」
何も見ていない虚ろな瞳で、頭領が呟き、それも消えた。


◆ ◇ ◆


炎が舐めるように壁を這い、一層上の瓦礫の中に消えていく。
戦場でありとあらゆるものが焼け爛れていく時と同じ臭いがした。
銀時が緩慢な動きで木刀を回収した後、三人は動かず、その視線も絡まない。
それでも誰ともなく、ただ一つ残された機器の電源を震える手で押す。


「……大丈夫、ですか?」


映像は乱れ、ノイズが酷く、懐かしい面影は右半分しか映らない。

「私は、吉田、松陽」
「もう戦わないで、ください」
「幕府に甦えさせられた、私には、君たちを抱きしめる腕がない」
「でも、」
「帰りましょう」
「松下村塾に」

彼の残滓。
機器に残された最初の記憶。
彼は繰り返す。
二度、三度と、ただ覚えた言葉を。


―――もういいよ、先生」


銀時が目を閉じたまま言ったその言葉が合図になった。
高杉と桂が刀を払い、銀時も木刀の血をぬぐう。
全ての所作を教わった通り丁寧に、水が流れるように。

「ごめんなさい、もう一度、君たちの名前を教えて、くれませんか」

なぜだか、思い出せないんです、と彼はうわごとのように言う。
何ででしょう。一番、大切なことだったはずなのに。

いいんだよ、と高杉が言い、機器をゆっくりと撫で、視界の隅で桂が刀を握る手に力を籠めたのと同時に立ち上がった。
三人の目線が合わさる。
それぞれが出会った時のような、はじめて笑いあった時のような顔をしていた。

(ああ、俺達は、嘘のつき方まで似ている)


―――吉田松陽が弟子、坂田銀時」
「同じく、桂小太郎」
「……同じく、高杉晋助」


三本の刀が一斉に振り下ろされ、天井から炎と瓦礫が降り注いだ。


◆ ◇ ◆


江戸の中心部から離れた忘れ去られた神社が燃えた火柱は、遠くターミナルからでも見えたという。のちに火柱を見た者たちの多くが、いつかの弔いを思い出したと語った。神社はその夜には跡形もなく片づけられ、取材の一つも入らないまま、白い砂利だけを残した。


◆ ◇ ◆


「おかえり」
「……ただいま」
重い身体を引きずって家に帰った全蔵はどう返すべきか迷い、うまい嫌味を言う気力もなかったので、単純にそう言った。そして玄関先に座り込む。
あの日から一週間。信じられないほど膨大な証拠隠滅と事後処理を片づけ、ようやく家に帰りついたと思ったら、厄介ごとに巻き込んだ当の本人がビールを片手に寝転がっている。しかも、ストックしていた中で一番高いポテトチップスをつまみながら。

「テメェ、猿飛。ここは俺の家で、そのビールも菓子も全部俺の物なんだが」
「だからおかえりって言ったじゃない」
「いやそうだけどね。つーかお前、なんでそんなに仕事終わるの早いの。明らかに俺に面倒なところの処理押し付けただろ」
「気のせいよ。そんなことより、仕事終わりにどう?」
そう言って、ビールを差し出されると体の中から泥が溢れたように疲れを自覚した。
「……おお。どこぞの猿飛さんに巻き込まれなきゃこんなに疲れなかったんだけどよ」
「だから、こうして待っててあげたじゃない」
「いや、明らかに寝転がってたよね」
「うるさい。―――はい、お疲れ様」
最後には強引に缶が合わさる。

(確かに俺は物好きだ……)
予想よりも冷えたビールを流し込み、目の前の満足そうな幼馴染を見てしまうと力が抜けた。


なあ。お前は猿飛のこんな顔を知らないだろう。
あれほどの傷を見せられても、俺達は仕事が終われば途方もない満足感に包まれる生き物なんだよ。


「で、お前、あいつに何してもらうの」
「馬鹿」
急にはたかれて空きっ腹はまずいと放り込んでいたポテトチップスが詰まった。
「げほっ……いきなり何すんだ!」
「だから全蔵は全蔵なのよ。ほんの一ミリのデリカシーだって持っちゃいないんだから。―――あんなことがあった後なの。銀さんの傷は、古傷も新しい傷もぐちゃぐちゃになって、肉も骨も見えてでろでろになった状態じゃない」
「いや表現がグロいんですけど」
「うるさい。そんな時に顔なんか出せるわけない……。少なくとも銀さんの傷に対して私は何もできない。だから、今は元気になった時に備えて、候補のプレイを考えておく期間なのよ」
ほら、と差し出された長すぎるリストと書かれていたえげつない内容とは裏腹に、彼女があまりにも寂しい顔をするから、今度は酒が詰まった。
はぁ、と特大のため息をついて全蔵は立ち上がる。
全く、本当に救いようのない物好きだ。

「じゃあそれまでの代わりに俺が言っておいてやるよ」
咄嗟に反応が遅れたあやめの頭にゆっくり手をのせる。

「お前はあいつにいいことをしてやったよ。あの野郎に一線を越えさせなかった要の一手は、俺はお前だったと思う」






山崎はコン、と明確な意思をもってたたかれた天井を見てため息をついた。
「面会時間は終了しました〜」
「いや、すみません。お見舞いが遅れて。今、幕府は大混乱でして」
果たしてすぐにくぐもった声がして、ひらりと見知った隠密が降りてくる。
山崎は嫌な顔になる。一度は土方を探しに外へ出たものの、その時銃口に受けた苦無のせいで腕にヒビが入り、再度入院した身としては、この有様を見られるのは恥をさらすようでいただけない。
「何だ、生きてたんですか。ここしばらく気が付いたらいなくなっていた隠密が多くいたから、あなたもてっきり殺されたかと」
「私はあの派閥とは別なんですよ。というよりは一匹狼といいますか」
あの時、ただ一人、桂が高杉のところへ転がり込んだ情報を得た隠密は静かに笑う。
「ただ、幕府の隠密の指揮系統はめちゃめちゃです。最大派閥を全滅させられたわけですから」
「へえ。俺はそんな爆弾の導火線を、屯所に隠されてたことを問い詰めたいけどね」
後で話を聞いてぞっとした。
山崎には、土方が殺されなかったのはいくつかの偶然が重なった信じられない僥倖としか思えなかった。

「彼らの行っていたことが、真選組よりも古かった。で、偶然、出口のところに屯所が出来てしまった。―――それくらいにしておいた方がいいと思います。桂と高杉があれで鉾を収めるとは思えない、しばらくは隠密が死に続けるでしょう」
「死んでも葬式には行かないよ」
「結構です。私たちはそういう関係じゃない。―――そういえば彼女も顔を見せてくれ、と言ってましたよ」
「それこそ冗談じゃない。あの人は高杉とも繋がってる。しばらくは下手に接触できない」
山崎がそう言うと、隠密は遠くを見て静かに言った。
「そろそろ物騒な気配が近づいてきているので退散しますが、私は少し眩しかったですよ。あれほど焦がれる記憶があるなんて。……あなたはどうですか」


山崎は答えなかった。それより先に沖田が入ってきたからだ。
「おう、ザキ。これ見舞い」
ばらばらと嫌がらせかと思うほどの大量のあんぱんが膝の上に置かれる。しかも沖田はさっさと一つ目をかじり始めた。
「あの、沖田さん。これ俺へのお見舞いなんですよね、一応」
「一応とは何でィ。山崎のくせに骨にヒビが入るなんて繊細な怪我しやがるから見に来てやったじゃねえか」
「はぁ。……で本題は何ですか。始末書なら手伝いませんよ」
先手を打つと沖田は嫌そうに顔を歪める。明らかに図星だ。
「土方の野郎、散々助けてやって命拾いしたくせに、屯所が半壊したくらいで。器が小せぇ」
「いや、沖田さんが爆発させた牢屋、導線の中央だったって知ってましたよね。すぐ後に半分くらい建物にヒビ入りましたし、母屋崩れましたから」
「いやいやあの牢屋は有事には爆発する仕掛け、つまり爆発させていいってことだろ。で、爆発したら屯所が壊れましたって方がおかしい」
「まぁ、それは一理ありますが……」
「というわけで、始末書手伝え」

嫌です、と言いかけて、山崎は視界が信じられないほど明るいのに気が付いた。もう夕方で、沖田の顔には斜陽が指しているはずなのに。
「山崎?」
覗き込んでくる沖田の少し幼い顔を見て、確信する。

彼は向こうへ行かなかった。踏み止まれたのだ、と。






「それでは、なんやかんやで皆無事だったき、乾杯じゃー!」
「何でっスかァァ!」
思わずまた子は叫んだが、当の坂本は一息でジョッキを空にしている。見れば隣にいる陸奥も涼しい顔で空けていた。
「いや、何で宴会!? そんな場合じゃないっスよ!」
陸奥が呼びに来たため断らずに来てみれば、料亭の離れで坂本が待ち構えていたのだ。
この男はあの後真選組に任意同行させられ、今回の一件との関わりやいきなり消えた社員(また子のことだ)について一週間にわたって調べられたはずだが、疲労の色もない。

「そうかのー。ようやく真選組の取り調べも終わっちゅうし、事後処理はもっと適任者がおるし。わしはそういう細かい仕事は苦手じゃき」
「ほォ、おまんに女の尻を追いかけるのとゲロを吐くこと以外に得意な仕事はあるとは初耳じゃ」
「あっはっはっ、陸奥ぶっ殺すぞ」
「まあまあ、また子さん、落ち着いてください。とりあえず今回の一件で、地球に戻れたのは坂本殿のおかげです。宴会ぐらい付き合いましょう」
坂本と陸奥がにらみ合いを始めたところで、また子の目の前に取り分けた料理が置かれる。
「いや、そもそも武市先輩はなんで飲みだけ来てるんすか! 晋助様が大変な時にあんたいました!?」
「いやいやいや、私も鬼兵隊の本船を護るので大変だったんですよ。春雨がここぞとばかりに揺さぶりをかけてきたり、機密情報が漏れそうになったりするし。まあ、なんやかんやで何とかなりましたが」
「なんか、適当なんですけど」
本船に残った武市は何度か地球への着陸を求めたが、ターミナルの封鎖をかいくぐることができなかった。

「まあ、結果的には残っててよかったと思います。私には銃弾を打ち落とすような化け物じみた技はありませんしね。あ、これ誉めてるんですよ」
「イラっとするんスよ、言い方が!」
また子は叫んでからようやくジョッキを手に取った。
酒で忘れられるとも思えないが、早くあの感触は忘れてしまいたい。
あの時、土方が撃った銃弾を打ち落とせていなかったら。部屋を出れていなかったら。
弾が中空を裂く軌道を見たまた子にはその結末が分かっていた。
防げて、心の底から安心して、同時に猛烈に不安になったのだ。

「よし、また子ちゃんも飲み始めたことじゃき、もう一度乾杯じゃ! あれ、バンザイくんは、どこかの」
武市とまた子が問答をしている間に、三杯目を片づけた坂本が叫ぶ。
だが、万斉は最初からこの上なく不機嫌な顔で坂本の隣にいる。
「拙者は万斉でござる」
「あれ、そこにおったのか。いやー、やたら怪我だらけの御仁がいると思っちょったが! まさか幕軍に」
「そんなわけあるか。これはあの馬鹿にやられた」
「万斉先輩ったら、いきなり晋助様に喧嘩吹っ掛けたんスよ!」
「喧嘩ではござらん。大将にそう簡単に無茶をされては困ると当たり前のことを言っただけでござる」
そう不貞腐れる万斉の腕には包帯が巻かれ、顔には青あざが出来ている。
「じゃあ、一週間晋助様と口をきいてないのは」
「喧嘩中でござる」
「いや、喧嘩してるじゃないっスか!」
「議論の後のたまたました喧嘩だ。他意はござらん」
「あっはっはっ! えいえい、高杉にも喧嘩してくれる仲間が必要じゃ! ということで」
「日本酒入るぜよ!」
坂本の語尾を陸奥が引き継いで言った。
もうこの人たちは飲みたいだけなんじゃないか、と思いつつまた子は陸奥にだけ囁く。
「でも……こんな時に飲んでていいんスですかね。晋助様、帰ってきてから本当に元気ないし、万斉先輩と喧嘩した以外はずっと寝込んでて」
高杉は何も言わない。ただ背中を見ているだけで、彼の心が泣いているのだと分かる。
「いいんじゃ」
陸奥に話したはずが、答えたのは坂本だった。


「わしらはあいつらの痛みには立ち入れん。あいつらが消化するしかないき。―――それに、」
坂本はその一瞬だけ不思議に酔いが覚めたように、静かな表情になった。
「あいつらの痛みを見すぎちゃいかんき。引きずり込まれる。仲間まで引きずられたら、今度は引き上げるのがいなくなる。だからわしらはここに残るし、発散しないと長くはもたん」
「……長く、とは」
万斉が言うと、坂本は獰猛な顔でにやりと笑った。
「時代に勝つまで、自分の心を持たせなきゃいかんぜよ」






ありがとう、と聞こえた。
現実というには淡く、幻聴というにはあり得ない言葉だった。
今の今まで忘れていた言葉を幻で聞くはずもない。
「……虚様? どうかされましたか」
「いいえ。君の弟弟子達は一筋縄ではいかないな、と」
朧は戸惑いと憂鬱が混じり合ったような奇妙な表情をしたが、何も言わない。

(礼を言う相手が間違っているでしょう)
記憶を提供したのは単純に松陽の弟子たちの力を見るため。彼らのつながりの深さを探るため。映像を見ていたのもそのためだ。

幸福な彼は勘違いを抱えたまま去った。
彼らに悼まれて。

そして今、虚は目に焼き付いた「松陽」の微笑みを思い出している。
心を過ぎ去った小さな苛立ちを言葉にできぬまま。






桂は苛ついていた。
一番使い勝手のよかった隠れ家が潰れたのだ。
複雑骨折だった足を引きずり、隠れ家に戻ろうとしたら警察が張っていた。何食わぬ顔で踵を返し、近所の住民に聞いてみると二日ほど前から不審な男が出入りをしていて、今日警察が来たらしい。
そして、その隠れ家から一番近い隠れ家に向かうと、既に灯りがついている。

「よォ、遅かったじゃねェか」
予想通りの人物が我が物顔で茶をすすっているのを見て、より一層心がざわついた。
「なぜ貴様がここにいる」
高杉はくつくつと喉に絡む笑いをする。
もちろんこの意味は知っている。ろくなことを考えていない時だ。
「お前だって俺の隠れ家に“遊びに”来ただろォ? 俺もたまにはテメェの家でも訪ねてみようと思って何かおかしいか?」
「貴様は遊びに来るのに二日も寄り道をするのか?」
「何のことだか」
「とぼけるな」

住民たちの証言を聞けば明らかで、高杉はわざと人目に付くように桂の隠れ家に出入りし、警察の目に留まるように仕向けたのだ。
意趣返しとして。
こういう小さいことでもやり返すところも昔から変わらず、何度でも思えるがろくなものじゃない。
「まァ、隠れ家自体が爆破されたわけでもねえだろう?」
桂は、にやにやと笑う高杉に問答無用で爆弾を投げつけたい衝動と戦い、かろうじてここが自分の家だという事実で踏み止まった。

―――もういい。ところで、右手の具合はどうだ」
立ち上がり、いつもの倍の時間をかけて、机や花瓶を廊下に出しながら桂は言う。
「複雑骨折だとよ。テメェの足は」
「俺も同じだ。腱は無事だが当分は安静にと言われた」
途中から高杉も物を廊下に出し、がらんどうになった部屋で二人は向き合う。

「安静にするつもりかよ」
「まさか。それよりやらなければならないことがある」
にたりと桂が悪鬼のような笑みを浮かべる。
「奇遇だねェ、俺もだよ」
「手と足が使えない。まあ、互角だろう」
ごきり、とどちらかの拳が鳴った。桂がしじまにも溶け入りそうなほど体温のない声で言った。


「さて。貴様があの人のことを黙っていた理由を教えてもらおうか」
「ああ。俺もテメェがあの六人の存在を黙っていた理由を知りたいねェ」
高杉も哂いながら、静かに言った。


先手を取った高杉の左拳が桂の頬に吸い込まれる。
だが、利き腕でない分威力が落ち、歯を食いしばっていた桂は倒れず、無防備に目の前にさらされた腹を蹴り上げた。
「ぐっ、」
どちらともが呻く。
そして全くの同時に、血を吐き捨てた。
しばしの静寂。


「ヅラァ、お前、次は何を考えてやがる」
高杉がにやりと頬を歪めて言った。
「ヅラじゃない桂だ。―――お前が考えるようなろくでもないことさ。お前は?」
「あァ、テメェなら気が違ったかと思うようなことを考えてるぜ」


共犯者は笑い合った。満月よりも不穏に。
傷が増えたからといって、自分たちは止まれない。
痛みを飲み込んで抗ってみせる。

高杉が桂の右足に足払いをかけ、その瞬間、桂が頭突きを繰り出した。






ターミナルの光を受け、まだらに光と影ができた河原からにゅうと手が伸びていた。
「ひっ」
暗闇から伸びる手、その指し示す可能性のあるものが頭に浮かび喉から奇妙な音がでた瞬間、手の方向から笑いをこらえきれず吹き出す音がした。
「何、幽霊だと思ったかよ」
「ふざけんなよ、テメー! 少しあれだ、見えにくかっただけだ!」
寝ころんだまま薄く笑う銀時と目が合い、土方は思わず叫ぶ。そして驚いた。いつも通りの切り返しができて、刀に手が伸びなかったことに。

人間に戻っている。
酷く疲れているように見えるが、少なくとも死人のような気配はしないし、今も歌舞伎町の騒音が聞こえる。

「悪かった」
突然、前置きもなく銀時が言った。
その瞬間だけ、夜の底が底なし沼のように深くなる。

「木刀は置いてきた。斬っていいぜ」
真っ直ぐ見上げてくる双眸には虚しくなるほど嘘がない。
寝転がったままなのは首を斬りやすくするためで、背を向けないのは落ちてくる刃を見るためだと分かった瞬間、猛烈な怒りと、ほとんど同じくらいの憐れみが湧きあがり、気が付いたら足が出ていた。
蹴り飛ばされた銀時は人形が転がるように無抵抗に河原を滑り落ち、川と河原の狭間にある泥濘で止まった。
―――テメーは当分禁酒しろ」
自身も泥濘の前まで下りて土方は言った。銀時は遠くを見ている。
「飲んだくれて暴れるにしても限度があるだろ。俺じゃなかったら今頃テメーは牢屋行きだ」
この男が根無し草のようで、皆の中心にいながらたった一人のような理由が分かったような気がして、そして過ぎ去った。
この男は自分を投げ出してしまえるほどの絶望の中にいて、同時に明るい場所に帰りたいと焦がれている。
その場所はここから数分とかからないはずなのに。
「飲んで暴れた、か。俺、酒には強いよ」
「弱いか酒癖悪い奴ほどそう言うんだよ」
頭の中で、夢だったのかもしれない幼い声が鳴り響く。
自分にとって桂も高杉も間違いなく敵で、必ず殺さなければならない存在だ。
それでも、あれほど護りたいと叫びながら、首を差し出せるほどの痛みすら分かち合えず、こんなところで泥濘にいるこの男が憐れだった。
 
その時、絶妙な加減で銀時の顔がターミナルの影に隠れた。
銀時が言う。今まで聞いた中で一番悲しい声だった。

―――土方。お前、何でこれくれたの」
綺麗にたたみ直された紙。一目で分かった。
坂本に気絶させられた銀時の懐に放り込んだ紙。そんなの知るかよ、と正直思う。


“失いたくなければ戦いに来い”


真選組副長として言ってはならない言葉だった。ならば何だったのだろう、と今でも分からない。
ただ無性に嫌だと思ったのだ。
目の前のこの男が何もしないまま失って、膝を抱えるのが。

「さあな。テメーが知りたいなら、絶対教えねえ。―――それから二度目はないぜ」
銀時はぼんやりと眩しいものを見た時のように目を細めている。
「土方。お前、お人好しすぎない?」
「人間がいいからな。よく言われる」
「俺達みたいなのに付け込まれるぜ。いつか命取りになるかもしれねえ」
「だから言っただろ。二度目はねえよ」


お前らの子ども時代を見たのは走馬燈の失敗だったのかもしれないと思う。
楽しかったよ。だから帰れたのだと思っている。
そして、その分の借りはもう返した。
今日を限りに俺はお前らの幸せな時を思い出さない。


銀時が背後でもう一度「悪い」とつぶやいたが、土方は振り返らなかった。






お登勢さんは、その白い戦装束を勢いよく切って雑巾にしている。
ところどころ汚れているが、血は全くついていない着物。
「僕もやります」
「針はそこだよ」
そうだ、一刻も早くこんなものは雑巾にしなければならない。
布を切り、針を通すと心が軽くなるような気もしたし、憂鬱になるような気もした。
 
銀さんはあの日から一週間帰ってこない。
「あの馬鹿は一人じゃないと落ち込むこともできないのさ。そろそろ帰ってくるよ」
何となく玄関を見た瞬間、お登勢さんに言われた。
「……お登勢さんはすごいですね。銀さんが必ず帰ってくるって信じてる。いえ、僕も信じてる、と思いたい。でも、時々ものすごく不安なんです」
帰ってきてくれればいい、と思っている。
きっと知らせることができない何かだったのだ。
一週間前、沖田さんをごまかすために金さんが来た時から分かっていた。

「今でも銀さんにとって、僕たちは痛みを打ち明けるには足りない存在なのかなって。まだ一緒に戦って重い物を分かち合うこともできないんでしょうか」
―――私はね、昔あの馬鹿を拾った時、すぐにいなくなっちまうだろうと思ってたんだよ」
お登勢さんは懐かしそうに言った。
「あの時、あいつは何も持ってなかった。帰る場所も、護りたい者も、自分への執着すら。だからいつ足を滑らしていなくなるのか分からなかった。……今でも少しはあるよ。あの馬鹿にとって一番投げ出してもいいものは自分自身だからね」
「だから!」
心配なんです、と続かなかった。
傍にいない時に、彼が足を取られたらどうしよう。投げ出してしまったらどうしよう。言葉にもできない。
「でも、今の奴はここがあって、あんたらが待ってると分かってる。帰ろうとしたから、あんたらを戦いから遠ざけた」
「……はい、」
分かっている。今回の一件は銀さんの触れてはならない部分のことだったと。でも坂本さんも、さっちゃんさんも、それを分かったうえで信じた。
自分はそれが怖くてたまらないのに。
―――それにね。もし自分を投げ出そうとしても、もうできないよ。誰かが必ず止める。あいつはもうそういう場所に来たんだから」

その言葉が終わるか、終わらないかの瞬間だった。

「銀ちゃん!」
玄関の外から神楽ちゃんの声が響いた。ずっと歌舞伎町を歩き回っていた神楽ちゃんの泣きそうで、怒っている時の声。
雑巾を放り出し、玄関を開ける。
「このドラ息子がァ! 一週間もどこほっつき歩いてたアル!」
一週間ぶりに見た銀さんは、丁度神楽ちゃんの飛び蹴りをまともに食らったところで、強張っていた肩の力が全部抜けた。
吹き飛んだ銀さんは鼻血をたらしながら起き上がり、文句を言うかと思ったらただへらりと遠慮しがちに笑った。


「おかえりなさい、銀さん」
「おかえりヨ!」


僕と神楽ちゃんが先に言った。
ざまーみろ。素直に言えない大人が相手なら、先手を打つまで。
根比べする覚悟ならとっくの昔にできている。

「たでーま」
銀さんはそれでも一瞬だけ悩んでから、死んだ魚のような目で言った。


◆ ◇ ◆


春の温い陽光の中、足を向けた場所は花にあふれていた。
あの日、俺たちが墓を作って別れた場所は終戦後忘れ去られて、今眩しいほどの生命力を放つ鮮やかな色と、生まれたばかりの淡い草に埋もれている。
灰色の空虚な果てだと思っていたこの場所はこんなところだったのか、とぼんやり思う。

先生の墓は、他の墓より少しだけ奥まったところにある。ここだけ丁度良い石の台座があったのだ。

台座には乾きかけの水の跡があり、その前に置かれたものを見て、銀時は笑った。
あの二人らしく競うように置かれた花。
中央には、あの機器の破片が二つ。
そして中身がきっちり三分の一だけ残された酒瓶と湯飲み。

「考えることは皆同じってか」

懐から持ってきた破片を取り出すと太陽に反射して透明に光った。
「なあ、先生。あんたのところに連れてきたくなったって言ったら笑う?」

懐かしかったよ。
諦めが悪くて、優しい嘘を言うところがそっくりだった。

「向こうで会ったら、ろくでもないことしてくれよ」
酒を湯飲みに注ぎ、空にかざす。
松陽は芽吹きの頃になるとこの桜色に薄く濁った酒を飲んでいた。


「乾杯」


三人分の思い出が春風に舞う。



<了>