顔のない人間達が、群集の作る流れに身を任せて漂っている。食欲や探し人はあれ、群集という一つの生き物にまとめてしまえば、彼に行き先はない。 至る所で鳴る管弦の音。屋台の合間を縫う祭囃子。整然とした音は何一つ存在せず、何かしらの欠けを含む雑音が廻り廻って空へ還っていく空間を彷徨う内、顔だけでなく現実が消えてゆく。 ともすれば無色無音の現実が失われることで、世界に散らばるあらゆる色と音が集まる。 全ての祭でこの夢祭ほど愉快なものはない。 そんな雑然と、無秩序に満ちた空間のそのまた果て。すぐ目と鼻の先を子供達が走り抜けていっても、まるで気がつかれないただ一点の位置。即ちそこは無秩序の果てであり、彼そのものが果てになろうともしている。 鮮やかな臙脂の着流し。薄汚れた片目の包帯の上、申しわけ程度の古びた狐面。三味線から零れる不均衡に流麗な音。 有名なものから、自作のものまで、日頃の絡みつく声とは別物の硬質な声で彼は唄う。 泣いた拍子に覚めたが悔しい 夢と知ったら泣かぬのに ある女がその男を見つけてしまった。絶え間ない堕落と侵食の男が、夢の中でいくら正気に帰っていたとしても意味はなく、触れれば触れるほどに、自分の譲れない何かが削り取られていくとわかっているのに何故。 足が止まらぬ。言葉も止まらぬ。嗚呼、これが夢だと定義されているのが唯一の救いか否か。 「高杉」 その世界で最も呼びたくない名が口から零れた刹那、高杉は彼女へ穏やかな笑いを浮かべた。 彼の必要要素の歪みを全て排した、よく見れば嫌味な笑い方もそのままであるのに、少年のそれのような笑みを。 背筋に冷たいものが這った。この男にすら過去を投影させる、夢祭こそが狂気だ、と。 「なァ、陸奥。俺の三味線は、後一段低く、澱みない琴線のような声がつくといいんだよ」 「おんしは今その音を聞いちゅうのか」 「あいにくの雑踏でな。萩の風景は何重にも重なって見えるが、聞きたい音だけは聞こえねェ」 「……戦乱の音も?」 「あぁ、それどころか、聞いたはずのない音まで聞こえやがる。先生の首に刃がめり込んだ音が耳に響くさ。日頃、頭がおかしくなってる時は無音なのに、今日はやたら五月蝿い。―――オイ、陸奥」 「聞きたくもないが一応聞いちゃる」 「俺ァ、これから見飽きた連中と会うだろう。会うように出来ちまってる。……咲いた花なら散らねばならぬ 恨むまいぞえ小夜嵐。嗚呼、あいつの声が欲しい。―――陸奥」 彼の手は刹那の慰めのために、自分に触れようとするそれだ。斬り落したらさぞ愉快だろう。 世の中不合理、まして一人の鬼の志士。身体が動かぬ。光も消え逝く。 「今宵ばかりは恨ませろ」 ◇ ◆ ◇ 「よっ、多串君、奇遇だねー」 平坦な声でそう言った銀時の手には既にチョコバナナ、綿飴、落書き煎餅があった。その上、口には林檎飴を入れている。 「よお。会いたくもなかったがな。つーか、テメー糖取りすぎだろ。金はどうした、かっぱらったのか?」 「税金かっぱらってる人に言われたくないですぅー。これは、俺の尊い労働でだなー、ほら、ガキどもにもたまにはたっぷり甘いもん食わしてやりたいと思うわけよ」 「そうヨ!銀ちゃんなめんなよ!」 「お、神楽。任務は全うしたんだろうな?」 「もちろんネ。クレープ屋のマダオを脅してクリーム大目にしといたヨ」 「オイ、チャイナ。それは脅迫って言うんだぞ。つーか、いちいちこいつの言う事聞いて大人になっちゃ駄目だぞ」 「はい無視ー。新八は?」 「途中で親衛隊の連中と会ってそっちに行ったアル。カキ氷は私が預かっといたヨ」 「おーそうか。ところで半分くらい減ってんだけど」 「気のせいネ」 「純然たる事実だろーが!!」 「おうおう、旦那はすっかりお父さん状態ですねィ」 やっぱりこのタイミングで戻ってきてしまった、と土方は深く溜息をつく。ガキの頃からそうだが、沖田は今だけは勘弁してくれというタイミングに現れる天才な気がする。土方はいまだに大部分が量られていることを知らないのだが。 もっしゃもっしゃとお好み焼きを食べながら、時折ソフトクリームを舐める沖田が爽やかな笑みを浮かべている。既に標的をロックオンしているのだ。 「ところで総悟。お好み焼きはおごると言ったが、ソフトクリームまでは許可してねーぞ」 「やだなぁ、土方さんは人間が小さくて。というか、途中でラーメンも食ってきました。あ、近藤さんは途中でお妙さんを見つけて殴られに行きましたぜ」 「おー、そうか。ってゆうか、その面、結構殴りたい衝動に駆られるんだけど」 「まぁまぁ。でも俺より土方さんの血圧を上げるような奴がラーメン屋にいたんだなー。教えてあげようかなー。どうしようかなー」 「うざいんだけど。真面目にうざいんだけど」 そんなくだらない問答の間に沖田は全ての食物を腹の中に収め、ほとんど同時に神楽もクレープを食べきった。ごく自然に視線が絡む。 「やっぱり教えません!ってゆうか、もうすぐここに来ると思いますぜ。俺はとりあえず、チャイナを叩き潰してくるんで失礼しまさァ」 「望む所ヨ!」 「教える気がないんなら話振るんじゃねェェ!」 「そう言うと思って、今日の舞台イベントの格闘にエントリーしときましたぜ。それの優勝をかけて勝負と行きましょうや」 「よし!」 相変わらず無視される扱いの土方の肩に幾分優しく手が置かれた。 表情など分からずとも、間違いなく馬鹿にされている事は分かる。今日はまるでいいことがない。 「おーい、てめェら。暗闇で男女の格闘とか絶対駄目だからなー。俺がまるきりモテないのに、んなことは許しませんよー」 幸いその暴言は二人の耳には届かなかったが、銀時の背後でくぐもった笑いが起こった。どこか、不吉な色の。 「銀時、いかんぞ。モテない男の僻みは見苦しい」 「何、なんかウザい人出てきたんだけど」 その言葉を発しながら、銀時は後ろの声を払いのけるかのように後ろ回し蹴りを入れる。あっさりとかわされるが、日頃なら当たらぬはずの蹴りがかすった感覚があった。 どうせなら心は全身全霊で振り返っているくせに、執拗に前ばかり見ている顎が傷つけばよかったのに。もはや自らの鋭さに違和感はない。 「って、何そのキモいペンギンお化けの面」 「キモくなんかない!ミニサイズエリザベス面だ!」 「あー、お前がキモいとかそういう言葉を使うのが気持ち悪い。大体、んなきしょい面、どこで売ってんだよ」 「俺が屋台で売り出している。坂本が金を出してくれたんだ。……銀時、一つどうだと言っても貴様に金はないな。どうだ、そこのサングラスのお兄さん。銀時の友達の友達ということで一つこのエリザベス面を」 (ってゆうか、土方君最初から超キレてたのに、なんでいちいち声かけんの。馬鹿?) 馬鹿なのは昔から判明している事なのだが、思わずにはいられない。 「……ふざけんじゃねェェエ!!テメェ、桂だろ!?何のこのこ俺の前に姿見せんだ、このテロリストがァァ!」 「またまたー、この夢祭に日頃のことを持ち込むなんて無粋だぞ」 「なんなの、俺をいらつかせる口調が流行ってんの?」 「多串君、自意識過剰なんじゃないの?」 「うっせー、テメェは黙れ!……というか、テメーらの関係はなんなんだよ。万事屋、お前」 「あぁ、初めてバイトした時の同僚だ。俺達、マックでバイトしてたから。なぁ、銀時」 「そーそー。あそこ、シェイクこっそり飲めたから」 嘘こけェェ!とわめくリアリストを、今日くらい良いではないか大体攘夷志士としてもこんな糖尿はお断りだ、と半分失礼な事を言って相手にしないリアリスト。 言ったら双方から拳が飛ぶだろうが、こういう側面では桂と土方はよく似ていると思う。土方に関しては知りはしないが、奴の最も大切にするものはこの夢の中にはないのであろう。斬ることしか能のない俺達はここに置き捨てられているというのに。 桂は夢の中にいる快感を知っている。何故なら、同じ場所で戦に負けて、おそらくは同じように泥に塗れながら(奴はプラス屈辱に塗れながら)逃げて生き延びた俺も知っているからだ。 先ほどの言葉にしたってそうだ。普段なら「幼馴染だ」とか「いずれ引き込むつもりだ」とか言って、彼らの疑いの目から白夜叉を呼び戻そうか、でも自分達で取り戻したいくらいは逡巡するだろう。嫌な奴。それは奴の利己に立脚していながらも、多大な比率を占めるのは俺への情けだ。白夜叉は桂のそんなくだらない側面を何より憎んでいる。 それに、土方にしたって、ある日路地で鉢合わせしてたまたま苛ついていたら、刃を合わせるのも厭わないに違いない。結局の所、桂の中の今日は幻に過ぎない。遊ぶだけ遊ぼうと開き直った奴は、随分高杉に似てきた気がする。 「土方そんなにわめいていると女にモテないぞ」 「余計なお世話だってんだよ!だから、帯刀出来ねー、この祭りは嫌いなんだ!」 「奇遇だな俺もだ。ところで、瞳孔開いているくせに、隅に置けないな。お前を目掛けて婦女子が猛烈な勢いで走ってくるぞ」 「アァ?」 天の助け。俺が事態を沈静しなくていいようだ。ラッキーすぎる。 走ってきた女は、まぁそこここ可愛くて、それなりに胸も大きくて、土方を真っ直ぐ見ていた。こいつマジでモテんだな。死ね。 「―――お探し申し上げました!マヨラ13様!!」 「……マヨラ13?」 「何だそれ」 ◇ ◆ ◇ 「オイ、沖田。揺れてアイスが食べづらいアル。もっと丁寧に運ぶヨロシ」 「ふざけんな。肩車されてるだけのくせに。それより、アイス零しやがったら殺すからな」 「イベントの時間を間違ったバツを受けてる人間の言う台詞じゃないネ」 「詫びはそのアイスだろィ。ちっこいテメーが花火が見えないとか言うから、しょうがなく肩車してやってんだぜィ」 「こっちだって銀ちゃんがいないからの妥協アル」 「この際頭から落してみようかな……」 危険な文句を洩らしながらも、沖田は黙々と歩を進める。 ちらりと横目で時刻を確認すると、それほど余裕はなく、足により一層の力をこめ、坂を踏みつける。 闇が横たわるばかりの足元を沖田の足が安々と切り裂いていく。 「お前、結構夜目効くアルナ」 「あぁ……。昔、どこぞの喧嘩好きのマヨラーがしょっちゅう夜襲をかけるだの言って巻き込んでくれてねェ。近藤さんは何時までもあのままの人で、俺達がどんなにとんでもねぇことやらかしても笑って、やっちまったなとだけ言う人だったんだが、土方の野郎の方はまぁロクデナシで」 「……お前も十分ロクデナシだから心配いらないネ」 「そりゃどーも。でも、俺もあの頃は純粋無垢なガキだったんですぜ。やれあの気に食わねェ武士をボコるだの、やれむしゃくしゃするから道場破りに行くだの、あそこまで行くと潔いバラガキだったんでさァ。―――ここでさァ」 「………これが、夢祭…」 「そう。ここは、花火が一番良く見える場所でもあるんだが、祭りの膨張具合が一望できる場所でねェ。最初は普通の夏祭りくらいの規模で始まっても、半ば前にはこの通り、江戸の路地まで共同幻想が染み渡って、いつのまにか屋台が増えていく。歩き回る奴は増えているのか、それとも何処からか溢れてきたのかわからねェ。死人の一人や二人が戻ってきたって、誰も気がつかねェだろう」 「……銀ちゃん、今日をものすごく楽しみにしてた」 「旦那がねェ。結構意外かも」 「銀ちゃん、いつもは祭りに行くとロクなことがないって引き摺らないと来ないのに、この祭りだけは違ったヨ。バイトでもしたのか、ちゃんと好きなだけ買い食い出来るくらいのお金持ってたし、ちゃんと私と新八にもお面を用意してくれた。……夢の中の方が好きアルカ?」 その微かな危惧を沖田は既に知っている。口に出したくとも、自分がみじめで、相手も嫌いになれずについに隠し続けるに至ってしまった叫びがまだある。 「―――馬鹿言うなィ。旦那が大切にしてんのは、テメーらだろィ。……湿っぽい話はもういいから、ここでのとっておきの楽しみをしましょうや」 「何?」 「ほら、あそこで近藤さんが山のような荷物を持たされてお妙さんと歩いてる。右に視界を移せば、土方さんが女の子に追いかけられて、父さんにぶんなぐられてる。……思い通りだぜィ」 「思い通り?」 「こっちの話でさァ。桂のペットのペンギンお化けにも人間の彼女がいるし」 「可愛いナースネ」 「何で近藤さんがモテないんだか不思議になってくる。そうかと思えば、大物テロリストが……」 一瞬氷ついた沖田を嘲笑うかのように、次の瞬間には大輪の華が空に咲く。夢祭の折り返しにふさわしい突き刺さるような光。 知っている色が無数に混じりあい、果てしない現実の色を帯びた花火が打ち上げられては消えてゆく。満面の笑みで笑う極彩色、泣き叫ぶ閃光色、もしかしたら祭自体を嗤うのかもしれない混沌の色。海から湧き上がり、人の世の汚れを吸収してなお美しく、また海に沈む。 疎遠になった人間と邂逅する夢祭で、旦那が桂や高杉と笑いあっていたってそれはどうでもいいことだ。だが、あれだけは夢に出来ないような気がする。 この会場を挟んで端の俺に、頬を釣り上げた彼の見えない瞳は。そして、あの花火を見つめたこれ以上ないくらいの愛しさと悲しみと―――諦めのような虚しい表情だけは。 いや、忘れればいいのだ。そう苦笑して、沖田も再び無心に花火に見入った。 「姿が見えないと思ったら、いつのまに花火師になったんだ?」 花火から視線を外さず、桂が穏やかに笑う。 「夢祭の花火の依頼が来るなんて、カンパニー最高の商売ぜよー。頑張っちゃった!」 「キモいから辰馬。でもお前、よくあの花火覚えてたな。一度きりだったじゃん」 「笑えるくらい印象強かったからじゃ。―――いい感じじゃろ?」 華は続く。時が鮮やかに過ぎ行くのと、全く同じように。 「あぁ、懐かしいぜ」 高杉の返答と共に、あの花火生誕の土地を三味線が唄う。 夢は続く。幾万の過去と無数の人脈が織り成す今宵が生き続ける限り。 人は時の上に生きるしかない。あまりに重い過去の時を全てを保持するのは過去の時計。螺旋に似ているその上を狂人のように踊りながら、限りなく虚しく鮮やかな今を駆け抜け、末路であり未来を奏でる。その哀れで美しい姿は、時の囚人と呼ぶにふさわしい。 檻姫、誕生日おめでとう。 2006/0908 個人的に、高杉が欲しいと言った声の持ち主は 久坂 。 |