人には夢がなければならない。人は良くも悪くも夢に依存し、夢を対価に世を生きる。
我々には不可視な未来と、非現実故に我々を救う幻と、虚しい現実逃避が付き纏う。
人は往々に夢から逃げられぬもの。夢は我々に微笑む。暖かく、悪魔的に、甘美に。
その笑みは、光の使者のそれと、気まぐれな神のそれと、堕落者のそれに似ている。






時  の  囚  人








某年某夏。真選組屯所。

「暑い……」
「暑いな……」
「暑ィよ…」
「暑いね……」
「暑いですねェ、死ね土方」
「ほんと暑いですよねー」

「うるせェェエ!!暑いって言うと余計暑いだろーが、馬鹿山崎ィィ――!!」

原田の拳が山崎を吹き飛ばすのと同時に、頬を畳に擦り付けて倒れていた斎藤、永倉、山南、沖田という面々が飛び起きる。
あまりの理不尽さに抗議をする山崎を当然のように無視して、殴る蹴るつねる等一通り犠牲者をいじめた後、しばし棒立ちになってからまた倒れた。とりあえず猛暑の苛つきを解消するために誰かをいじめればまた暑くなるという無限の罠。
男ばかりのむさくるしい屯所にも、平等に猛暑が届けられていた。


「それで?……この暑苦しい中、暑苦しい制服着て暑苦しく喚いている暑苦しい土方さんは何処に行ったんでィ?」
沖田が畳みに頬ずりしながら独り言のように呟いた。
「沖田さん、そんなに副長が暑苦しいんですか……。四回も言ったでしょ」
「一回は夏への描写だろィ。あー、いじめる人間がいないと調子出ないなあ」
どうにも沖田の夏対策は「土方を酷い目に合わせてすっきりする」であるようだ。
当の土方がいれば更に部屋中が暑くなっただろうが、うまいこと不在であるのでそれぞれ好き勝手に言葉を返す。
「確かに暇つぶしとしてあの人以上の反応は期待できないと思う」と斎藤。
「近藤さんだとなんか悪いしな」と永倉。土方はいいのか、という話。
「土方さん導火線短けぇし、すぐ遊べるよな」と原田が言い、
「世の中では愛されているという表現になるでしょう」と勝手な理屈を山南がこねた。

(というか、あんたらにからかわれた分の八つ当たり、全部俺に来るんですけど)
結局自分が一番損していると思う、と山崎は心の中で呟く。
しかし、それを口にしない分別も当然持ち合わせていた。真選組幹部は揃いも揃って騒動好きで、暇つぶしとあらば無関係な人間を巻き込む事も厭わない、ように見える。
類は友を呼ぶとはまさにこういうことで、自分のような人の良い人間が必ず被害に合うのだ、と山崎は半ば諦めている。そう万事屋の新八君が残りの二名に振り回されているように。

「そういや、夢祭まで後三日だなー」
永倉の言葉を期に、全員の視線が緩やかに暦に集中した。連日、お妙さんに会いに行くと土方を暗殺するとメモのある乱雑な病的さを孕む暦上の三日後には、青いペンの殴り書きが一つ。
「どうりで機嫌悪いわけだ。喧嘩は好きなくせに、祭は嫌いなんだから、意味わからんぜ」
土方は真選組内では綺麗な字を書く部類だが、その予定が気に食わないときつい右上がりの悪筆になる。つくづくわかりやすい男だと共犯者のように全員が笑い、ひときわ嫌な笑みを称えた沖田が言う。
「でも、これで三日間の暇つぶしは決まりましたねェ」
「え?なんですか?」
「もちろん、近藤さんと土方さんの面を勝手に考えるに決まってるじゃねェか。……まァ、近藤さんはゴリラで決まりだとしても」
「決まりなの!?」
「うん、決まりなの」
「なんかむかつくんですけど、その口調!」
「ツッコミ黙れ。さーあ、土方さんの面は何にすりゃあいいかな。奴が恥をかきまくるのを優先するか、それとも……。さ、皆で仲良く意見を出し合いましょうや。納涼、土方いじめってところかな?」

納涼というか、一年中ですよねと余計なツッコミを口にしようとしていた山崎を除いた全員がにやりと笑って頷く。
長い夏の終わりの夢が近づいていた。




◇ ◆ ◇




燃えるような赤を通り越し、さながら滲む血のように重量のある色が空に溢れている。視界の端は薄い橙であるのに、あっという間に濁った赤に塗りつぶされてゆく嫌な空だと銀時は思う。
今まで斬殺してきた生き物の血を、人斬りの誰かが(自分かもしれない)バケツに入れて、ハケを使って何度も空に塗りたくればああいう色が出てくるに違いない。祭燈篭をその身に浮かべる空は、どこか不吉で、恨みがつみ重なった落日にも見える。
黄昏へと埋没する群集を眺める彼は薄汚れた狐面の下で、密やかに頬を歪める。


―――夢祭。
晩夏恒例、江戸最大の祭典。
今や剣術修行で初めて出てきた時の江戸は何処にもない。肩を並べて歩いてきた友も自分も昔を等しく失って、それでもここに立っている。そんな虚しい人間達が、傷を無視しあって寄り集まり、日頃は目を背けた過去を抱擁しながら祭りを開く。流転する過去への華やかな足掻きがそこにはある。

夢祭。
それは過去を振りほどこうと足掻きながらも、哀れなる哉、過去を捨てきれない江戸と人間の祭。
嘘は夢に美化される。参加者は全員面で顔を隠し、祭の間だけは今の自分を忘れる。将軍であろうが、テロリストであろうが、警察であろうが、手出しは無用。

この祭の始まりは、攘夷戦争の開始とほぼ同時期だったという。誰が言い出したのかも伝えられていない。 攘夷浪士達もいつしか戦の合間に混ざり、いつしか参加者全員が面をつけ、全員が武器を放棄した。
だからこそであろうか。喧嘩こそ毎年出るものの、血は流れない。
それは一夜限りの夢である故。


思えば不思議なものなのだ、と銀時は自嘲の吐息を巧妙に隠す。敗戦、そして"自分"の死を経た中でも捨てきれなかった刀をこの祭りの間だけは肌から離せる。いや、攘夷戦争時すら刀を差さずに俺達はこの夜道を歩いてきた。

武士の刀は強迫観念に似ている。今でこそ通信販売の木刀を使っているが、それだって自分の魂を篭めて使うわけだし、あの恐ろしいほどに手に馴染む刀を捨てられぬままだ。それは、危険にぶつかった際に無力なまま死ぬことへの恐れでもあり(賛美など見出してはならない)、自分が寄りかかる世界の崩壊に引き摺られるのを恐れる心でもある。先生が死んだ時、刀がなければ俺は頭がおかしくなって死んだかもしれない。

夢の中では、モザイク的な懼れは消えるのだろうかといつも思う。知っているような気はする。でも今まで思考の果てに導いた答えが辿り着かなければ良かった種類なものだから、ついには考えようともしなくなった。だから答えなど知らない。

「銀ちゃん!林檎飴食べたい!」
「おー、買って来い。銀さんが尊い労働で稼いだ金があるからな。俺のも買ってこいよ」
「了解ネ!」
「新八はチョコバナナな。チョコ大目で」
「屋台の人に言ってくださいよ。銀さんは?」
「俺ァ、落書き煎餅を買ってくる。少ない金で最大限の糖を塗る方法を極めてるぜ」

聞き飽きた二人の声を持つ見知らぬ面の人間とこの祭という名の迷宮を進む中、今日はいろんな連中に会うだろう。不本意ながらともに未来を決定しなければならない連中に。
関係ない。糖分は無論取りまくるが、今日の俺は坂田銀時を喪失している。
自分の笑みが白夜叉のものだったのかも辺りの熱に浮かされて思い出せない。
思い出す気も毛頭なかった。








「大体こんな祭ごときに、隊士がほぼ総出で屯所を空けていいわけねえだろーが」
また別の一角では、滲み出す不機嫌さを背負った男がぶつぶつと文句を言っていた。先日、話の肴にされてしまった土方である。
沖田達が用意した面は、人を馬鹿にしたひょっとこであったり、口裂け女であったりしたので、とりあえず山南以外の全員を殴って、ただのサングラスという出で立ちだ。

「まったく土方さんは固すぎまさァ。この日限りは攘夷浪士だろうが、夜市の中でしょうよ」
「お前がいつでもぐにゃぐにゃしすぎなんだ。スライムかテメー」
「俺がスライムだったら、自分の腕を細く変形させて、横のマヨラ13の首を」
「ふざけんなァァ!!締めるだろ、間違いなく締めるだろ!」
「違います。斬り落すんでさァ。硬質性のスライムで空気に触れると刃になる奴でよろしく」

問答無用で飛んできた拳をあっさりかわした沖田は、ひょっとこの面の下でにやりと笑う。結局、土方に却下されたひょっとこの面を沖田は平然と着用している。侮れない男だ。
もともとの顔でも小憎たらしいのに、面が相乗効果を上げており、土方のストレスは増すばかり。もしかしたら、それが目的なのかもしれない。

「おー、トシも総悟も盛り上がってるな!」
「………近藤さん」
二人が振り向いた先には、妙にリアルなゴリラの面をつけた近藤が焼きトウモロコシを3本持って立っている。はっきり言って似合いすぎて笑えない。
「近藤さん、予想以上にゴリふた、って!」
その印象を素直に口に出そうとした沖田の足を踏んでおいて、土方は長く嘆息した。
「……あんたもしっかりエンジョイしてんだな……」
「もちろん!あ、これトシと総悟の分な」
「あ、…うん」
「どーも」
「江戸最大の夢祭!参加しない市民の方が珍しいはず!つまり、この雑踏の中からお妙さんを運命的に発見して、急接近!スキー場のロケーションにより、男女の中が深まるのと同じ原理だ!」

(その話は、雪山が相手に幻想を抱かせてふもとに下りたら幻滅してすぐ別れるってオチだよ……)

よく言えば純粋、悪く言わなくても馬鹿のコンセプトに土方は少し泣きそうになった。そういう恥ずかしいことを言ってストーカーしまくる不器用さがなければ、なんとかまとまるのではないかと思えるから尚哀しい。
最も、近藤のそんな所に自分が惚れ込んでいるというどうしようもない自覚はあったので、死なない程度にしろと言うだけに留めた。

「局長!」
「おお、ザキ!それと」
「私だよ、近藤君」
近藤の前に赤い口腔をのぞかせて笑う口の裂けた女の顔が突き出される。
「ギャァァア―――!!………って、その声は山南。なんで口裂け女なの!怖いじゃん!」

却下案その二の口裂け女は山南が、意味のわからないオペラ座の怪人マスクを山崎がつけている。
「どうした、近藤さん!……ギャァァァア―――!!」
トウコロコシを齧りながら余所見していた土方が飛んできて、同様に絶叫する。横で腹を抱えて、納涼土方いじめ前座が上手くいったことを喜ぶ沖田は、
(やっぱり暇つぶしはこの人に限るなぁ)
と思った。


山南と山崎と別れた後、お妙を探すと意気込む近藤と、とりあえず祭勝負で万事屋のチャイナに勝ちたいと笑う沖田の意見に引きずられ、三人は露店をひやかしていた。
「土方さーん。お好み焼き買って下せェ」
くい、と着物の裾そ引っ張り、沖田は純粋な目を土方に向ける。無論、たかる時専用スマイルだ。
「冗談じゃねェ!なんだって俺がオメーにおごってやらなきゃなんねーんだよ!」
「近藤さん、土方さんが冷たいでさァ。昔は夏祭りに来たら、なんでも買ってくれたのにー」
「何年前の話だよ!何時までもガキの心でいるんじゃねーぞ、ピーターパンシンドロームか!?しかもありゃ、勝手に買いまくって俺にツケただけじゃねーか!」
「だって、近藤さんが土方さんに面倒見てもらえって言ったんだもーん」
「ってゆうか、それウザいんだけど!可愛くないんだけど!」
「あ、トシごめん。言ったわ。……金欠で」
「……あんたな。もういいから、買って来い。近藤さんは?」
「ちょっとヨーヨー取って来ていい?お妙さんに贈り物を用意しなくては!」
「そうか……。頑張れよ」


(アンタの中のあの女は何歳なんだよ……)


そう呟いた心の声が終わる前には既に周囲の闇が濃密なそれへと変わっていく。夜にはふさわしからぬ灯りが乱立し、無数であるが故に細分化され、匿名のものに成り果てたざわめきがこの場全体を支配しているというのに、土方はこの瞬間に独りになっていた。
静寂が侵食。昔は慢性的に纏っていたそれは、いつしか道場の汗臭い空気の中に消えた。だからこそ、こうしてたまに思い出したとしたら、孤独は自分の一部ではなく、外部からの干渉以外の何者でもなくなっているのだ。

漠然と広い会場に、所狭しと並んだ屋台とその隙間を縫う通りは迷宮を思わせる。そう、総悟が言っていた多摩の夏祭りに似ている。いや、それどころかこの夢祭は誰が覚えている夏祭りにも似ているのだろう。嫌いな一因だ。
群集は、過去を求めてここに来る。過去を求めるということは、裏を返せば今を過去にするため未来に焦がれるということでもある。

人の関係は移ろう。それは人生そのものよりも儚いのではなかろうか。
夢祭の顔隠しは万華鏡のように様々に哀しい理由を内包するが、土方はこれが一番の理由であると思う。面は昔の顔だ。夢の中では時間すら逆行すると言い聞かせ、戻らぬ日々を生きていた頃の顔で旧知と交わる。
確かに近藤さんのように何も考えず祭を楽しむ奴もいるだろう。健全な市民は精々天人が来る前を懐かしく思う程度で(それにしたって次の日にはその技術を使って生活するのだから安いものだ)、この空間を巨大な嘘に昇華するのは、ごく一部の縛られた人間であろう。

土方にはそれがわからない。顔を隠しただけで、過去を一時の間見ないふりを出来るものなのか。
よしんば出来たとしても、夢は夢でしかない。そう叫んでいる方が楽だった。

多摩川と浅川を従えた日野の地に、土方が置き捨てたものは永遠に失われたというには生々しい生の気配を残し、何食わぬ顔で出会うには愛しすぎる。
立ち向かうは現実のみ。優先は大将のみ。そう決めて突き放した面影がすれ違う面に映り、気を抜けば戻ってしまいそうな武蔵野の風景を夜市が暗喩する。意味ももたない幻の癖に、侵食は恐ろしく素早い。

「土方さん!」
「トシ!」

二人の声が聞こえる。彼らが自分をこの地に繋ぎ止めてくれる。
夢に浸食されてはならない。


「なんかさ、一人で立ってると夜の底に置き捨てられたような気になんない?」


だからこそ、背後に忍び寄っていたこの男は要注意だ。
彼がどちら側なのか判別できない以上、騙されてはならない。
夢を現実にしてはならないからだ。