純粋な必然など存在しないと思う。あるのは細かな偶然で、それが人生の畦道に積み重なって、少しずつその道筋を方向付けていると思っていたほうが幸せだ。ただその偶然の中には、水を纏わりつかせた氷のように、時々破滅的に影響力の強いものが転がっているというだけの話で、あの日は確かにその大きな偶然に切り裂かれたのだ。戻ってやり直したいということではない。偶然は一度起こってしまえば必然であり、変えられないことなんて誰だって知っている。ただ、志のために使われなくなった暇な思考が勝手に考えを巡らす。もしあの日高杉が訪ねてこなかったら、もし二日前に悩んで止めたクーラーを買っていたら、もし不祝儀の袋の文字を失敗していたら、もし坂本が戻ってきていたら、もし窓を打ち付けておけば、もし銀時に仕事が入っていたら、と延々羅列して暇をつぶしているだけだ。
無意味な永遠の中で、自分たちはよく思った。終わらせようとした時には終わらなかった。案外、終わりは執着を捨てた時に至極あっさりと訪れるのではないか、と。





    な  し    ず    し
                           の  
                                  
           終  焉





春一番に乗って倦怠感が四肢を蝕んでいた。
桂は萎えた腕にもう一度力を入れ、大荷物を持ち直す。目眩が少しだけする。

今や自分の生命にも等しかった腕は、筋肉が削げ落ち、骨とほんの少しの肉が絡み合う物体に過ぎず、両手一杯の荷物を抱えれば鈍い痛みと途方もない倦怠感を訴える。
(戦争時は、二人抱えられた)
切り傷も膿み傷もない日はなかった。心身ともに痛みと疲労に悲鳴を上げていたが、戦が終われば生き残った者が両肩に負傷者を負って歩いた。あの徐々に重く冷たくなる感覚に怯えながら、倒れることなどなかった。


何かを抱えることについて銀時に偉そうに講釈を垂れたのはいつのことであったか。
自分達ははもはや支え合うことも、傷つけ合うこともない。
ただただ、相手の弱りきった腕に縋り付いて立ち、急速に磨耗していく。
いつのまにか魂と肉体の削り合いが鈍く優しい行為に変わったことが、最近では酷く悲しい。


白い蝶が腕にかすかに触れた。
もうこの身に搾り取るべき蜜など残されていないのに、と考えて打ち消す。今は春だった。

大荷物の中には、編み笠や旅装束、大量の菓子類に酒が詰め込まれている。先ほどの蝶が搾り取れるとしたら、墓参りの時だけ湧き上がる微小な生命力なのだろう。かつて、自分達が白い鬼を食い散らしたのと同じ様に。

戸に手を掛ける。脂を注していないせいか重い。
「帰ったぞ。―――高杉」
高杉の気だるい声の代わりに、最近はとんと嗅いでいなかった激しい血臭が桂に答えた。




血に反応して刀を抜いて踏み込むための眼球など失くして久しい。濁った瞳が映せるものといえば、ひっくり返った卓袱台、畳に染み込む高杉が残した茶の軌跡、情事の名残を残した布団、片付けようと思って忘れた朝餉の残骸、どちらのものかも区別がつかなくなった着物、河上だか坂本だかが送りつけてくる新聞が乱雑に転がっている光景。その上、高杉の死体。

ああ、高杉、俺達はよくこんな酷い場所で生きていたな。
世の果てだってこんなに酷くはないだろうに。

臭いも酷い。血の臭いの中に、時々精液と食事と酒の臭い。改めて認識すると嘔吐していなかったのが不思議だ。人間はこんなにも空間を汚せる。

大声で笑いたい衝動が桂を襲った。かつて自分達は天人に世を汚されると叫んで剣を振るった。少なくとも同じくらいには、俺と高杉は世界を汚した。
両足首と右肩を銃弾で撃ち抜かれながら、桂はにたりと笑う。高杉にも銀時にも彼自身にも似ていた。

桂が盛大に倒れた振動で、高杉の手も力なく振れた。








「僕達は三年の間、貴方達のことを調べられるだけ調べました。貴方達の故郷のこと、貴方達の先生とその最期のこと、攘夷戦争のこと、粛清のこと、貴方達が銀さんに気がついた時のこと、貴方達の執拗な揺さぶりのこと、手当たり次第調べました」

頭上から降り注ぐ声を成す術もなく聞く。かつてなら気が狂いそうになったであろう屈辱的な状況にも心は動かない。
「大変だっただろう、新八君」
その労わりの篭った言葉に新八は一瞬顔を歪めたが、すぐに表情を戻し、自らの言葉の威力を確かめるように続きを言った。

「そうですね、お登勢さんから始めて多くはない攘夷戦争の生き残りの方、貴方達三人のろくでもない悪戯に苦労させられたご近所の方。会えるだけ会ったんですが、貴方達がどうしようもないって事以外何も出てきませんでしたよ」
苦笑した新八が、神楽に同意を求める。

「銀ちゃんは子供の頃の話をしてくれなかったけど、どうしようもない記憶ばかりだったからヨ」
声音も桂が覚えているものとほとんど変わらぬまま、彼女の傘は真新しい硝煙の臭いを帯びていた。
表面は変わらず、根本だけを致命的に違える。自分は、銀時が愛した子供達の皮を被った過去の自分に殺されようとしているのか。

「坂本には話を聞けたか?」
「攘夷戦争の頃の話は全て話してくれましたよ。……現在の貴方達の居場所はどうしても言ってくれませんでしたけど」

一度言葉は途切れ、二対の冷淡な視線が桂を射抜く。
自分の反応を見ているのだ、と思った瞬間もう動かない高杉に視線が向いて苦笑が洩れた。

「坂本さんもそういう笑いをしましたよ。"しょうがない馬鹿どもだから教えられない"って」
「私達を止める権利はない、でも仲間を殺す手伝いは出来ないとも言ってたアル。―――愚かな男」


「銀ちゃんを殺したのも、"仲間"なのに」


はっきりと吐き捨てられた言葉に、地を這う桂の頭がビクリと動いた。今や彼女は"リーダー"と呼ばれた少女ではない。男を的確に愚かと断言できる女になった。一生のうちで一番考えなしに走れる時を犠牲にして。そうさせたのは、他の誰でもない自分達だった。

何も感じなくなったはずの心臓に苦い痛みが走る。絶望とは違う、それでも酷く切実な哀しさ。
突然ぐにゃりと桂の顔が歪み、誰も受け止められない叫びが洩れた。
「たかすぎ、」と。

新八が目を見開き、手を打って笑った。
「そうだ、道々神楽ちゃんと話してたんですよ。お二人は、最期の時に誰を呼ぶんだろうって」
貴方が高杉さんを呼んだのは正直意外です。
そう続けた新八は、高杉に伸ばされた桂の手に刀を刺した。悲鳴。
「ヅラ。痛いのも分かるけど、片目の不良の最期知りたくないの?」
聞きたいという渇望と、聞かずに死にたいという切実が交差する。

だが、考えても無駄だと分かってもいた。彼らは自分が何を言おうとも、残酷な返答だけをすると決めている。同じことをしてきた桂には、それが分かっていた。








高杉が両の目を失ったことはすぐに分かった。徐々に膿むその傷を後生大事に抱えていることも。
世界の罪と罰の比重がおかしくなっている、と思ったのをよく覚えている。

「ずるい。あいつらに、罰がない」

神楽の一言は静かだった。あの悪夢の夜の絶叫など欠片も見当たらない、ただそこにある事実を抉り出してきたように、鬱々としていた。その時、どちらともなく持ち主を失った刀に手を伸ばしたのだ。

自分達の小さな世界で、あの二人は一番ずるい。
二番手など見えないほどぶっちぎりに、卑怯で我侭で醜悪に強靭だ。

多分、高杉と桂にとっての最大にして最悪の罰は銀時だったのだ。彼らを生かす糧が最大の罰。そうやって罪と罰の均衡は保たれていた。坂本は誰も悪くなどなかったと言ったが、そう思っているのは彼だけだ。
無二の親であり師を奪われながらも、ターミナルを表面に浮かばぬ憎悪で眺めながらも、その世界で人を助けながら生きた銀時を鬼の象徴に仕立て上げたなど許されるはずがない。


高杉の片目など仕置きにすらならない。奴らは最後の罰を消した。その上、間違いだと分かりながらも焦がれた白夜叉の痕跡すら奪っていった。

許されない。
たとえ世界の方が間違っていたとしても。たとえ世界が彼らを違えさせたといえども、彼らが苦しんでいなければ救われない者が多すぎる。銀時は彼らが抱える地獄を哀れんだのかもしれなかった。

銀時の刀は血に汚れ、所々波紋が欠けていた。それだけ全力で二人と戦ったのだろう。
「神楽ちゃん。銀さんは望まない。僕達がこの刀を見ることも、あの人達を憎むことも」
「うん、知ってる」
その後、黙って刀にこびり付いた憎い血を一晩掛けてふき取った。その夜、白い花を携えて万事屋を訪れたさっちゃんは「罰せられない罰もあるのよ」と言った。
それを受けるのは、彼らを殺した後の自分達なのだ、と漠然と思った。






「三年のうち二年は、僕達が強くなるための修行に費やしました。残りの一年はこの隠れ家を探し当てるためと時勢が緊迫するのを待つための期間でした」

落ち着いた口調で新八が復讐を決めた経緯を語る傍ら、神楽が桂の手首と足首を荒縄で縛った。彼女の白い肌に桂の手からどくどくと流れる血が絡みつく。鮮やかな赤がこびり付いた赤を上塗りした。

「怖かったヨ。お前らが銀ちゃんを殺した重みに耐え切れなくなって死んじゃったら、って本当に怖かったヨ」
ねえ、ヅラ、と神楽は慣れ親しんだ呼び名で桂の頬を撫でる。
穏やかで、柔らかで、ほんの少し寂しい。昔、そんな目を知っていた。
「だから、この家を見つけてあいつの脚を打ち抜いた時は本当に嬉しかった」


壮絶な異臭。彼らがこの隠れ家に入って一番最初に感じたものは、未だかつて経験したことのない異臭だった。廊下は埃に塗れているものの、ゴミ袋が山のように転がっているわけではない。酷いのは真っ直ぐ伸びた廊下の先、薄暗く澱んだ闇の中から洩れ出る臭い。なんと表現していいのか分からなかった二人は、とにかく履物を脱いで玄関を封鎖した。
何年も取り替えられていない薄汚れた障子を蹴破り、神楽が先に銃口を向けた。

「目を失ったといっても、攘夷戦争を戦い抜いた"英雄"に油断は出来ませんからね」
攘夷戦争、という言葉に桂の目に徐々に生気が戻る。
自分達で創造した夢は酷く慢性的で、思い出に優しく耽溺させてくれるが、他人の口から洩れる過去の言葉は生々しく、リアルを呼び起こす。
「……高杉は驚きも、立ちもしなかっただろう」
「可哀想なヅラ。でも、あんな半死人に殺された銀ちゃんは、壊された万事屋はもっと可哀想ヨ」





かつて白夜叉になってしまった男が、高杉は最期の瞬間に誰かを呼ぶ男じゃねェよな、と言った。俺達は確かに死を恐れていたが、それでも時々互いの死に様を想像し合った。
その非建設的な行為は最悪の未来への保険に等しく、同時に次の日も戦うための鼓舞でもあった。「死に花だけは美しくあれ」と四人で言い合った。泥と血と涙に塗れ、無益に生きようとも侍であろうと言い聞かせて俺達は大人になった。刀が手に馴染み、殺したのか殺していないのか刃に語らせられる侍になった。


「神楽ちゃんが飛び込んで、銃口を突きつけました。それを横目で見ながら、僕は一気に刀を抜いた。―――高杉さんが斬りかかってきても、どちらかが必ず討ち取れるように」
「ヅラの言った通り、驚いたり慌てたりしなかった。ただ、ぴくりと首が動いて振り向いて、その瞬間新八が刀を首に突きつけて、……あいつが笑った」

その先を聞かなくても、高杉が誰を最期に呼んだのかなど分かりきっていた。
確かに攘夷戦争の時に彼が最期を迎えたのなら、先生を見て、青春を駆け抜けた仲間達の顔を駆け巡らせて死んだのだろうと思う。高杉はそういう男だった。だからこそ、彼が救われることはなかったのだろう。
時代が変わり、流した血が忘れ去られる中、俺達は愚かにも偶像に縋った。その背中が俺達の爪でどれほど傷つくかなど、正直どうでもよかった。いつの日か、銀時に生きる理由を押し付けた。彼は最期の最期まで、俺達を自分の足で立つ者と過大評価していたのだけれど。


「桂さん。高杉さんの状態は酷いものでしたよ。目に食い込んだ汚れきった包帯、色素の落ちた肌、骨と皮ばかりの身体、生気を吸い取られた抜け殻でした。そんな人が、これ以上ないほど幸せそうに笑ったんです。―――銀時、斬りにきてくれたのか、って」


桂がゆっくり目を閉じた。暗い部屋の中、死体となった高杉の表情は見えない。見せてもくれないだろう。それなのに、その高杉が闇の中で笑う姿を、鮮明に描き出せてしまうのが腹立たしい。


高杉は銀時の刀の気配に反応したのだ。自身の刀を忘れ、志を捨て、戦い方を忘れながらも、白夜叉の刀を覚えていた。だが、少年と少女の気配も、銀時が使うことのなかった銃弾も高杉には関係なかった。別の人間に使われても、白夜叉が塗りこんだ血の重みによって彼の残像そのままを維持していた刀が、高杉の幸福を呼び戻した。不本意ながら、誰よりもそれを知っているのは自分だった。

「腹が立ちましたよ。僕達の全てを奪っておいて、不幸に身を浸しているかと思えば、幸福そのものの顔で微笑む。到底、銀さんの亡霊だと勘違いさせたまま死なせてなどやるものか、と思いました」
「私が叫んだアル。『銀ちゃんはもう帰ってこない。銀ちゃんの刀を持ってるのは新八、撃ったのは神楽ヨ!』って」


二人は高杉の濁った瞳が急速に澄み渡るのを見た。彼は、「ぎんとき、」と慟哭した。
憎き相手の心がぐしゃりと潰れた音を確認し、


「僕が喉を斬り、神楽ちゃんが眉間を打ち抜いて、―――高杉さんを殺しました」


桂さん、貴方の唯一の同胞は絶望の中で死んでくれたはずです。
そんな声なき言葉を聞き、桂は大声で嗤った。




「ありがとう。ああ、高杉にこれ以上ないくらいの幸福な死を与えてくれて、本当にありがとう!俺にも、坂本にも、君達に場所を教えた河上にも、奴が納得のいく形で葬ることは出来なかった。あの馬鹿は本当に我侭極まりない男でな、銀時と共に白夜叉を殺した瞬間――奴は銀時を選んだというのに、白夜叉に殺されなければ死ねないと思い込んでしまったんだ。ああ、我侭というよりもはや純愛の域かもしれないな、気持ち悪いも極まりないが。まあ、俺達は死に方には拘らなかったが、出来れば死の瞬間に銀時の影がよぎればいいと思っていた。確実に地獄で再会は可能なのだが、それでもこの世の最期に奴の顔を見たいというのは、あの天パに人生を束縛され同時に束縛し抉りあい愛おしみ合った者の当然の感情だろう?そう、それから高杉というのは、生涯、周りに迷惑をかけなかったことがないほどどうしようもない馬鹿だったが、何故か人生において帳尻を合わせてくるな。俺がとうの昔に高杉が白夜叉ではなく、銀時を選んでいたことを知っていたが、奴はまだ自分の心を信じきれていなかった。だが多分、奴は俺が銀時を選んだ高杉に惹かれたことは知っていたと思うな。どうでもいいことだけ俺達はいつも知っていた。なあ、高杉が最期に持っていた希望――俺達が話し合って決めた希望は、銀時の残影もしくは銀時が愛した者に復讐されること、それから叶えば銀時を愛せていたのか知ることだった。高杉は銀時を呼び、俺は何故か高杉を呼び、銀時は俺達二人の名を呼んだ。全て叶った」



俺達二人。その言葉を皮切りに銃声が響き、刀が肺に埋まった。

高杉。他人の幸福を殺ぎ取り、甘い毒で自分に近づく者を焼き払った男。
自分は焼かれ、そして冷やした。地獄から這い上がる活力を取り戻さないように、徹底的に凍らした。


ああ、奴も自分も最期は銀時に焼き尽くされた、お互い様だ、と思考が白紙に戻る寸前に思った。















利己的な理由で銀時を縛り、挙句の果てに過去へと連れ去った二人の敵が転がっている。
物言わぬ死体と物言わぬ下手人二人が、夥しい血に等しく埋没していた。ドンドン、と玄関の戸が乱暴に叩かれる。

「真撰組だ!!オイ!ガキども、無事か!!」

坂本ではない。神楽が構えた銃を下ろした。
風の噂か知らないが真撰組が来てしまった。同時に自分達が裁かれないことが決まってしまった。


「オイッ!!」


必死の叫びを発する者の名は思い出せない。
神楽は高杉の死体を、新八が桂の死体を転がして、その顔を正面から見る。
ギリと、唇が裂けるほどの痛み。
敗北感、妬みに嫉み、恨みと惨たらしさにやるせなさ。この世の負の感情の代名詞であった男達は死んだはずなのに何故。



「………なんで、……なんで、三人とも同じ顔で死ぬんだよ………っ!」
新八が搾り出すように叫んだ。


寄り添うような死体は、暖かい苦笑のような表情をしている。
それは、まぎれもなく、自分達を復讐へと駆り立てた表情。


「仲間に裏切られたのに、何でほっとしたような顔だったの!?銀ちゃん!」
「わざと桂さんに会わせないように殺したのに、どうして安堵した顔をしたんだ!」
「仲間の死体を見せ付けて、私達の痛みを分からせてやったはずなのに、どうして……」

何故、あの歪んだ幸福だけは何者にも侵食されないのか!





世界の色彩を狂わせ、因果にしがみ付いた男達が消え去った清涼さこそ、世界を爛れさせる。
嗚呼、時代が終わる。劇的に。そしてなしくずしに。



どこまでも酷い男達。
この後、苦渋の決断で場所を教えた万斉に八つ当たりする坂本とかありますが一応終わりです。
救いはないからこそ、銀高桂は幸福な死だったのではないかと。
最期まで誰かを傷つけなければ元に戻れないほど歪んでいたのではないかと。