<doubt>疑うの意 トランプゲームの一。各自が手持ちのカードを裏返しのまま番号順に出し合い、相手に不審のあるときは「ダウト」と声をかけて札を改める。それが偽札ならば出した人が、正しい番号順ならばダウトをかけた人が場札を全部引きとる。早く手札をなくせば勝ち。 勢いよく引き戸を開けると室内の湿気と熱を充分に含んだ空気が顔に当たる。 いい加減、夏の日の買い物の後、ひんやりとした冷気に迎えられたいと思うが、先立つ物がなければどうしようもない。クーラーがあっても買い物にいけない事態は冗談にするには少し重い。 静けさを保ったままの奥にただいま帰りましたよと声をかける。返事は気だるげなものが二つ、申しわけ程度に聞こえてきて、再び静かになった。人に買い物を委ねておいて、トランプでもしているのだろうと新八は溜息をついた。 外はうだるような暑さ。三歩歩けば、水掛に出会うが、その度に水蒸気が眼鏡を曇らせる。 本音を言ってしまえば、外になど一歩も出たくない。だが、自分以外に進んで買い物に行く人間も知らない。 そんな新八が歩いた大通りは一応の賑わいを見せていたが、それも行商人達は商品を手早く裁いてしまいたいだけで、道行く人は早く冷気のある場所に逃げ込みたいからに過ぎない。 自然、街頭に並ぶ商品はスーパーのそれより安くなることが多く、この時期、食品の鮮度さえしっかりと見分けられば予算以下の代金で食事がちょっと豪華になったり、一品増えたりする。 今日の残金はどれくらいだろう。 昼飯はそうめんから見事脱却。それでも、缶ジュースが二、三本買えるくらいの余りはあったはずだ。 新八は卵に気をつけ、荷物を静かに下ろす。懐に閉まった財布の金具だけがまだひんやりとしていた。 ―――この金は、 「新八ー、お腹すいたアルー」 「銀さん糖分が足りないんだけどー」 「お前らはそこでゴロゴロしてただけだろうが!」 カードをめくる音を響かせながら言われても、どうしようもない。 彼らが朝からやった事と言えば、朝食を食べ、お天気予報を観賞し、定春とじゃれたことくらいだ。 駄目な大人と駄目な大人予備軍に、じゃんけんすらさせてもらえず、炎天下の中の買い物を押し付けられたのだ。機嫌も悪くなろう。 「馬鹿だな、新八君。ダウトは相手の嘘を見抜く――即ち、表情などから嘘を見抜く洞察眼の訓練になる。それも騙されたふりをしておき、山がたまった所でダウトをかけるなどと言う姑息な手段を使う事も要求される」 「言葉わかって話してます?」 「よーし、志村。銀さんに暴言を吐いたバツとして、昼飯に卵焼きつけろ。甘い奴な」 「……今日は冷やし中華にしようと思ってるんですけど」 「いーんじゃねぇ?」 駄目だ。コイツには冷やし中華に甘い卵焼きが合わないという概念を持ち合わせていない。 仕方がない、と聞こえるように溜息をついてボウルを二つ取り出す。 (……こうやって甘やかしてるから駄目なんだよなぁ) 最初から最後まで、きっと彼らの頼みを頭から跳ね除ける事は出来ないだろう。 この家を失いたくないという臆病な理由だけでなく、日頃は全く気にならないのに不意に不安になる材料が余りに多く転がっている不安から、未来の果てを推測してしまうからかもしれない。 騙しあいなのか。それぞれが恐怖に慄いているのか。 それとも、心にいつのまにか空いていた空洞を必死に埋めようとしているのか。 「神楽ちゃんも冷やし中華でいいよね?」 「ヨシ」 小さめのボールに一つだけ卵を入れる。背後から視線が突き刺さっている。銀時がちゃんと砂糖を加えるかどうか見張っているのだ。 普段の仕事もこれくらい慎重に、そして真剣にやってほしいと思いつつ、小匙で砂糖を加えた。 「オイ、新八!大さじでたっぷり入れろって言っただろーが!」 「聞こえませーん。ってゆうか、銀さん、それダウトでしょ。次は4」 きっと彼がカードゲーム一般に弱いのは(神楽とはいい勝負を繰り広げているが)斜め横からあっさりと見えるようにカードを持つことも大いなる要因であるに違いない。 「っ、てめっ!言うんじゃねーよ!!………神楽、今のなし!なし!」 「神楽ちゃん言っちゃえ、ダウト、ダウト」 「………銀ちゃん、ダ ウ ト」 ニヤリと笑った神楽が場に合った山をずいと押しやった。 しばらくの間反則だのなんだの大人げなく騒いでいた銀時も、諦めたようで、それらを手に取る。彼に足を出される前に新八はさっさと台所に引き返している。 手早く胡瓜を生温い水で洗い、細かく刻んでいく。慣れとは怖いもので、3ミリに刻むそれにずれはほとんどない。どこか執拗な匂いすら漂う。 続いて大きめのボールに卵を二つ入れる。彼も神楽も、甘い卵焼きを食べる趣味はない。片手でそれを掻き混ぜながら、ガスをつける。暑い。 ガス。水はり。沸騰させる間に、ハム、かまぼこ、その他もろもろを刻む。ミニトマトも忘れずに。卵を二つ焼き、冷ます。その間に麺をゆで始める。 ―――あ。まずい。 またこの空白の時間が出来てしまった。 しかし、この調理順は新八自身が作り出そうとして作り出したものだった。 作りたくなんかない。でも、何故作らなくてはならないのかと誤魔化す事も出来ない。 「銀ちゃんダウト!」 「バーカ!これは、正直者なんだよー!ケッケッケ、取れ取れ!」 しっかり白熱している二人の声が響く。相変わらず、自分の雇い主は大人げない。 よくもまあ、二人でダウトなんていうゲームを出来るものだと最初は思った。当たり前のように、自分が持っていないカードは相手が持っているのだから。 そのつまらないはずのゲームを白熱させるのは、馬鹿の癖に鋭い騙しあいがあるからにすぎない。 彼は全く、潔いほどに大人げない男で。 起き出すのは早いが、始動するのは昼間。 一月に何回仕事をするだろう。 少なくとも内職系の身体を動かさない仕事をさばいているのは彼以外の従業員。 馬鹿で、お人よしで、それでいて驚くほど暖かい人。 彼が自分達に見せるのは、ほとんど無意識でありながら、少しだけ寂しい笑顔の人。 自分達が信じる彼はその通りの人でありながら、背中合わせの彼も知ってしまっていると、もしかしたら攘夷志士としての彼は知っているのかもしれない。 知らない振りを貫いている事すら時に忘れているのだから、彼も騙しあいを演じていることも、なかったことにしてくれるかもしれないと、信じたくても信じられないくらいに、同じ時間を共有してしまった今、もはや残された道は、秘密を共有する事すら無視してしまうしかない。 新八の手に震えはない。 そこに、目をそらしたくてもどうしようもない最終到達点が静かに横たわっている。 ギィといやな音をそれが立てた。自然に隣の部屋の騒ぎ声がワントーン上がったのを誰が気がつくだろう。 ごくり、とどうしてか唾を飲み、床下収納庫の目当ての物に手を伸ばす。 カタン、と貯金箱に落ちたへそくりは凄絶なまでに乾いた音を立てた。 「銀さーん、神楽ちゃん。もうすぐ出来るから、お皿並べて下さーい」 それ以上中を見ないように、新八は声を張り上げる。 「えー、めんどーい」 「そういうこと言ってると、マジでご飯抜きますよ」 ぶつぶつと立ち上がる二人の足音を聞いて、ようやく零れた吐息は安堵の息。 崩壊の足音というには、不明瞭。 日常だけが詰まっていると言うには、愚直に過ぎる。 何もかも、聞かなかった振り。 見てしまっても、関係ないと互いに言い合う騙しあい。 そこは、埃に満ちて、三人の過去と未来を凝縮した一種の、 いずれ一振りの太刀に変わるであろう金と決して開かれる事のないアルバムと、錆び付き釘を打たれた箱の中に眠る家主の魂がそ知らぬ振りを決め込むタイプカプセルにも似たもの。 「……―――ダウト」 「え?なに新八君」 「さっき神楽ちゃんが出したのダウトだろうなーって」 「言うんじゃねーよ、ぱっつあん」 「人を炎天下に追い出してそんなことしてるからですー。午後は僕も入れること!」 いずれ道は別れるんじゃないか、と日常の中で気づくのか気がつかないのか。 |