その事実を少しだけ皮肉って言えば、静と動は常に心中関係の中に存在し、相反するが故に互いを破壊することなく静かにそして激しく堕ちてゆくという、歴史的にも笑えるほど実証されてきた事柄の一端に過ぎないということであろうか。無論のこと両者は自分の性質を変えることなく、ただ寄り掛かりたい時にそうするだけであって、そこには愛しているという感情どころか人としてあろうべき立場や志なども消えうせており、彼らは静と動の根本にある何かをひたすらに愛しているからこそ、互いを慈しむことさえ惜しまないのだ。 慈しんではいけない、愛してはいけない、「友よ」、我々は常に言葉でもって何もかもを誤魔化している、触れなければならない、走らなければならない、死んではならない、「出会ってしまった」、でも独りでなかったことには安堵する、意味の喪失が志を失った日から今日まで流れるように溢れていく、喪失だけが明確な形を保持し続けるからこそ、無意味な行為に浸りたい我々は互いの頬に触れて、遠く離れたふるさとの思い出で互いを縛りつけ、慢性的に誰かを裏切りながらも、堕落の最中に無意識かつ故意的に歪みを平面化して激しくなっていく。 二人でいれば駄目になる。だが、反する気性が絡み合い交じり合い鮮度を増して狂気の喪失を食い止めてくれる。我々は、おかしくならないことを恐れている。常に地獄から這い上がろうともがくにもかかわらず、既にそれを畏れる心は殺されている為、結局のところはその象徴同士の縁を愛してしまう。静は動によって、動は静によって自らの存在証明を保ちながら、可哀想にも不可能立体の辺上を這いずっている。何かが果てしなく修復不可能におかしい。いや、そうでなければならないのだ。そうでなければ、―――我々が足がもげようとも志を裏切ろうとも走り続けなければ、彼の人は煉獄で幸せのあまり死んでしまうだろうから。 昔、戦場にいた頃は夜の闇というものは酷く薄いものであったように思う。篝火によって容赦なく照らされた睡眠不足の夜、女を抱く代わりに剣を抱き、敵襲に備えて常に明るい部屋で眠った。 それは夜の名を借りた別のものであり、もしかしたら誰も眠ってすらいなかったのかもしれない。 夜を恐れなくなった瞬間に何を失ったのかを知ることはなかろうが、それ以後桂達が貪る様に夜の闇を享受しだしたのは確かなことであった。 高杉が完全な闇の中で眠るようになったのはいつの頃からだろう、とその部屋に滑り込みながら桂は思う。きっと自分と同じ時期であろう。 戦が終わって、明るい場所に現れる暖かな残影を恐れ始めた頃だ。 闇の中に浮遊する死体の山の方がまだましであると思えてきた時期だ。 めんどくさがりの高杉が毎晩きっちりと雨戸を閉め、一枚一枚の隙間にぴったりとガムテープを貼り付け、蝋燭一本も許さぬ空間を作り上げている。道を違えた自分と笑えるくらい同様に。 「無用心だぞ、高杉」 その病的な部屋の空気を桂の更に病的な声が震わせた。何も見えなかった。 足音を殺し、掃除の行き届いていない板の間を一歩一歩丁寧に進みながら、静かに鯉口を切る。 「いつから逃げのヅラさんは空き巣に転職したんだィ?鍵はかけてあったぜ」 はたして、意外にすぐに部屋主から反応があった。 桂が忍んで来た理由――自分が殺されるかもしれない理由を理解していながら鬱鬱と楽しそうな声が部屋に流れる。桂は鯉口をそのままに、声の聞こえる方へ足を回す。 「ヅラさんじゃない、桂さんと呼べ。針金的なもので鍵をこじあけてきたに決まっているだろう。昔一緒に練習したことを忘れたか?あまり頭よくないな」 「テメーと頭の悪さを論じるほど堕落してねえよ」 「地獄へ落ちろ」 「もういるよ。ってか、お前の悪口って単純すぎじゃねェ?」 一度目星がつけば高杉の場所を特定するのは容易い。彼の眠る蒲団の位置は日によって変わるが、夜の密度が一番濃い所が彼の居場所であるのだ。 軽口をたたきながら、桂は感じるままに夜を蹂躙する。無遠慮な足によって切り裂かれたそれが吸い寄せられるように高杉に集まり、着々と彼を殺す段取りを推し進めていく。 高杉の纏う退廃が澱んだ夜と絡み合い、桂の呼吸器官を埋め尽くした頃、ようやく蒲団の端に足が触れた。 桂は一気に距離を詰め、手探りで高杉に馬乗りになる。高杉の身体が一瞬のけぞったがそれはただの反動であり、加害者側を嗤わせるには至らない。 何もかもが不愉快な男だ、と桂は心中で毒づいた。 死体のそれのように抵抗しない両手を左手だけで蒲団に縫いとめる。 道々どうやって苦しめてやろうか考えてきたが、いざ動きを封じてみたら、そうしたことによって卑屈さを露呈してしまった気がした。顔など見えずとも、今の高杉の笑いなど描けるに決まっている。 ああ嫌だ! 嫌な考えを振り払い、口で鞘を払う。乱暴に取りさらわれた鞘は盛大な音を立てて闇に消えた。傷がついたらどうするか、高杉に弁償させるか、そういえば殺すつもりで来たのだったか、いや。 刀から一瞬冷気が流れ、髪が揺れたような気がした。だが違う。 「……お前、実はヅラじゃなかったんだな」 緊張感もなく失礼極まりないことをほざきながら高杉が桂の髪を弄んでいたのだ。 それも唯一自由になる小指だけで。 何度でも思えるが、本当に高杉という奴は嫌な男だ。いらない所で他人が彼の手を離せないようにする術に長けているのに、一番逃がしてはいけない相手だけを逃がしやがった。苛々している桂は自分のことを綺麗に棚に上げ、更に体重をかける。胃に重みが直撃し高杉がほんの少し呻いた。 「最初から一本残らず地毛だ、馬鹿者。くだらんことをほざく暇があれば、命乞いの文句でも考えてもらおうか」 多少目が慣れ、高杉の首の線がぼんやりとだが視覚できるようになってきた。それで十分だった。 「俺は貴様と違って寛大だから何度でも挑戦してもらってかまわんぞ。……俺が飽きない限りはな」 まるで自分の刀の運命が高杉の首に向いていたかのように、その刃を首に当て、桂は柔らかく笑った。右手を動かすだけで高杉の首を飛ばせるかと思うと、それはそれで退屈になったのだが。 泣かないかな、無理だろうな、と心の中でため息をついた。 しばしの沈黙の後、くつくつと喉の奥を震わせて笑ったのは意外にも桂だ。 今日の自分は何かおかしい。いや、おかしくなければこんなことは出来ない。次はないと宣告した相手を江戸中探し回り、何を求めているかもわからぬまま高杉に命乞いを迫る。 馬鹿馬鹿しいとはまさにこのこと。自分は高杉が何を言おうともそれを聞き入れる気はないのだ。 常日頃は迷惑極まりないと思う高杉らしい茶番を自分がわざわざ作り出している。 高杉の答えに対する結論は、ある。だが高杉の首を斬ってしまいたいのか、再び傷を舐めあいたいのか、ただ純粋にこの前のツケを払わせ酷い目に合わしてやりたいだけなのか、(多分全てであろうが)桂自身の答えは闇に解けたままだ。 闇はいい。明るみに出れば、長々と考えなければならない煩雑とした思考を全て飲み込んでくれる。 きっとこの空間で何が起ころうとも、明日の朝には忘れられるだろう。 出来事は大抵は嘘。我々は抉り合いながらも、最後の砲撃芝居のために生きている。こんな事実は闇の中に秘匿しておくに限る。だって誰かが病んでいるから。一応は隠しておかないと、戦の病理を恐れる鬼が遠く遠く逃げ出してしまうのだから! ひとしきり笑って満足したのであろうか。桂が無言になると、部屋も同時に言葉を閉ざした。 桂は生きながら完全無音地帯をその身に背負っていると高杉は思っている。暖かな残影の音を振り払うため必死になって闇を呼び込み、その代償として戦場の阿鼻叫喚を夜中聞く自分を嘲笑うように桂は周囲の音を手際よく殺していく。 嗚呼気持ち悪いくせに、どうでもいいところで馬鹿なくせに、桂という男は本当に嫌な奴だ。確かに最初は自分が彼を嘲笑っていたはずなのに、ふと気がつけば彼の冷笑に晒されているような気がする。 結局のところ高杉と桂は共に夜の男なのだ。一人でも十分に周囲の空気を喰らい、積極的に夜へと還元しているのに、なぜか二人でいるものだから双方が生み出した夜が融合し濃度を増していく。 彼らの夜を繋ぎ止めるのは虚像に近しい白い鬼。狂ってしまおうとすればするほど正気に苛まれ、正気であればあろうとするほどおかしくなっていく。救われないの三乗。 「高杉、」 言葉を促す桂の声は柔らかく優しげで、両手を拘束されている今は叶わないことであったが、高杉は正直頭を抱えたくなった。 桂の心が読めない。心は読めずとも、今の彼の危険性だけはわかる。この馬鹿の心情など理解できることのほうが少ないが、予想もつかないというのは本格的にまずい。下手を踏めば慈愛に溢れた彼の剣で胴体と首が別たれてしまう。 「…………斬れるか」 一応危機的状況であるというのに、口から出た言葉はよくここまでと言えるほど一般的だった。 頭上で桂が鼻で笑った気配を感じる。心の底からうぜえ男だ。だが、そのうざい男に殺されるのも癪に障る。高杉は珍しくも半分やけくそで続けた。 「悪童桂の悪戯に付き合った頃から始まり、松陽先生に師事して、村塾で馬鹿騒ぎして、同じ時に真剣で殺しをして、攘夷戦争を這いずりながら生き延びて、何故か再び爛れた魂を慰めあった―――腐れ縁という名の宿命で繋がれた俺を、斬れるか?桂ァ」 言ってしまってから気分が悪くなった。結果論ではあるが、本心ではない。 そう長くもない人生の大半をこの男と侵食しあってきたなんて、気色悪いもここに極まれり、だ。 当たり前のように共に生きてきた。だが、既にその当たり前は別のものへと昇華され、何か根本的なものを致命的に違えた状態で今共にある。 「斬れないさ。幼少期を共に過ごし、攘夷戦争の中で青春まで共有したお前が見える以上、無理に決まっている」 桂がにたりと嗤った。何故か、その赤い唇だけが闇の中に映えた。―――狂乱の色。 「ほう?……お前も素で恥ずかしいことをほざくようになったな」 「だがな、高杉。俺だってそれくらい読んでいるさ。―――闇の中では話が違う」 深い夜であればあるほど、かつての高杉達は死んでくれるだろう?と桂は冗談めかして続けた。 実行に移したことはないからわからないが、過去との繋がりが一切無い現在の俺なら殺せるかもしれないということだろう。その場合、桂は間違いなく、翌朝から幼少期からの俺の首なし死体に付き纏われて、それなりに不快な思いをするだろう。 わりには合わないな、と高杉は結論する。自分が確実にその様子を見て酒の肴(ああ死んでるんだっけ?)に出来るという保障も無いのに、殺されてやるのはあまりにつまらない。 「では、お前が俺を斬ってなんのメリットが?」 「………めりっと、ときたか」 「お前はいい加減その古い頭を交換してきたほうがいいぜェ。早くカタカナくらい話せるようになれ」 うるさい、と桂が不貞腐れた気配と共に一瞬首に痛みが走った。うわ、こいつイラついて刃を進めやがった。 「そうだな。もしかしたら苛々する俺がすっきりするかもしれないではないか。お前の場合は精神的損害だけでなく、紅桜の例を見ても肉体的損害も激しいしな。報復したらさぞ爽快と思うだろう?」 とうの昔から分かっていて、何度でも再確認できるが、こいつは馬鹿だ。 阿呆なことばかりしていても、根回しも駆け引きも器用にこなすくせに、致命的な所で自分を騙して間違っていく。 「そうか。そう言われりゃ、言い訳しようもねェなァ。どうしたもんかねェ?」 涙など失くしたと自己暗示しながら、泣いている。 俺を殺した後の対策まで綿密に立てておいて、まるで誠実さがない。 吐き気がするくらい自分に誠実であるくせに、根本の所で真実を嘘の色に塗りつぶしていく。 本当に今更だが、高杉は激しい憎悪を再確認した。 幕府が、天人が、時代が、無為に流れた同志の血が、桂をこんなにしてしまったのだ! 自分達は近すぎる。殺し殺されようとしている関係性の中でも、相互の首には因果の黒糸がのめりこむように巻き付いている。誰かがおかしくなれば、別の形で違う誰かが本来の生き様を違える。 可哀想なことにその歪み方が違うものだから、抱き合って慰めあうことも上手くいかず、せめて孤独感と自分が承認しない形で変化する相手への嫌がらせで、彼の傷口に過去の血を擦り込むのだ。 血は膿に変わる。膿は溜まって刀になる。 肉は斬らない、魂を傷つけて繋げ合うその刀が、我々全ての首を貫いている。 「斬れ、桂」 高杉の顔から全ての表情が消えた。高杉の纏う退廃と美しい毒が一時的に霧散し、その瞬間桂の病んだ部分も消え、二人が足掻く泥濘の底で朗らかに笑う青年期の二人が顔を合わせた。 「これ以上、思いつかねェ。だから、斬れ。―――そして誓え」 桂は高杉の手首を放し、高杉のひんやりとした頬に触れた。指を媒介に二人の間を過去が流れる。 かつて、抱き合って慰めを求めたあの後は、彼らが愛したものは一様に帰らなかった。共に戦った同志も、先生も、当たり前のように抱いた志も、―――あの男も。 所詮はこの二人で無言のうちに泣いていても何も変わりはしないのかもしれない、という何処からか聞こえる声を必死に無視して(たった一つの声ですら時に狂ってしまいたくなるのに、過去の声全てを無視し続けるあの男は強すぎるのだ、友情の名だけでは取り戻せないほどに)、互いの落日を更に陰惨な色に塗りつぶしていく。―――本当は、あの日に終わらせるべきだったのだ。 「一つ。俺の首は必ず銀時の所に持っていけ。その後、萩に行って、先生の眠る墓地に首を埋めることを誓わせろ」 「必ず」 今、どんなに願っても叶わなかったかつての高杉と桂が奇跡的に顔を合わせた。 最後だ。 桂はこの瞬間に自分は最期まで高杉と生きる気があるのか、それを決めに来たのだと悟った。 最期だ。 ―――この夜が失われれば、再び過去は戻らないだろう。少なくとも選択の夜は今夜限りだ。 「二つ。俺が欠ければ、攘夷の軍事力は当然下がる。お前は手堅い攻めと裏の手回しは上手いが、戦陣指揮では奇抜さがない。桂、お前一人で銀時を戦場に引き摺り出せ。萩への道中説き伏せるもよし、俺の死を劇的に祭り上げて憎悪を復活させるもよし、首になってでも協力しよう。―――誓うか」 ああ、桂。やはり懐かしい。これはきっと駄目だ。 首から刃が外れた。桂は俯いたまま言う。 「お前が同じ事を誓えたら逆に俺を斬っていい。誓うか」 ああ、高杉。やはり離せない。これはきっと駄目だ。 高杉が笑って答えを返す前に唇の動きを読んでしまった桂の腕が、高杉の肩に巻きついた。 身を起し、その場に転がった刀を蹴り飛ばしてから、高杉もまた桂の頭を掻き抱く。 「テメーは、独りになりたくねェだけだよ。臆病者」 「お前こそ、狂うこともままならないくせに。軟弱者」 夜闇に、何処かから白椿の香が流れた。腐敗と退廃と慰めと救いが奇妙に混じり合った匂いがした。 彼らの夜は愚かにも美しい。 |
美 し き 泥 濘