彼の献身
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彼らは三人で一人なのではないか。そう思ったことのある人間は多いだろうと確信をもって言える。仲間たちに聞くときっかけは色々あり、目配せだけで完璧な連携を見せたことや、会えば必ず喧嘩をするのに夜は同じ部屋で静かにくっついて寝ていたこと、彼らの師の話になると瞳を伏せる仕草が全く同じだったこと等が挙がった。彼らに魅かれた仲間の数だけ話はあり、それを皆で語らうのが好きだった。 十年ぶりに、その一人が目の前に現れた時、恐ろしい勢いで記憶が溢れた。 あの雪の底に閉じ込められたような日も、この人は死人のような白い顔で意識が戻らない友の隣で固まっていたこと。重体の高杉さんの傷だらけの手に添えられた手は、自分が入ってから出ていくまでずっと震えていたこと。あの、かたわれが消えてしまうような言葉にならない緊迫感。 「白子野、久しいな」 「黒子野です。相変わらずですね、……桂さん」 そうして今も、彼は血の気を失い、倦怠に浸された顔で、寒そうに立っている。 「お元気……ではなさそうですね」 「ああ。そんなに酷い顔か?」 瞳は見ているだけで泣きたくなるような深い苦悩にあふれている。 なぜだろう。彼は彼の、いや彼らの報復を経て、国すら手に入れたはずなのに。 「はい。世界の終わりみたいな顔をしています」 いや、本当は顔を見た時から分かっていた。 彼は仲間想いだが、自らの身を削り捧げるようにして苦しむのは、あの二人のためなのだろう。―――昔も、今も。 「……いや、それを認めるのも癪なんだが」 桂さんは何やらごにょごにょと言い訳めいたことをこぼしてから、諦めたように言った。 「それもこれも、全部あのバカのせいだ」 このやり取りも全く同じだった。きっとこの人は覚えていないだろうが。 ◆ ◇ ◆ 少し、僕の話をさせてほしい。 攘夷戦争に参加したのは十六の時で、故郷の剣術道場の仲間達に誘われてという、ごくありふれた理由だった。剣術の腕前はよく言って中の上くらい。初めの数か月は、ただ必死で、恐ろしい勢いで仲間達が欠けていくのを呆然と眺めた記憶しかない。 円陣を組んで出発した友が物言わぬ死体になって帰ってくる日々。自分よりもはるかに強かった仲間が目の前で切り伏せられ、何が何だか分からないという顔で死んでいく。それは不意に目についた者を攫って行くように前触れもなく、きっと自分の番が来るのも早晩だろうと思っていた。 「お前、不意を突くの上手いな」 高杉さんに初めて話しかけられたのは、半年を過ぎた頃だった。 彼のことはもちろん知っていた。既にその頃、松下村塾出身者は注目の的で、特に銀時さん、桂さん、高杉さんのことを知らぬ者は陣営にはいないほどだったからだ。 彼らは鬼のように強く、不可思議な紐帯で結ばれ、そしていつも渇いていた。 「腕は普通なのに、よく敵がお前を見失っている。で、その隙に一撃で急所を突く。どうやっているんだ?」 「はあ……影が薄いんでしょうか。昔からよく気づかれないところがあるんです」 鬼兵隊の先頭に立ち、その声一言で戦場全体を動かしてしまうような高杉晋助という人は、近くで見ると思ったより幼い顔立ちをしていて、他意はなく純粋な興味で聞いていることが分かった。 「俺は結構好きだぜ。お前の戦い方。名前は何て言うんだ?」 「黒子野です」 「よし、今夜の祝杯は近くで飲もうぜ。黒子野」 そう少しはにかんだように笑った顔を見て、やられた、と思った。 「時に黒子野。……その、昔は忘れて爆破してすまなかった」 部屋がある程度の暖かさになり、熱い茶を一杯飲んでからの最初の一言だった。 桂さんは目を逸らさないが、それでも気まずそうで、だからこそ真摯に響く。 「しかし、よく生きていたな。あれか、ミスディレクションというやつなのか」 こういう余計な一言を言わなければ。 「謝っていただけるんなら、そういうこと言わないでくださいよ」 思わず笑ってしまう。でも、桂さんに「そういうこと」の機微が伝わらないことくらいは仲間内の常識だったので、聞かれたことだけを答える。 「前日に高杉さんが爆弾を仕掛けて、それを離れたところで銀時さんが見ているところを、ちょうど見ていたんです。あの二人なら、缶蹴りの最中で僕を忘れることは容易に想像できましたから」 「そうだな。バカだからな」 桂さんが真剣な顔で頷く。いつまで経っても、同じ穴の狢という自覚が抜け落ちたことを言うのも、変わっていない。 「それで今日は一体どうされたんですか。ご存じでしょうが、もう僕は一介の医者で、刀もほとんど握っていないんですよ?」 「いや、まさに医者の黒子野に頼みがあるのだ」 彼の顔がついと伏せられ、それだけで部屋中に彼の絶望が充満した気がした。 「高杉が死にかけている。正確に言えば今はどこぞを駆けずり回っているが、奴の身体は削られ続けているという状態だ」 「そんな状態で高杉さんは何を……?」 「先生を、俺達の先生を救うために動いている」 断言されて、はっとした。 この人たちは、ずっと彼らの師匠のことだけは話さなかった。もちろん長く同じ場所にいれば多少のことは知ることもあったが、それ以上のことは断固として話さず、師に対する想いも苦しみも全て三人で抱えて。 それが彼らの絆で、矜持で、強さだった。 その人が、今、師匠をも関係する頼みをするという。 「先生を救うための行動は止められない。止めたくもない。俺達はあの人を救うために戦争に参加し、失って地獄を歩き、その上また救えなかったのだから」 彼等だけが負った傷と共に抱え込んだ本音を語る声は澄んでいた。疲れた笑みのまま懐かしむように、噛みしめるように語る彼の双眸に、雪のように静かな仄暗さはない。 それが、澄み渡って刃のように美しいからこそ、絶望的に思える。 「俺とて先生を救いたい。悲願なんだ、俺達の。本当に。あの人を救えなければ、銀時も高杉も帰ってこられない。――だが、その後に高杉が死んでしまうとしたら、……耐えられない」 声を出そうとして、出ないことに気が付いた。桂さんが震える寒さが伝染したように、背筋一杯に鳥肌が立ち、あの荒涼とした雪の日の腐敗した臭いがした。 会えば喧嘩ばかり。大切なことが当たり前すぎて、言葉のいらない関係に慣れすぎて、粉々に瓦解し、それでも根本の部分で繋がり続けた彼ら。腐れ縁、天邪鬼、言葉の不足、厄介な関係性を山ほど組み合わせた、彼らの関係。 輝いていた。見つめるしかない僕たちからすれば、この世のものとは思えないほど、鮮烈に。 その輝きが、ああ、本当にこのままだと終わってしまうと思った。これ以上ないくらい素直な言葉で、この人が高杉さんの死に耐えられないと言ったから。それほどの状況なのだ。 「奴は、悲願を達成したら何の未練もなく死ぬだろう。幸福ですらあるかもしれない。高杉も、俺も、おぞましいくらいの死体の上にいる。これだけ殺しておきながら、生き残りたい、失いたくないなどおこがましいと分かっている。でも、嫌なんだ。どうしても、それだけは……!」 「桂、さん」 ようやく声が出て安堵する。縋るような目線を何とか正面で見て、言った。 「やりましょう。あの人はバカですから、自分の死を軽く考えている。桂さんが、銀時さんが、あるいはあなた達の師が、高杉さんの仲間がどれほど苦しむか、完全には分かっていないし、きっと分かるには膨大な時間がかかる」 だから。 「あの人を死なせないために、僕にもお手伝いさせてください」 「……すまない。黒子野。本当はお前を巻き込みたくはなかったのだが、どうしても医者が、それもお前のような医者が必要なんだ」 「水臭いですよ。あなた達が周りを巻き込むなんていつものことです」 「そうだったか?」 「お願いですからそれくらいは自覚してください。―――もう一つ理由を挙げるとしたら、」 あの笑顔を思いだして、暖かくなってしまったからはおかしいだろうか。 途中で話が途切れたので、桂さんは不思議そうな顔をしたが、そのまま流れ、しばらくして言った。 「時に、お前はどんな十年だったのか聞かせてくれないか」 頷いてから、長話を想定して新たな茶と菓子折りを用意しに立ち上がる。そして本当に久しぶりに自分の師匠に話しかけた。 先生。僕があの時、あなたについて行ったのは今日この時のためだったのかもしれない、というのは言い過ぎでしょうか、と。 ◆ ◇ ◆ 松本先生を連れてきたのは銀時さんと坂本さんだった。曰く、居酒屋で意気投合したらしい。 「アッハッハッ、わしらの陣営はちくと病人が多いぜよ。このおっちゃんは、何やかんやで名医らしい。具合の悪い奴は並ぶぜよ!」 「そーそー。何だっけ、あれだよあれ、座薬が上手いんだよな」 赤ら顔のまま適当なことを言う二人に、ほとんど酔い潰れそうになりながら頷く医者という構図に、その場にいたほぼ全員から疑いの目が向けられた。そして即座に口を出すのはやはり桂さんだった。 「馬鹿者! 何だ、このおっちゃんは。どうせ隣の席に座っていて、店の女子の好みがどっちかと同じで盛り上がって、おごってもらった代わりに仕事紹介してくれなんて言われたんだろう!」 「え、ヅラ君、見てたの? 何、一緒に来たかったらそう言えばいいのに」 「ヅラじゃない桂だ! 大体貴様らの任務は武器の買い付けだ。飲み屋でおっさんを拾ってこいとは一言も言ってない!」 「まぁ、待てよ、ヅラ」 桂さんの怒りと失礼な発言がヒートアップしたところで、割って入った声がある。もちろん、この言い合いに入っていけるのは一人しかいない。 「モジャ二人は女には騙されるが、男を見る嗅覚はそう捨てたもんじゃねェだろ?」 「まあ、それはそうだが」 小馬鹿にする時によくする笑い方ではあったが、高杉さんの落ち着いた声に、桂さんもつられたように静かになり、まじまじと来訪者を見る。松本先生は真っ直ぐに視線を受けた。その時だけは酒の色がなくなり、張り詰めた何かが瞳に流れたように思った。 「こんなのはどうだ。ひとまず一週間、陣営の体調不良者を診せる」 「治んなかったらどうすんだよ」 高杉さんが笑いながら言い、自分が連れてきたというのに反射としか思えない速さで銀時さんが言い返す。 「当たり前だろ。藪医者だったら、どこぞのモジャ二人とまとめて放り出すだけだ」 もちろん二人は騒ぎ出したが、高杉さんは黙って聞いている松本先生しか見ていなかった。そして、その言葉を――僕の人生の岐路になった一言を、至極あっさりと続けた。 「無論、一人で全てやれとは言わねェよ。助手をつける。―――黒子野、やってくれ」 「僕ですか?」 いきなり指名されて声を出すと何人かが驚いたようにこっちを見た。だが、その瞬間に気付く。松本先生とは声を発した時には“目が合っていた”。 「どうだい?」 高杉さんはにこりと笑った。銀時さんが嫌そうな顔になる。 「―――分かったよ。私も丁度助手は彼がいいと思っていた」 始めてその人は言葉を返し、あまりの意外さに驚く。まさか初対面で、しかもこれだけの人数がいる中で、自分を視認していたなんて。 「それで行こう。寝泊りしてもらう部屋は、坂本と銀時で掃除してくれ」 不思議なことに桂さんが一言結論を言うと、皆納得し、先ほどまで不審人物であった男のことは忘れたように三々五々散っていく。 桂さんは掃除を言いつけられた二人の抗議を無視し、ふらりとやつてきて僕の耳元に囁いた。 「あの二人が連れてきた以上大丈夫だとは思うが、よく観察してくれ」 そう囁く口元の薄い笑みを見ながら、ようやく二人が打った布石に気が付いた。 松本先生は無口で、人使いが荒く、気難く、そして凄腕の医者だった。 まず初めの日には陣営をくまなく見て回り、すぐに手近にあった二部屋の掃除を始めた。不潔すぎるというのがその理由で、畳一枚分と布団一式の掃除方法を見せた後、「そこの、後」とだけ言って出て行った。 不思議なことに、掃除を終えた二部屋に先生の振り分け通りに寝かせると、一週間もたたずに片方の部屋に入った者たちが治った。 「追い出せなくて残念だったなあ」なんて得意げに言う銀時さんと睨み合う高杉さんを後目に、桂さんが「よろしく頼む」と言い、先生は「最初からそう言え」と、ようやく悪い笑みをこぼした。 先生は基本的に人の名前は呼ばず(僕は「そこの」だった)、圧倒的に単語で話すことが多かった。どうやって坂本さんと銀時さんが仲良くなったのかは、今でも謎だ。 だが、一度病人を前にすると、いきなり長い聞き取りを始め、一言一言に新たな質問を返し、あるところで突然診断を下す。その診断は――もう助からないということまで――一度も外れたことはなかった。 病人が眠ってしまうと、先生はよく僕を呼び出し、長々と診断の理由を語った。僕はそれを書き留めることを命じられ、自然と必ず夜に読み直すことが日課になった 。 次第に聞き取りで、先生が知りたいことが推測できるようになり、診断も(口には出さないが)一致することが増えていく。 自分でも止めようのない流れと共に、簡単な縫合や消毒から始まり、薬草を探し、言われたとおりに配合するようになった。 先生に新たな技術を教わらなくなった頃には僕は、残念なことにあまり気づかれないまま、ほとんど戦に出なくなっていた。仲間と会うのは怪我の治療の時が一番多くなった。 戦況は悪く、瘡蓋が剥がれるようにあっけない仲間の死が降り積もる。その頃には明らかに病人よりも怪我人の方が増え、前は軽傷の者も診れていたが重傷の者しか診療できなくなり、比例して生きて出ていく者が少なくなっていた。 もう末期に近いのかもしれない。そう思ったのは、腹を大きく裂かれた銀時さんが運び込まれた時、ほんの一瞬、先生と自分が席を外した隙に、彼が暗殺されかけた時だった。 幕府の間者が陣内で根を張り、白夜叉の首と引き換えに投降を呼びかけたのだ。 僕が戻った時にはすべてが終わっていて、気絶したままの銀時さんが横たわる布団だけを残し、部屋中が血に塗れ、中央では凄絶な微笑みの桂さんが首をかしげていた。どこか甘い仕草で。 「すまん、黒子野。部屋を汚してしまった。松本殿に怒られるだろうか?」と。 その時どう答え、どうやって部屋を出たのかは思い出せない。気が付いたら門のところで、青黒い曇天の下、足を引きずる重い音を聞いていた。 ひらりと紅葉が宙を舞う。それを見ていると、戦場に来て初めて涙が溢れた。 足音の主は予想通りで。 「よォ、黒子野。見張りか? ああ、これは返り血だから治療はいらねェよ。あのおっさん、なんでか知らねえが、俺にばかり苦い薬飲ませてねえか?」 あの笑みを全くきれいに固め、複製したかのような同じ笑み。 全身に纏う生臭い血。あれは天人のものではない。人間のものだ。 ああ、この人たちが壊れてしまった。 もう止まらなかった。人生で初めて、膝から崩れて、号泣した。 頭上から慌てたらしい高杉さんが「大丈夫だ。間者は死んだぜ」と何回か言い、背中をさすられる。 そんなことではないのだ。ずっと観察してきた。特に彼らを見るのが好きだった。だからこそ彼らが、新たな一線を越え、暗澹と寒々しい場所に行ってしまった事実から目を逸らせなかった。 不器用な手から伝わる優しさで背中が焼け爛れるようで。それが彼らの心を焼いた取り返しのつかないものようで。自分が泣いていたって意味はない。彼らが痛みを涙に変えられなければ。そう思っても、涙はなかなか乾かなかった。 幸いにして銀時さんは部屋を変えたすぐ後に目を覚まし、桂さんの説教と高杉さんの嫌味を受けた。愚かな僕は安堵して、これで元に戻るのではないかと甘い期待を抱いたのだが、その時から以降、彼らが誰かが怪我をすると、残りの二人は目を覚ますまで死人のような顔で、足のつかない海に沈むように付き添いをするようになっていった。 「黒子野。辛いか」 あの雪の日。凍り付くような水で器具を洗浄しながら、先生が突然言った。ほぼ初めて名前を呼ばれ、思わず手が止まったが先生は無言で排水口に流れる赤黒い血を眺めている。 それは高杉さんの血で、今手術を終えたばかりの彼のそばには、凍り付くような目で手を握る銀時さんがいるはずだ。 「―――お前さん。戦を抜け、医療を学ぶ気はないか」 「先生?」 「自分でも薄々は気づいているはずだ。お前さんは並外れた観察眼があり、手先も器用、何より斬るよりも、ここで人を治すことを喜んでいる」 「それは……確かにそうですが、今、戦を抜けるなんてことは」 「もちろん今すぐじゃない。だが、戦が終わるまでの猶予はない。最期までここにいてしまえば、学びの道は閉ざされる」 すぐには口がきけず、虚しく洗ったばかりのメスを落とした音が響いた。 苦々しい声、懊悩する時によく出る貧乏ゆすりから意図は明白だった。先生はこの戦には敗北し、恐らくそれまでに残された時間は少ないと言っているのだ。 「わしは抜けるだろう。死にたくない」 「そんな、これほど怪我人がいるのに! 先生がいなくなったら、どうなるんですか!」 「分からん。だが彼らの命運を決めるのは少なくとも医者じゃない」 静かに言われ、分かっています、と弱弱しい声が出た。 自分とて医者がいなくなっても、陣営は最後まで回っていくと知っている。 一日の死者を少し増やし、乱暴に縫われた傷を増やし、怪我人同士が助け合い、そして皆がそれぞれの志や願いを燃やし続ける限り、人間の手で歯車は止められない。 「お前さんを連れていきたい。医学を学び、大きな診療所で働け。今では想像できないくらいの機器で人間を観察し、治す世界が広がっているんだ」 今なら認められる。僕はあの時また膝をついたが、それはあまりの甘美さに、行きたいと願ってしまった自分が恐ろしかったからだと。 「―――黒子野。人間は皆必ず何かの奴隷だ。業、と言ってもいい」 「……先生は、何の奴隷なんですか」 「決まっている。治すことさ。わしはこの世で治すこと以外に何も興味がない。例えばお前さんがよく見ているあの三人は、絆、あるいは記憶なんじゃないかと思う。そしてお前さんは」 言われる前に答えた。 「僕は観察でしょうね。ずっと影から見てきましたから」 「だろう。だからお前さんを選んだ」 絶望的な思いで人を地の底に塗り込むように降り続く雪を眺める。 もうこの場所で雪を見ることは、きっと二度とない。 先生と僕が戦を抜けたのは一月後で、その頃にはさらに疲弊しきっていた仲間からは大した罵倒も受けず、ひっそりと旅に出た。 江戸に着き、待っていたのは先生が学んだ学び舎で恐ろしい量の勉学に明け暮れる日々で、その間隙に、終戦の報が流れた。 あの人たちは無事だろうか、と思ってはそんな資格はないのだと打ち消して、鬼兵隊の首や手配書を見ながら、裏切りを振り払うようにして学び続けた。熱心に学んだおかげで、僕は大江戸病院に職を得て、先生が言った通り、信じられない精度の機器で人の細胞を見、レントゲンを眺めた。 ある時、気が付かれていない自信はあるのだが、銀時さんが入院してきて、心臓が止まるかと思った。彼は二人の子どもと騒ぎ、笑っていた。 ああ、人の顔をしていると思っていたら、今度は桂さんが不思議な生物の見舞いに来て、殴り合いの喧嘩をしているのを、僕は遠くで見たのだ。 許された気がした。あまりに勝手だが。 生きていてくれただけで。バラバラになったと聞いた彼らが、まだ昔と変わらない喧嘩をしているだけで。 寂しげではあるが、人の顔で笑っていてくれるだけで。 その後しばらくして、僕は大江戸病院を辞め、病理医が多く在籍する病院に移り、またしばらくして今は先生に託された診療所にいる。これが、僕の十年だった。 話が途切れ、なぜだか急に恐ろしくなって顔を上げられなかった。戦を抜ける時、どんな糾弾も受けると誓ったはずなのに、この人に冷たく切り捨てられるのは恐ろしい。 「黒子野。お前も長い間戦ってきたんだな」 それなのに、ふわりと肩に手を置いてきたこの人は、今までになく穏やかに笑っているのだ。 「大江戸病院は驚いたな。あの時は銀時の奴が人を謀りおって……。声をかけてくれたらよかったのに」 「かけられませんよ」 「そういうものか」 桂さんもそれ以上は話を広げない。 「あの日、僕はあなた達が笑っているのを見て、やっぱりよかったと思いました。―――でも、あなた達の傷は、もっと奥深くに閉じられていただけだったんですね」 「俺達は死ぬわけにも、戦わぬわけにもいかなかったのさ。傷の痛みは走り続けるのに必要だったが、あまりに近くには置けなかった。そんな感じだった気がするよ」 正面から、桂さんの、地獄を歩いた人の、もしかしたら三人を結ぼうとずっと血まみれになりながら糸を握り続けた人の目に去来した悲しみを見た。 「僕はあなた達をずっと見てきました。驚くほど輝いていて、本当に羨ましかったんです。生涯で唯一無二の縁で結ばれたあなた達の友情が」 「いや、そんなにいいものでもないぞ」 なぜか今までで一番早い反論が来たが、それを真に受けるほど僕も若くはなかった。 「いいものじゃなくても、いいじゃないですか。喧嘩ばかりでも、違う場所にいても、ただ生きて、時々笑っているあなた達がまた見たい。今度こそ、傷を癒す時なんじゃないでしょうか」 「ありがとう。黒子野」 そう言った桂さんの目に、いきなりあの清涼で鋭い覚悟が灯った。 「頼みを聞いてほしい」 桂さんはそれからひと月、どうやって時間を作っているのか毎日通ってきた。要望はただ一つ。考えうる限り全ての検査を受けること。理由は「もう一度呼び出す時に話したい」と教えてくれなかったが、無理に聞こうとは思わなかった。 この人が、高杉さんのためにやることならば、何の間違いがあるだろう。 僕はひたすら採血に始まり、あらゆる箇所の体液や皮膚の採取、レントゲン、内臓の検査を行った。桂さんの要望は恐ろしく細かく、骨片まで採取すると言い張り、仕方なく一部を切開して切り取った。 一通りの検査を終えると、また奇妙なことを言われた。 「外傷の治癒速度を見たいんだ」 やってくれ、と静かに言う顔は底の見えない湖のような平面に見えた。 日に日に桂さんの左腕には僕が付けた傷が増えていく。 それどころか「大丈夫だ」と主張され、腹や太腿など目に見えないところまで切り、毎日その全ての写真を撮った。その間にも毎日暗殺されかかっているというのに、他の傷は全く増えない。 そして、そのひと月の最後の日。薄く青白い東雲を見ながら診療所に着くと、既に灯りが付いていた。ただ桂さんの気配があったので、そのまま入る。 「黒子野。今日は他にも客がいる。入れていいか?」 「あの、もう入ってますし、そこの方がお茶を入れていらっしゃるんですが……、というかあなたは」 勝手に人数分の茶を入れている男の顔は知っていた。 「その節はどうも。黒子野さん。なかなかいい仕事をされましたね」 武市変平太。高杉さんの参謀。覚えられていないかもしれない、と思ったが認識されていたらしい。 「何だ、知り合いか? もう二人も紹介しておく」 どう答えたものか悩む間に、桂さんはどんどん話を進めていく。 「快援隊の副官、陸奥殿だ」 「陸奥じゃ。よろしく頼む」 立ち上がった人の肌は抜けるように白く、眼光は不敵に鋭い。 「ああ、頭は借金の返済中で来れん。この場所は教えていないから問題ないぜよ」 「坂本は家を知っていると、船で突っ込んでくるからな」 桂さんから珍しく的確な注釈が入る。 「それから、平賀源外殿。―――鬼兵隊にいた三郎の父上だ」 「お前さんも巻き込まれたクチかい。まあ、よろしくな」 一度か二度、話したことがあったかもしれない顔に、源外さんはよく似ていた。 「集まってくれて礼を言う。これからが人助けの本番だ」 準備は整った、と彼は宣言する。無造作でありながら、人を容赦なく引っ張っていく声。 不意にここがどこなのか分からなくなった。桂さんが抱える茫漠とした夜に引きずり込まれてしまったかのように。 「良いことを言っているようじゃが、顔は大悪党のそれぜよ」 陸奥さんが諦めたようなため息と共に漏らした言葉に、桂さん以外の全員が頷いた。 ◆ ◇ ◆ 遠くで爆発音が響いている。城下町を覆う混乱と波のようなざわめきが背後に感じられるが、一歩、門をくぐると音は全て掻き消えた。 桂さんは騒ぎの大元にいるのはあの二人だと知りながら、真っ直ぐにこの場所へ来た。それも情報が入るや否や、陸奥さんが手配した超高速の小型戦艦に飛び乗り、江戸から一刻もかからぬ間に。 萩の松下村塾。 その場所は鈍く光のない雲に覆われ、辛うじて残された門の先には瓦礫が無秩序に散らかっている。 桂さんは数秒だけ足を止め、すぐに長く伸びた雑草を踏んで歩いていく。その背からは途方もない寂しさが滲む。 昔、三人は全く違うタイミングで、しかし同じ表情でここに帰りたいと言っていた。まだ、帰れないのだとも。今この帰還はきっと帰り着いたではなく、旅路の途中に過ぎないのだろう。 「お墓参りですか……?」 迷いなく向かう先には小さな墓があった。盛り土をし、線香を置いただけのものだが新しく、丁寧につくられたものに見えた。桂さんは逡巡したようだが、一度頭を下げる。 「いいや。墓荒らしさ」 え、と聞き返す間もなかった。 跪くや否や、いきなり土を掘り返しだしたのだ。思わず止めようとして、手を払われる。見上げてくる瞳は、黄昏のように不穏で底が見えない。 「気がふれたと思ったか?」 「……」 「俺は初めからこうするつもりで、ずっとこの日を待っていた」 がりがりと、乱暴に土を掻く音が耳に触る。酷い騒音のように。 「高杉は恐らく致命傷を負った」 石と砂が弾ける音、桂さんの土にのめりこむような視線、再度の爆発音が、ぐるりと回った。 「そんな……、じゃあ、何で」 信じられなかった。 あの人が致命傷を負ったことも。それでも今なお戦っていることも。 医療の道に入ってから幾度も思い知った。どれほど頑強で、考えられる全ての治療と技術を駆使しても、人には越えられない一線がある。致命傷はどこまで行っても致命傷であるということを。 「荒唐無稽な話に聞こえるだろうが、俺達の師は不老不死の血を持っていた。いや、大人にはなっているのだから、正確に言えば老化が恐ろしく遅く、治癒能力が異常に高い血というところだろう。その血は、アルタナという星に備わったエネルギーを養分にしている」 桂さんは、驚きのあまり停止しかけた僕の頭が動き出すまで静かに言葉を切った。 「俺達が先生に出会う前、先生にはもう一人弟子がいた。この男は子どもの頃に死にかけ、先生の血を受けた。―――ここの墓の主だな」 ほら、と目の前に血に汚れたお守り袋のようなものが突き出される。 「この男は少なくとも数回致命傷を負い、先生の血の力で命を繋いだ。そして俺達と敵対し、高杉に倒された。その時、あいつは松下村塾に帰すと約束したらしい。ただ宇宙から遺体を運ぶわけにもいかず、遺骨だけを持ち帰った」 「―――まさか、」 「そのまさかだ。高杉は致命傷を負い、最後の気力で遺骨を取り込んだ。同じ場所には、先生の血があったようだが、あいつが選ぶわけはない。間違いなく、この骨だ」 桂さんは慎重に血に汚れた袋を開き、さらに小さな袋を取り出して中を見る。「ああ、よかった」と漏れ出た声には狂気としか言いようのない歓びがあった。 「先生の血を受けた人間の、また更に骨だ。一度は高杉の命を繋いだが、どこまで持つかは分からない。それどころか、様子を探ると確実に奴の身体を蝕んでいるようだ。だが、ここに希望が残っている」 全ての線が一本につながる。全身に鳥肌が立った。あの執拗なまでの検査と採取の意味は―――。 「さあ黒子野。この半分を注射してくれ」 大悪党などではなかった。 狂気の沙汰の、献身だった。 「分かっているんですか! どんな効果が表れるかも分からないんですよ!」 「だから付いてきてもらったのだ。いきなり倒れては困るからな」 「そうではなく、今でも蝕んでいると言ったじゃないですか!」 「だからこそ、実験材料が必要なのではないか」 桂さんが柔らかく、この上もなく優しく笑った。 あの日、血まみれの部屋で困ったように微笑した時と全く同じように。 「高杉の命を救うには、この骨の解析が不可欠だ。幸いにして俺の身体データは全て取ってある。もう一度実験を繰り返して変化を解析し、活用する」 だから、桂さんは今日を待っていたのだ。 約束通り高杉さんが埋葬を終え、立ち去った後に骨をひそかに回収するために。 「高杉の想いを、奴の約束を無にするのかどうかは、この際横に置く。俺は兄弟子とはいえこの男を許さないし、何より奴の命を救えるなら人間の領域を越えた業でも構わないと決めた」 選択の時、先生と語らったあの言葉の意味を今思い知る。 観察を続けた結果、全ての帰り道はなくなり、目の前にはどこまでも暗く見える道だけがある。 「ならばその業、半分持つのが筋というものだろう」 さあ、と狂乱の貴公子が歌うように言う。 「早く戻って血と骨の世界を見ようじゃないか」 |