貴方はいつまでも優しい。冷たい墓石の下に入ってしまった今も、どこまでも優しい。 傷つけ合う愚か者を弾劾することもなく、あの清らかな気配だけで俺達を抱きしめている。 罰でいいから貴方の刻印を刻んでほしい。厳しい声で歪みを責めてほしい。 貴方の生々しさが、恋しい。 「先生!」 草履が石畳にひっくり返っている。銀時はそれを裸足で踏みつけ、縁側に上がろうとする。 足元がぬるりとして、一瞬バランスが崩れた。足を掛けた石の表面にびっしりとこびり付いた青い苔に足を取られたのだ。 「先生!いるんだろ!?」 その苔の多さと思わず手をついた縁側に降り積もった埃に、銀時は自分でも驚くほど怯えた。先生は、幾度掃除をサボった自分に拳固を食らわしたか分からない。その名を呼ぶ。 「そんな大声を出さなくても聞こえてますよ、銀時。おかえりなさい」 ああ、いた。奥から聞こえた愛しい人の声に銀時は跳ね上がった。縁側に膝小僧を強打をしたが、どうでもいい。掴むようにして這い上がった畳に足が傷つけられる。 飛び出た井草が刺さる痛みがリアルなら、彼の声もまたリアルであるはずだ。 「そっち行ってもいい?昼寝したいから、先生膝貸してよ」 知らず、銀時は耳を澄ました。もし次に聞こえる声がまがいものだったら、どうにかしてやるつもりで。 「もちろん。いらっしゃい。それから、脱いだ草履はそろえなさいね」 声の抑揚、流れるような言葉遣い、そして恒例の小言が染み入った。この奇跡のような組み合わせは、彼以外には持ち得ない。じんわりと安心感が胸に広がり余裕が出てくると、探し人の気配が流れてきた。 それは教室の奥にある彼の自室から流れていた。なぜか机が綺麗に片された教室を走り抜ける。確かに気配は生々しく近づいてくる。 急いで、しかし日頃の言いつけを守って静かに襖を開ける。 「先生。入るよ」「ええ、どうぞ」 声を掛ければ、すぐに返事があった。ここで正解だ、彼はこの先にいる。 「………先生?」 襖が全て開け放たれた瞬間、今の今までそこに在った愛しい気配が霧散した。二部屋しかない村塾で、他に行き場所などない。 銀時は叫んだ。無意識のうちに相手の気配を探し出す戦場の勘を使いながら、次第に自分の声が低く変わっていくのを感じながら、とにかく叫んだ。「先生!!」 そのあまりに大人びた叫びが、懐かしくも荒んだ村塾の風景を塗りつぶしていった。 かっと銀時の目が見開かれた。夢の残滓に浸ることも許されないスピードで、見慣れた天井が飛び込んでくる。 手足がかすかに痺れていた。「あー……」。溜息の理由は落胆ではなかった。あの優しい声が夢でしか聞こえないことなど、とうの昔に理解していて、その大人ゆえの虚勢は無意識下にまで染み透っている。銀時に深い息を吐き出させたのは、まぎれもない倦怠だった。 全くもって懲りていない。毎回毎回こうなると分かっているのに、もつれる小さな足で塾を、時には城下町を駆け回る。むやみやたらと手を振り回して、空気を握り潰す。理性もクソもなくだだをこねるだけの手足の一部があの懐かしい体温に触れることを、哀れにも願って消耗していく。 再び目を閉じる。すぐに片目だけを薄っすらと開け、視界の隅に映る上掛けをぐしゃり、と握った。じっとりと湿っている。そのひんやりとした感触とともに、汗臭さを自覚した。 その途端、がくんと――そう本当に奈落に落ちていくように(彼が笑うなら、もしかしたら付いていってしまうかもしれない)――現実の朝が遠くなった。だが、先ほどまでいたあの場所には戻れていない。 万事屋の自室で寝ている自覚は確かにあった。ただ同時に、過去の香が漂う夢が酷く今を塗りつぶそうとする。 どちらも選べるものか、と嘆いた声は乾いた喉に阻まれ、息苦しさとなった。 喉が強烈な乾きを訴えていた。ビールとまでは言わないが、冷たい水を一気に飲みたい。 銀時はなぜか冷静に思った。自分はどちらで水を探せばいいのだろう、と。塾か、万事屋か。 眠りに落ちていく銀時は、襖が開いた音に気を払わなかった。 「……井戸、行ってくる」 頭上に影を落としていた気配が、はっと変わった。 (ここには、井戸はありませんよ) それは酷く優しく、泣きそうな声で。新八、どうしてそんな悲しい声をしてるんだよ、辛気くせーだろうが。自分のことを棚に上げてそう呟く彼の目は閉じられたまま。 (銀ちゃん、泣いてるアル) ああ、俺は泣いていたのか。 目を閉じていても分かる。今、自分の情けない寝顔を見下ろしているのは大切な家族。かつて先生が言った。「貴方も家族を作る日が来る」と。あの時は素直に受け止められず、腹が立って仕方がなかったが、本当は、本当に俺の家族を見せたかった。 涙を止めなければならないと、曖昧に思う。二人が傷つく気配がし、そして自分も情けない。 なぁ、先生。 俺はさ、家族にはテメーの汚い所も情けないところも見せたくないんだよ。こいつらには白夜叉なんて知ってほしくないし、俺が過去のことで泣き喚く姿も、例えばヅラや高杉に当たる醜さも、奴らを傷つけてようやく落ち着く情けなさも、何も見せたくない。 なぁ、先生。 アンタは最期まで俺達の誰にも弱音を吐かなかったな。アンタは一人で泣いたのか。当り散らして、いろんな汚れたものを曝け出せる奴はいたのか。先生!松陽先生!アンタは綺麗すぎる! そう思ったら、涙が止まらなくなった。どうして、こんなにも泣けるのだろう。 先生、先生、先生。家族に対して綺麗な俺であるためには、どうやったってあの馬鹿どもがいないと駄目なんだよ。そいつらを、泣きたいであろう高杉と桂を利用するだけ利用して俺は放置している。 先生、俺を裏切り者だと罵ればいい。もう、小さな子供じゃない。アンタの歪みだって、必ず受け止めてみせる。 こんな駄目な大人になった俺を詰ればいい。自分の家族を傷つけていると知りながら、尚も嘆くしかない俺を、叱りつけてくれれば嗚呼! ないものねだりをしている。 貴方がいれば、貴方が一言「共に歩け」と肉声で言ってくれれば、全ては元に戻るのではないかと。 ないものねだりをしている。 貴方がいて、高杉が、桂が、皆が共に在って。その中で、貴方が俺の家族の頭を撫でてくれる、過去にも未来にも何処にも居場所のない場所を。 ◇ ◆ ◇ 「晋助。お主は、ないものねだりを止める方法を知っているか?」 「……なんだィ、万斉よ。柄にもなく懸想でも始めたァ?」 「まあそんなところでござる」 万斉の手から煙草をひったくり、高杉はそれを呷る。寝起きで大層機嫌が悪い。 その気配を察した万斉は、さりげなく高杉から距離を置こうとするが、その前に高杉の足が伸びてきて脛を蹴られた。 「足癖が悪いでござるな」 「うるせェ、黙って蹴られてろ。俺の教えを受けたいんだろうが」 そう言ったくせに、沈黙が二人を遮断した。日頃鬼謀を巡らす隻眼は一瞬にして濁り、高杉の危うい存在感がごそりと欠落した。万斉は黙って煙草を取り返す。そして自嘲気に嗤った。自分がないものねだりをしてしまう相手は、いつまでも白昼夢の中でないものねだりをしている。 ピン、と張り詰めた音が高杉の耳を打つ。丁寧に弾きこまれた音楽が、青畳を這って脳髄に優しさを届けた。高杉は大切に抱えてきた三味線を縁側の上に置き、草履を並べて塾へと上がる。 「先生!今日も三味線を習いに来ました!」 その声に応えるように、松陽がかき鳴らす音が激しくなった。先生の十八番であるこの曲は好きだ。しっかりと揺るがない音程が耳に優しく、それでいて中盤以降にはっとするような激しさを見せる。 高杉はまだ使い慣れない三味線をそっと抱きしめ、一礼して講義室を抜ける。誰よりも早くこの曲を弾けるようになりたい。そのために高杉は寸暇を惜しんで塾に通い通しだった。高杉がかろうじて奏でられる音はどれも所在無さげにふらついていて、先生の張り詰めた音に及ぶべくもない。一緒に習い始めた銀時よりも、桂よりも、必ず先に。そのために高杉は寸暇を惜しんで塾に通い通しだった。 自室の縁側に座る松陽の背はすっと伸びている。心からくつろいでいることが分かるのに、凛と隙がない。その後姿まで後3歩というところで、曲が終わった。 「先生!」 駆け寄った高杉の声に応えて、優しい気配が振り向く。 「……先生?」 なぜ自分の声は恐怖に引き攣れているのだろう、と思った。指先の力が抜け、その震えから全身に染み渡った怯えを感じる。 松陽は柔らかく微笑んでいる。ただ、いつも欠かさない歓迎の言葉がない。ざぁ、と高杉の背後から影が迫った。雲が急激に空を覆い、塾を冷やしていく。―――この違和感。 「……先生、具合でも?」 松陽はゆったりと首を振り、おいでと腕を伸ばした。震える足を叱咤し(怯える、その不吉さに身震いした)高杉は松陽に抱きついた。 「ひっ………」 かろうじて押し殺した悲鳴。 「先生!!先生!!…………先生!!」 安心させるように高杉の背を抱く松陽の手はひんやりと冷たい。何度もう一度見たいと願ったか分からない優しい表情から、声が洩れ出ることはない。高杉は松陽を抱きしめて絶叫した。 その冷たさが死人の体温であると知っている。低くなった自分の絶叫が慟哭であることも。 ああ、寒い。嗚呼! 「………なァ、万斉よ」 白昼夢から浮き上がった愚者は、三味線を静かに掻き立てる。 後ろから見ていると彼の毒々しい着物は背景の青空にくっきりと浮き上がり、そのぎらついた境界線が万斉には眩しい。珍しくも背はしゃんと伸び、彼の手から生み出される曲は洗練されたフレーズで人を和ませる曲だ。 「人の構成要素は多すぎるな」 そう言う彼が、静かに泣いていると万斉は知っている。きっと彼の夢では、愛しい人の全てを見ることが叶わないのだろう。否、そもそも誰もが相手の全てを見れないという点で、彼のないものねだりはなんと虚しいことか。 「………温かかった……嗚呼、冷てェ」 冷え切った白昼夢は、彼の中に燻る火を燃やす。彼の人の面影を追いきれない憎悪を薪に、彼らは身を削りながら走り続ける。なんと愚かな。そのないものねだりに惹かれる自分はもっと愚昧だ。 万斉は高杉の後姿に、彼ではない誰かの影を見る。その正体は、きっと夢で高杉を迎え入れる人だ。 全てではないにしろ、喪われた面影を受け継いでいるではないかと言いたい。その自分に宿る影に気がつかず、それを捜し求めて地を這う高杉は――彼らは、もはや滑稽にすら思える。 全てを忘れても戦わなければならない。それが唯一の約束でもあるかのようにしがみ付く彼ら。 抉り合う暇があるのなら、相手の孤独な背中を眺めればいい。自分が受け継がなかった面影を宿した背を合わせればいい。 「全く……」 「なんだィ?」 澄んだ青空に見えた背景は、薄っすらとセピア色に染まり、現在ならぬ風合いと化している。 「いや、叶わぬなぁと思っただけでござる」 言うものか、と思った。これは勝負だ。セピア色が高杉の顔を覆うのが先か、血塗られた現在で夢を忘れさせるのが先か。 曲が終わった。部屋を出て行こうとする万斉に向かって高杉が嗤う。 「俺が欲しいなら、白夜叉に抱かれて来い」 ああ、こんな男、殺してしまえたらどんなにか楽だろう。 人の魂の寄る辺を奪っておいて、それをあっさりと過去に捧げてしまうのだ、この愚か者は。 「そうすりゃ、一夜預けてやるよ」 確かに高杉は本気で話している。今の言葉は全て事実で、多分彼を手に入れる方法はそれしかない。嗚呼、でも彼は手に入らない。彼は全てを白夜叉に預けてしまっている。 気に食わない。 万斉は慎重に襖までの距離を測って、呟いた。 「晋助のないものねだりは、白夜叉とて返せないだろうに」 無論、返答はない。ただの慟哭が溢れて終幕。 その閉じた世界こそが、彼らの絆であるのかもしれない |