| その午後は物憂く甘い。世界全体がぼんやりと影を薄め、降り注ぐ中途半端に暖かい陽光が眠りを誘う。すると「眠いな」と己の思考がそのまま午後から飛び出してきて、桂は欲求を後押された気になって、ごろりと横になる。 「だらしねェな」 声は果てしない甘さを漂わせて笑う。素肌で隣にある恋人へ囁くような、低く、すこし重たい声で。 「貴様に言われたくない」 もちろん声の主は恋だの愛だのという言葉から最も遠いような男で、甘さは何のことはない、金木犀の中に埋もれていれば自然とそうなるべき甘さという意味しか持たない。 開け放たれた障子の向こう。寂れた日本風の庭の半分は、小さな橙色が騙し絵のように重なり合っている。喉に吸い込んだ時のみ冷たい風が、花弁一つ一つを撫で、蜜にも似た匂いを撒き散らす。 縁側に寝転がる桂は顔をしかめた。とても鬼の住処ではない。だが、高杉は金木犀の中に分け入り、これ以上ないほど穏やかに笑っているのだ。久しく忘れ去った幸福そのものの顔で。 高杉は庭石の一つに腰掛け、ゆったりと三味線を弾く。桂はそれをじつと見る。血みどろの骨ばった手が、粒のように儚く優しい音色を重ねるのを。 ―――それは高杉らしくないのである。 桂は耳を澄まし、音色の片隅にでも金木犀を切り裂く凶暴さがないか探し、目を凝らして指先に宿った無残さを求めた。 「風流だろう。俺ァ、ここが気に入っている」 「全く美しい。貴様には勿体無いほど」 不穏な心境を無視して、高杉は己の住処を自慢する。冷ややかに笑ってもお構いなしで、「ひがむなよ」と笑う始末である。そうやって時折眩しさに目を細める仕草を見せ付けて、たまらない気分にさせるのだった。 「高杉。俺にも一曲弾かせてくれ」 「いいぜ」 温い楽園に慣れ、警戒心を忘れた鬼は、三味線を渡して桂の隣に座る。 よく手入れされれた三味線には、透明感がある弦が真っ直ぐに張られている。恐るべき実直。 指を触れると、三味線の方が桂を忌まわしく思い、小さな拒絶を寄越す。構わなかった。 一音。高杉が煙管に遣ろうとした手を止める。 低音。非難と絶望、そして少しの同意が含まれた視線が突き刺さる。 桂は弾く。一瞬も手を止めることなく。かつて男が鳴らしていた戦場の歌を、魂を篭めて。 「ヅラ……やめろ」 高杉が音楽と共鳴する己と戦いながら、弱弱しく言った。 「好きだろう」 感情は乗せず、淡々と事実を述べることが最も高杉を追い詰められると知っている。それが自分であればなおさら。 「高杉」 桂は言った。 「ずっとここにいたいな」 この場所ならば、死臭も薄らぐだろう。身体を寄せ、高杉の耳元で一つの悪夢を囁く。 次の瞬間、高杉の手が恐ろしい力で三味線をかき鳴らす手首を掴んだ。 「ヅラァ」 おそらく痣になるであろう力をかける男の顔は見えない。俯いた顔の筋肉は少し震えており、かみ締めた唇には血が滲み始めている。 桂は笑おうか、少し泣こうか考えた。相反する感情が心を二分する。この男に穏やかな日々をと願う心と、そして憐憫の名を借りた愛情を打ち消す勢いで広がる恐るべき残忍さ。 「なめるな。こんなところで終われねェ」 そう睨みつける高杉からは、綺麗さっぱり凪のような物憂さは消え、凪のようではあるが憎悪以外の何者にもなれない醜い感情だけが立ち昇っている。 高杉はもう金木犀を振り返らない。きっとこの隠れ家も数日の命だろう。 桂は吸い寄せられるように、血の滲んだ唇へ接吻した。高杉の体温を確かめるために。 静かに応じ、されるがままに舌を絡める高杉の目には、幼馴染でなければ分からない悲しみが不安定に揺れている。 「なあ、高杉。……なぜ俺に手紙など出した。こうなると分かっていただろう?」 ◆ ◇ ◆ 意外と言われるが、高杉は屋台で飲む酒が好きである。寒空の中、屋台にたどり着き熱燗を飲めば、身体中が溶けていくような酩酊感を味わえ、それは何者にも変えがたい。 屋台ごとに異なる味が、積年の試行錯誤の結果を感じさせるのもいい。高杉は京都は無論のこと、江戸の屋台も多くを知っていた。あそこは少し甘めの牛すじ、焼き鳥はあそこに勝るものはない、女の話をするときはどこそこの親父、と。 今日は沈黙の屋台である。そういう名ではなく、高杉が勝手に呼んでいる。料理の味はそこそこ、酒は極上、親父は空気のように何も言わない。客はひたひたと忍び寄る静寂を楽しみ、客同士の会話は禁止されないので時には見知らぬもの同士大騒ぎをする。高杉はどちらも好きであった。 「歌舞伎町でなきゃ最高なんだがなァ」 歌舞伎町。いきつけの飲み屋の話などしないのに、何故かよく会うバカがいる。しかし今夜は嫌味を言いつつも、高杉は上機嫌に隣に座った見知った顔の、ふわふわと四方八方に散らばる髪を眺めた。 「あーん、うるさいよーチビ助さーん。オメェ案外歌舞伎町いるよな。斬るぞ、って言ったよね? 俺ナメられてるってことかバカヤロー」 「誰がチビ助だ、天パ。テメーは斬る斬る言いながら、下半身の刀でだのばかり言うだろうが」 「ギャーハハハハッ!高杉、下品!!超下品!」 「テメェほどじゃねェさ」 すでに二人はしこたま酔っているのだった。高杉は一人杯を進めた時間によって、銀時は屋台に吸い込まれる前に呷った浮世によって。 酔っていなければ笑い合うこともままならない自分達はお笑い草である。酒とは素直になれない大人のためにあるのだ。頭が朦朧とし、不思議な熱が体に宿り、簡単に笑い、涙できる。翌朝にはそ知らぬふりが大人の礼儀。 「銀時ィ。これ飲んだら出るぞ」 そう言うが早いが、高杉は酒を一気に喉に流し込み、勘定を置き、銀時が何か言う前には暖簾を潜り抜けている。 「あァ、いい夜だ……」 一足早く夜風を吸った高杉は天を仰ぐ。空気は澄み渡り、火照った肌にその冷ややかさがしっとりと馴染む。そして猥雑な喧騒も包み込むようにして冷やしてしまう。高杉は愛おしそうに目を細める。遠く、遠く、どこまでも見渡せるであろう透明な夜を全身で享受しながら。 「おめえよー、相変わらず人の話聞かねェのなー。あ、ついでにごちそさん」 しばらくして出てきた銀時は少しだけ呂律が回復していた。 「テメェの懐具合には憐憫を禁じえねェからなァ」 「おめえは、手下に稼がせてるだけだろーが」 不満げに口をすぼめる銀時を高杉は、鼻で軽く笑い飛ばして応じない。代わりに「お前一人くらい追加できるぜ」と、銀時が最も嫌がる種類の嫌味を言った。 その余計な一言の後、二人は、どぎついネオンとはるか遠くのターミナルを横目に無言で歩いた。間に刀一本分の隙間をあけて、浮遊する金魚のように。 牡丹の着物に刀の男と、夜でも光る銀髪の男を目に留める者は誰もいない。迫り来る寂しさを堪えながら、自分すら知らぬ目的地へと消えていく。高杉も、銀時も、己の行く先を知らない。 高杉は不思議な男だと銀時は思った。とうの昔に捨て去ったものと心中している男。心中を恐れ、ほんの少しでもいいから温かさがないと生きていけない己とは異なる人生を行く。 だがどうして、こうして歩いていると昔と少しも変わらぬような気にさせられる。呑まれる、というのか。 「違ェよ。テメェと俺が落っことしたものが同じなだけだよ」 唐突に振り返り、高杉が言った。怖いほどの真顔だった。 「………俺、そんなこと言ったっけ」 銀時が惚けると、今度は手首を掴まれ川べりに引きずりこまれる。 思わず腰を打った銀時の背に、河原の夜露が染み渡った。道からほんの少し反れただけなのに、もう歌舞伎町の音色は遠い。 目を開けると、分かってはいたが、自分に乗り上げる高杉の顔が迫っている。 彼はうっそりと目を細めて笑っている。麻痺した頭では、それが残忍さなのか彼に似合わぬ優しさなのかも分からない。 「テメェの考えなんざ、お見通しさ」 高杉は唇の形を確かめるようになぞってから、静かに接吻した。 背後の巨大な光を受けて、輪郭がキラキラと光っている。この世で最悪の後光だ、と銀時は思った。 「銀時」 「何」 「このまま東雲までヤろうぜ」 自分より軽いはずの高杉の身体は重かった。しかし温かい。 高杉が背に腕を回してきたので、銀時も諦め半分で友を抱いた。 「一緒に夜明けを見よう。萩の空と変わらぬ美しい東雲を」 銀時は、無残に乱れた高杉の背後に浮かび上がるであろう東雲を想像し、呆れたように言った。 「バカじゃね。あのビルがある限り、昔の空は見えねえよ」 「だから落としたものが一緒だと言ってんだよ」 高杉が揶揄したように笑ったので、やはりあれは残忍さだったとようやく気がついた。 ◆ ◇ ◆ 強烈な焦燥に負けた己を酷く恥じる夜だった。とにかく不眠である。 あの男が帰ってからすぐに洗ったはずの布団からは、嗅ぎ慣れた煙管の匂いと秋の匂いが立ち昇り、眠れぬもどかしさを押さえようと潜り込む度に死臭のように纏わりついて離れない。 仕方がないので目だけ閉じて、知己にした仕打ちを反芻を始めた。悪かった、と素直に思う。だが素直な懺悔には程遠く、男への憐れみではなかった。そうしなければよかった選択を検証し、同じ帰結にたどり着くことを知るために夜を浪費する行為であった。 無為に過ごした夜は過ぎ去り、時刻は既に昼へと変わった。桂は未だに布団の中にある。 「桂」 降り注ぐ声は、桂が目覚めていると決め付けていた。それでも目を開けないと顎を掴まれ、上に引っ張られる。 嫌々ながら開くと、死んだ魚のような目をした友が、己をじいと見下ろしていた。 「すげえ寒ィ」 いつものやる気のない声音、眠そうな目である。 だが、桂の首筋にぴったりと張り付いた手は彫刻のように冷たく、容赦なく体温を奪う。 「オイ!なんの嫌がらせだ」 「だから寒いって言ってんだろーが」 さすがに寝たままではいられず、桂は体勢を変えようともがくが、悪びれもなく言い放つ銀時は寸分も動かない。 次第に力比べへと移行したが、桂の力では敵うはずもなく、逆に手を取られて布団に縫いとめられた。 「河原でヤりながら朝だよ」 昼の陽光を背に受け影を纏った顔が、自嘲気味に笑っている。 そして、何かに怯えるように凍えた手にはあの香りが染み付いているのだった。 「いい年して青姦か」 あまりに馬鹿馬鹿しくなり、桂は思わず笑いを漏らした。 「熱烈に誘われたんだよ。俺モテるからさ。まあ、意外にオツなもんだぜ」 今度やってみるか? 耳に吹き込まれた低い声に不穏な熱を感じ、桂は顔をしかめた。 「冗談じゃない。貴様らケダモノと一緒にするな」 「ケダモノ?」 「どうせ高杉だろう。後先考えず無茶ばかりする馬鹿者同士でやっているがいい」 己では気がつかなかったが、桂は確かに冷笑を浮かべていた。当然、銀時も反応する。 「高杉なんて言ってねぇけど?」 ねっとりと粘りつく、それだけで喉を塞げそうな声。それは桂の逃亡を諦めさせる。 そもそも銀時は何かしらの酷い目的でここに来たのだ。一晩中、毒を熟成したその足で。目的さえ悟ってしまえば対応は可能である。黙って傷つけられていては、この三角形では生き残れない。 桂は努めて冷静に言った。 「その染み付いた煙管の香り、今の貴様は奴にそっくりだぞ。銀時」 ああ、銀時の口から絶望的な溜息が洩れる。 自分を拘束していた手が緩んだ隙に、桂は背に手を回す。たった一言で、夜叉のようだった男の丸まった背は、寒さと寂しさに震え始めている。 「なあ、ヅラァ」 「桂だ。何だ?」 「俺と高杉が落っことしたもんが一緒なんだと」 銀色の髪が所在無さげに揺れる。息がかかるほどの距離で見つめると、隈がはっきりと現れているのが分かった。 例えば今のように誰かの弱みを見た時。自分達は傷口を癒さず、更に刃を突きつけた。まるで血の滲む生肉の中だけに救いがあるかのように。 始めは故意だったと思う。誰かが背を向けることを恐れて。深淵に突き落としたのは愚か者の誰かであり、かろうじて踏みとどまった者の足を先に落ちた者が引っ張ったのだった。 「桂ァ……」 すがり付いてきた銀時の頭を撫でながら、桂は途方にくれる。 故意の段階では、やろうと思えば癒すことなど簡単だと思っていた。そんな愚行を重ねた結果、二十年来の幼馴染を救い上げる一言すら分からない。 「お前もだよな?」 銀時は言った。泣きそうな桂に向かって、容赦なく。 断じる声は、恐るべき残忍な色を放って桂を抉った。 腕に力が篭る。鼻腔をくすぐる煙草の匂いは、どこか血なまぐさい。 金木犀の甘さなど夢の彼方に消えうせた。 あの時己の手で砕いた道を、友の紅の双眸に見る。 金色に輝き、空洞を埋めてくれたかもしれない生き様を。 「そうだ。そうだよ、銀時」 どちらかともなく二人は笑う。唇がひび割れ、喉から水分という水分が消えた。 |
残忍