丁 か 半 か
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世の中にはかけがえのないものを失った時、立ち止まれる人間がいる。それは立ち止まるという能動的なものではなく、ただ動けなかったり、泣き暮らしていたり、閉じこもっていると言えることの方が多いかもしれない。それでも、この年まで生きているとその静寂と休息によって、人が癒されていくのを何度も見てきた。時が解決するとはよく言ったものだと思う。 一方で、どうしても立ち止まれない人間もいる。 高杉晋助と初めて会った時、一目で分かった。 ああ、こいつも立ち止まれないのだと。 「よォ、平賀源外」 退廃を飲み込んだ笑みと熱に濡れた隻眼がぎらりと揺れた。それは悲しさだけで出来ていた。 「源外さん、お茶入れましたけど飲みますか」 「うわっ!」 その声は不意に降ってきて、真正面に黒子野がいた。何度驚かされても全く慣れない。 「……お前さん、いつも思うけどもう少し普通に声をかけられねえのか」 「三回声をかけたんですが…」 湯飲みを置いた黒子野が申し訳なさそうに言う。 「三回か…」 「はい」 むしろ今日来ていたことを今知ったとはさすがに言えない。 黒子野の診療所で顔合わせをした後、いつの間にかここが作業場になった。いや、強引にそうなった。 顔合わせの翌日には桂が手配した業者が、診療所にあった機器類を地下の空スペースに備え付け、黒子野はその日からほぼ毎日その機器に難しい顔で張り付いている。 桂が黙って手勢を周囲に配置していたのを知ったのは更に三日後。彼は何かを警戒し、黒子野と自分に護衛を付けた。その意図はいまだに分からない。 当の桂は毎日来る週もあれば、一週間姿を見せないこともあった。そして来たかと思えば、嵐のようにあわただしく指示を出していく。 来るときはいつも突然で、その上顔合わせから一週間後には国会議事堂から地下を掘り、勝手に作った地下の入口から現れるようになった。曰く暗殺への警戒のためらしく、桂は真顔で言った。 「権力は悪くないな」 この男をずっと国の頂点に置いていたら大変なことになりそうだった。 実はあの三人の中で一番おかしいのはこの男なのかもしれない、とその時思い、随分後になって黒子野に話したら「多分正解です」と苦笑気味に言われた。 武市と陸奥は全く姿を見せない。だが、桂とは連絡を密にしているようだった。桂の元に来る電話は、大体二人のうちどちらかであったし、何度もよく分からない荷物のやり取りがある。 ―――そして、もう一人。 「そういえば源外さんが送った例の物、土方さんに届いたそうです」 茶請けの羊羹をきっちり等間隔に切り分けながら黒子野が言った。 「あの役割を土方さんに振るなんて策士というべきか、無茶が過ぎるというべきか悩みます」 「鬼の字も災難だろうな…」 この上なく渋い顔になり、無茶だと喚く姿が見えるようだった。自分だったらどうすればいいのか、取っ掛かりすら分からない。 あの高杉に、鬼の副長が。 「どう考えても斬り合いになる気しかしないんだが」 送った機械は最高傑作の一つで、絶対の自信がある。二年前の戦で使ったあれが大型機械の最高傑作だとすれば、小型の最高傑作はこれだと思っている。 今持てる全ての技術を詰め込んであり、使えれば桂の目的の最後の一手にもなるかもしれない。(事実桂はそう言った) しかし、使えるかどうかは、土方に賭けるしかない。 「―――でも、桂さんの読みではそうはならない」 僕は当たると思いますよ。遠目でしか見たことがないですが、鬼の副長は情に強そうです、と薄く笑う黒子野は時々桂に似ている。 「何度か思ったけどよ、あいつは悪党だな」 「でも優しい人です。―――危ういくらいに」 語尾が不安定に濁った。 目が合っても黒子野は何も言わない。 桂と黒子野が地下二層目に籠って何をしているのかは分からないし、立ち入れない雰囲気がある。けれど、その部屋から出てくる度に桂は充足感にあふれた表情で軽やかに帰っていき、黒子野がその分憂いに沈んでいくのは確かだった。 ―――そして部屋には微かに血の臭いが残っている。 きっとどうしようもないことを考えているのだろう、と桂の満足そうな笑みを見ると思う。 だが、止める気もない。 あの男も止まれないのだと分かっているから。 ◆ ◇ ◆ 天の采配というものがあるのなら、まさに今のことをいうのかもしれない。いや、今につながるありとあらゆる偶然の全てが。 あまりに赴任先でやることがなく、地形の把握と言い訳をして萩からこの梅の地まで車を走らせたことも、途中今になって思えば信じられないタイミングで電話をかけてきた桂がすいている道だと言ったのに従ってしまったことも、この茶屋で休憩してしまったことも。 そして、出発前にあの荷物を受け取っていたことも。 全くありがたいとは思えないが。 薄墨色の空にかかるように梅の枝が揺れる細道。 温い風が吹き抜け、淡い紅が遠くまでぼんやりと続く、その中央。 陽炎のようにいつのまにか一人の人間が浮かび上がっている。 ゆっくりと、梅の香りをかき分けるように。 慌てて立ち上がろうとしたが、まったく身体が動かない。 目が合った。いや、その前に誰だか分かっていた。 驚きで目を見開いた件の男。高杉晋助。 予想外だという思いが滲む顔は、近くで見るとかつて相まみえた時とは全く違う。深い隈ができ、一目で身を削っていることが分かるのに、雰囲気が若々しい。 隻眼にあった仄暗い狂気としか呼べなかった沈殿はもはやなく、ただただ澄み渡っている。 そう感じた瞬間、桂が抱いていた焦燥と寂寞が分かってしまった。 全ての狂気と怨嗟を置き捨て、ただ前を向くその姿にこそ、途方もなく凝縮された死の匂いがへばりついている。 「なんでテメェがこんなところにいやがる」 奴は恐ろしく嫌そうに言った。奇遇だな、俺もだよ。 破られた静寂の割れ目から桂の声が響く。震える声。快哉を叫ぶ哄笑のような、あるいはただの無力な懇願のような。 「自分でも信じられないんだが、お前を探せと頼まれた」 恐らくはその言葉の裏を読んだ高杉の顔に苦々しい何かが広がった。間を置かず、自分の胸にも苦いものが落ちる。 ああ、この男はただの人間だったのだ。 苦渋を隠しきれず、無防備な一瞬に友を思い起こした男。 敵だった。ずっと殺さねばならないと、殺さなければかけがえのないものを失うのだと思ってきた。 「俺を斬ってこいとあの悪党に言われたかィ?」 不思議と揶揄するような粘り気を含んだ高杉の声に隠された本音が聞こえた。そうだと言ってくれ、と。 昔ただ一度だけ、この男の痛みを見た。 夜の底で語られた真実の声だった、と今では分かる。桂の話を聞いてしまった今では。 「桂は俺に土下座したよ。お前を助けるために力を貸してくれ、ってな」 だからありのままを言ってやった。それが最も高杉を抉るだろう。 高杉の目がぎらりと光る。瞳ごと奪われるような鋭さで、一片の嘘も見逃さないと言うように。 「土方……いや、テメェは嘘をつけねェクチだ」 「正直者だからな」 「なら、テメェはヅラに騙されている。俺を助けたいというのは方便で、テメェは奴の言う国とやらに組み込まれただけだ」 そうかもしれない、と時々思う。 黒縄島での戦いも、真選組の解体も、その後の革命軍組織も、本当は桂に誑し込まれたのかもしれず、きっと限りなく真実に近い。 だが、近藤さんは助かった。認めたくはないがあの男のおかげで。 「嘘か本当かは、お前が知っているんじゃねぇのか。高杉」 あの悪党の共犯者である、お前が。 「だから、俺はお前を助けに来たと言っていいんだろうと思う」 自分で言いながら口が腐り落ちそうな気がした。この男のせいで死んでいった隊士たちの顔がよぎる。 伊東だけは振り返らず、ただ猫を撫でていたが。どれだけ俺が嫌いなんだ。 「テメェに助けられるほど落ちぶれちゃいねェよ」 高杉も最悪の気分だというように吐き捨てた。それを聞いて少し胸がすく。ざまあみろ。 「俺もてめぇを助けたいと思うほど落ちぶれちゃいないね」 ただ、選ぶことは決まっているのだ。 言葉はすらすらと出てきた。桂と話した時からずっと俺はこう決めていたのかもしれない。 「選択肢が二つあるとするだろう。俺は、高杉、お前にとって忌まわしい方を選びたいんだよ」 一歩踏み出すと、抗議するように懐に入れたものが、かさりと音を立てた。 知ったことかよ。 「―――上等じゃねェか」 高杉の手がことさらにゆっくりと、ただ面倒くさそうに刀に触れた。 知ってはいたが桂も、そして平賀源外も完全にイカれている。 その「荷物」が届き、添えられた手紙を読んだ時、心の底からそう思った。 それは小指の先ほどの大きさで、形状は円盤状の電池に近い。もちろん電池からはかけ離れた代物である。源外のお世辞にも綺麗とは言い違い字の説明書は「これだけは絶対に読め」と書かれたところしか理解していないが、どうもこの円盤の中にはナノマシンが詰め込まれているらしい。 標的の肌に置き、電源を入れると円盤が肌を食い破り、身体の中に取り込まれる。すでにこの段階で俺は得意じゃない。そして身体に入ったナノマシンは心臓や大動脈に巣をつくるようにへばりつく。 「すごくないか。このメガマシンは一つ一つ役割が違うんだ。とりあえず盗聴と発信機の役割は当然として、脈拍や血圧を測るものもあるし、遠隔操作で電気ショックを流せるものもある」 そのあと電話してきた桂が自信満々に言うのを聞いて、俺は不本意ながら高杉に同情した。 こんなものを身体に入れられては、桂に命を握られるのと変わらない。それを是としないことなど、自分ですら分かる。 かすかに頭痛がした。平賀源外がとんでもないものを作るのは知っていたつもりだが、使いようによっては国すら脅かす物を作り、そしてよりによって桂に提供するとは。 「メガマシンじゃねえだろ。身体に入るかよ」 ツッコミどころが多すぎて、それしか初めは言葉が出てこなかった。 いや、それよりも、確かとんでもないことが説明書にあった。 「おい、ちょっと待て。標的の肌に置くのは誰がやるんだ」 「無論貴様に決まっているじゃないか」 桂は何でもないこととのように言った。 「何、高杉は、根は単純だからな。ちょいちょいと酒を飲ませて、寝込んだところでやればいいんだ。ちなみに、置くのは心臓の上じゃないと駄目だぞ」 「もっとできるか! 不自然すぎるだろ、俺がいきなり酒に誘ったら」 「昨日の敵は今日の友というだろう。少なくとも俺であれば誘いには乗るぞ」 「それは、テメェが馬鹿だからだよ!」 自分でも魂の叫びだと思ったが、腹立たしいことに桂が耳を離していたらしい気配がした。 「考えが柔軟と言ってくれ。まあ、賭けの要素は強いが賭ける価値はある。丁か半か、というだろう」 あの時は思いつく限りの罵倒をしたが、一理ある。 「―――土方、何のつもりだ」 「別に、ただ桂の頼みで斬り合いも馬鹿らしいと思ってな」 刀を抜かず、梅林の方に歩き出すと、後ろから高杉が追いかけてきた。 無視して去られたら賭け自体にならなかったが、そこは突破したらしい。 恐らく桂が糸を引いていることならば、ここで意図を把握しないと後々面倒だと判断したのだろう。 「単刀直入にいこうぜ。丁半で決める」 何をと言われる前に、例の円盤を取り出し、内容を言った。桂は言うなと言っていたが。 「あのジジイ……くだらねェモン作りやがって…。しかもそれをヅラに渡すなんてついに耄碌したか」 高杉は苦虫を噛み潰したような顔になって吐き捨てた。そこだけは心底同意だ。 「ここにサイコロが二つある。俺が勝ったらこれを付けてもらう」 「鬼の副長も随分とまぁ甘くなって堕ちたもんだ。俺が勝った場合は?」 「テメェの目の前でそこの海に捨ててやるよ。心配しなくても源外にはこれは一点もので、そう簡単に、少なくともテメェの身体が持つ間には次は出来ないと釘を刺されてる」 ざまあみろ。 桂。高杉。 お前らの致命傷かもしれない選択をたった二つのサイコロで決めてやる。 「第三の選択肢もあるぜ。今、テメェを斬って、俺の手でそいつを始末する」 「そいつは残念だ。俺はもうテメェを見つけたからな、既に桂には連絡している。機械を始末しても、奴の粘着質な追手を相手にする時間が惜しくないのか?」 「―――嫌な野郎だな」 しばしの間、驚くことに目を閉じて考え込んだ高杉が諦めたように言った。 しじまに濃い梅の香り。 道の中央付近に進むと空全体を梅が覆い尽くし、この世全体が紅と桃そしてわずかな白に塗りつぶされたようだった。 「梅の花をテメェと眺めるなんて世も末だよ」 「ヅラが総理大臣になる段階でもう終わってるだろうが」 手ごろな広く平たい石を見つけた高杉が静かにその横に座った。奇妙なことに正座で、その姿は優美で高潔な何かだった。 茶屋で借りた椀を置き、サイコロを振る。 あまりにあっけない音がした。 「―――半だ」 高杉が言う。 俺は丁度目の前にあった白い梅を見てから、椀を開けた。 鮮やかな梅の花。 永遠、のような。 そして―――サンミチの丁。 ◆ ◇ ◆ 「土方、よくやってくれた!」 「それどころじゃねぇ!」 桂から電話が入ったのは見ていたんじゃないかと疑うほどの時間差だった。見れば数分も経っていない。 興奮状態の桂は源外のところの機器で接続は確認できたこと、高杉の心拍数やもろもろのデータが送られてきたことを続けている。 「それで高杉はどうした。捕らえたか?」 「車を盗られて逃げられたんだよ!」 既に高杉はここにはいない。 賭けに敗れた後、奴は拍子抜けするほどあっさりと着物を開き、円盤はその肌に吸い込まれていったのだが、最後の一欠けらが埋まった瞬間、胸倉を掴まれ、顔が目の前にあった。 (土方。―――桂と…あの馬鹿を頼む) あまりに信じられない言葉で頭が真っ白になった。 「あの野郎、車のキーをすりやがった」 「土方……。だから大事なものを一か所に入れておくのは止めなさいって言ってるでしょう!」 「言ってねえよ。気味悪い言い方するんじゃねえ!」 懐からキーをすられたのは間違いなくあの言葉の時だと気が付いたのは、高杉が突然走り出し、ロックしたはずの車にあっさりと乗りこんだ時だった。 だが、俺の不意をつくためだけの言葉だったのかはどうしても分からない。 「……ところで、桂。参考に一つ聞きたいんだが」 「手短に頼む」 「お前、丁半は強いか?」 初めて桂がわずかに逡巡したが、すぐに答えた。 「賭博は好かんが、実は負けたことがない」 ああ、そうだったのか。 俺は勝った記憶はなかったよ。 「分かったよ。とにかく車を回してくれ」 「もう手配した。奴の行き先は間違いなく松下村塾だ」 高杉の言葉を言おうか迷っている間に、桂の通話は切れた。 ◆ ◇ ◆ 戦艦に向かって走る間、本当は大声で快哉を叫びたかった。 桂は笑う。また一歩、それも困難だったはずの一手が揃った。 (策はいくつあってもいい。昔、貴様と話したな) 萩。 松下村塾。 あの懐かしい場所に、高杉が、銀時が訪れる。 要の一手を携えて。 なあ、高杉、と中空に問う。覚えているだろう。 俺は一生覚えている。 ―――賭けのあばら屋。抗おうと言ったではないか。 「貴様が満足して目を閉じようとするのなら、俺が扉を開けてやる」 お前があの時そうしたように。 |