その年の冬は、この世で生きている大半の者が始めて経験する大雪に見舞われた。 北陸ばかりでなく、江戸や畿内まで豪雪地方に等しい積雪量を観測し、雪に慣れない江戸の町人達は、日々雪下ろしに追われ、大抵の場合薄い屋根が根を上げ崩れ去った。 残ったのは、雪を除去する技術を備えた天人達の居住区だけで、瓦礫と白に埋まった江戸にターミナルが、この国の象徴の如く聳えていた。 雪の影響で、日光道中及び箱根の関所は閉鎖され、江戸と京の往来は途絶えた。 ここでもまた、靴などを様々に改良し、完全にとまではいかないが雪の中を自由に歩くに至った天人達だけが残る。それは同時に、敗戦の志士達を容赦なく分断する事を意味した。 その年は異常気象だった。何もかもが異常へと傾き、終わりと始まりが同時に訪れた年の白雪。 天人達が降らしたのだとも、この世の終わりだとも、誰かの涙だとも言われた雪は今尚降り積もる。 野に置き捨てられた幾多の屍を埋め尽くし、押し潰すかのように。 変化を拒み、執拗な熱の中を駆け抜けた人間達を嘲笑うかのように。 終焉と序幕の両方を弔うかのように。 その破壊神の如き白の中を、一人の夜叉が体を引き摺るように駆けて行く。 草履はとうの昔になくした。雪を踏みしめる足の痛覚も同時に失われ、視覚によってのみ自分のものだわかるそれは、筋肉ばかりで血色がない。 なんか俺の足じゃねえみてぇ。バカ杉の言うことはやっぱり間違っていた、男だって少しふっくらしていたほうが生き残りやすい。 彼はどうなっただろう。簡単にくたばりそうもねえけど、って俺も現在進行形でくたばりそうだ、どうなってるかなんて、世界中に繋がった雪が教えてくれない限りわからない。 幾歩で立ち止まり、たいして暖かくもない息を足に吹きかける。いつ凍傷で指が落ちても、最悪足がなくなっても不思議はないのだ。そして走れなくなった時は俺の死ぬ時だ。 杖代わりになってしまった刀を右手に持ち替え、その役目から解放された左手を頬に当てる。ゆるやかに生きている熱が手に伝わる。自分の熱を代償に、徐々に亡霊に近くなる体を愚かにも確認しながら、執拗に両手を生かす。 走って、転んで、泣いて、怒って、斬って、守って、また泣いて。 残ったのは、この斬ること以外を忘れた鬼の手だけだったというのに。 それでもまだ、追っ手から必死の形相で逃げている。何のために? ぶっちゃけ、今の状況は本当はありえなかったと思う。ヅラには一生(それが一分後に終わるのかもしれず、言うべき相手の一生は終わっているのかもしれないが)言わないつもり。 最後まで生きようといいつつ、これは死ぬだろうと冷静に思っていた白夜叉の事実なんて。 何をどうしたか生き残って、あれほど斬ることにばかり執着していた天人を殲滅することなく逃げ出した。走って、走って、また走った。 返り血を浴びた白装束で雪の上を這いまわりながら、漠然と人生の軌跡が瞼に無理やり投影される。 それは走馬灯と呼ぶにはあまりに残酷かつ血まみれで、俺が見ることが出来なかった事実を神様とやらが教えてくれたにしては認めたくないものだった。 べりっと嫌な音がした。少し手を動かしただけで、剣にこびり付いた皮が剥れたのだ。 べろりと剥けた肌の狭間からは、生々しいピンク色をした肉が顔を覗かせている。平坦なその表面から滲み出る血液はいまだに赤い。 俺はたくさん切れた生き物の肉を見てきたし、自分のわき腹の切り口も、高杉の目からあふれ出た奔流も、首になった仲間達も全部見てきた。その上、積極的に天人達を肉の塊に還元してきたのだから、それは見慣れすぎている、ああ、不健康で馬鹿な俺達! それでも、手という小さな部分ゆえに、現実としての死が染み透り、俺はようやく死にたくないと思った。 ある時、意識の底辺を彷徨い、消滅までのカウントダウンを静かに実行中だった感覚が鳴った。 何を考えることもなく、雪の狭間に滑り込む。生きながら仲間達と敵が同じように眠る墓に埋まった俺は、それでも滑稽なまでに息を殺し、近づいてくる追手の気配を探る。我ながらなかなかに無様だ。 断絶した土に、モグラのように隠れる白夜叉はぎょろりと視界を眺めた。 天人の数と装備を確認した瞬間に溢れるのは、歓喜だった。しかしそれは、先ほど死にたくないと思ったくせに、生き残れるかもしれないという喜びではなかった。 正確に言えば、生き残る希望を感じるのは、そのただれた喜びが過ぎ去ったその後だ。 奇声を発しながら、上着を放り投げる。数瞬後、塵屑のように変わり果てた俺の分身。 鯉口を切り、躍り上がった瞬間に、萎えきっていた体内に爆発的な力が甦る。 だから俺は鬼なんだけれど。 俺がこいつらを斬るのは、それも首を落として残酷に斬るのはそれなりの理由があって。俺は確かに自分から桂も高杉も久坂も入江も皆皆捨てた。鬼兵隊壊滅、俺とヅラも殲滅に遭った後に、その後どうなるかもわりかし予想がついていたのに、彼らを捨てた。人としての約束は捨てた。 きっとこれも一生言えない。気がつく奴は、俺を再び殺す奴。 奴らが死ぬ事ないなんて、笑えるほど馬鹿馬鹿しいものなのに、どうして最近はそれを信じていたのだろう。そんな後悔を篭めて、彼らの死か、再び彼らに見える時まで、人でなくなった時の約束だけは破りたくなかった。 だから、白夜叉は最期の瞬間まで夜叉であらねばならない。 ―――これでしか、生きた軌跡など残す方法を今は知らない。 天人の首から吹き出る血は透き通る青色をしていた。 俺達が飛び出した萩の空は、こう変わってしまった。空色の体液は温かい。俺たちから奪った熱をこいつらがまだ持っているかと思うと腹が立つのと同時に、悲しくもなる。 血流が死にかけた俺へ命を吹き込む。寿命の余りであった余熱を殺戮者に注ぎ込む。 三つの首を落とすと、俺は青と二匹目の赤と三匹目のよくわからない色に染まっていた。 白は消えた。 がりがりと耳障りな音が響く。脇差で雪を掻く音だ。 矛盾だらけ哀れなり白夜叉は雪の中に腹ばいになって、ミミズか何かの如くほふく前進。本来の目的を忘れざるを得なかった脇差で、少しずつ雪を掻いて前進。何も見えない先へ、上も下も雪に覆われ、白き夜叉未だ足掻く、みたいな感じ。 分かりやすく言えば、地中にトンネル掘ってる状況。それをまた言い換えれば生き埋め。 頭上に、雪を踏みしめる憎しみの足跡が聞こえる。追跡者の数はますます増えるばかり。世界に埋まる人の割合がおかしいんですけど。逃げ出す前は、仲間が死ぬ事を諦めていたというのに、今更になってどうして人だけが消えていったのだろうとか思う。 俺達は何処まで斬り続ければ解放されるのだろう。こびり付いた手の皮と一緒に両刀を捨てた時か。 いやいやいや、刀がない生活は無理だ。落ち着かない、というかそんな生活覚えてねぇよ。 紫色に変色した唇を瓢箪に当てた。それはさっき殺した天人の一人が持っていたもので、体温を引き上げてくれる強烈な酒が入っていた。 冷え切った喉元を液体が通過し、内臓に熱が戻ってきたような感覚が生まれる。さすが、俺たちを殺し尽くした連中の酒。雪のせいか、白い霞に覆われた視界が甦ってきた。 どうしてか、皮肉に笑いながら桂を思い出した。天人が持ち込んだ物など何一つ受け入れない、という彼。その気丈な横顔が、愚直なまでに鋭い眼光が、逃れられない新しい世を見た時彼はどうするのだろう。 泣きはしないと思う。気持ち悪い。 怒りに任せて、自分に殉じるかもしれないと思う。可哀相な未来の桂。 何かを守ろうと皆で誓ったはずなのに、一人一人それを忘れていってしまって、最終的には何を守っていたのかも分からなくなった。誰かに聞いたり、一緒に考えようにもその相手もいなくなった。 その俺達が忘れた何かのために戦った奴らの酒で生きている絶望を噛み締めながら、俺はこの世界を弔う白い幕が取り除かれた日の朝を思った。 おそらく、町は一度殺され甦る。異邦人達の建物が並び、宿舎に合った快適そうな家具が一般に使われるようになり、夜の町にはあのいつまでも消えない不思議な見張り灯が立ち並ぶのだろう。 奴らの情報網が恐ろしく早かったのと同様に、いつでも日本中に情報を流す機械が生まれて、新しい食べ物がどんどん入ってきて、これ以上ない華やかな光の中、最期には亡霊だけになるのだろう。 あ、わかった。 生き残った桂は――高杉も、亡霊になる前に世界を殺そうとするのだ。 一心不乱に脇差を突き出しながら、しつこく思考を続ける。 俺は知らない世界へ変貌した場所の片隅で、目をぎらつかせながら生きる彼らを考えた。なんだか、そんなことはありえないような気がした。 天人達の力がなければ、食糧の流通も覚束無くなるであろう世で、その食事を食べながら生きる奴ら。屈辱に歪んだ顔。耐え切れないだろう、彼らには自分の家があったのだから。 ああ、しかし。 生き残るというそれだけでも奇跡に近い悪運を拾った桂と高杉がもう一度再会して、互いの傷を舐めあったならば。間違いない。彼らは、敵が作った世界を利用しつつ、それを滅ぼそうとする正真正銘鬼で狂人になるだろう。そいつらに一体誰が敵おうか。 俺はどうしよう。ってゆうか、既に生き残れるの前提で物事考えてるよ馬鹿じゃね。 屈辱であろう世で生きるということが、彼らよりは困難ではないと思う。銀髪で、認めたくないが天然パーマで、糖分過剰摂取の俺にそっくりな男が甘味を食べている姿は案外簡単に想像できる。 だかその輪郭はぼやけているどころかノッペラボーで、自分の面だと思うから描ききれるような虚像に過ぎない。それは今生き残ろうと足掻く夜叉ではありえず、俺ですらない。 急速に足跡が近づいてきた。きっと不自然な雪の盛り上がりが発見されたのだ。 急速に白夜叉が死のうとしていた。どうして。何故、死に行く彼は、再び過去に会うのを懼れるのだ。 急激に仲間達の顔が遠くなった。恋しくて、会いたくてたまらないのに、一生逃げ続けなければならないと思った。 先手を打って飛び上がり、一つの生命を真っ二つに斬り下げた男の目。 そこには馴染み深い鬼の目と、何故か死んだ魚のような目が同居していた。 坂田銀時は足を引き摺りながら、なおも雪の上を歩いていた。 血に濡れ目印にしかならなくなった元白装束を脱ぎ捨て、下着代わりの薄い木綿一枚の姿になって。 彼は不思議にゆったりと落ち着いていた。落ち着いて、真っ直ぐにその場所に向かっていた。 再び雪がちらつく。 今までは全ての物が蜃気楼みたいに遠かったのに、その目的地だけは嫌になるほど近かった。 銀時はにやりと笑った。意地の悪い、不敵な笑みだった。 当人すら気づかぬ決意を胸に押し込め、正反対の目的をもって墓場に足を向けている。 限界だ。冷静に呟いた声は仲間の誰にも聞かせられないほど諦めだらけで。 饅頭の一つでもあれば、まだまだ地獄で生きられるのに。 あの墓場で俺は死ぬのだ。 誰かの墓石に寄りかからせてもらって、誰も知らないまま無縁仏として冷たくなるのだ。 骨も見つけられない世界の片隅で、白夜叉は白を守ったまま死んでいくのだ。 そう覚悟を決めて、白夜叉は半ば死に近い眠りについた。 鬼は簡単に死なないってこともわかってなかった。 |