覇道あるいは畜生道








白い陽光が斜めに揺れた。よりにもよって気だるい時間にと門に目線だけをやると、爽やかな日光をぐしゃりと踏みつけて焦がしてしまう輩が見えて、胸がしんしんと悼む。
その痛みは、生涯付き合わなければいけない古傷が暴れだしたものに似ている。桂は他人事のようにそれに耐え、微動だにせずにそばをすすり続けた。その間に来訪者は、いつも通り「邪魔するぜ」と驚くほどの横柄さで上がり込み、草履を揃え、我が物顔で気に入りの湯飲みを台所から持ち出す。すぐに茶葉はどこだ、と声がした。

桂は答えず、更に勢いよくそばをすする。恐らく昼食を食べる猶予は、掃除をして場所を変えた茶葉を高杉が見つけ、湯を注ぐまでだ。
酒を食らわぬ高杉。それを雷雲の予感と言わずに何という。

「まあ、話は分かるが」
最後の一口まで味わい、独り言と共に箸を置く。残った汁に浮かんだ口元がわずかにひきつれた瞬間、ちゃぶ台に影が下りた。
音もさせずに、背後まで来ていた高杉が「危ねぇなあ」とため息をついたが、それも桂を素通りする。早く、早く言え、とひたすらに念じた。

―――桂。力を借りたい」

願いはすぐに叶った。不穏な願い事はいつでも叶いやすい。
見上げた桂の目線の先、単刀直入に切り出した高杉の隻眼は青く燃えている。雷鳴の空の色だった。
始まったのだ、ようやく、と桂は思った。



口に出しては言わないが、桂も高杉の来訪を待ち望んでいた。もちろん、国崩しの顛末を事細かに知るため。そして刀をねじ込む隙間を探すためだ。そのための情報は、今高杉のもとに集まる。
「言葉遊びをする時間はないだろう。大狸と烏と天導衆。今、殺せるのは、どいつだ。それとも貴様に限ってそんな愚策は言わんと思うが、泳がすべきか」
切り出した桂の言葉を皮切りに部屋の温度がわずかに下がるような感触を高杉は味わう。そしてそのたびに思う。
「やはりテメーは最高だよ。ヅラァ」
「桂だ。馬鹿者」
この男を選んで、一片の悔いもない、と。それを噛みしめながら断言した。

「大狸だ。今しかねェ」

想像通りの答えを得て、桂はゆっくりと頷いた。逸る気持ちを抑え、根拠を問う。

「烏の首領は銀時が殺った。致命傷を与える殺り方だった上に、佐々木が死体を確認してる」
「ああ、見廻組の」
「そう。あいつは信頼できる悪党だ。……一つ、厄介な欠点があるが、テメェに比べたら可愛いもんだな。とにかく、首領は死に、見廻組副長と吉原の死神太夫が烏を減らした。狸はガラ空きだ」
「地下牢か?」
「正確に言えば、地下牢の二層目の独房。一層目にいる奴は偽物だそうだぜ」
「それも佐々木情報か。確かに食えん局長殿だ」
高杉は薄く笑い、「乗るか?」と付け加えた。さりげなさを装った、恐ろしい熱望をもって。

「狸を殺せば天導衆は幕府とのパイプを失いかける。そうは言っても一橋には近づくまいな」
桂は額に手を当てて、静かに呟く。その眼光の奥にあるのは、暗い、死の影だ。
「まあ、近づいたらそれでも構わねえさ」
「貴様がそう言うのならそうなのだろう。どちらにしろ狸が死に、天は地に下りてくる」
ほくそえむ桂の顔は、侍というよりは地獄の幽鬼だった。青白く、冷淡なまま敵すら策謀に組み込んでいく。

「乗ろう。俺は何をすればいい」
待っていた、と桂は胸に残った傷を吐き出すように呟いた。
「あの時の俺たちでは叶わなかった。……待って、待って、生き延びた。何でもする、高杉!!」
襟を揺らす手を高杉が握りつぶすほどの力で掴む。
「そういうお前だからこそ、同志でなくなっても、俺たちは盟友でいられるなァ」
「貴様も銀時の癖が移ったな。恥ずかしいことを平然と言う」
「たまにはいいだろォ? 久方ぶりの、俺たち“三人”の仇討だぜ。―――桂。牢に出入りできる下人を数人買収してほしい。できれば不浄の担当、厠でも死体運び人でも何でもいい、誰にも関心を持たれず、しかし確実にすべての牢に入れる人間がいい」
「そして、幕府に不満――給料でも待遇でも何でもいいが――を持ち、よく連れ立って飲みに行くほど仲が良く、古株の人間だな」
付け加えられた条件に、高杉は満足げに口角を上げた。桂の組織の弱い部分と風穴を開けられる人間の組み合わせを嗅ぎ分ける力は変わらずだ。
「どうだ?」
高杉が畳み掛ける。
この暗殺は、既に国取り合戦で荒れた状態であったとしても、一人では確実性に欠ける。なぜなら、桂に佐々木のような国の中枢――今回の国崩しの顛末を知るほどの地位にいる人間とのパイプがないのと同様に、高杉には幕府に仕官しながらも江戸で細々と暮らす庶民、いうなれば実務の人間とのパイプがない。終戦の日に役割を分けたからだ。
高杉は京都と宇宙を行き来し、要人を握る。桂はターミナルがある江戸に溶け込み、様々な立場の人間を味方に引き入れる。共に、唯一無二の味方であるように、気の合う飲み仲間のように、懐に入り込める人間を増やし、必要な時に組み合わせる。
組織の長を務めながら双方を行うのは無理があり、何より動きが派手になりすぎる。この分担であれば、高杉と桂のつながりさえ気取られなければ、一度も会ったことがなくとも使えるカードが増える。―――力だけでは、勝てないのだ。

「任せろ。一晩で、三人集めてやる」

影を抱いてうっそりと笑う桂を見ながら、この顔に顔も知らない共犯者となる人間は騙されるのだろうか、と高杉は少しだけ悲しんだ。





「何故、奴は止めを刺さなかったと思う?」
丑三つ時を過ぎた頃に戻った桂が、闇に埋もれた部屋に向かって問う。高杉がいるのかいないのか全く念頭に置かない、独り言のような、それでいて返答を確信する声である。

「先ほどからずっと考えていた。烏の首領を葬ったならば、銀時は狸を狩場に引きずりこんだはずだ。なぜ?」

ねっとりと夜の帳を吸収しながら、桂は部屋をうろうろと回った。ずるずると畳がこすれる音の狭間に、疑問符だけが流れる。
何度考えても分からない。浮かぶいくつかの可能性をかみ砕き、そのたびに嘆きだけを見る。いつだって、あの男が分からない。

「……己で作った法で裁くというやつじゃねェのか」

部屋の隅で息を整えていた高杉がゆっくりと答える。
桂は鼻で笑った。この男も分かるようで分からない。出来の悪い返答としりつつ、生真面目に答える意味が分からない。本当に分からないことばかりだ。

「貴様、真面目に言っているのか?」
「な、わけねえだろ。今のは、奴が使いかねない出来の悪い言い訳を口に出してみただけさ。腹をくくった野郎の様を知っているだろう?」
思い起こした風景は違っただろうが、桂はようやく穏やかに微笑み、高杉と目を合わせた。鮮烈に戦い、何かを追い求めた姿。脳髄を打ち抜かれたその光景は、常に桂たちに痛みや後悔と共に這い上がる力をも与えた。


「あの野郎はな、俺たちに狸の首を残したんだよ」


即答だった。微塵も自信などないくせに、高杉はあの男に対して迷わない。


「甘ェんだよなあ……。自分でケリつければ、少しは地獄の匂いも薄らぐだろうに」
ゆるやかに体を揺らしながら近づいてきた男の影がおおいかぶさった時、桂ァ、と耳元で憂鬱な誘惑の声がする。
「あいつは知っていたはずだ。法で裁くことにしたとしても、俺たちが生きている限り見逃すはずがないことを。その上で思ったんだろう。『先生の敵を自分の手で討てば、気が済んで戻ってくるかもしれない』と」
嗚呼。どちらともなく嘆息する。戦い続けた理由の一つが目の前にあるのに、この絶望は何か。

「討ったら本当に戻れなくなるのになァ」

今にも泣きだしそうな高杉の微笑みなど久しぶりに見た、と桂はぼんやりと思う。いつだっただろうか。考えるまでもない。

「もしかしたら本当に法の裁きに委ねることで、俺たちが戻ると思ったのかもしれないが……それをしてしまったら、俺たちではない。難儀だ、本当に難儀だ……」


爽やかな蒼天の下。
賭けのあばら屋。
暗夜を選んだ。


高杉は桂の悲嘆を最後まで聞かず、立ち上がっていた。いつのまに用意したのか、烏の服装を手に取り、錫杖を引き寄せる。

なあ、桂、と高杉は窓の外に浮かぶわずかに欠けた月へ向かって、つぶやいた。
「これは独り言だからなァ、すぐ忘れろ」
知っている。首を残したなんぞは俺の詭弁だ、あの野郎はいつも変わらない例の武士道に従って、己の力で戦えない奴を殺すことはできなかっただけだ、彼は刀を引くことで、昼へと帰りたかった、夜の化け物と同じ場所まで堕ちなかった。
桂は滾々と湧き出る泉のように、すべらかに流れていく高杉の自虐をぼんやりと聞く。その通り、と思いながら、もはや認める言葉すら吐き出す気力がない。疲れたなあ、と思った。きっと高杉も疲れている。
嫌になるな、高杉、あいつに戻ってきてほしいと言いながら、焦がれながら、奴の侮蔑する行為ばかりを俺たちは選ぶ、昔も今も変わらず、選ばれるはずがない、たとえこの世に夜しかないとしてもあいつは―――



シャン。



終いには同時に話していた二人の口が同時に止まった。
錫杖の先が畳にめり込んでいる。何も考えずに腕を振り下ろした高杉も茫然とそれを見、息を吐いた。

「戯言は終わりだ。―――あの野郎は、笑って、地獄に送ってやる」

桂は高らかに笑い出した高杉の顔を見ない。そこには、時の賭けをねじ伏せた直後の鬼を真似た無残な顔がある。
恐らくは、ひきつった筋肉を戻すことなく、高杉は戦場でおかしくなっていた時のあの笑みで、――醜悪で、狂気に溢れ、それでいて蠱惑的な誘惑で――敵を三途に叩き込むだろう。
そしてその分の汚れと怨嗟と膿にズタズタにされて戻ってくる。彼はいつでも傷ついている。

「行くぜ。ヅラァ」
不吉な熱を帯び始めた声で呼びかけられる。
奴が、唯一無二の共犯者が傷を負うのなら、踏みとどまるのが自分の役目だ。彼が目的を達するように場を整えた上で傷をふさぐ余力を残す。
そうやって、双方の満身創痍の体を一日でも長く、天上が割れるまで持たせる。桂はにやりと笑って、低い声で断言した。
「ヅラじゃない。桂だ。背後は任せろ」
そう言うと、高杉は珍しくも遠慮がちな目線を寄越す。
「……いいのか」
「貴様らしくない。狗どももそう馬鹿ではないだろう。佐々木殿のタイミングに期待したいところだが、万が一早く来てしまった場合に、備えが要る。俺が適任だ」
きっと鬼兵隊の面々は貴様の側を離れまいよ、付け加えられた言葉と共に、桂の節くれだった指がついと玄関を指差す。来訪者が来たのだ。共犯者が選んだ強靭な刀が。

「いつでもいいぜ」
「いつでもいいぞ」

不作法な輩が襖を開け放った瞬間、声が揃った。
「桂には聞いていない」とこれまた烏の服装をした河上が、心の底から嫌そうに吐き捨てた。






青くとろみを帯びた月光が江戸城の傷を浮かびがらせていた。高杉が横で「こりゃあ酷い」と喉の奥で笑う。
銀時が暴れまわった情報は知っていたが、城門のみならず中奥にまで大砲を叩き込み、一晩経っても現場検証が間に合わず野ざらしになるほどの夥しい数の烏の死体が転がっている。涼しげな青に照らされるとまさに瓦解した廃墟のようだ。
「派手にやりやがったなァ……」
高杉がうっとりと、それはもう熱烈な思慕を寄せるような熱を込めて辺りを見回した。
「奴は貴様と同じで派手好みだからな。以前、派手な喧嘩は好きだが、陰湿な喧嘩は嫌いだと断られた」
「どの口が俺たちだけに派手好みを押し付けるよ? だが、まあ、勝つためには好みじゃねェ戦いも必要だ」
「ああ。そして陰湿な喧嘩は俺たちの仕事だ。そうだろう?高杉」
答えは返らなかった。一瞬の間に、高杉の隻眼から濁りが消え、底までも見通せる輝きが満ちていた。


「万斉。武市」

音もなく、二人が高杉に続いた。
横目で見た彼らはどこか恍惚とした色を秘め、茫然と付き従っていく。

(分かる。奴にかかれば、踏み外してもいいと思ってしまう)

桂は静かに目を閉じ、ひたりと牢獄の天井へのはしごを駆け上がった。
下に目をやれば抵抗もなく侵入を許す鉄の扉に手をかけた高杉と目が合う。



「任せろ」



澄んだ声。淡い、優しげと言ってもいい笑み。不幸なことに、記憶の中の師にうっすらと似ている。
桂は疲れたように笑った。志を同じくし、共に歩いていた時のような感覚と師の面影を背負いながら手を汚す友を送り出す苦しみに挟まれながら。


だが、元には戻れない。既に高杉の背は暗闇の中に消えており、気配だけが桂を叱咤する。

役割を果たせ、と。

(果たしてやるさ。もう二度と違えたりはしない) 月に向かって桂は誓う。 この瞬間、自分は彼のためにある。彼と共にある。
自分の一部になった怨嗟を、この手で首を掻ききらねば、いや掻き切っても消えないであろう恨みを、彼に預ける。

「行け、高杉」

ゆっくりと鞘を払う。
彼が、自分たちの復讐を成し遂げるまで、誰もここは通すまい。



彼が出てくるまで、美しい月夜は暗夜のままだ。