あの男の記憶を辿ると、確かにあったはずの幸せな時の中央から血まみれの手が突き出してくる映像を見る。それにゆっくりと絡められる同じく血まみれの手は自分のもので、時を経てその境界は溶け落ちて、ただ無様につながっただけの右手が残り、身体は反対方向に向かって走り始めて、周りの者を手あたり次第に傷つけた。だが、それでもよかった。見ているものが違っても、裏切り裏切られることがあっても、同じように諦められない人間がいるだけで救われたから。
 本当はあの男がいたから走り続けられたと知っている。絆なんていう美しいものではなかった。執着よりも惨めたらしい何かだった。それでも、かけがえのないものだったのだ。


 ◆ ◇ ◆

  血飛沫のような赤を浮かべた残照が揺れた。
 今日も今日とて、暗殺やら爆発やら憲法の草案やらに追われ、ようやく自室兼執務室に戻れた夕刻だった。揺れる影を見なくても、ろくなことが起こらなそうな気配が部屋中にあふれている。
 よりによって今でなくてもよいのに。
 もちろんそんな心中を推し量ることもなく、不穏な予感だけを背負ったまま、執務机に座り込んだ見慣れた馬鹿が手を挙げる。

「いよォ、ヅランプ殿」
「ヅランプじゃない、桂だ」

 反射的に答えながら、後ろ手で応接の電子鍵をロックする。
 動けるはずのない身体のまま一年近く音信不通になった共犯者がいつも通りの悪い笑みを浮かべて目の前にいる。生きているとは、分かっていた。会えて、ほっとした気持ちがないわけではないが、「今」は間が悪い。

「なんだ。補佐官になりたいのならさっさと履歴書を出さんか」
「誰がテメェなんぞの補佐になるかよ。それにどれだけ補佐がいようと、テメェのアホは修復不可能だ」
「その修復不可能がもうすぐ内閣総理大臣だぞ」
「俺が壊すまでもなく世界も終わったなァ」
「失礼な。―――で、何のために来た? まさか本当に面接でもあるまい」
「ああ。テメェが国の中枢に座るような世も末だ。そろそろ、手配を解いてもいいんじゃねえかと思ってよォ」
 煩くて敵わねえな、と言う高杉の手は刀に触れている。

 気が付いている。その上で、邪魔をするなと言いに来た。

「なるほど。いきなり指名手配犯でなくなると、飽き性の貴様が退屈するかと思ったのだが」
 それとも、たかだか一年であの程度の追手でも厳しくなったのか。
 いや、追手を打ち払う時間すら惜しいのか。
 その先など考えたくなかった。
「ほォ? この俺の気の長さは、テメェが一番よく分かってると思っていたがなァ」
「……口の減らん奴だ」
 言われなくても嫌になるほど知っている。
 昔から、見据えたもののためには一直線、ただの一度も立ち止まらなかったこと。どれほどの敗北に塗れようとも足掻き、手段を問わず、走り続けたこと。ねじれの位置で並走してきたから、見たくなくとも見続けてきた。

 だからこそ、その手を取った時から、ずっと恐れていた。

「違うか?」
「違わんな。手配は解いておく。他に望みは」
「ねえよ。……互いに、好きにやろうぜ」

 この男が全てをなぎ倒す勢いで命を燃やすのが。―――燃やし尽くしてしまうのが。
 同じ勢いで走っていた時はまだよかった。自分たちは共犯者“だった”から。先生の仇を取るまで、高杉も自分も死ねないと信じていたから。

「桂。テメーが、先生の弟子のお前が、信じる国をつくれよ」
 ああ、こんなにも穏やかな顔で、似合わぬ言葉をかける高杉など知りたくなかった。
「お前は、お前はどうするんだ……!」
「今、一番やりたいことをするさ。じゃあな、ヅラァ」

 影が揺らめいたと思った時には、既にその顔が目の前にある。人生のほとんど全てを浸食しあった顔。見飽きたはずなのに、今までとは何かが明らかに違う。
 気が付いたときには縋りついていた。
「らしくねェな」
 背中に回された手は今までで一番優しく背を撫でる。らしくないのは、高杉の方だ。ただただ、労わるためだけに抱擁を受けた。
 今、犠牲は問わずに動かせるだけの手勢で高杉を捕らえ、縛り上げて病院へ放り込んだらどうなるか、と出来もしないことを考える。自分たちは相手に心を踏みにじられることには慣れているが、「あの人」への義に反することだけはできない。―――今、高杉を閉じ込めるのはそういうことだ。

「お前は、酷い奴だな」

 失う苦しみを、置いて行かれるやり切れなさを骨の髄まで知りながら、俺を、あいつを置いていこうとする。未来への祝福なんぞという呪いの言葉を残して。

「この局面だけ泣くテメェほどじゃねえよ」
 頬に手を添えられる。
 澄み渡った隻眼には、無様に涙をあふれさせた自分が映っていた。
   

 ◆ ◇ ◆

「待たせてすまない。奴ときたら、いつも嫌な時にばかり訪ねてくる」
 野生の勘か?とつぶやきながら桂が部屋に入ってきた時には、約束から半刻ほど過ぎていた。灰皿にできた吸い殻の山を切り崩しながら見上げると、先ほどまで泣いていたとは思えない静かな目がある。
「出るに出られねえ雰囲気だったからな。構わねえよ」
 また殺し合いでもする気だったのか。付け加えると桂はわざとらしく首をかしげる。
「旧友との感動的な別れに見えなかったか? 性格がねじくれているぞ」
「お前らがそんな殊勝なタマだったら、とうの昔に捕まえただろうよ」

 あの時、高杉は鯉口を切る寸前であったし、桂も隠し持った爆弾に触れていた。二人の間に立ち昇ったのは、不思議と優しさに満ちた本気の殺気だった。
 その上、桂は高杉を見た瞬間に、自分を待たせた応接の鍵を遠隔操作で閉め、あろうことか壁をマジックミラーに切り替えた。
 つまり、「見ろ」と言ったのだ。

 その意味を聞くつもりだったが、桂も時間を無駄にするつもりはないらしくすぐに切り出した。
「土方。貴様も分かっているだろうが、俺と高杉はずっと共犯者だった」
「それは最後の戦まで確証を得られなかった俺達への嫌味か?」
「いいや。俺達も細心の注意を払っていたし、仲間にも言えないことも山のようにした。それで気づかれてはかなわないさ」
 ただ、死に物狂いだったのだ、と桂はソファーに身を沈めながら自嘲気味に笑った。
 この男は今でも時折あの憂鬱で底なし沼のような目をする。
「十年経っても、時々、あの時に死ぬべきだったと思うことがある」
 遠い場所を見たままの桂に煙草を渡すと、意外にも慣れた手つきで吸い始める。

「戦に負けて、全部なくして、逃げながらずっと思っていた。自分では死ねない。早く誰か殺してくれ、と。それでも追いつめられるたびに逃げ回って、……ある日、唐突に力尽きたんだ」
 相槌は入れず、黙って頷く。桂は今どんな言葉も欲していないだろうとなぜか分かった。
「気力も体力も根こそぎなくなって、一番に来た人間に殺してもらおうとあばら屋で隠れていた。皮肉にもそれが高杉だったよ」

 忘れたことは一度もない、と微かに震える首は不思議と頼りなく見える。続く声も弱弱しい。開いた扉の先にいたあいつが絶望的に懐かしかった、と。

「その日、俺と高杉は世の中相手に一つ賭けをした。そして勝った」
「勝って、どうした」
「知っての通りさ。国崩しをしよう、と奴は言い、俺は国盗りをしたいと言った」
 その一言だけで、同じ場所で戦った桂と高杉が目的自体を違えたことが分かる。口の中に煙草以外の苦い味が広がった。この男たちに同情など必要ないが、敗戦を経てようやく再会した仲間と道を違えたと知るのは、きっと重いことだっただろう。
「……土方、そんな顔をするな。ショックを受けたのか、と言いたいのだろう」
 桂は疲れたように、あるいは寂しさをかみしめるように薄く笑っていた。
「全くショックではなかったんだよ。ただ、やはりそうなのか、と思っただけで。高杉は不満そうだったがな」
「―――それでもお前たちは手を組んだ」
「そうだ。あの時、離れられるわけなかった」
 彼らが戦に敗れ、追い立てられた時はほんの十代の若造だった。
 生き残り、ようやく巡り合った友を離せるわけもない。言われてみれば、当たり前のようにしっくりくる。たとえ、行き着く先が違うと分かっていたとしても。
 それは高杉も同じだったのだろう。
「同じ派閥にしなかったのはなぜだ。いざこざで失うこともあっただろう」
 勝手に二本目の煙草を吸いながら、桂は口を歪ませる。鬱屈としていた。

「お前が今言った通りだよ。―――仲間もそう思う、敵もそう騙せる」

 俺達は二度と負けないために、全てを騙す道を選んだ。
 そう言う桂の目は燃えるように昏い。
「戦に負けたのは、同じやり方で、同じ場所で、同じものを大切にしていたからだ。その脆さを突かれ、負けた。だから、俺達は敵対する立ち位置を取り、役割を分け、別の力を蓄えた。二人合わせれば天を引きずりおろせるほどの力を持つまで、ずっと」

「―――そして、あの男をかすがいにした」

 言ってから自分でもぎょっとした。そんなことを考える前に言葉にしたことに、その言葉の刺々しさに、そして瞬間的に子供のように傷ついた顔をした桂に。
 見せられた痛みから、確信する。全てが図星であったことを。最終目的を違えたまま、それでも勝つために戦うことを選んだ奴らは、別の目的を共有したのだ。
「万事屋を利用したんだな」
 嘘だったが、桂は今にも断罪される罪人のように項垂れる。

 この男は馬鹿だ。
 少しでもあの男に魅かれたことがあれば、お前らの存在が奴にとってどれだけの救いだったか、支えになるには利用などでは到底及ばない優しさがこめられていたかくらい想像できる。

 なあ、桂。俺達、いやお前が思うより本当に多い人間が、お前らを強烈に羨んでいたなんて知らないんだろう。

「そうだ。俺達は、俺達こそが銀時を最も苦しめたにもかかわらず、奴を戦場に引き戻すという目的を共有した。どれだけ奴が家族を求めていたか知っていたのに、俺と高杉は敵対したふりをしながら、違う方法で銀時を揺さぶり続けた。すぐにバレたがな」

 坂田銀時はそれでも誰にも彼らの結託を告げなかった。
 ただの一度だけ、前後不覚になるまで酒を食らった奴を引きずった雪道で、口に出した自覚もなくつぶやいた以外は。
(見張ってるんだよ。俺も、あいつらも)
 死なないように。―――それは絶唱に聞こえた。

「……土方!」
 冷ややかな雪道に立ち尽くしたと思ったら、鋭く声をかけられた。いきなり横面を張られたように、現実を突き付けられたような不快さ。
「肝心なところで、夢を見られては困るな」
 茶化すように笑いながら、桂は真っ直ぐにこちらを見ている。なぜか、雪にも似ていると思った。思えば、この男が覚悟を語る姿は数回見たが、今のように吹雪の夜のような暗い目だっただろうか。もっと刃のように曇りのない鋭いものでなかったか。それともこれが桂本来の覚悟で、俺達は全員この詐欺師に騙されているだけなのかもしれない。

「土方。俺は、高杉を裏切る。―――共犯はもう終わりだ」

 厳かな誓約だった。この男を分かったことなど一度もないというのに、紛れもなく本気であることが分かってしまった。
 桂は淡々と続ける。
「奴がやりたいことは手に取るように分かる。それが奴の悲願で、一番の望みで、他の何を置いてでもやり遂げなければならないことだということも」
 だが、駄目なんだ。
そこで、桂は一瞬だけためらうように喉を鳴らして、出かかった何かを飲み込んだ。次に出てきたのは血反吐に等しい声。

「あいつが死んでしまう……!」
 そう叫ぶやいなや、いきなり膝をついた。
「……おい」
「頼む、土方。高杉を助けるために力を貸してくれ」

 土下座した顔は見えない。
 正直に言って今すぐこの場から離れたくなった。それほどに、この男が嘘も駆け引きもすべてを投げ捨てて発した本音は痛く、重苦しかった。
「……俺が、お前の頼みを聞く筋合いがないのも、高杉がどうなろうが知ったこっちゃねえのも分かるよな」
 こくり、と無言のまま頭が揺れる。

 先ほど高杉は桂を「酷い」と言ったが、その上でたちも悪い。
 高杉を助けたい、なんて馬鹿な言い方をしなければいいのに。高杉が……あるいはあの男が、救いたい者が地球を壊すかもしれないと言えば、自分に断る術はない。そもそも国のすべてを手に入れたのだから、打てる手は無限にあるだろう。こんな旧敵に土下座などしなくても。

「―――何をすればいい」
 だが、馬鹿な言い方だからこそ断れない。自分でも馬鹿だと思う。世の中すべてに逆らって、多くの仲間を殺し、国を崩し、真選組の形を変え、利用しつくしたこの男たちを哀れに思うなど。
 これは同情だ、と言い聞かせた。一国を手中に収めながら、友を助けたいという思いすら危うい悪党への憐れみだ。
「萩に行き、高杉が戻ったところを捕らえてほしい。取り逃がしたらどこまでも追ってくれ」
 いつの間にか顔を上げた桂は断言した。
「逆に言えば、萩に来るまでは何もしてくれるなということだ。犠牲は出したくない」
「なぜ萩に戻ってきた時なんだ? 旅の初めに訪れたら?」
「いいや。奴はあの人を救う手立てが見つかるまでは絶対に萩には行かない。俺には分かる」
 そして―――。桂は怖気がするほどの真顔で続けた。

「銀時と会うのもその時だ」

 出奔した二人が、別の道筋であの人に近づいたとき、会う場所はあそこしか考えられない。少しだけ、桂の口元が優しげな何かをなぞる。

「土方。貴様はお人好しだから言わなかったが、救いたいのは万事屋だろう」
「ああ、そうだよ。恩があるからな」
 万事屋が何度近藤さんを、真選組を救ったか。俺達は何一つ返していない。
「ならば、なおのこと高杉を追った方がいい。銀時は貴様でも見つけられまい」
「指名手配犯よりもあいつの方が、か?」
「ああ。本気で雲隠れした奴を見つけるのは至難の業だ。俺も昔は同じ江戸にいながら数年接触できなかった。だが、高杉は目的を考えると動きが派手になる。着物の趣味も悪いし」
 話が進み、悪口を言う元気は戻ったらしい。
「高杉が呼び出せば、銀時は必ず来る。俺は高杉を捕まえてほしい。同時に、銀時に手を出すなとも言わない。高杉のことは、餌だと思ってくれていい」
 さらに桂の言葉が逸る。だが、もう「お前らは本当に友達なのか」なんぞという嫌味すらいえないのが、無性に苦しい。

「頼む、土方。俺は手が離せないことがある。お前に頼みたい」
 手が離せないと言った時、再びあの夜の湖のような暗さが戻った。何かを、たった一人で飲み下したのだ。
「……何故、俺なんだ。それだけ聞かせろよ」
 すでに萩に着いてからやるべきことが頭を巡るのを悟られないように新しい煙草を持つ。火を探す前に、桂が近づいてきた。まだ奴のには火が燻っている。
「何故だろうな。道々理由を考えてきたのだが、どれも後から付けた言い訳のようでな」
「へえ」
 じわり、と煙草に火が移る。桂の方はぼたりと灰になって落ちていた。

「貴様の顔しか浮かばなかったのだ。この役割を託したいと思ったのが。……だが、まあなあ、多分」
 その時浮かんだ笑みは、目の前の男が桂小太郎であるとは信じえないような、柔和で清廉としか言いようのないものだった。

「羨んだからさ。俺も、―――高杉も。血まみれのくせに綺麗なまま走り続けて、銀時を救い上げてしまった貴様が羨ましかった。だから、だろうな」

 それが吉田松陽の笑みだったのだと分かってしまった時に感じたのは、哀れみなのか絶望なのか、それとも果てしない希望なのか、俺にはずっと分からないだろう。

 ただ、一つ確かに言える。
 こいつらは、そしてあの男は、まだ地獄にいる。



                     共犯の終わり